第二十七幕 天下の行方 -すれ違う想い-
十一月二十日。
飛騨国・桜洞城
この日、姉小路良頼から救援要請を受けた織田信長が一万五〇〇〇の大軍を率いて姉小路の居城・桜洞城へ入った。
姉小路は信長が西国より帰還し、美濃の武田勢を追い払った後に信玄を牽制すべく織田家からの要請に従って信濃へ兵を出したことがある。姉小路には単独で武田と抗する力はないため、良頼は兵の損耗を避けたこともあって大した戦果は得られなかったものの武田の脅威を取り除くという戦略的目的は達せられた。よって良頼からすれば、織田家には貸しがあると思っているので、相当数の援軍が得られると期待していた。
「義には義を以って応えねばならん」
この事態を予測していたのか、信長は姉小路の使者に対して即断で応じた。
信長は大義を口にしていたが、本当にそう思っていたかは定かではない。ただ事実として織田軍は大兵を率いて濃飛国境を越え、良頼の待つ桜洞城へ到着した。
「これで武田を追い払うことが出来ようが……」
飛騨では見る事の出来ない大軍を良頼は頼もしく思ったものの何処か不安を隠せない様子だった。その不安は的中し、今後の姉小路の立場をより難しいものにしていった。
「儂が来たからには武田の好きにはさせぬ。姉小路殿には安心して貰いたい」
「はっ。我らが苦境にこれ程の大軍を、しかも織田殿自ら率いて下さるとは、恐悦の極みに存じ奉る」
「何の。姉小路の頼みとあれば断れぬわ」
入城後、信長はさも当然なように上座へ座り、良頼ら一族を集め、家臣一同の前で援軍への謝礼を述べさせた。
信長が大仰に話し、良頼らが礼をする姿はまるで主従のように見えた。
良頼は位階こそ従三位と信長より上位にあったが、大名としての格は完全に下で何も反論することは出来なかった。織田の手足となって働くしかなく嫡男の頼綱は出兵を命じられ、織田軍の指揮下に入ることを一方的に命じられている。
「されど勝敗は兵家の常、武田は強兵揃いだ。我らが武運つたなく敗れ去ることも有り得る。万全を期し、飛騨殿の御子は岐阜で預かろう」
「いや、それは……!」
「遠慮せずともよい。それに飛騨国司家の名跡が途絶えては一大事にござろう。我らがために、姉小路家が断絶となれば儂の立場がない。ここは儂の顔を立てると思って、同意してもらいたい」
しかも信長は頼綱の子を人質に獲ってしまった。表向きは提案という体裁を取りつつも拒否権を与えない強引なやり方は、何処か江濃係争を思い起こさせる。これでは姉小路は織田の傘下に入ったに等しかった。
(されど織田の力なくしては武田を追い払う術がない。ここは甘んじて受け入れ、武田を退けた後に公方様を頼ろう)
良頼は信長に言われるがまま人質を差し出すことに同意せざるを得なかった。
「出陣!」
その後、桜洞城を発した織田・姉小路の軍勢は途上で失地を回復させながら進み、武田の将・内藤修理亮昌豊を高原諏訪城へ押し込めることに成功する。
「このまま信長を城に釘付けするのじゃ!案ずるな、御屋形様が近江で勝利成されるまでの辛抱じゃ。もし合戦が長引いたとて、まもなく雪が厳しくなる。さすれば織田とて引き揚げる他はない」
大軍を前に脅える兵たちを、昌豊は一時の辛抱と言って勇気づけた。不幸にも昌豊の許には、信玄敗死の報せは未だ届いていなかったのだ。
「こ……これでは城に入れぬではないか!!」
その様子を城外から万感の思いで眺めている者がいた。
「……修理亮、すまぬ」
膝から崩れ落ち、涙する男の名は馬場信春といった。
余呉に於いて信玄から脱出を命じられ、恥を忍びながらも懸命に甲斐を目指していた信春は、高原諏訪城で昌豊と合流するはずだった。しかし、幕府の追っ手から身を隠しながらの移動は遅々として進まず、時間がかかってしまった。
「なんとか入り込む隙はないか」
信春は懸命になって城へ入る包囲の隙を窺った。城にさえ入れば、信玄の遺命を伝えることが出来る。城内には数千の兵がいるはずで、一丸となって突出すれば甲斐への帰国は夢ではない。昌豊を見捨てて甲斐へ帰還することは、信春の選択肢にはない。遺命を破ることになるからだ。
信春はいま少し飛騨に留まり、城内に入る方法を探すことにした。
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十一月二十七日。
越前国・北ノ庄城
余呉合戦で武田信玄を討ち果たし、浅井長政を援護するべく越前へ赴いていた将軍・足利義輝の許に沈黙を貫いていた織田信長の動きが伝えられた。
(宰相め。何ゆえに我が意に反して動くか。そなたも泰平の世を求めているのではないのか)
他家を凌ぐ軍事力を要する織田家は、その国力が表しているように領内は豊かそのものである。治安もよく幕府領では実現していない女人の一人旅も、織田領なら可能だと聞く。関所の廃止や街道整備、治水や楽市などの施策を見れば、信長が領民を慈しんでいることが判る。義輝は信長には自分と同じものが見えているのだと感じていた。
だからこそ天下泰平を目指す自分の意に反して織田が動くことに苛立ちが募る。
「後の事は越前守と監物に任せて帰京する。途上、余呉合戦に尽力した宰相も労ってやらねばならぬ。諸将にも宰相と面識のない者もおろう。よき機会に引き合わせておくとしよう」
と言って、義輝は表向き信長に対する疑念を隠した形で岐阜行きを告げた。
越前の一向一揆は未だ治まっていないが、七里頼周ら加賀からの門徒たちは追い出した。土着していて浅井の支配に反抗的だった旧朝倉遺臣も大多数を討ち取ったことにより、後の事は浅井一手で充分に事は成る。軍監役として柳沢元政を残しておけば、不慮の事態が起こっても大丈夫だろう。
(さて、宰相の腹の内を確かめねばならぬ)
岐阜までは六日を要した。峠道に雪がチラついていたことや勝者である幕府軍を印象づけるべく敢えてゆったりとした行軍を続けたのである。
その間、義輝は信長とどう向き合うべきかずっと考えていた。
織田家が幕府ひいては義輝を支えてきたことは間違いない事実、独断専行が過ぎる部分はあるとはいえ叛意が見え隠れするかというと、そうでもない。信長と接してきた義輝にすれば、信長の性格によるところと思えなくもなかった。
しかし、これからはそうはいかない。
元亀擾乱が終わり、首謀者たる武田信玄が世を去った以上は将軍を頂点とする絶対政権の確立が天下泰平の世には不可欠と義輝は考えている。その弊害となるのが織田、毛利、上杉など単独でも幕府と対抗し得る国力を持つ大大名であり、傘下にないところで言えば、大友家と北条家の二つが挙げられる。逆を言えば、この五大名を義輝が屈すること叶えば、天下泰平の実現はますます現実味を帯びてくることと言える。
では現状はどうか。
大友家は幕府寄りの姿勢だが武藤喜兵衛の話では裏で謀叛方と繋がっていた節がある。これが事実であれば、義輝は証拠を挙げて大友の勢力を削減するつもりであり、この時の宗麟の態度次第で合戦も已む無しと見ている。が、となれば遠征ともなるので暫くは様子見で慎重に折衝を続けるつもりだ。要らぬ時期に敵を増やすほど義輝は阿呆ではない。
次に北条家は一族の氏規を幕府に出仕させ、末子の三郎を追加で送ってきている。ところが関東では当主の氏政自らが兵を率いて暴れまわっており、面従腹背の姿勢が見られている。最終的は判断は今後次第だが、氏規を評定衆に抜擢した義輝には氏規を擁立して北条家を二つに割るという選択肢もある。ただ老獪で相模の獅子とも呼ばれる氏康がいる以上は、こちらの好きにさせてくれそうにはなかった。
また絶対の忠誠を誓う上杉家は義輝の命令に服すであろうが、謙信が倒れた今はどこまで命令を遵守できるか判っておらず、正妻を持たない謙信には後継の問題が残されていた。長尾家を継いだ景勝は有望との話でも義輝の信任を得ているわけではなく、先代・上杉憲政の子である憲藤は血筋は嫡流で義輝の偏諱を賜っているも人物として優れているとの話は聞かない。この辺りをどう解決していくか、恐らくは義輝自身が介入せざるを得ない点だろう。
そして毛利家は高梁川の合戦に破れて恭順の意を示しはしても人質を出しただけで幕府に屈服したとは言い難かった。しかし、西国諸大名が次々と馳せ参じた動きに呼応して当主・輝元を上洛させるという心変わりを見せている。これはよい傾向だった。未だ実権を握る総帥・元就の影響力は絶大であるも、吉川に小早川という両川体制は磐石で、元就亡き後も態度が覆ることは考えられなくなっている。
最後に問題の織田家である。
織田家は幕府政権下に於いて国力がずば抜けており、兵の数も多く鉄砲を数多所有している。信長の当主としての権限は完全で、一声かければ家来たちは即座に動くという体制が作られている。しかも京を本拠とする幕府に一番近い位置に勢力を有し、伊勢から飛騨までとほぼ東西を分断する範囲に所領を確保していた。仮に信長が越中を獲れば、義輝が東国へ出るには何事も信長を通さなくてはならなくなる。
それは拙い。
ここらで義輝としては信長の動きを制限し、命令を遵守させる必要があった。その為には信長の真意を量っておく必要がある。今回の岐阜行きは、そのためのものだ。
十二月二日。
義輝が岐阜へ着いたのは正午前のことであった。余呉で共に戦った羽柴秀吉、丹羽長秀に案内されての岐阜入りで、両者から予め信長への伝達は行なわれていた。飛騨で義輝が来ることを知った信長は、供回りのみを伴って二日前には岐阜に戻っており、義輝の到着を城下で出迎えた。
「宰相、信玄を破ったぞ!この喜びをそなたと分かち合いたくて、来てしまったわ」
開口、義輝はそう言って大きな声で笑った。
これが本音でないことくらい信長にも判る。義輝は気分屋なところもあるが、時勢も読む力は歴代の足利将軍譲りだ。信長が飛騨へ出陣していることくらい掴んでいるだろうし、その最中に岐阜に来るなど織田の飛騨侵攻を快く思っていない証でしかない。
「……左様でございますか」
信長はぶっきらぼうに答えた。
義輝の背後には伊勢公方の足利義氏を筆頭に長宗我部元親、吉川元春、三好義継、尼子義久、畠山義続、波多野秀尚、蒲生賢秀、宇喜多忠家ら諸大名が居並んでいる。信長の見知っている者もいるが、名しか知らない者も多い。
明らかに武力を背景とした威圧があることを信長は感じていた。
だからといって信長は怯む男ではない。それら全てを相手にしてまで戦える国力が織田にはある。濃尾を中心に伊勢、近江に飛騨と信濃の一部を手に入れた織田の国力は二〇〇万石を優に超えるだろう。総兵力は六万以上で、三千挺近い鉄砲を有している。隣国には徳川、浅井といった同盟者も健在で、信長の背後を脅かせる大勢力も信玄が甲信を捨てた後はなくなっている。
もし信長が裏切ったら、そう考えるだけで背筋がゾッとする者は少なくないはずだ。義輝も、その懸念を考えないことはないが、敵対する道を本気で考えているわけではない。国力は侮れないが、信長は味方で、幕府の支柱とも呼ぶべき存在と思っている。
「此度、余呉に於ける戦勝、祝着に存ずる」
信長は義輝を上座に据え、能興行を催し歓迎の意を表す。急な来訪を知ってから準備したとは思えないほど宴は盛大に行われた。それは岐阜城下には様々な職に携わる者たちが住んでいることを意味し、京にも及ぶだけの繁栄を物語っていた。
これは義輝の威圧に対する静かなる反抗なのか。それとも単なる歓迎の意思か。
「宰相、そなたも信玄には大いに苦しめられたであろう。だがもう心配いらぬ。信玄が倒れた今、余に刃向かえる連中はいなくなった。天下一統もまもなくであろう」
「北条、大友も上様にすれば敵ではありませぬか」
「信玄に比べれば、さほど難儀はするまい」
終始、宴は和やかに続けられ諸大名の目には義輝と信長の蜜月の様子が映ったことであろう。それほどまでに、宴の席での二人は親密に見えた。
ただ信長は敵の名として大友の名を挙げた。大友を減封させるという義輝の意思を知っている信長は、これから先に義輝が採る方策をある程度わかっているのかもしれない。
「それよりも問題は叡山の連中よ」
途端、義輝の表情に冷たいものが浮かび上がった。
比叡山延暦寺には松永久秀によって引き起こされた洛中炎上から避難した時の帝たる正親町天皇がいる。しかも延暦寺は帝の弟である覚恕法親王を新たな天台座主として戴き、事もあろうか寺領回復を求める綸旨を下すよう求めたと近衛前久から報告を受けている。今のところ義輝は戦を理由に無視を決め込んでいるが、帰京すれば延暦寺が回答を求めて来る事は目に見えている。
天皇の権威を笠に幕府の支配から逃れようとしてするだけならまだしも延暦寺は信玄と繋がり義輝を追い落とそうともした。義輝の我慢は限界に達しつつある。
「延暦寺の者共は仏法を顧みらず、修練を怠り、人里に出ては女色に耽り、肉を食らい、乱暴狼藉を働く始末、何の遠慮が要りましょうか」
信長の眼が憎悪に激しく燃え盛る。
恐らくこういった類の者が心底嫌いなのだろう。かつて信長が京の治安を担当したとき、一銭でも盗んだ者は死罪だった。それほど苛烈な法度だが治安は見事なまでに回復し、民衆は織田の善行を諸手を挙げて歓迎したものだ。
「帝の御身がある。そう容易くはいかぬ」
そうは言うも逆を言えば帝の身さえ叡山になければ、考えていることは信長と大して違いはないと思われた。
(やはり宰相が見ているものは、余と同じだ)
確信した義輝は、話を切り替えて信長を鷹狩りに誘った。諸大名の目がある宴の席で出来る話ではない。鷹狩りならば開けた地で堂々と話せるため、余人に聞かれる心配もない。
「この辺りによい鷹場はないか。一度、宰相とは鷹狩りを共にしたいと思っておったのだ。明日辺り、どうじゃ?」
「はっ、ございます。支度をさせておきましょう」
翌日、二人は揃って鷹狩りに出掛けた。当初は義輝も信長も自慢の鷹を披露して汗を流していたが、一度休息を取ると先ほどまでとは打って変わって表情を固くした。
「時に宰相」
唐突に義輝は話かける。
野外に天下にその名を知られる者二人がポツンと佇む異様な光景だった。
「信玄は討った。摂津で本願寺や荒木が騒いでおるが、これも直に治まろう。昨夜も申したが、天下一統も、もはや時間の問題だ」
「……はっ」
短く返事する信長、二人は互いに眼を合わさず、遥か彼方を見据えている。二人の眼に何が見えているのか定かではないが、天下というものを見ているのは確かだった。
「武田甲斐守は余への恭順を誓った。信濃からは、手を引け」
鋭い一言が発せられる。
永禄二年(一五五九)の邂逅よりこれまで、義輝が信長に対して直接的な命令を発したのは初めてである。今までは家臣というより同盟者に近く、義輝も信長の力を頼りとしなければならない事情もあり、どこか遠慮があった。故に命令という体裁は整えても実際は依頼という形でしか信長へは伝わっていない。
「甲斐守の態度は上辺だけのものにござる」
信長は義信の意向が甲信を、武田を守りたいがための方便だと見抜いていた。元より幕府へ心服しておらず、義輝への忠義も父・信玄と同様とまでは言わないまでも持ち合わせていないことははっきりとしている。そのような性根に、付き合う義理は信長になかった。
「甲斐守は、屈服させる」
義輝は強い口調で言った。
このままでよいとは、義輝も思っていない。かつての足利幕府は諸大名の連合政権という性質を持っていた。天下に野心はなくとも自領の安全を確保するために幕府という存在に属し、名目上の主従関係を結んだ。その関係から足利氏との結びつきは弱く、応仁の乱以後は将軍権力の脆弱振りが露呈する結果となった。
現状、幕府の支配領域は天下を平定していた三代・義満の御世には及ばないものの直轄地が多く、将軍家の力は既に全盛期を陵駕している。想像上の話でしかないが、仮に義満と義輝が互いに兵を率いて戦った場合、義輝は圧倒的な勝利を収めるだろう。それほどまでに幕府の力は当時に比べて強くなっている。
義信を屈服させ、上辺だけの主従関係を見直し、幕府の力が及ぶ地域を日ノ本全域に拡大することによって天下泰平を実現する。武田だろうが北条だろうが、幕府の意向を無視することは許さない。
(それは、そなたとて同じぞ)
義輝が鷹のような視線で信長を捉える。信長もまた義輝の視線を直視する。
義信を屈服させ、このまま天下を統一したところで幕府の意向が及ばない地域は残る。織田領が、それである。織田家は毛利と違って幕府と戦って敗れた末に恭順を誓ったのではなく、当初からの支援者として政権の内側にいる。義輝が織田領に介入する名目はなく、信長も隙を見せることはないだろう。つまり考え方によっては天下泰平の最大の障害は信長ということにもなるのだ。
「屈服とは」
信長が具体的な回答を求めた。
「信玄が起こした争乱は許しがたい。甲斐武田の当主として信玄に同心しなかった甲斐守に甲斐一国は認めてもよいが、責任は皆無ではない。よって信濃は召し上げる」
信濃守護職は三好打倒を目論んでいた義輝が上杉謙信の上洛を図り、武田との和睦調停で信玄に譲歩して与えたという経緯がある。その後、将軍の言葉を重く捉えて武田家に守護職を任せ続けてきたが、こうも騒動が大きくなった以上は、守護職を解任するつもりでいた。
欠地となった信濃を誰が統治するのかという問題は残されているが、応永年間に守護の小笠原氏が起こした騒動を切っ掛けに幕府が直接統治をした過去もある。一先ずは幕府が預かり、何れ然るべき恩賞として誰かに与えればいい。ただ織田家に与えてしまえば、東国進出の橋頭堡になりかねない。それは防がねばならない。
「受け入れねば滅ぼすのみ。その時は宰相にも手伝って貰う。が、今は手を引け。目下、宰相は飛騨と長島を治めることに注力せよ」
ここで義輝は飛騨と長島の名を出した。長島は織田領の一部だが、飛騨は違う。その制圧を正式に命じたという事は、義輝が織田による飛騨の支配を認めた事になる。
義輝は今回の恩賞を飛騨一国で済ますつもりだった。
元亀擾乱で織田家は江北を得たと言っても幕府から恩賞を与えられての話ではない。幕府から与えられたのは官位のみで、領地は自ら切り取った土地だけだ。その点、飛騨は織田に与えられる唯一の地でもある。国主格として姉小路がいるも幕府として守護は置いておらず、姉小路は武田に対して失態を犯している。また飛騨の国力は低く、姉小路、内ヶ島と在地領主は健在で織田の国力は差して増強されない。義輝にすれば、その先の越中に出られたら困るものの飛騨で治まれば痛くはないのだ。
「畏まりました。されど甲斐守が上様の意に従うと確認できなくては信濃から兵は退けませぬ」
「宰相、余の命令が聞けぬか」
明らかなる反発に義輝は声を荒げる。
「御安心を。飛騨も長島も直に平らげて御覧に入れる。甲信も上様の御手を煩わせることなく、この信長が平定して見せましょう」
「余は飛騨と長島に注力せよと申しておる」
義輝の眼光が鋭く信長を打ち付ける。だがこれに信長が怖気づく様子はない。
「上様。甲信は我が軍勢だけで充分にございます。何を躊躇なされますか。上様が躊躇なされれば、それだけに天下一統は遅れ、泰平の世は遠退きます。民は長き戦乱の世に疲れ果て、平和な世を求めておることは上様が一番ご存知のはず。なればこそ、一日も早い乱世の終焉をもたらすことこそ征夷大将軍の務めではありませぬか。どうかこの信長の忠言、心に留め置いて頂きますよう御願い申し上げる」
そう言って信長は深く礼をした。
これが本当の忠言であるのなら義輝も感じ入るところだが、信長という男はそう単純ではない。この場で義輝が信長を疑うような発言が出来ないことを知っているのだ。それでいて重大な命令違反は起こさない。信濃へ兵を向けることも義信が従わない場合には行なわなければいけないことであって、義信の意思が明確ではない今に信長が行なってもおかしくはない。信長の主張は、あくまでも義輝の描いた道筋の上にあるものなのだから。
(宰相、何を急いでおる)
義輝は信長の言葉に怒りよりも違和感を感じた。それは信長が天下一統を急いているように思えたからだ。
確かに民のためにはいち早く乱世を終わらせることは必要だろう。しかし、ただ天下を一統すれば泰平が訪れるかといえば、そうでもない。泰平の実現には、その過程も重要になってくる。一統するだけならば、義輝が全国の大名に所領安堵と停戦を呼びかければいい。それで乱世が終わるとは思わないが、新たに従う大名は出て来るはずだ。しかし、その分だけ幕府の影響力はかつてと大して差がなくなる。足利義満は偉大だが、義満と同じ世を創るだけでは泰平は築けないというのが義輝の考えである。
そうだからこそ、義輝は実弟・義昭と戦うという道を選んだのだ。
(それが判らぬそなたではないはずだ)
信長ほどの者ならば、それに気が付いているはず。それにも関わらず、自らと違う回答を信長は導き出した。それは一体なぜなのであろうか。
結局、義輝は織田の信濃侵攻を止められず、岐阜を後にすることとなった。
二人の間には、釈然としないものだけが残った。
【続く】
最近はキーボードが壊れ、買った外付けのキーボードも壊れるという不遇に見舞われています。(両方とも一部のキーが反応せず、二つ合わせればまともに書けるという面倒臭いものになっている)
そんな中でも一ヶ月以内の投稿となりましたが、話はさほど進んでいません。今回は義輝と信長で天下に対する考えに差があるという内容です。どのような差かは明確になりませんでしたが、追々少しずつ明らかになっていきます。
次回、この状況で対応を迫られる武田の兄弟の話です。東国の状勢にも触れていく予定でいます。