第二十九幕 落ちゆく山門 -普広院の夢-
永享五年(一四三三)十二月十日。
近江国・坂本
近江坂本は比叡山延暦寺および日吉大社の門前町として古くから栄え、多くの僧が居を構えている宿場町である。普段は参道を行きかう人々で賑わっている町の景色だが、今日は大きく変わっていた。❘夥しい軍兵たちが眼をぎらつかせて街中を闊歩し、町衆を怯えさせている。乱暴に家屋へ押し入る者は珍しくなく、皆が“幕府”の名の下に金品を強奪、家財を破壊するなど好き放題に荒らしまくっていた。
その数、凡そ三万。
出雲守護・京極持高と近江守護・六角満綱らを中心とした幕府の軍勢が、比叡山を十重二十重に囲んでいた。山道という山道は全て封鎖され、誰一人として山へ入ることを禁じられている。その光景はまるで一つの城を兵糧攻めにするかのようであり、大将である征夷大将軍・足利義教は闇夜に浮かぶ根本中堂の灯りを苦々しく見つめながら大杯を呷っていた。
「上様。叡山は再三に亘って赦免を請う、と申しておりまする」
比叡山に拠る延暦寺の言葉を伝えるのは、細川右京大夫持之である。幕府宿老という立場から随行を命じられ、管領として兵を出している。
「ふん!二度も騙される余ではないわ。そうやって頭を垂れた振りをして、裏では余を呪詛しておるのだろう」
聞く耳もたん、といった様子で義教は酒を呷り、持っていた杯を投げ捨てる。宙に舞った杯は持之の額に当たり、酒の残りが顔にかかる。それを気に掛けることなく持之は地面に頭を擦りつけ、直訴した。
「上様のお怒りは御尤もにございます。されど延暦寺が鎌倉方と通じ、上様を呪詛しているなどといったことがある訳がございませぬ。噂などで軍を起こされ騒ぎを大きくしようものならば、幕府の体面は地に落ちまする。どうか、この右京大夫の願いをお聞き届け下さいませ」
持之必死の懇願を義教は目を細め、まるで虫けらを見るかのような眼で眺めていた。
この前年、幕府と延暦寺の間では一悶着あっている。というのも幕府山門奉行に不正があったと延暦寺が訴訟を起こしたからなのだが、これを当初の義教は言いがかりと断じて取り合わなかった。しかし、持之ら幕府宿老が延暦寺と対立することを避けるべしと揃って進言したため、義教は己の意向に反して宿老たちの意を汲み、山門奉行の飯尾為種を配流処分とした。当然、義教はほとぼりが冷めた頃に為種を赦免して復帰させ、再び幕政に関与させるつもりでいた。
ところがである。
延暦寺は、ほとぼりが冷める間もなく次の動きを始める。幕府宿老たちの後ろ盾を得た延暦寺が敵対する園城寺を焼打ちにするという暴挙に及んだのだ。同時に延暦寺が義教を呪詛しているとの噂が流れたことで、義教はすかさず兵を差し向けて延暦寺への道を全て封鎖、物資の流入を完全に遮った。その上で坂本を焼き、民衆の一部が救いを求めて叡山へ逃げ込む。
「比叡山は王城鎮護の地、その神域を攻めるとは何事ですか。天罰が下りましょうぞ」
天下で“黒衣の宰相”と呼ばれ、義教の将軍就任にも深く関わった三宝院満済は、今回の暴挙を非難し、すぐに兵を退くよう何度となく諫言を繰り返した。
「満済殿の申される通りです。この右京大夫からもお願い申し上げます」
これに持之を始めとする幕府宿老五人が便乗する形で義教へ直言を重ねる。それが逆に義教を意固地にさせた。
「延暦寺の行いを許せば、たかだか一寺院を抑えられぬ余は天下の笑いものになる。それこそ幕府の権威は地に落ちようぞ」
その結果、諸大名の叛乱が起きることも有り得る。持之らは今回の一件を叡山のことと捉えているかもしれないが、義教にとっては天下の大事であった。故に譲れないし、譲る気もない。
「これ以上の諫言は無用!」
義教は腰に差した刀に手を置き、鍔を鳴らす。“貴様などいつでも殺せるのだぞ”と言わんばかりに義教は持之を威圧した。
義教は五代将軍・義量の早世で後継を失った将軍職を継承した。だが義量の前将軍で兄である義持の遺命に従い将軍職は複数の候補者の中から籤引きで選ばれていることから影で義教のことを“籤引き将軍”“籤将軍”などと蔑む輩が後を絶たず、将軍を軽んじた結果で世の乱れは激しくなっていた。故に義教は、次第に将軍の権威と権力を振りかざすことが多い。
(痴れ者どもがッ!余には成すべきことがある。邪魔立て致すなッ!)
九州、関東では義教の命令に反する勢力が後を絶たない。鎮圧の為に九州へ送り込んだ大内盛見は筑前で戦死し、それを引き金として起こった大内氏の後継者争いが前年に決着、ようやく次の一手を打てる段階にきている。しかし関東は未だ手つかずで、鎌倉公方である足利持氏は義教を公然と“還俗将軍”と呼び、幕府の命令に従わず古い年号を使い続けたり嫡子の元服に将軍から偏諱を受けなかったりと勝手な振る舞いが目立つ。
(いずれ滅ぼしてくれる)
命令に従わぬ者、将軍を軽んじる者は全て斬り捨てる。将軍を頂点とする揺るぎない政権を確立しないことには、天下を泰平に導くことなど不可能と義教は考えていた。
(兄上が父上を否定したことで改革は頓挫し、余がやり直す羽目になった。兄上、何故に諸大名の増長を招くと気付かなかったか)
義教の父・義満は将軍となったばかりの頃は、守護大名の圧力に屈して己の意思を封じ込めることも少なくはなかったが、彼らのやり方を見ている内に政治的手腕を発揮するようになった。守護大名の対立を上手く利用し、相互の力を削ぎ落し、最後には幕府に従わせるといったやり方で将軍家の力を高めていった。明帝国への冊封や様々な分野で朝廷を巻き込み、その権威すらも自分のものとしていった。
結果、義満の治世に於いて晩年は大きな叛乱は起こっていない。それを兄・義持が台無しにした。
義持は義満と折り合いが悪かった。一時は弟の義嗣が後継者として噂されたほどで、それでも義持が四代将軍に就任したのは、嫡男であることに尽きる。義満の存命中は実権を持たず、父の命令に黙って従っていた義持であるが、義満が死去してからは幕政を旧態依然に戻し、明との国交を断絶、皇帝の勅使入京も拒否した。義持としては自分の信ずる道を進んだつもりなのだろうが、現実は非情で、すぐに叛乱が起こった。南朝最後の天皇だった後亀山天皇が大和国吉野へ出奔し、合一して消滅したはずの南朝勢力が活気づいた。地方で反乱が相次ぎ、関東でも火が上がる。義嗣との対立もあった。死に際でも後継者問題を残したことから、義教は兄について否定的な見方をどうしてもしてしまう。
だから義満の路線を踏襲したのかもしれない。
義教は将軍の権限を行使して力による鎮圧を進めていった。九州には大内氏や山名氏を送り込んで平定し、訴訟機関を整備して自ら取り仕切っては罪ある者を次々と罰し、皇室や武家の継承問題に積極的に介入して将軍の影響力を強めていった。義満以上のことをやって見せたつもりだ。
それもこれも将軍に絶対的な権力を持たせ、世を安定させる為である。なのに周りの連中ときたら面子や体面に拘り、何かにつけて将軍の決定に異を挟んでくる。それが世を乱していることに気が付いていないから余計に腹が立つ。
(何も判っておらぬ)
義教は何度となく心の中でその言葉を吐いたことだろうか。余りの強権ぶりに義教を“悪御所”と称する者まで現れ始めていることは判っている。それでも義教が改めないのは、自らの正義を信じているからだ。間違っているのは世の中で、正しいのは自分だと考えている。そして世を正す力が、征夷大将軍にはあると信じている。
「もし上様が我が願いを聞き届けて頂けないのであれば、もはや御役目は果たせませぬ。二度と洛中に戻らぬ覚悟で自邸を焼き、帰国いたします。これは拙者だけでなく幕府の宿老たちの総意でもあること、御承知願いたい」
そんな義教の心の内を知らず、持之は強硬手段に出る。言ってしまえば脅しをかけたのだ。
(宿老全員で余に謀反する気か!)
義教は憤った。
帰国とは挙兵するとも受け取れる。諫言とは名ばかりで、そこに忠義の心は欠片すら見えてこない。鎌倉方が怪しい動きをしている時に管領に背かれては、如何に将軍の義教といえども苦戦は必至、下手をすれば将軍解任も有り得た。義教の代わりとなる足利氏はいくらでもおり、特に持氏は“自分こそが正統”と言って憚らない。
(延暦寺の荒廃を正す好機なのじゃ!何故に判らぬかッ!)
かつて義教は延暦寺の貫主である天台座主だった。将軍職を継ぐために還俗したことで職を離れることになったが、叡山の改革は義教の悲願だった。将軍となって手が出せなくなった叡山が、いま手の届くところにある。その好機を邪魔されたくはなかった。
結局、二日後に義教は持之の願いを聞いて兵を退くことになる。叛乱を防ぐために叛乱が起きては意味がないからだ。その後も延暦寺とは一悶着あって二十四人の山徒が根本中堂に火をかけるという愚行を起こすが、義教は自ら再建を手掛けるという熱の入れようだった。しかし、幕府の者がその神域を犯すことは出来ず、実弟の義承を天台座主に据えて間接的に統治するに止まる。
その後、延暦寺は依然として武家社会に一定の影響力を持ち続けることになる。そして義教は嘉吉の乱で暗殺され、世は混迷の時代へと逆戻りをしていった。
義輝が生まれる百年ほど前の出来事である。
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元亀元年(一五七〇)十二月五日。
近江国・坂本城
武田信玄に勝利し、越前を回復した後に織田信長に会うために岐阜へ立ち寄った義輝は、帰洛の途上で土岐光秀の治める坂本城で一泊することにした。坂本には越前へ同行せず帰国した光秀が比叡山延暦寺に対して目を光らせ、監視を続けていた。
「日向守、叡山の様子はどうじゃ」
当然、光秀と再会した義輝が一番に聞いたのは延暦寺の動きだった。
「目立った動きはございません。ただ普段は麓まで下りてきている僧兵どもの姿が見えませぬ。上様の勘気を恐れ、山に籠っているものかと存じます」
「坂本におる者どもは?」
「同じく鳴りを潜めています」
「静か過ぎるのが逆に不気味じゃのう。あれが仏に仕える者だと誰が信じようか」
義輝は吐き捨てるように侮蔑を口にした。
延暦寺は帝の身を楯にし、裏で信玄と繋がっていたことは確実、ここにきて天台座主を帝の弟に代えてきたのも義輝から寺を守るための保全と見て間違いない。露骨なやり方に反吐が出そうになるが、周到な立ち回りには思わず舌を巻いてしまう。
(王城鎮護の地と言いながらも奴輩が守ろうとするのは自らの権益のみ。この国を憂う気持ちなど欠片すら持ち合わせておるまい)
ただ奴らは義輝の力を見誤った。いや自分たちを過信し過ぎたという方が正確か、山の周辺しか見知らぬ者たちはまさに“井の中の蛙、大海を知らず”だ。驕りには、報いで応じてやらねばならない。
「日向守。余は一度、京に戻る」
義輝はついに延暦寺と対決に火蓋を切る覚悟を決めた。
「はっ。では、某は延暦寺の監視を続けておきます」
「いや、それには及ばぬ」
「と、申されますと?」
光秀が主君の意図を掴み兼ね、問い返すと義輝は怪しく微笑を浮かべ、光秀を傍近くまで呼び寄せてあることを耳打ちした。
「ま……まさか、それをやって本当に構わぬのですか」
主の密命に光秀は目を丸くして驚く。
光秀とて人である。坂本で領民を預かる者として当然といえば、当然の処置とも思う。しかし、一方で相手は叡山の僧兵たちである。心の何処かで躊躇してしまうものがあるのは事実だ。
「やり過ぎと思うか」
義輝も実行者となる光秀を気遣う言葉を投げる。それを聞いて光秀は己の決意を固めた。どうであれ世の批判は主君が受け持つことになる。それを覚悟している以上、臣下が採るべき道は決まっていた。
「……いえ、僧兵どもの傍若無人ぶりは目に余り、領民たちも迷惑しております。延暦寺からの抗議はありましょうが、よくよく考えれば、やれることはそれが精々でございましょう」
「なれば細かきところはそなたに一任する。余は、京で報せを待つことにしよう」
そう言って義輝は諸将を引き連れ、京へと凱旋した。
洛中では義輝の勝利を祝う民衆の行列が出来ており、喝采を送って天下の主を出迎えた。義輝も馬上の人となり、兵たちに勝鬨を上げさせて戦いが終わったことを洛中洛外に告げさせる。逃げ支度をしていた民衆も荷駄の縄を解き、元の生活に戻っていく。
これまで義輝は何度となく死地を乗り越えて彼らの前に姿を現した。彼らの目には、義輝こと天下に安寧を齎す王として映ったことだろう。王は地方の叛乱を鎮めて凱旋すること三度、もはや通例となりつつあり、世の平穏が間近に迫っていることを誰もが感じていた。
「今宵は無礼講じゃ。洛中の者たちにも酒を配ってやるといい、我らも戦いを忘れて大いに騒ごうぞ」
二条城に帰還した義輝は、京都所司代である摂津晴門を呼んで下知を伝える。晴門にすれば義輝の勝利は喜ばしいことなれど、財政が逼迫している中での出費は望むところではなかった。
「未だ摂津では戦いが続いております。戦勝の宴は日延べされたら如何でしょうか」
「左様にございます。上様の御立場を鑑みれば諸大名を労う必要はあるでしょうが、まだ戦っている者たちがいることをお忘れなく」
晴門は石山本願寺との合戦を理由に反対を唱えた。同席した三渕藤英も晴門と同じ意見のようで、揃って渋面を作っていた。
「ならぬ。摂津で戦っている者たちを気遣うのであれば、そちらにも酒を届けよ。よいか、余は気を抜いてなどおらぬぞ。これは必要なことなのじゃ」
「必要?何か訳があるのでございますか」
「すぐに判る。今は余の命に従っておればよい」
義輝が含みを持たせた言い方で、命令を遂行するよう強く求めた。内容は秘事であるが故に光秀以外には明かせない。何処かで情報が洩れでもすれば、全てが水泡に帰してしまうからだ。この後のことを思えば、ここで間違うわけには行かなかった。
その夜、二条城では夜遅くまで宴が催されて赤々と灯りが点されていた。民衆も戦いの恐怖から開放され、平穏が訪れたことを喜び合った。翌日から義輝は祝いに駆けつけた公家たちを相手に余呉での合戦で諸大名が如何なる活躍をしたか自らの口で語って聞かせ、諸侯とも酒を酌み交わし幕府のこれからについて語って聞かせた。
「上様!某は何処までも上様について参る所存!」
「何なりと御命じ下さいませ。遠慮は無用に願いますぞ」
「天下一統を妨げる者は、全てお任せを。儂自慢の槍の餌食にしてくれますわ」
宴席は武将たちの威勢のいい言葉と人で溢れかえっていた。本来ならば謁見の間である大広間は参加者の関係から宴の場と化し、はみ出した者たちが庭先で騒いでいる。それほどまでに義輝を取り巻く人々の数が多くなっていた。
「この城も狭くなってきたな」
肩を寄せ合う者たちを見て、義輝は感慨深げに呟いた。
狭い狭いとは言うものの二条城は古くはない。至るところから資材を集めたために要所要所に年月を感じさせる箇所はあるが、まだ完成してより四年しか経っていない。
「数年ほど前までは考えられなかった光景にございますな」
感慨に耽っている義輝へ酌しながら、先ほどから酒に付き合っている藤孝が言う。
僅か四年の間に二条城が狭く感じてしまうのは、義輝の勢力が異常な速度で拡大しているからである。他の大名家であれば不可能なことでも、征夷大将軍の権力と二百四十年にも亘って全国に根付かせてきた足利家の権威は、それを可能としてしまっている。
無論、弊害もあった。守護大名の叛乱に足利公方同士の対立と味方する大名の強大化、寺社勢力との諍いにも決着はついておらず、残された課題は余りにも多い。
「全て上様の成されたことにございます」
「そなたらの働きがあればこそよ。与一郎、余は二条御所でそなたに救われたこと忘れてはおらぬぞ」
「これはまた懐かしき名で、あの頃を思い出すよう……」
古き名で呼ばれた藤孝の眼には、僅かに光るものが見えた。
義輝と共に新当流を学び、故事礼式や文芸に精通している藤孝は、幼き日から主と共に過ごす事が多かった。長幼の序から幕府内では兄・藤英が重用されているが、見方を変えれば信頼しているからこそ“地方を任せられる”と義輝が考えているとも受け取れる。
事実、義輝は藤孝の統治に関しては大枠を決めるのみで細かいことは全て一任していた。好きにやらせているということは、信頼の証でもあるのだ。
「年が明ければ帰国いたします。雪解けと同時に但馬へ攻め入り、夏までにはけりをつけまする」
帰国を年明けに控えた藤孝が、今後の方針について語る。
藤孝は国替えにより因幡と但馬の二カ国を与えられたが、実効支配しているのは因幡のみで但馬は今も幕府と敵対する山名祐豊の手にある。戦況は幕府が一方的に押しており、山陰道を進んで但馬村岡まで到達している。南からは播磨公方・足利晴藤の軍勢が竹田城を落としていることから、藤孝は次の目標を両軍の合流地点ともなる宵田城に定めていた。軍勢の規模は二万を超える為、敗戦に次ぐ敗戦で数を減らしている山名方に勝ち目はないだろう。
「久秀と信玄はおらん。祐豊も音を上げてるだろうて」
謀反方の中核であった松永久秀と武田信玄が敗れ去ったことで、義輝は祐豊の降伏が近いと見ていた。ただ義輝の言い方が藤孝は気になった。
「と申されますと、命までは取らずとも宜しいのでございますか?」
「祐豊が武士らしく城を枕に討死する気なれば止めはせぬわ。されど山名家を絶やしてしまうのは惜しい。領地一切を差し出すのならば、家督は別の者に継がせるが家名の存続は許してやってもよい」
この義輝の考えは一色家にも同じことが言えた。
但馬の山名祐豊と同じく丹後の一色義定も未だ抵抗の姿勢を崩していない。しかし、丹波での戦闘で父・義道が討たれ軍勢は壊滅、義輝が中央の戦にかかりきりであったために事なきを得ているが、どう足掻いても降伏以外に手はないのが現実だ。義輝も一代の罪で累代の功績を否定するつもりはない。ただ諸大名への示しもある。領地は与えられないが、細々と生きるだけなら認めてやってもいいと思っていた。四職の赤松、京極の両氏も謀反方に与しながら家名の存続は許されており、その心中を量り知ることが出来た、
(来年は決着をつけなければらなぬことが多いな)
山陰に北陸、肝心の畿内と諸問題を片付けなければ、九州や関東に手を付けることは出来ない。関東で窮地に陥っている忠臣を援ける為にも、来年は早々に動き出さなくてはならないだろう。
「おや上様。どうやら日野蔵人殿が見えられたようですぞ」
「来たか。すぐに通せ」
話も束の間、義輝の下には次々と公家衆の来訪が相次いだ。その度に義輝は祝辞を述べられ、対応をしなければならない。義輝は他とは違って日野輝資とは長く話し込んだ。場に訪れられない関白・近衛前久の家礼だから故の大事な話があった。
この公家たちの来訪は三日に亘って続き、その様子は叡山の延暦寺にも伝えられることになった。
「どうやら公方様は信玄を討ったことが余程に嬉しいらしい」
「甲斐の虎だからな、判らぬでもない」
義輝のことを聞いた僧兵たちは、その浮かれぶりに安心するかのようにして、麓の坂本まで下り始めた。坂本の自邸に籠りがちだった者たちも次々と姿を現し始め、十二月も半ばまで差し掛かると年末が差し迫っていることもあり、僧兵たちは連日に亘って酒を煽り続けては女を抱き、高利貸しを再開させ、いつものような乱暴狼藉を繰り返すようになった。
「坂本は上様より預かりし土地。そこでの乱行の数々もはや許すまじ。引っ捕らえよ!」
そこへ突如、光秀が兵を従えて現われ、坂本にいる僧兵たちを例外なく捕縛したのである。
「我らは延暦寺の僧ぞ!このようなこと許されると思っているのか!」
「仏に仕える者なればこそ、己の行いを恥じるがよい」
光秀は聞く耳を持たず、構わず僧兵を捕らえる。反抗する者たちもかなりの数おり、土岐兵と斬り合いになって双方に死傷者が出る事態に発展した。また坂本には隠居した坊官も多数住んでおり、僧兵の味方をして土岐兵の前に現れた者は、等しく縄目を受けることになった。
「当寺の者たちを捕まえるとは何たる暴挙、幕府に抗議じゃ!」
坂本を逃げ出してきた者たちが彼らの頭目たる正覚院豪盛に助けを求めた。豪盛は信玄派の最有力人物で、延暦寺内部でも相当な力を握っている。信玄が敗れたことで暫く大人しくしているつもりだったが、光秀が僧兵たちとぶつかったことで幕府へ漬け込む隙を得たと喜んだ。
「強訴じゃ!土岐日向守の罷免を幕府に求めるぞ!」
但し、豪盛の顔が喜色に染まったのも一時的なことに過ぎなかった。幕府側の動きは豪盛が思っているより遥かに早かったのだ。
「非が延暦寺側にあることは明らか。しかも相当数の下手人が寺院内に逃げ込んだと聞く」
義輝は二条城に留め置いていた諸大名の兵を率い、坂本を検分した。多くの西国大名たちが坂本の実情を知り、延暦寺へ対する認識を改めるに至る。
「まさか叡山が斯様なまでに腐敗しておるとは……」
地方にいれば延暦寺の実情は窺い知れない。僧兵たちの堕落ぶりを目の前にし、信仰心深い者たちほど裏切られたという気持ちが強く、憤りを感じてしまうのも無理はなかった。敢えて義輝が彼らを引き連れたのは、後々に誤解を招かないためである。
「叡山の腐敗は、それだけに止まらぬ。あろうことか信玄に加担し、我らが余呉に向かうのを密告した者がおる。その者は何食わぬ顔で、今もあの山に潜んでおる」
さらに義輝は、この状況で叡山が武田信玄と繋がっていたことを明かした。
「密告!?それはまことでありますか?」
「既に確たる証も得ておる」
「なんということだ……!!」
これは諸大名、特に義輝と共に余呉合戦へ援軍として赴いた西国諸将には衝撃だった。一歩間違えば全滅していた可能性もあり、故郷とは遠い地で命を落とす危険を孕んでいた。それを叡山が自らの保身のみで行ったとなれば、当然に彼らの怒りは延暦寺へと向けられることになる。
「許すまじ延暦寺!」
そのような機運が西国大名を中心に高まっていった。
(やはり、そうなろうな)
全ての下地が整ったところで、義輝の策は次の段階へと移る。
「係争の地である叡山は帝がおられるに相応しくありませぬ。幸いにも御所の修復は終わっており、いつでも京に御帰り頂けます。関白殿下、そろそろ帝を都に御移ししては如何でございましょうや」
尚も抗議する延暦寺の姿勢を逆手に取り、義輝は所司代の晴門を通じて帝の動座を関白である近衛前久に願い出た。
「右府殿の申される通りじゃ。主上も常々“都に帰りたい”と仰せである」
それに前久が同意したことで、帝の動座が現実味を帯びてきた。身の危険を感じた延暦寺側は“今の時期の動座は不吉をもたらす”と陰陽師に占い結果を出させて延期を画策、天台座主である覚恕法親王が寺院を代表し、兄・正親町帝に奏上するべく山を登った。
「確かに承った」
それを遮ったのは、やはり近衛前久だった、
元来、帝に奏上するのは関白の役目であり、覚恕法親王の奏上文も前久が預かるのが通例である。しかし、前久はそれを正親町帝に伝えなかったのだ。それを知った覚恕は様々な伝手を使って帝に動座延期を伝えようとするが、上手く行かなかった。
何故か。
実のところ正親町帝は奏上文のことを知っていたからだ。ただ帝自身が延暦寺を腐敗を快く思っておらず、逆に義輝の主張を正しいと考えていた。故に幕府が延暦寺に対して何かしらの動きを見せていても帝は全て黙殺するつもりでいたのだ。
「右大臣はよくやっている」
最近は正親町帝の口癖だった。
「帝が都に戻られる意向を固められた。新年は都で迎えたいとの仰せ、急ではあるが支度一切を右大臣殿に任せても宜しいな」
「無論にござる。全て余に御任せあれ」
こうして年内の動座が決定し、義輝は帝の身を延暦寺から取り戻すことに成功した。これまでの一覧の動きは、全て帝を都に還すための策だったのだ。
「御所の再建、見事である。右大臣に何か報いてやらねばなるまいな」
「叶いますことならば、本願寺との和睦を取り計らって頂ければと存じます」
御所で帝を出迎えた義輝は、休むことなく次の局面への一手を打つ。石山本願寺さえ降してしまえば、有岡の荒木村重などどうにでもなる。
畿内の争乱、まもなく鎮まろうとしていた。
そして帝を失った延暦寺は、土岐光秀の手勢によって境内の検分を受けることになった。正覚院豪盛は逃亡を企てたが捕縛され、その他の僧兵たちもかなりの数が幕府に連行されるに至った。また修学に不必要な武具一切は全て没収し、今後は刀槍の類を所持することを禁止された。
ここに平安の頃より強大な武力を誇った延暦寺の歴史は、一つの大きな区切りを迎えることになったのである。
そして年は、元亀二年となった。
【続く】
お約束通りの四月中投稿が間に合いました!明日からGW終わるまで休日はないので次の投稿まではまた間が空くと思いますが、少しずつ執筆して行こうと考えています。
さて今回ですが、足利義教が登場しました。恐怖政治をやったことで有名な将軍ですが、天台座主になったときは将来を期待されたほど優秀な人物だったようです。彼の素行が荒々しかったのは、その境遇にあるのではないかと筆者は考えました。何せくじ引きで選ばれて将軍にさせられた挙句、命令を聞かないでは義教も荒れますよ。それでも何とか自分の方針を貫こうとし、強引な手口が多くなっていった。そして反感を買い、命を落すことになった。
彼が残した遺産は計り知れず、将軍が権威だけでなく権力を持つ前例を作り上げました。義輝が親政を実現できるのも義教の前例がある御陰とも言えます。もし嘉吉の乱で義教が死んでいなければ、室町幕府の未来も少しは変わったのかもしれませんね。彼が何を夢見たかは想像の域を出ませんが、遣り残したことは山ほど。その一つが叡山の処置です。
史実では焼き討ちで終わりを告げる延暦寺ですが、拙作では帝がいるために手荒な真似は出来ませんし、将軍ゆえに外聞を気にします。それ故に実行した策が今回のものです。賛否あると思いますが、こういう展開とさせていただきました。