第三十幕 元亀二年 -それぞれの結末-
元亀二年(一五七一)。
京・二条城
昨年、近江国余呉で武田信玄との合戦に勝利した将軍・足利義輝は、帰洛すると比叡山延暦寺との対立に決着を図るべく策動を開始、僧兵たちの乱行を名目にひっ捕らえ、帝を叡山から動座させることに成功した。
「本願寺との和睦は麿が取り仕切る」
御所に入った帝は義輝の働きを褒め称え、幕府からの申し出もあって未だ合戦の続く石山本願寺との和睦を調停する役を担うことになった。その事は武家伝奏から幕府へと伝えられ、関白・近衛前久が中心となって推し進めることが決定した。一月、朝廷の意向が内示として本願寺側へ伝えられ、和睦に向けた条件の取り決めが始まった。
ちなみに義輝は、和睦の件が有岡城の荒木村重に洩れないよう厳重な包囲を続けるよう和田惟政に通達をしている。京に滞在している西国大名の兵を一部送り、有岡城を取り囲む兵は二万にまで膨れ上がった。
「いくら増えても同じよ!有岡は落ちぬわ!」
当初“一万五〇〇〇までなら”と松永久秀に言っていた村重であるが、幾度とない防戦で勝利を収めて今は自信に満ち溢れていた。
「直に武田殿が幕府の軍勢を打ち破る。さすれば本願寺と共に反撃へ移るぞ!」
その傍らで兵たちを鼓舞し、少なくなりつつ兵糧を誤魔化しながら村重は士気の低下を招かぬよう努めている。
(拙いな。京方面に出ていた兵が帰って来たとなると、東国で何かあったな)
それも情報を得られぬ焦りが村重の中に高まっていたからである。
そんな事を余所に義輝は次なる布石をどんどんと打っていく。山陰攻めの支度は細川藤孝に一任しているも北陸攻めの支度は自らの手で行う必要があった。
「修理大夫の事は残念だったな」
まず義輝が呼び出したのは、旧能登守護の畠山義続であった。
「幕府の為に戦い、上様の為に散っていったのです。義綱も本望でありましょう」
言葉を返す義続は、何処か寂しげに見える。義続と二人三脚で能登の経営に携わってきた義綱は、本当に出来た息子だったに違いない。それを失った悲しみと怒りは、義続の戦いぶりに表れている。長続連、温井景隆、三宅長盛ら旧臣を討ったことに加え、加賀一向一揆勢にもかなりの打撃を与えたのも畠山勢だ。無論、自軍が被った損害も甚大であったが、余りある戦功を立てたのは事実だ。
そして戦功は正しく評価するのが将軍たる義輝の役目である。
「そう気落ちするな。仇討の機会は、そう遠くない。まずは家督に復帰せよ。右衛門督への任官も取り計らっておる」
「右衛門督!?まことでありますか!!」
義続は義輝の沙汰に思わず顔を上げて驚いた。
右衛門督は畠山中興の祖と云われる畠山基国の官途で、基国は畠山氏で最初に管領に任じられた人物でもある。義続は畠山庶流である能登匠作家の出身で、代々の当主は左衛門佐か修理大夫を名乗るのが通例だった。右衛門督は奥州二本松の本家から嫡流の地位に転じた畠山高政を代表とする尾州家の官途として通っている。それに義続が任官される理由は何か。
「現任の右衛門督である毛利輝元は、近々昇進させる予定だ。入れ替わりに、そなたを任官させる」
「あ……有り難き幸せ!!」
「もはや余に忠節を尽くせる畠山の者は限られておる。そなたが惣領となり、畠山再興に尽力せよ。尾州家は元より、後々は二本松もそなたの指図を仰がせる。今日より匠作家が畠山本家と心得よ」
「ははーッ!!」
義続は床に頭を打ち付けんばかりに深く深く頭を垂れた。
何せ息子・義綱が望んだ畠山の統一が早くも実現したからである。能登の所領を失い、息子も失い、一万石の微禄で生きることになった義続の前途は間違いなく暗かった。しかし、惣領家の家督を得れば変わってくる。紀伊に勢力を持つ尾州家は健在で、義輝から預かった軍勢もある。これに幕府の軍勢が加われば、能登奪還も夢ではあるまい。今や義輝の権威は絶対であり、その後ろ盾を得た義続が一族を束ねるのは不可能ではなかった。
一方で義輝も畠山の統一は必要不可欠な事柄だった。
細川、畠山、斯波などの三管領、山名、京極、一色、赤松などの四職など幕府創世記に功績を残した大名家を簡単に取り潰すのは、流石の義輝であっても出来ない。だが二百年以上もの間に増え続けた三管四職の者たちを揃って取り立てることなど不可能だ。そうなれば織田や毛利など新興大名の不満が募るばかりか、果てには新旧で争いに発展する可能性も捨てきらない。かつてそうやって失敗した後醍醐帝の過ちを繰り返す訳にはいかないだ。
(細川は藤孝、畠山は義続、一色は藤長に束ねさせる)
力の残っている大名家は、その中でもっとも義輝に近い者に任せる。力の残っていない大名家は名誉職となっている相伴衆に加え、細々と家名を存続させる。格式の高い役職であるために彼らも不満は言わないだろう。もちろん相伴衆は将軍の近しい役職であるので、将来的に有能な者が出てくれば取り立ててもよい。それくらいのきっかけは、与えてやってもよいだろうと義輝は思っていた。
これにより畿内で隠遁していた元尾張守護・斯波三松軒(義銀)が召し出されることになり、御家再興を果たしている。ただ尾張を保てなかった当時の罪は消えずに往年の格式は義輝によって否定され、他の三管領家のように大名としての復帰はなかった。唯一、謀反した四職よりも家格は上とされたことで最低限の面目を保つに至っている。
その後も義輝は相次ぐ来客を受けながら布石を打っていく。中でも今後、大きな役割を担うであろうと思われたのは、武田義信からの使者だった。
「某は武田甲斐守様の遣いで参りました、一条右衛門大夫と申します」
謁見を許された一条信龍の立ち振る舞いは甲斐源氏の名に相応しいものだった。
「此度、我が主・武田甲斐守は当家発端による騒動が原因で上様へ多大なる御迷惑をかけた詫びとして、幕府に信濃守護職を返上いたすこと決意いたしました」
「甲斐守が信濃守護職を?それは殊勝な心懸けじゃ」
信濃召し上げを考えていた義輝は、武田からの申し出を素直に受け入れた。
(こちらが動く前に差し出してきたか。甲斐守めにも先を読む力があるようだな)
ただの忠義心で義信が信濃を手放したとは義輝も思わない。もし義信に謙信と同じ義輝へ忠義心があるのなら、もっと早くに幕府の為に行動しているはず。信濃返上は、これ以上に義輝からの追及を受けないため先に手放したと見るのが正解だ。
「つきましては、こちらを御納め下さいませ」
次に信龍が差し出してきたのは、十数枚にも及ぶ誓紙の数々だった。それは揃って信濃在地領主たちから幕府へ忠誠を誓う言葉が書かれていた。義信が幕府へ使者を遣わすのが遅くなったのは、この誓紙を集めていたからであった。
(ほう、姑息な手を思いつく)
誓紙に目を通していく義輝は、この中に海野次郎信親や諏訪四郎勝頼、仁科五郎盛信など武田一族たちの名があることに気が付いた。これからは先の守護職返上は名ばかりのもので、信濃を武田で実効支配していく考えが読み取れる。
「取り纏め大義。されど武田家の騒動、これで決着をつけるには行かぬ。他に何か甲斐守が申していたことはなかったか?」
「はい。我が主は“甲斐守護として幕府が為に隣国の騒乱を平らげる義務がある。関東は争乱の真っ最中なれば、上杉左中将殿と合力して事に当たりたい”と。もし御許し頂けるならば、関東に兵馬を入れて上杉勢を支援いたしたく存じます」
この申し出を想像していなかった義輝は、喜々として裁可を下した。
「許す!武田は上杉と並んで強兵と天下に知れ渡っておる。それらが手を結ぶのじゃ。関東はすぐに治まろうぞ!」
武田が上杉と手を組むならば、関東の北条家はまさに四面楚歌に陥ったと言える。関東には佐竹がおり、今川を下した徳川を伊豆に赴かせることも不可能ではない。確かに北条はそれらに対抗するだけの兵馬を備えてこそいるが、軟化の姿勢を見せている北条氏康と交渉で義輝は強く物を言えるようになる。
懸念と言えば、謙信が倒れたという噂だ。昨年、噂を心配した義輝が事実確認のために派遣した使者に上杉は否定を口にしていた。
「御屋形様が病にかかられたのは事実なれど、倒れたなどと大袈裟にござる。恐らくは北条辺りが上方へ聞こえるよう風潮しておるのでござろう。公方様には御安心されるよう御伝え下さいませ」
それを聞いて安心した使者は“一目でもよいから”と謙信への目通りを願ったが、何故か拒まれた。困惑したまま三日間ほど粘ったが、上杉側が様々な理由をつけて面会を断り続けたために最後まで会うことは叶わなかった。報告を受けた義輝は、謙信の容態は思いの外に重篤かもしれないと考えた。
(あやつのことだ。余計な心配を余にかけぬようしておるのだろうが、隠すならばもっと上手くやるものだ)
若年の頃より本音をひた隠しにし、細川晴元や三好長慶と政争を繰り広げてきた義輝にすれば、謙信のやり方は稚拙にしか見えない。最悪、謙信の容態が北条方に伝わっている可能性も捨てきれないだろう。そう考えれば、北条の面従腹背な態度が合点がいく。
(相模守の態度、気にかかる。武田を関東へ遣わせば、少しは厩橋中将の援けとなろう)
断片的にではあるが、関東の情勢は義輝の許にも届いている。それによれば北条勢は常陸に入っているとか。北条氏康は幕府に対し、恭順の意向を示しているも子の氏政は軍事行動を停止させていない。義輝が関東に手を出せないことを見抜いた上での行動と思える。ならば少しでも出来ることはやっておく必要がある。
「これほどまでに甲斐守が余に尽くすと申すならば、余からも何かしてやらねばなるまい」
そう言って義輝は、小姓の一人を呼び寄せて何かを耳打ちした。次に信龍に対して“近う”と手招きする。歩み寄った信龍に義輝は捕虜の解放を告げた。
「余の許に武田典厩なる者がおる。余呉の合戦で捕虜としたが、聞けば一族の者とか。武田は二つに割れ、将領が不足しておろう。罪を許す故、連れて帰るがよい」
「よ……宜しいのでありますか」
「構わぬ。信玄に加担した罪は重いが、典厩は一族とはいえ云わば家来じゃ。主に付き従っただけとも言える。挽回の機会を与える故、関東での働きに期待しておるぞ」
「ははっ。有り難き御配慮、痛み入りまする」
武田信豊の解放を告げられた信龍は、感謝の意を述べると退出し、数日後には信豊と共に甲斐へ戻っていった。
他に武藤喜兵衛という武田の家臣が義輝の許にはいたが、義信が信濃守護職を返上し、信濃に版図を持つ真田が名目上で幕府直属となったために武田へ戻ることは許されなかった。また信玄の側近であったことも看過できない。ただ大友反覆の証拠を持つ喜兵衛を本当に罰する訳にはいかず、義輝は喜兵衛の兄たちが余呉で戦死していたことを受けて宙に浮いていた真田の家督を、この春に相続するよう沙汰を出した。罪は、これまでの蟄居謹慎によって放免とされた。
武藤喜兵衛は真田姓に復して昌幸と名乗り、捕虜から一転して幕臣となったのである。
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元亀二年一月下旬。
降雪により織田と停戦状態が続く甲信では、武田義信が御家存続の為に早くも動き出していた。
信濃の領主たちに幕府へ対する誓紙を差し出させたことは、間接的に織田の調略から武田を守ることに繋がった。彼らも織田家に通じて将軍家の陪臣になるよりは、直接に繋がりを持てた方がいいと考え、柴田勝家の誘いを断って、旧主・義信の仲介で幕府への臣従を明らかにした。これは率直に誇り高い信濃武士が織田の支配を拒んだといえる。
ただ織田方も黙っていたわけではない。深志城で年を越した勝家は精力的に信濃の支配化を進め、松本平一帯を完全に膝下へ置いた。またがら空きとなっている北信へ雪を掻き分けながら一隊を派遣、徐々に版図に組み込んでいる。雪解けとなれば諏訪勝頼がいなくなった伊那郡への侵攻も企てており、その領土欲は止まるところを知らない。
「今は捨て置くしかない」
対抗する手段を持たない義信は、一条信龍に全てを託して関東出征の支度を進めながら朗報が届くのをジッと待っていた。
そして信龍は、思わぬ土産を持って帰還を果たす。
「右衛門大夫様から報せが届きました。幕府は当家の申し出を受け入れるとのこと。しかも公方様は余呉で捕虜となった典厩殿を解放、右衛門大夫様と共に数日ほどで帰国されるようにございます」
「まことか!典厩が生きておったか!」
従兄弟の生存に驚いた義信は、歓喜の余り小躍りしそうになった。身内の生還は、何よりも嬉しい。さっそく小山田信茂と穴山信君を呼び出して陣触れを発し、関東出征の意を伝える。
「左兵衛尉、近々出るぞ!街道の除雪は終わっておろうな」
「無論、領民を総動員しておりますれば、万を超える軍勢であろうとも関東へ出られます」
「よし。ならば留守は玄蕃頭に任せる」
「はっ、お任せあれ」
そして義信は七〇〇〇余りを率い、遂に関東へ出陣した。目指す先は上杉謙信がいる金窪城である。武田軍は一旦、信濃国佐久郡に出てから上州へ入り、武蔵へ向かった。
「武田が動いている?何も聞いてないぞ」
何の前触れもなく動き出した武田に西上野の者たちは揃って首を傾げた。
「出迎えるか?」
「いや、武田義信は我らを捨てたのだぞ。今さら主君として仰げるか」
「なら戦うか?」
「北条の援軍は見込めん。何が目的かは知らぬが、手を出してこなければ相手はせぬ」
西上野は元々武田が支配していた地域で、義信が北条氏政と同盟を締結する際に譲ると言った地域である。ただ北条の支配は進んでおらず、西上野衆も北条高広との合戦に敗れてから上杉に従っており、大半の兵は金窪城にある。主なき城兵たちは急いで籠城の支度を整えるも一向に武田が襲ってくる様子なく、肩透かしを食らった。
この武田の動きはそのまま上杉と北条両陣営へと伝えられる。
義信と同盟関係にあった北条家の見方としては武田は友軍であり、北条支援を目的に関東へ出ていたと考えられていた。しかし、当の義信は北条に対して何の通達もしておらず、行軍の妨げになる近くの城に“援軍に参る”と伝えるだけに終わっている。また織田が信濃に出ている中で甲斐を離れる理由を知る者はおらず、素通りする武田を見送るしかなかった。
逆に上杉は義信が幕府に恭順していることを知っている為に敵とは捉えていなかったが、こちらも北条と同様に武田が関東へ出て来る意図を掴めていなかった。
「義信めが裏切ったやもしれぬ」
一人、小田原の北条氏康が義信の真意に気付き始めた時には既に遅く、武田軍は上杉謙信のいる金窪城へ到達していた。
「武田甲斐守にござる。此度は上様の命に従い、上杉殿を援護しに参った」
城内に入った義信は、謙信と初対面をすることになった。
(……これが上杉謙信か)
義信は武田の宿敵であった相手を興味深げに見た。病に倒れたと噂で聞いたが、面会は断られなかった。だから義信は謙信を見るまで噂は噂と一笑に付していた。それが謙信を見た途端に逆転する。
(まるで死人ではないか!?)
謙信の相貌は父・信玄とは似て非なるもので、雄々しさはまったく感じられなかった。頬の肉は削げ落ち、身体の線も細く小柄だ。父より十は若く昨年に初老を迎えたと聞いていたが、見た目は随分と老けて見える。ただ眼光だけは鋭く、瞳は眩く輝いていた。威貫く視線はまともに返すことが出来ないほどで、正面に座る義信を呑み込んでいく。
「……わざわざの遠征、御苦労である」
謙信は短く、義信を労った。
「病と聞いておりましたが、御加減は大丈夫なのでありますか」
「長年の疲れが出たようだ。されど、もう心配ない」
義信は謙信を気遣う言葉をかけたが、謙信は病を疲れと偽った。それが嘘だと義信には判る。しかし、萎縮してしまいそれ以上に言葉を発することが出来ずにいた。
実は謙信を襲ったのは卒中だった。幸いにも症状は軽く命に別条はなかったが、左足に障害が残った。合戦を指揮するのに支障はないものの家臣たちが心配するので、一部の人間にしか明かしていない。これは主君・義輝はもちろんのこと義信にすら伝えるつもりはない。まだ自分にはやるべきことが残されているからだ。
(儂の天命は未だ尽きておらぬ。されど……)
卒中は死に直結する病だ。それから生き残った謙信は、己の天命を悟り始めていた。残った命は、そう長くはない。卒中を患った者が長生きする例は少なく、ここで謙信が療養に専念すれば多少は生き長らえるかもしれないが、その余裕を関東の情勢が許しておらず、その気が謙信本人にもないとすれば、もはや余人に構っている時は残されていないだろう。
「人には生まれ持った責任というものがある。甲州殿も、その責任を果たされよ」
謙信は表立って義信の用向きには触れず、ただ自分と同じ覚悟を求めた。
武田は由緒正しき源氏の名門である。義輝と同じ清和源氏の流れを汲み、八幡太郎義家の兄弟である新羅三郎義光を祖とする。また足利幕府の正統な守護大名で、平安期から長く甲斐を治めている。そして自分は養子ながらも上杉、関東管領の家柄である。互いに己の職責を果たさなければならない。
(そう……責任があるのだ。甲州殿にも、そして儂にも……)
永禄の変より脱した義輝は畿内七カ国を平定し、中国、四国と統一してきた。今回の謀反も平らげ、自身が遂に討つ事の敵わなかった武田信玄をも成敗した。征夷大将軍という職責を見事なまでに果たしている。織田信長や土岐光秀なども天下平定戦に貢献をし、義輝の覇道を支えている。
ところが自分はどうだ。
任された関東を一時的に平定したとはいえ、それは形だけのものだった。北条は密かに爪を研いでおり、それに気が付かなかったばかりか対応を誤って後手後手に回り、挙句の果てには病に倒れるという大失態を犯した。正直に言って関東の現状は、義輝が二条御所で何の権力も持っていなかった頃と何ら変わりがない。いや、むしろ悪くなっていると言っていい。
小田原城は依然として健在で、北条家が相模・伊豆・武蔵三カ国の守護大名に任命されたことで管領の権限が及ばなくなっている。かつて謙信は関白・近衛前久と前関東管領・上杉憲政の力を借りて宇都宮、佐竹、里見ら反北条包囲網を形成したが、その一角である里見家は破れ、北条に降った。北条氏政は結城晴朝をも降し、常陸に入っている。佐竹義重からの報せによれば、結城家臣である水谷蟠龍斎(正村)が主家の降伏に従わず、居城の下館城で籠城の構えを見せたために北条の大軍に囲まれているという。蟠龍斎は武勇に優れ、城外には佐竹義重の援軍が布陣していることで城は保てているが、北条の大軍を前に劣勢は否めない。下野の宇都宮国綱は国内の情勢が不安定なことを理由に動けず、頼みの綱であった上杉も謙信が倒れたことで軍事行動の一切を停止せざるを得なかった。
(上様も大変な時に、要らぬ御苦労をかけてしまった。儂はとんだ不忠者よ)
そして遂に幕府を動かしてしまう羽目に陥る。謙信の心は罪悪感に蝕まれていた。
(儂の責任は、この関東を上様が為に平定すること。一命を取り留めたのは、現に於いて儂の成すべきことが残っているからであろう。あと何年、生きられるか判らぬ身で遠慮などしておれぬ。上様が目指す泰平の世を実現するのならば、儂の命が尽き果てようとも構わぬ!)
謙信の眼に激しい炎が燃え上がった。
まだ動きの鈍い半身に精一杯の力を入れて立ち上がる。震える足に苛立ちを募らせながらも謙信の目線ははっきりと一点を捉えている。
その先にあるはずの小田原城を。巨大な北条の牙城を今度こそ落とす。
「出陣する」
上杉謙信復活の時であった。
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二月中旬。
飛騨国・高原諏訪城
次に動きがあったのは飛騨国である。
飛騨は幕府勢力である織田の軍勢が謀反方で信玄麾下の内藤昌豊が籠る高原諏訪城を攻撃、付城を築くことで雪中でも兵糧攻めが続けられていた。包囲側の総大将は織田の重鎮・佐久間信盛で、頭の回転が速く計算高い所為で時に決断力が鈍る時があるも合戦や領内統治など幅広く活躍する実力を備えている。包囲戦に於いても城に通じる街道を封鎖、抜け道も探り要所要所に兵を置いて城方を確実に圧迫していた。
(雪が積もり始めれば織田の警戒が鈍ると思ったが、こうも雪が激しければこちらも動けぬ。御屋形様の遺言を修理亮に伝えぬ限り、甲斐へは戻れぬ)
その為に主・武田信玄の遺命を昌豊へ伝えるべく城への侵入を試みる馬場信春は、立往生を余儀なくされていた。
「もう諦めましょう。このままでは殿も死んでしまいます。甲斐へ帰りましょう」
供の家臣からは甲斐への帰国を急ぐべきとの声も上がっている。この三カ月、信春が体調を崩すこと三回、一度は高熱にうなされたこともある。齢五十五を数える信春も年の所為か無理が効かない年齢に達しているのだ。
「ならぬ。御屋形様の命令は絶対じゃ」
それでも馬場信春は主の遺命にとことん拘った。甲斐へ戻る必要性こそ感じてはいたが、あそこには既に春日虎綱と山県昌景がいる。二人が義信を補佐しているのであれば自分が急いで戻る必要はなく、それよりもここで昌豊を失う事の方が武田の将来を暗くすると考えていた。
(致し方ない。ここは無理を承知でも……)
とは言っても時間の猶予が差してあるわけではない。雪解けとなれば織田の攻撃が再開されるのは明白で、城内の兵糧の蓄えも少なくなっていることも考慮すれば如何に昌豊が武略に優れていようが落城は必至のはず。行動するならば、今しかない。
「しまったッ!!」
ところが信春は織田兵に見つかるという失態を犯してしまう。雪に隠れて侵入するつもりが、吹雪で視界を遮られ、地理に不案内なことも重なって逆に迷ってしまったのだ。そこを織田兵に発見された。
「武田の間者を捕まえた?よし、ここへ連れて参れ」
報告を受けた信盛は自ら検分することにした。ここらで何かしらの情報を手にしておかなければ、主君から怠慢と見做されかねない。行動力に富む信長が最も嫌うのが家臣の怠慢なのだ。
「そこもとの名は?何故に城へ潜り込もうとしていた」
「近くの村に住む善兵衛と申す者にございます。城へ潜り込むなどとんでもない。ただ儂は雪で迷っただけです」
「偽りを申すな。善兵衛とやら、近くの村々にお前が住んでいるかどうか調べ上げるのは簡単なことなのだぞ。はっきりと申さねば、命はないぞ」
「嘘など申しませぬ。本当にただの村人にございます」
身を縮めて懇願する姿勢で身分を隠す信春に対し、信盛は容赦なく問い詰めた。不幸にも信春には演技力がなかったのだ。再三に亘って否定を繰り返す信春の言を信盛は一向に信じようとはしなかった。
信春は不死身と称されるほどの傑物であることから戦場で臆することなど一度もない。故に織田の武将に囲まれても怯えた様子を一切見せなかった。いや実際は怯えて見せていたのだが、何処かわざとらしく、しかも信盛が信春の胸倉を掴み上げて顔を覘いた時、その眼には怯えの色がまったくなかったのだ。普通の農民なら有り得ず、信盛は善兵衛と名乗る者の疑いを持ち続けた。
「……致しかない。儂は馬場美濃守、織田家の者ならば、儂の名くらいは知っておろう」
覚悟を決めた信春は堂々と名乗りを上げることにした。自分の名が持つ影響力に望みを繋いだのだ。
「馬場!?あの不死身の鬼美濃と呼ばれた馬場信春か?」
「左様。馬場信春である」
流石の大物に驚いた信盛であったが、信春の顔に傷があったことで本人であることに疑問を呈す。
「されど馬場信春と言えば戦場で負った傷は一つもないと聞く。そなたの頬には刀傷があるではないか」
「これは越後有間川で長尾景勝の本陣を襲った際に受けたもの。儂の唯一の誇りよ」
信春は胸を張って傷を自慢した。
戦場で受けた傷を自慢することは、武将の中ではよくあることだ。傷ごとにある武勇伝を酒の席で自慢し、競い合うのが武士の慣わしと言っても過言ではない。それを信春は、今まで一度も傷を負うことがなかったことで叶わなかった。ようやく自慢できる傷を手に入れたのは、まさに誉れだった。
「なるほど。堂々たる振る舞い見事である。まことに馬場信春であるならば、すぐには殺せぬ」
信盛は岐阜に遣いを送り、信長に裁可を伺おうとした。これを見過ごせば斬首に処される公算が高く、信玄の遺命も果たせなくなる。とは言っても暴れたところで逃げ出すことは難しい。万事休すかと思われた信春は、ここで勝負に出る。
「待たれよ。取引をせぬか」
「取引?」
「すぐには殺せぬということは、この場に信長がおらぬのだろう。儂を高原諏訪城へ送り込め、さすれば城を明けてやる。そなたの手柄になるぞ」
戦功をちらつかせ、信春は信盛を誘惑した。多くの武将が戦功に弱いことは、信春も武士であるが故に知っている。特に織田家は功績あれば誰でも取り立てると聞いている。ならば飛騨の平定は何よりの手柄になるはずと予想した。
「騙されぬぞ。そうやって城に入り、我らに抵抗する気だろう」
「取引といったろう。城を開け渡す代わりに、城内の者の命を助けてやってはくれまいか。それだけでよい。戦いは終わったのだ。これ以上に犠牲を増やす必要はあるまい」
「ならん!ならん!御屋形様の命は絶対じゃ」
信盛は手を左右に振りながら否定を口にするも一方で信春の申し出を受けるかどうか悩んでいた。
(されどこんな山奥にずっと居続けるのは御免じゃ。城が開けばすぐに帰国できる)
頭の中で信盛は緻密な計算を繰り返す。懸念は一つ、このことが信長に露見した場合、どういう咎めを受けるか判らないことだ。その様子から信盛が迷っていることを見抜いた信春は、更に揺さぶりを続けた。
「なんなら儂の首もくれてやる。城を開け、鬼美濃の首を挙げたとなれば大手柄であろう」
そして信春はマジマジと信盛の顔を直視する。それには“儂を殺せば口封じも叶うぞ”と暗に伝えていた。傍にいる家臣も信盛が出世すれば恩恵に与れるため余計なことは風潮しないであろう。取引が露見しなければ、信盛の功績は先の失態を挽回するには充分なものとなる。
「相判った。貴殿の覚悟、見事なり。申し出を受けようぞ。されど供の者は人質として預かることになるが、宜しいな」
「当然にござる。されば早速にも城へ向かいたいが、宜しいか」
「うむ。されどその塵にまみれた姿では面目が立つまい。着替えを用意いたそう」
「有り難い。されど気遣いは無用に存ずる。今も戦っている者たちの前に、塵一つない姿では出られぬ」
信春は信盛の勧めを断り、単身で城内に入っていった。城門にいきなり現れた信春に驚いた昌豊は、自ら出迎えると真っ先に主・信玄の動向について問いただした。信春は周りの者たちに配慮し、昌豊の耳元で事実だけを伝える。
「御屋形様は、亡くなられた」
そう告げられた時、昌豊は極度の立ち眩みに襲われた。信春が現れたことで悪い予感はしていたものの事実を告げられた衝撃は思った以上のものだった。
「こ……これからどうすればよいのだ」
昌豊の先行きは一気に真っ暗となった。
「太郎様を御支えせよ、というのが御屋形様の遺命じゃ。織田とは話を着けてある。城を出て、甲斐へ戻れ」
「話を着けてある?お主は織田から来たのか!」
「不覚にも捕まってしまった。されど城を開けさせる代わりに城内の者は助命するよう約束させた」
「約束じゃと!そんなものを信じられるわけがなかろう。城を出た途端に殺されるのが落ちじゃ」
「信じるさ。儂の首をやると言ったのだからな」
「……お主!?自分の命を差し出して儂らを救おうというのかッ!!」
衝撃に顔を引きつらせる昌豊の瞳には、光るものがある。真の漢を目の前にして、こみ上げてくるものを抑えきれなかった。
「この老骨は御屋形様をお守り出来なかった。遺命を果たせなかった。されど御屋形様との約束を破るのは、儂だけでよい」
他の者に累を及ぼすわけにはいかない。そういう覚悟が信春の言葉からにじみ出ていた。感銘を受けた昌豊はどんな言葉をかけてよいか判らなかった。漢の覚悟に言葉を挟むのは、やっていいことではない。
「御屋形様の遺命、そなたの意地だけでは破れぬぞ。支度を急げ、ここは儂が預かる」
「…………承知、した」
力なく崩れ落ちる同輩を信春は優しげに見つめる。
(修理亮がおれば武田は安泰よ。そのために命を捨てるのは惜しくない)
内藤昌豊という武将は、武田家中に於いて己の武勲を示す感状を一つとして貰わない稀有な男だった。信玄は昌豊の力量を評価し、昌豊は主の采配を信じた。故に個人の手柄に拘らず、御家の勝利こそ大事と捉えていたのだ。
そういう男が武田にいるのであれば、御家は発展こそすれ衰退する訳がない。それならば自分は、安心して逝ける。
(御屋形様、許して下さいますな)
天を見上げ、先に黄泉へ旅立った主へ信春は謝罪した。
かくして内藤昌豊は退城する決意を固め、馬場信春に後事を託して甲斐への帰路に発った。信春は城内で一人となると腹を十字に掻っ捌き、介錯人のおらぬまま自害して果てる。最期に味わう苦しみを亡き主の遺命を守れぬ罪滅ぼしにしたのだ。
馬場美濃守信春死す。
高原諏訪城は織田方に引き渡され、飛騨一国は信長の支配するところとなったのである。
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三月下旬。
摂津国・石山本願寺
幕府の軍勢に囲まれる石山御坊では、一月から進められていた和睦交渉がいよいよ纏まりつつあった。
「和睦?幕府が望むのであれば吝かではないが、我らから願い出ることはございませぬ。もし受け入れるとしても先に申し上げた五ヶ条は譲れませぬ」
それでも当初、本願寺側は強硬姿勢を貫く構えを見せていた。本願寺の赦免はもちろんのこと山科本願寺の再建、石山を始め北陸諸国の領有を幕府が認め、異端である耶蘇教を禁じること。以前に通達した条件を再度、幕府側に突きつけた。
「そのような世迷言が通じる情勢ではあるまいて。今なら右府殿も帝の御意向を重んじ、条件次第では赦免いたすとのこと。ここは折れておけ。後は麿が話をつけてやる」
「されども関白殿下。私は百万の門徒を預かる身、そのことは重々に御理解いただきたい」
「判っておる。本願寺の赦免は必ず右府殿に認めさせる。出来る限りのことはする故、安堵いたせ」
「それならば……、殿下に御任せいたします」
近衛前久が何度も石山に足を運んで粘り強い交渉を行なった末に顕如の態度は軟化を示し、調停の枠決めが始まったのが三月の頭の事だ。
一つ、幕府は本願寺を赦免すること。
一つ、幕府は本願寺に対し洛中にて土地を寄進すること。
一つ、幕府は本願寺に対する禁教を解くこと。
一つ、全ての門徒は石山とその周辺から退去すること。
一つ、幕府に人質を差し出すこと。
一つ、本願寺と末寺との往来は以前通りとすること。
一つ、加賀を含め北陸三国で不当に占拠している諸城を明け渡すこと。
一つ、期限は七月の盆前までにすること。
この調停には義輝の意向が強く反映されており、本願寺に対して屈服を要求していた。幕府側が譲歩したところは洛中で本願寺を再興することを認めたということと一部の諸大名が出している本願寺へ対する禁教を解かせるという二点である。
つまり義輝は本願寺に対して全国での布教を許し、その活動拠点を政治の中心である洛中に与える代わりにいま占拠している土地を全て差し出せと命じたのである。義輝からすれば他の宗教と同じ扱いを本願寺に求めたに過ぎず、反抗した者どもを優遇する気は一切なかった。同時に征夷大将軍が有す諸大名への命令権、政権の全国性が大きな要素を持ち、他の大名家では本願寺との和睦に付加できない条件が含まれているのも義輝ならではといった。
一方で本願寺側は幕府の条件に反発を強めるものの一部で、幕府の譲歩案に一考を示す者たちも存在した。彼らは徹底抗戦を唱える者たちから非難の的とされたが、強力な味方の後押しで主流派に転じることになる。
(中国、四国が幕府の統治下となり、入道殿が破れたいま西国にも東国にも味方はおらぬ)
実は法主・顕如こそ講和派の最有力者だったのだ。
もはや全国に味方はいない。謀反方の残党である山名、一色、荒木や北陸の連中は生き残っているが、早晩に幕府へ降伏するか滅ぼされるかのどちらかだ。信玄がいても最終的には幕府が勝つと予測していた顕如は、彼らに反抗の力が残されていないことを承知の上だった。
まだ幕府に対抗できる力があるとすれば、西の大友と東の北条だろう。それらと同心すれば戦闘の継続は不可能ではないに思える。徹底抗戦を唱える者たちの一部からも大友や北条の名は挙がっていた。しかし、大友宗麟は耶蘇狂いとして有名で、北条家は五十年に亘って本願寺を禁教に定めるなど味方に取り込める見込みはまったくと言っていいほどない。戦国大名の中では“遠交近攻”や“敵の敵は味方”という論理が通じるも宗教の世界に於ける信仰心は、その理屈を全くと言っていいほど無視する。その中にどっぷりと浸かって生きてきた顕如には、もはや外交にて事態を打開する手段がないことを早々に悟っていたのだ。
(いま幕府と和睦しておかなければ、もっと厳しい条件を突き付けられる)
顕如は徹底抗戦を主張する者たちから担ぎ上げられる懸念を考慮し、昨年に得度したばかりの嫡男・教如を人質にすることを決意、勅使として遣わされた武家伝奏へ誓紙の筆本を提出、ここに幕府と本願寺の和睦は成ったのである。
翌四月に顕如は石山を退去、一時的に紀伊国鷺森御坊へ移った。これによって孤立した有岡城は継戦を断念、荒木村重は一族郎党を置き去りにして姿を暗ませる。摂津での合戦は、ようやく終わりを告げたのであった。
「ようやく肩の荷が下りたわ」
摂津の争乱が片付いた義輝が思わず溢した一言だった。展望が開き、再び天下一統に突き進む。西征から止まっていた時間が再び動き出した瞬間だった。義輝は和田惟政を芥川山城から石山御坊へ移し、名を石山城と改めさせた。また池田勝正には有岡城を与え、名称を伊丹城へ復させた上で西国街道へ睨みを利かせる様に沙汰を下す。
しかし、次なる波乱の幕開けはもうそこまで迫っていた。
【続く】
今回は早めに投稿ができました。様々な場面を描く回になりましたが、ここで補足いたします。
まず三管四職に関しては、現当主に罪があっても累積する功績の山が御家取り潰しを防いだ形で決着させました。義輝が如何に革新性を持つ将軍といえども足利氏という保守的な側面は無視できないと考えてのことです。
また本願寺に対する処置は史実の信長よりもかなり厳しい内容になっています。なぜそれを顕如が受け入れたかといえば、現時点での幕府勢力が史実の織田家よりも格段に大きいからであります。史実では天正八年(1580)の和睦時点で毛利、武田、上杉が健在です。それでも顕如は石山退去を受け入れています。今回の時点での義輝の勢力は九州の一部から甲信越にまで及んでおり、しかも本願寺には味方となり得る勢力が残されていないので、史実よりも厳しい条件さえ受け入れるのではないかと愚考した次第です。
最後に今幕を以って第五章は終了といたします。第六章は“鎮撫の大遠征・序”とし、七章で東国編、八章で西国編とします。三章構成で恐らく三十幕いくかどうかとなりそうなのですが、話が全国に広がるので分割して描くことにいたしました。
次回、波乱の幕開けの引き金となる人物を中心に描きますので、義輝の登場はありません。何とか今月中の投稿を目指します。