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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第六章 ~鎮撫の大遠征・序~
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第一幕 巨星堕つ ~百万一心の礎~

戦乱渦巻く日ノ本に生まれた戦国武将ならば、自らの名を天下に轟かせたいと思うのは至極当然のことだろう。華々しい戦果を飾り、羨むほどの立身出世を研げ、賢君・名君と讃えられる治世で民を安んじ豊かにする。そのような伝説を聞いて育った武士たちは過去の英雄に憧れを抱き、我の名も後世に残さんと躍起になるが、その内の一握りの者だけのみ名を歴史に刻むのを許される。


毛利少輔次郎元就。


彼の人物が歴史に名を刻むことに異論を挟む者はいないはずだ。天下に元就の名を知らぬ者はなく、その言葉一つで万の人間の運命を変える力を持った戦国の傑物。しかし、その男も世に生を受けた時は他の者たちと何ら変わらない、生きるという人として当たり前のこと目標にしなければならないほど過酷な境遇にいたことを知る者は少ない。


「あれが乞食若殿よ。兄上様は大内の殿様の与力だというのに、随分と違ったものよ」


幼き日の元就は乞食と嘲笑われるほど貧しく、毛利と同じ安芸国人・井上元盛に所領を横領されてからは食う物にも困っていた。しかも兄・興元が西国六カ国の守護を兼ねる大大名・大内義興に従って上方へ出向いていたことから元就の不遇を救う者なく、唯一の味方は亡くなった父の側室・杉ノ方のみであった。


「松寿丸殿(元就の幼名)。父や兄上を恨んではなりません。全ては神仏の為さること。きっと貴方にも御加護が巡る日はやって参ります。それを信じ、今は耐え忍び生きるのです、それが必ず貴方の糧となり、生きる力を与えてくれます」


杉ノ方は亡き夫の忘れ形見である元就を一身に育てた。まだ若く美貌に満ちていたにも関わらず誰の許にも嫁がず、貞女を遂げた。五歳で母を失い、十歳で父を失った元就は愛情というものを受けた覚えがなく、杉ノ方を母と慕い懸命に生きた。そして元就は元服し、井上元盛から奪い返した所領の名を名乗って多治比元就として世に出ることになる。


その元就を最初に襲った災厄は兄の死であった。


「酒毒に侵されるとは、父上から何も学ばなんだのか」


兄の突然の死に元就は哀しみよりも呆れ返った。


心労から酒に逃げることの多かった兄は、父と同様に酒毒で逝った。僅か二十五年の生涯で、二歳の嫡子が跡目を継ぐことになる。幼君を戴く家がどういう末路を辿るかを兄は何も理解してなかったに違いない。だからこそ心底、腹が立った。


「後見は多治比殿が務められよ。されど多治比殿も若い。何かあれば、この叔父を頼られよ」


未だ初陣を飾らぬ元就が後見役を務めることは家中から不安がられ、叔父の高橋久光と共に後見人を務めることになった。当然、予期していた通り幸松丸が家督を継いだ途端に安芸で三郡を治める武田元繁が毛利領を併呑する好機として侵攻を開始する。


元繁を当主とする安芸武田氏は今でこそ分郡守護であるが、元は安芸一国を束ねた守護であった。甲斐や若狭の武田と同族で、武勇に優れる元繁は安芸武田氏の宿願である守護職への返り咲きを自分の代で果たそうと画策、大内義興の留守を狙って安芸で暴れまわっていた。


「総出で迎え撃つしかない」


元就は音頭を取って掻き集められるだけの軍勢を集めた。毛利の身代では僅かに七〇〇にしか集まらず、毛利と同じく大内に属す吉川に援軍を依頼したが借りられたのは三〇〇だけで、合わせて一〇〇〇足らずの兵で五〇〇〇の武田軍を相手にしなければならなかった。しかも元就は初陣なのである。


「たった一千で何が出来る。しかも毛利の大将は初陣の元就というではないか。これは戦う前から勝敗は決まったな」


圧倒的優位に立つ元繁は、当初から勝利を確信していた。自分が負ける要素は見当たらず、自信家なのも重なり、ここで大いに攻め立てて毛利と吉川に引導を渡してやろうと欲を掻いた。そして元就は生来の性分なのか、何処までも冷静だった。


「元繁は己の武勇を鼻にかけることが多いとか。ならば前衛が崩れれば自ら出て来るに違いない」


“毛利”元就の伝説は、この有田合戦から始まったと言っても過言ではない。


「何が何でも熊谷勢を潰せ。兵はいくら使ってもいい」


毛利勢は総勢一〇〇〇。ただ武田の先鋭は熊谷元直の五〇〇であり、ここだけを見れば勝てない相手ではなかった。故に元就は熊谷勢を叩き、元繁を誘い出す策を思いつく。そして毛利は見事に熊谷勢を壊滅させ、激昂した元繁が大挙して襲ってきた。多勢に無勢の毛利勢は後退を余儀なくされるが、元よりこうなることは兵たちにも伝達済みだったので、大きな混乱は起こらず要所要所で踏み止まり始める。


「あのような小勢に何を手間取っておるか!もうよい!儂がやる!」


味方の不甲斐なさに怒り猛った元繁は、ついに最前線へ出て来た。これを待っていた元就は半渡の計を用いて元繁を待ち構えた。


「いいぞ、そのまま来い」


我武者羅に突き進む元繁を目の前にして、元就は密かに息を呑んだ。冷静だったとはいえ、元就は初陣だ。本当に上手く行くのか半信半疑であった。


半渡とは孫子に書かれている兵法の一つで、敵軍が川を半分渡ったところで攻撃するというもっとも基本的な戦法、これを元就は忠実に行った。基本的というのは確実に効果があると見做されているから基本なのであって、これを疎かにした元繁の末路は決まっていたと言える。


「武田元繁、討ち取ったりー!」


毛利方の将・井上光政が大音声を上げた。勝敗が決した瞬間である。


翌日、主君の仇討を唱える元繁遺臣をも打ち破った元就は、その名を初めて知られることになるが、本当に驚くことは元繁を討ったことではなく、勝利したはずの元就が武田元繁の後ろ盾であった出雲の尼子氏に鞍替えしたことにある。


「尼子の勢いは本物だ。何れ必ず経久が出て来る。経久が出てくれば毛利は終わる」


そう家中に説き、元就は尼子への鞍替えを強行した。


当時、西国最大の大名は毛利の属していた大内義興である。西国六カ国に加えて都のある山城の守護と管領代を兼ね、将軍・足利義稙を補佐して天下人の座に君臨していた。それ故に在国しておらず、経久の勢力拡大を止められる者はいなかった。尼子は出雲を本拠に隠岐・伯耆・石見・備後・安芸の一部にまで影響を及ぼしており、経久が本腰を入れれば毛利など簡単に潰せた。たかが毛利の為に義興が天下人の座を捨ててまで帰国するとは考えられず、元就の判断に異を唱える者は少なかった。


当然、大内から離反する者を尼子が受け入れない理由はない。毛利の恭順はすんなりと認められ、元就は尼子方として活動していくことになる。


「そなたが少輔次郎殿か。有田合戦では見事な采配だったと聞いている。これからは元繁の代わりに儂に尽くすがよい」


元就は大内方の城である蔵田房信の鏡山城攻めで、初めて経久に会った。


尼子経久。


元就の生涯にもっとも影響を与えた人物は、父や兄でも大内義興でもない。この経久という男だった。


経久は出雲守護代の家系に生まれ、権謀術数を重ねて出雲の支配権を奪い取った。主君・京極政経より嫡孫・吉童子丸の後見を託されるが、政経が死去すると吉童子丸は行方不明となる。多くの家臣が囲まれている一国の主が行方不明になるなど普通では有り得ず、その後も経久が出雲で大権を振り続けていることからも陰で消されたのは間違いない。外交手腕にも優れ、大内義興に味方して上洛、細川高国と義興の両方から息子たちに偏諱を賜って友好関係を築いている。その傍ら各地で反大内への叛乱を密かに支援しており、経久の人間性を窺い知ることが出来る。人には汚いことをやらせておいて、自分はどう転んでも立ち回れるよう距離を置いているのだ。


この鏡山城の戦いでも尼子は高みの見物で、従っている安芸国人衆を最前線へ置いた。尼子の後押しを受けぬままでの戦いでは勝ち目は乏しく、元就らは城攻めに失敗を繰り返した。そこで元就は一計を案じ、二ノ丸を守る房信の叔父・直信を蔵田家の家督を餌に内応を約させた。この事を経久が了承したことで策は実行に移され、鏡山城は落城する。


しかし、物事はそれで終わりではなかった。


「儂は裏切り者は許せん質でな」

「お待ちくだされ!多治比殿の話によれば、尼子殿は拙者の蔵田家相続を認めると仰せになったとか」

「認めるとは申したが、裏切りを許すとは言っておらん。家督を継ぎたければ、矢が尽きて刀が折れるまで戦い抜き、降伏した時のみ。そのような将であればこそ、儂も心から信用できるというもの。違うか?」


戦後、経久の前に出た直信が処刑されたのである。誰もが唖然とし、手引きした元就は経久のやり方に面目を潰されたと思わず口に出してしまう。


「面目?儂は大内に属しておったお主ならば、城内の者と通じるのは訳のないことだと思った故に任せたのだ。強者に縋ってしか生きられぬ者が、面目に拘るなど笑いものよ」


これを聞いた元就は首筋に冷たいものを感じた。


(経久は最初から儂が城内と通じているかどうかを洗い出すつもりだったのだ。手を出さなかったのは、儂を窮地に追い込み、城内と繋ぎを取らせるため。もし繋がっていなければ正攻法で城を落とすだけ。繋がっていれば城はタダで手に入り、儂の忠誠も計れるということか。どちらにしても経久に損はない)


元就は悟った。この男の傍にいては、必ず食い潰される。使い潰される、と。ただ不思議なことに経久が話す言葉の一言一句は元就の中にすんなりと入ってきた。それが何故なのか、この時の元就は理解できなかったが、鏡山城攻めから帰国後に毛利当主として出陣していた幸松丸が急死したことを境にして、元就の奥底に眠っていた狂気が目覚め始める。


「跡目は多治比殿と相合殿のどちらが継がれるのが宜しいか……」


九歳の幸松丸に子などおらず、毛利の家督は元就か、その弟である相合元網の二人が候補者に挙げられた。元就は元来から欲がなく家督に興味を示さなかったので、家は弟が継いでもよいと思っていた。


「ここは多治比殿だろう」


ところが家中はそうでもなく、有田合戦以来の元就の采配を信じて家督に推す声が自然に高まった。皆が望むなら、と元就も家督就任を了承するが、ここで尼子の介入があった。


「家督は相合殿が相応しかろう」


尼子家臣・亀井秀綱が元網の家督就任を後押ししてきたのである。経久は鏡山城の戦いで元就の才気を見抜き、当主になられては厄介だと考え、元就の家督相続を阻止しに動いたのだ。


(経久め。儂の思う以上に動きよるわ)


経久が警戒しているのは自分であると気付いた元就は、元網が家を継げば毛利の行く末は尼子の奴隷として戦う道しか残されないと考えた。毛利の家を守るために元就は実弟を殺すしかない。一方の元網側も尼子を支持する家臣らが動き、元就の暗殺を企てる。こうして仲の良かった兄弟は凄惨な殺し合いを演じることになった。


「多治比の殿様が弟の相合殿を殺したらしいぞ」

「あのお優しい多治比様が?嘘だろう」


先手を打った元就は元網の船山城を急襲して殺害、すぐに噂は広まった。


孤独に育ち、誰よりも身内の愛情を求めた元就も何故に弟を殺すという行為に及ぶことが出来たかは判らない。ただ元網という犠牲を踏み台に毛利という家は確実に大きくなっていく。


(経久は許さぬ。されど毛利が強くならなければ尼子には勝てぬ。ならば如何なる手段を講じてでも毛利を大きくし、尼子に復讐してやる!)


後年、元就は異常なまでに尼子を滅ぼすことに執着する。その始まりが何処にあったかは定かではないが、毛利が尼子の為に払った犠牲は一人の英傑の人生を縛るほど大きかったに違いない。


元就は家督相続と同時に尼子を離反し、大内方に帰順した。尼子寄りだった外戚の高橋氏を容赦なく攻め滅ぼし、備後にも兵を入れて勢力を拡大、出雲との国境に所領を持つ宍戸隆家と縁組し、安芸国人衆を次々と取り込んでいった。そして元就は義興の跡を継いでいた大内義隆の奏請で五位下・右馬頭を受領、名実ともに安芸国人を代表する存在にまで成長する。


この元就の快進撃を危険視したのは、もちろん尼子経久だ。


「ここらで元就を潰しておかねば、後々の禍根となる」


一代で大勢力を築き上げた経久は、今の地位に安堵していなかった。今でこそ尼子は強大だが、間違いを犯せばすぐに足元が揺らぐことなどいくらでも有り得ると思っていた。そうやって京極の家から出雲を奪い、大内の勢力に衝け込んでいったのは他ならぬ自分だ。元就ほどの才があれば、同じことをやってのけるだろう。尼子の身代を元就が食らい尽くすことも有り得ないことではないのだ。


(元就は危険だ)


そう経久の直観が語っていた。


経久は今年で八十三となる。既に死期を悟っており、目の黒い内に元就を片付けておこうと動いた。しかし、元就が幸運だったのは高齢となっていた経久が自ら采配を揮えなかったことだ。経久は嫡孫で尼子の家督を継がせていた詮久に精鋭集団・新宮党を預けて三万の大軍を与え、毛利を攻めさせた。毛利の身代を考えれば明らかに多すぎる数だが、それだけ経久が元就を警戒していたことが窺える。


「大内に援軍を頼み、到着まで籠城して耐えるしかない」


元就は途端に窮地へ陥る。


毛利勢は二四〇〇ほどしかおらず、仕方なく領民を城内に入れて人手を賄った。ただ領民を城内に入れるということは、それだけ兵糧の減りが早くなるということであり、大内の援軍の早期到着が望まれる。元就は再三に亘って大内へ援軍を請う使者を送ったが、義隆が重い腰を上げて軍を発したのは最初の要請から三カ月が経った頃だった。


「駆け付けた直後に裏切られては溜まらん」


如何に大内としても三万もの大軍を相手にするだけの兵を集めるのは難しい。大内も大内で周辺に敵を抱えており、出せるのは一万がやっとだった。しかも毛利は大内から尼子に寝返った前科がある。そこで義隆は重臣らと諮り、尼子が城攻めに疲れた頃合いに出馬することを決める。これなら毛利の忠誠も計れる上、少ない兵でも大きな戦果が見込めた。


「大内め!足元を見おって!」


大内の心根を看破していた元就であるが、大国の理論を振りかざされれば従うしかない。元就は死力を出し尽くして尼子に挑み、策に策を重ねて大内家の援軍到着まで耐えきった。増援を得た毛利と尼子の攻守は逆転し、元就は窮地を脱する。そして返す刀で佐東銀山城を攻撃した。


搦手から攻めることを決めた元就は、銀山城の裏手に位置する長楽寺を調略、火を点けた草鞋一千足を夜の太田川に流すことで大手門側に敵の意識を集中させ、その隙に搦手から攻め上って城を落とした。城将・武田信重は自害、ここに元就の初陣から大きな敵となっていた武田氏は滅んだのである。


そこへ急報が告げられる。


「尼子経久が月山富田城で亡くなったとのこと」


その報せに大内陣営は歓喜した。元就も珍しく込み上げる笑いを抑えられなかったほどだ。


「これは尼子を離反する者が相次ぐぞ」


毛利攻めの失敗と銀山城の失陥、そして経久の死。それが大内と尼子の力関係にどう影響するのか想像に難くない。安芸・備後・出雲・石見など尼子に力で臣従を強いられていた国人領主たちが揃って義隆に密書を送り、寝返りを申し出て来る。義隆も父の代からの伝手を使って幕府を動かし、尼子討伐の大義名分を得ると本拠・山口を発し、月山富田城を目指した。


総勢四万五〇〇〇の大軍で、義隆が今まで動かした軍勢の中で最大の動員数を誇った。この機会を逃すまいと義隆が躍起になっていたのが判る。


対して尼子方も徹底抗戦の構えだ。


相次ぐ味方陣営の離反にも士気を落とさず、大内を出雲に引き込んで地の利を武器に兵站を脅かした。しかし、義隆も尼子に止めを刺さんと拘り、なかなか軍を退こうとしない。この為に義隆は月山富田城に辿り着くまで一年以上を要すことになったものの尼子の喉元に刃を突き刺すまで迫った。


「ここまで来たのじゃ。あの城を落とすまで帰れるか!」

「御任せを。我らの忠誠!ご覧あれ!」

「うむ。富田城を落とせば、尼子の所領などいくらでもくれてやるぞ。励め、励めッ!」


義隆は遮二無二に尼子の牙城を攻め立てるが、尼子も負けずと応戦する。経久死すとも尼子には新宮党がおり、城内にも一万五〇〇〇もの兵が籠っていた。城攻めには三倍の兵が必要と兵法にはあるが、月山富田城ともなれば堅牢さは他の比ではない。大内方は以前から決められていたかのように敗退を繰り返した。


そう全ては尼子経久の掌の上でしかなかったのだ。


「謀多きは勝ち、少なきは負ける」


生前に経久が繰り返し言っていた言葉と伝わる。それを現すかのように尼子から味方に転じていた三刀屋、三沢、本城、吉川など諸将が公然と味方の目の前で城内に入り、尼子と合流したのである。


「ば……莫迦な!?」


形勢は、一日にして逆転する。


「経久に謀られた……」


その光景を見た元就は、そう自然と呟いた。


彼らは大内に鞍替えしたのではない。敢えて大内に身を投じることで道案内を買って出て、敵を逃げ場のない場所まで誘き寄せる役割を果たしただけだ。全て自らの死から生じる事態を想定した経久の謀略であり、大内に打撃を与えて尼子に対する力を削ぎ落すためだった。


「なんということだ、経久め!死しても尚、儂の目の前に立ちはだかるか!」


己の死すらも策の一部にしてしまう経久が元就は恐ろしくなった。そして死んだことに安心していた自分を呪った。


「撤退だ!毛利勢に殿軍を命じる故、しかと務めい!」


さらに不運は続き、義隆は元就に対して一番厳しい殿軍を命じる。追いすがる尼子の大軍を前にすれば毛利勢など灯火に過ぎず、その命を以て楯となれと命じられたに等しい。義隆にすれば、こんなところで大事な譜代家臣を死なせるわけにはいかない。一方で安芸の国人ならばいくら死んでも大内にとっては痛手にはならない。しかも元就の才気は大内方にも広まっており、義隆は“右馬頭ほどの知恵者なら、知恵で何とかせい”と言って我先に撤退を始める。それでも尼子の追撃は厳しく、義隆はボロボロになりながらも山口に帰還するが、世継ぎである晴持を失った。また野心を喪失し、以後は文化的関心を強めていき、政治を顧みなくなったことが大内家凋落の遠因となる。


「隆元、しっかりせい。お前だけでも吉田に辿り着くのだ」

「何を仰せられます!父上こそ先に逃れられませ」

「馬鹿を申すな。初陣で我が子を死なせられるか!」


元就は義隆とは別の道で吉田郡山城を目指していた。尼子攻めで初陣を飾ったばかりの嫡子・隆元を連れ、必死の撤退戦を続ける。尼子の執拗な追撃は厳しく、毛利勢は散り散りとなって数を減らしていく。


「残ったのは、たったのこれだけか……」


気が付いた時、元就の周りには隆元や家臣の渡辺通を含めて七名しかいなかった。


「もう無理じゃ。ここで儂は自刃して果てる。儂が死んだとなれば追撃は止むだろう。さすれば隆元だけでも吉田へ戻れる」


遂に元就は諦めて自害を決意した。


鏡山城攻めや吉田郡山城籠城戦などで元就の名は尼子の中でも通っている。初陣の隆元は名を知られていないため元就が死ねば生き残れる可能性は高かった。息子の為に死ぬのなら、この命は惜しくないと思った。


「流石は殿でござる。確かに毛利元就が討たれれば、追撃は止みましょう」


これに賛同を表したのは渡辺通だった。違和感のある言い方だったが、隆元は気付かず真っ向から反対した。


「通!何を申すか!貴様は父上に死ねというつもりか!」

「つもりではござらん。死ぬべきと申しているのです。殿の御考えは正しい。若にはそれがお判りになられないのか」

「判るかッ!貴様、それでも家臣か!」

「家臣でござる。故に殿の御考えに従うのです。さあ殿、甲冑を御渡し下され。某が元就として、この場で果てまする」


いきなりの通の申し出に言い出した張本人である元就も驚いた。なんと通は自らが身代わりとなることを申し出たのである。


「な……何を申すのだ、通!」

「何と申されても……。毛利元就が死ねばよいのでしょう?ならば某が殿の甲冑を着て討死すれば事足ります。大事なるは元就が死んだということ。それには殿が実際に死なれる必要はありませぬ」


通の眼は真剣だった。眩いばかりの瞳は、まさに炎が燃え尽きんとする時も最後の輝きそのものである。


「……相判った。そなたの忠節は生涯忘れぬ。渡辺家の者は、子々孫々まで儂が面倒を見ること約束しよう」

「有り難き幸せ。通は果報者にござる」


元就は忠臣の覚悟に感謝した。


かくして渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりを務めたため、元就は隆元と無事に吉田郡山城に辿り着き、九死に一生を得たのである。


元就は今のままでは尼子には勝てないと痛感した。


まず元就が手を出したのは地盤固めだ。瀬戸内に勢力を有する沼田小早川家に実子を送り込み、家を乗っ取った。沼田小早川家は元就と同じく尼子攻めに当主の正平が随行しており、これも同じく殿軍を命じられていたが元就と違って帰国中に討たれていた。その後の御家騒動もあって元就が介入、正式に元就の子が家督を継ぐことになった。子は隆景と名乗った。


隆景は元就の支援で分家の竹原小早川家から娘を娶り、分裂していた小早川の家を一つとした。また正室の実家である吉川家にも介入し、こちらにも実子を家督に送り込む。元春と名乗った子は、生涯に亘って“鬼吉川”の名に相応しい名将として語り継がれることになる。


そして元就は隠居、隆元に家督を譲る。毛利両川という体制も構築し、安芸一国をほぼ掌中に収めると家中での専横著しい井上一党を粛清して家中の統制を元就に一本化した。


そして大きな転機が訪れる。


天文二十年(1551)、大寧寺の変が勃発。大内家の重臣・陶隆房が主の義隆を自害に追い込み、豊後の大名・大友義鑑の子で大内の血を引く義長を新当主に擁立、家中を掌握したのである。この二年前に山口を訪問していた元就は大内家内部の対立を目撃しており、早くから隆房と通じていた。大内義長を新当主として迎えた隆房は晴賢と名を変え、大内家の運営に力を入れていく。その傍らで安芸の支配権を固めていた元就は、準備が整うと叛旗を翻し、晴賢と反目する勢力と行動を共にする。安芸に点在する陶側の拠点を潰し、安芸を完全に平定した。


「元就め!調子づきおって!」


これに烈火の如く怒り狂った晴賢は即座に討伐軍を派遣、家臣の宮川房長に七〇〇〇を与えて安芸へ向かわせるが、元就は逆に周防へ三〇〇〇の兵を入れて陶方を挑発する。挑発に乗った房長は追うようにして安芸へ攻め込み、明石口にて毛利の伏兵に遭い討死した。


さらに元就は晴賢の家臣・江良房栄を調略すると、その内応をわざと晴賢に報せて房栄を殺させ、陶方の弱体化を図る。


「これ以上、元就をのさばらせてはおけぬ」


元就がいることで晴賢の求心力は低下、家中の統率にも乱れが生じ始めていた。そこで晴賢は二万五〇〇〇の大軍を率いて山口を進発、毛利を一挙に叩き潰さんとまずは占拠された厳島を奪い返すべく瀬戸内を渡った。


「敵は寡兵ぞ!儂を裏切ったらどうなるか思い知らせてやれ!」


意気軒昂な陶勢は晴賢が陣頭指揮を執っていたこともあって毛利勢を圧倒、元就も大国・大内を采配する晴賢との数の差は埋められず、四〇〇〇を率いるも対岸から陶勢の猛攻を眺めているしかなかった。


「…………」


だが何も元就は無策だったわけではない。ただ賭けでもあった。


毛利は大内、尼子という二大勢力の中をどちらかに寄ることで生き長らえ、大きくなってきた。安芸一国を支配するまでに成長した毛利が次の段階に進むには、大内か尼子のどちらかを倒すしかない。ただ両者を同時に相手にする力は毛利にはなく、元就は義隆の死に揺れる大内を先に倒すことを決めた。幸いにも尼子も石見銀山目当てに大内領へ兵を入れており、毛利を攻める余裕はない。毛利と尼子の利害が一致している内ならば、やりようはある。既に策は組立て終わり、後は実行に移すだけである。懸念材料として残っているといえば、厳島に拠る宮尾城が健在な内に天候が変わるかどうかだ。こればかりは元就がどう望んでも自然現象であるために変えることは出来ない。


しかし、世の中には天に愛される者というのが少なからず存在する。うち一人が毛利元就であることは、その生涯が示していた。


「……雨、雨が降ってきたぞ!」


元就は頬に垂れる水滴に歓喜した。なぜ元就が雨が降ったことにこれほどの喜びを表しているのか理解できた者はいないだろう。まるで元就は子供のように雨が降ったことを喜び、年甲斐もなくはしゃぎ回った。


雨は時が過ぎると共に激しくなり、風も強くなる。元就は厳島にある宮尾城を改修し、防戦に努めさせる一方で野分(台風のこと)を待っていたのだ。


この時期は野分が多くなる。暴風雨となれば厳島の陶勢は孤立するので、奇襲をかけるには一番適していた。しかし、同時に海が荒れるので並の者では厳島に渡れない。そこで元就が支援を頼んだのが瀬戸内で水軍を束ねる村上掃部頭武吉だった。


「野分の一日だけでよいから、毛利の味方になってくれ」

「一日だけ?しかも野分の時に船を出せと申されるか。冗談は止めてくれ」


当初、武吉は元就の申し出を断った。


村上水軍は伊予守護・河野氏に属しているが、表向き大内の実権を握る晴賢とも良好な関係を築いていた。本音では瀬戸内の利権を大内水軍から奪いたいと武吉は思っている。しかし現実の大内は強大で敵対は好ましくない。元就の要請を断るのも当然と言えた。


「海が大時化(おおしけ)となれば、敵に姿は見られぬ。それに村上水軍ならば大時化でも船を操れよう」

「見られぬという保証はあるまい。追及されれば、晴賢に言い訳が出来ぬ」

「毛利の軍勢を厳島に渡すだけでよい。渡したら島に戻ればよいではないか。大時化で船は動かしていないと言い張れば、晴賢も信じるしかなかろう」

「味方した儂に利はあるのか」

「儂が大内を平らげた後は、瀬戸内を掃部頭殿に一任する。それではならんか」

「大内を平らげる?あの大内を滅ぼすと申すのか、これは可笑しい!」


大仰に笑う武吉は元就の狂言を気に入り、一日だけという約定で味方すると答えた。しかし、当の元就は村上水軍が姿を現すまで気が気でなかったに違いない。裏切りは戦国の常であり、言葉で応じても実際に行動に移さないことはよくあることだ。


「待たせたな、元就殿」


ところが村上水軍は約定に従って元就の前に現れた。


「勝ったぞ」


そして元就は軍勢と共に瀬戸内を渡り、厳島に上陸して陶勢を奇襲する。突然の毛利軍出現に陶勢は驚き、無様な抵抗を試みるが敵わずに逃散、我先にと船を奪い合うも沈没したりして溺死するものが相次ぎ、犠牲者の数は増え続けた。


「……元就めッ!」


敗戦を覚悟した晴賢も態勢を立て直すために脱出を図るが、野分によって多くの船が流されており、残った船も先に逃亡した兵が乗って行ってしまい晴賢は逃げ場を失う。


「何を惜しみ、何を恨みん。元よりも、この有様に、定まれる身に」


謀反を起こした不忠者と語り継がれようとも、己の正義を貫いた結果の人生だ。未練はあれども全ては天に定められたこと。


(儂を倒したこと、大いに誇るがよい)


晴賢は“西国無双の侍大将”と恐れられた。その自分が無残に討死する。なら元就には自分を踏み台にするくらい大きくなって貰わなければ割に合わないと思った。いや元就ならば、自分の名が霞むくらい大きくなる。そうなれば陶晴賢という武士の名も後世に語り継がれることだろう。


晴賢は厳島にて自害、元就は二年後に大内家を滅ぼして周防・長門を手に入れ、大毛利の礎となった。そして厳島の合戦は天下に広く、また後世に語り継がれるのである。


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元亀二年(1571)六月十四日。

安芸国・吉田郡山城


その日、元就は長い夢を見ていた。高齢な為か普段は早起きである元就も最近は昼過ぎまで床に就いていることが多い。起きてみると身体は妙に重かった。どんな夢を見ていたかは忘れてしまったが、何処か懐かしく思える夢だったことは確かだ。


(儂は長く生き過ぎたのやもしれぬ)


ふと元就は自分の人生について振り返った。


父も兄も弟も甥も早死にした。嫡子の隆元すら自分より長く生きられなかった。天寿を全うすると言えば聞こえはいいが、そんな者が戦国の世に幾人ほどいるのか。未だに世は定まらず、明日にはどう転ぶか判らないのが乱世である。自分が生きた年月が長かったことに、何か意味があったのだろうかと問いかけも答えをくれる者はいない。


「輝元はおるか」


か細い声で、元就が愛すべき嫡孫を呼んだ。


「ここにおりまする」


枕元から声が返ってくる。元就の傍には輝元を始め吉川元春、小早川隆景など息子たちに継室の乃美ノ方がいる。他にも見覚えのある顔が並んでおり、恋しさが込み上げてくる。


(そうか、儂は死ぬのか)


何故に元就は自分が彼らを恋しいと思ったのか判った。これが最後になるからだ。もう会えないと分かれば、急に愛おしくなった。


「儂の死後、至誠至純の忠義で上様に御仕えせよ。天下は再び幕府の下で一つとなるであろう。輝元、まずは上洛して上様に二心なき忠節を誓うのだ。元春と隆景は輝元を支え、毛利の安泰のみに力を尽くせ。よいか、毛利あってこその吉川と小早川ぞ。そこを間違うでない」


既に声を出すのも辛いというのに、小言のように繰り返すのは元就らしいと言ったところか。しかし、不思議と頭は回る。大毛利を築き上げてきた責任を後世に託していかねばならない。これからの毛利が辿る道は、恐らく数百年に亘って自分の言葉に縛られる。ならばこそ、伝えなくては。


「まもなく乱世は終わる。泰平の世が如何なる世の中なのか乱世しか知らぬ儂には想像がつかぬが、毛利はいま以上に領国の外に欲を出してはならぬ。領国を堅く守り、これを失わないことに力を注ぐのだ」

「判っておりますとも、吉川がある限り毛利の安泰は揺るがせませぬ」

「争いは欲より起こるものにござる。欲を捨て信義を守るのならば、兄弟の間に不和は起きませぬ」

「それが判っておるならば、よい」


息子たちは父の臨終に涙を堪えながら力強く答えた。


「まもなく隆元と妙玖に会えるか」


元就は消えかけそうな笑顔で、亡き嫡男と正室の姿を思い浮かべた。二人がいた頃が随分と昔に思えるのは、やはり生き過ぎた所為であろうか。しかし、生き過ぎただけのことはやったつもりだ。


毛利は安芸・周防・長門の三カ国に筑前半国を支配する守護大名となった。吉川元春は備後、小早川隆景は石見と毛利一族で五カ国半を統治している。最盛期に比べてやや劣るも安芸吉田だけだった頃に比べれば上出来と言える結果だ。


それに今は中国から甲信越まで支配するに至った幕府の庇護下にある。征夷大将軍・足利義輝は天下一統を志し、次なる布石を打ち続けている。自分の死が決して小さくない混乱を引き起こす可能性は多分にあるが、もはや幕府の勢いを止めるには至らないだろう。それだけ幕府の存在は大きくなってしまっている。歴史の針が戻ることはないと確信できる。


(後は、もう大丈夫であろう)


元就は安堵したかのように満足そうな笑みを浮かべたまま逝った。


享年七十五。


“謀神”とも恐れられ、一代にして中国の王にまで成った稀代の英雄は、家族に囲まれて暖かな最期を迎えた。波乱万丈な生涯だったことは自他共に認めるが、納得のいく人生だったに違いない。


毛利元就は、中国地方に生きる百万の民の礎となったのだ。


「次にお前たちに会うのが楽しみじゃ。土産話をたんと聞かせてくれよ」


それが戦国を代表する男の最期の言葉だった。


英雄の死は、時として時代の転換期となり得る。それを如実に表すかのように、この頃になると東でも今ひとりの英傑が発給する文書から花押が消えた。


戦国乱世は、まだ終わらない。




【続く】

第六章に突入です。


前回の後書きで書きましたが、鎮撫の大遠征編は三章仕立てとなります。ただ元々は一つのお話であるために事実上“鎮撫の大遠征”が剣聖将軍記で最終章となります。(一応は、その後に外伝を予定しています)本作品を書き始めてから三年半が経過し、ようやくと言ったところです。これまでお付き合いして頂いた方々には感謝を申し上げます。


何やらこれで話が終わるような言い方になってしまいましたが、まだまだ最終章は続きますので御安心を。


それでは解説と補足です。


まず今回は毛利元就の生涯にスポットを当てて書きました。ほぼ八割が史実の出来事であり、厳島合戦までを描いています。その後の話は拙作でもかなり前に触れているので割愛させて頂いています。多少ドラマチックな描き方になっている箇所はありますが、それは“元就の夢”という形なので深くは突っ込まないで下さい。


また“謀多きは勝ち、少なきは負ける”の台詞は元就が隆元に宛てた書状に書かれているものですが、某ドラマで亡き緒方拳さんが言っていた印象が強く、経久の台詞として採用しております。(恐らく私と同じイメージの方は多いのではないでしょうか)


他、いきなり元亀二年が半年も過ぎておりますが、鎮撫の大遠征・序では各地方での動きを序盤に時間軸を戻しながら描き、中盤から義輝視点で次章の東国編に繋げる予定にしていますので、質問を頂いても御答えは控えさせていただきます。


最後に書きました花押がなくなった人物については皆様もよくご存知かと思います。この二人の死が東国と西国で混乱を生み出す起因になります。

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