第二十六幕 越前回復 -戦いの果てに-
十一月十八日。
近江国・下余呉
本貫である甲斐、信濃を捨ててまで天下を望んだ武田信玄と将軍・足利義輝の戦いは終わった。幕府の再興によって始まった天下統一への動きは、義輝の政権より省かれた者たちが信玄によって纏め上げられた。謀反の狼煙が上がった鳥取城での変事から一年と一月が経過し、両者の直接対決によって武田信玄が倒れるという一応の結末を見た。
依然として各地に勢力を有する石山本願寺と有岡城で抵抗を示す荒木村重、関八州制覇を目論む北条氏政に突如として倒れた上杉謙信。武藤喜兵衛の話によれば、大友宗麟の動向も疑わしい。頼りとすべき織田信長も独自の動きを続けている。
(……難問は尽きぬな)
義輝は諸将が勝利の余韻に浸る中、人知れず溜息を吐いた。
ともあれ謀叛方の黒幕であった武田信玄を倒したことは、これから謀反が終息に向かって行くということである。義輝の心中は、感慨深いものもあったに違いない。
(ようやく……、ようやくここまで来た)
戦国最強と目された存在を倒した事実は、義輝にとって大きな自信となった。特に織田信長と上杉謙信という義輝の最も頼りとする二人が不在の上での勝利は、義輝が新たなる一歩を歩み出す契機となった。
戦いは壮絶だった。
主である信玄を失った武田軍は、そのまま総崩れになると思いきや主君の首を奪い返そうと義輝の陣を目指して殺到したのである。一番近くにいた曽根昌世は、義輝本陣を脅かすに至るも追ってきた尼子勢の将・山中鹿之助幸盛に討たれ、土屋昌続と真田昌輝も続いて義輝の本陣を目指したが、進路を羽柴秀吉によって阻まれ、果敢徹せず共に戦場で命を散らす。これまで不戦を貫いていた秀吉は二将を討ち取ったことで、辛うじて面目を施すことになった。また幕府方の一番深くまで攻め入っていた真田信綱も退却に失敗して討ち死にし、武田信豊は背中を見せた途端に賤ヶ岳砦から打って出た丹羽長秀に捕縛されることになった。幕府援軍である義輝本軍と戦っていた者たちの中で生きて戦場を出られたのは、信玄によって脱出を厳命された馬場信春だけであった。
他、戦場を脱出できたのは北国街道沿いで戦っていた面々である。
七里頼周は信玄討死の報に接するやいち早く撤退を開始、矢面に立たされていた甘利信康を見殺しにすることで、大きな損害を受けずに越前へ退去した。鈴木重泰や畠山七人衆らも大兵を抱えていたが故に各々が戦場を脱しているが、主に畠山義続の執拗な追撃を受けた七人衆の中からは長続連、温井景隆、三宅長盛という犠牲が出た。
討たれた将は敗者となった武田軍が圧倒的に多いが、兵の損害は幕府方も変わらず多かった。その為、追撃は早々に切り上げられ、陣を街道が走る下余呉に移して諸将の働きを褒め讃えた。
「大義であった日向守。余の命令をよう果たした。戦場での活躍も聞いたぞ。この大功に相応しき恩賞を何れ与える故、その時は断るのではないぞ」
義輝が一番に労ったのは、全権を委任して信玄に対抗させていた土岐光秀だった。
「有り難き御言葉、最上の誉れ。恐縮の極みに存じ奉ります」
光秀は相も変わらず型通り返答であったが、表情は綻び喜んでいる様子が窺える。その後、光秀は預かっていた鬼丸国綱を義輝に返却し、越前の現状を義輝に報せた。
「信玄が倒れたとて、越前守が苦境に陥っているのは変わりない。明日、夜明けと共に越前入りする」
これを聞いた義輝は皆の前で浅井長政救援に自ら向かうことを宣言する。摂津の現状をよく知らない光秀は驚き、反対を口にした。
「畏れながら越前には手前が参ります故、上様はいち早く摂津に戻られた方が宜しいかと存じます」
義輝は右手を広げ、光秀の言葉を遮る。
「案ずるには及ばん。石山は西国より諸大名が参じ、取り囲む兵は増えておる。毛利右衛門督と小早川左衛門佐に姫路中納言の補佐を命じた。余がおらずとも心配はあるまい」
「右衛門督様と左衛門佐殿が参られたのですか!?」
「ああ、治部少輔もおるぞ」
と言って義輝は、手招きして吉川元春を傍近くにまで呼び寄せた。
「備後守護・吉川治部少輔にござる」
「お初にお目にかかる。土岐日向守でござる」
初体面である光秀と元春が挨拶を済ませると、義輝は元春に話しかけた。
「治部、信玄を討ち果たしたそなたにも何か褒美を与えねばなるまい」
信玄は最後に義輝を討ち取って決着を図ろうと本陣にまで攻め寄せた。義輝は奉公衆を投入して反撃に出るも数の壁は如何ともし難く、柳生宗厳があと一歩まで迫ったが信玄を討ち損じている。その信玄を討ったのは、馬場信春を破って追撃してきた吉川元春の手勢だった。
「その事でありますが、恩賞は辞退いたしたく存じます」
ところが元春の反応は意外なものだった。義輝は驚き、理由を問い質す。
「甲斐の虎を討った功績をいらぬと申すか」
「惜しゅうはございますが、信玄と戦っていたのは上様にございます。上様は敗走したわけでなく、時があれば必ずや信玄を討ち獲ったことでありましょう。そこに横槍を入れて手柄を奪ったことをひけらかし、恩賞に与れば吉川の武名に傷が付きまする」
武士とは、何よりも名を重んじる。これを体現した元春の言葉に、諸将からは感嘆の息が洩れた。
「天晴れな心意気よ。そなたが当主である限り、ますます吉川の名は天下に轟こうぞ」
義輝は元春の肩を叩いて喜びを表し、“されど信玄を討ったという証は必要だろう”と言って自らの陣羽織を元春に与えた。元春は恐縮そうに陣羽織を受け取ると、自分の席へと戻った。義輝は改めて越前入りを宣言すると、その意図を明かした。
「越前守は余の為に働いておる。なればこそ、余が自ら労ってやらねばなるまい。ここにおる手勢を率いて行けば、雪が深くなる前に越前一国を回復することも出来よう」
信玄を倒したとて、信玄が支配していた越中、能登、加賀の北陸三カ国が義輝に従った訳ではない。占領には時を要するも時期を考えれば雪で行軍が難しくなる季節である。動けるのは早くても来春となるが、それまで何もしないのも芸がない。信玄に荒らされた越前一国の回復は、北陸三カ国征服の橋頭堡に成る。是が非でも雪が降り積もる前に取り戻し、春までに安定させておく必要があった。
(それだけではあるまい。この機会に上様は、浅井を織田から切り離すつもりなのだろう)
隠された意図を光秀は読んだ。
織田と浅井は於市という絆で結ばれており、長政も尾張守護代の家老という身分から天下の大大名にまで伸し上がった信長を純粋に武将として尊敬している。ただ最近では江濃係争を発端に関係は悪化、今回の窮地にも信長は援軍の派遣を見送っている。そこへ義輝が自ら大軍を率いて現れれば、長政の心中は変化が生じるのは想像に難くない。
ただその前に解決しておかなければならない問題もいくつかあった。その一つが叡山の処置である。
幕府軍に投降した兵の一人から、比叡山延暦寺の僧が信玄の本陣に出入りしていたことが判明している。義輝の下には延暦寺より何の報せもなく、信玄が予想以上に早く義輝の援軍に対応した事実を鑑みれば、その僧が信玄に何を報告したのかは推察できる。
叡山に対する抑止を遂行できる適任者は一人しかいない。
「日向守、そなたは坂本に戻り叡山を見張れ。敢えて軍装は解かずにおくのじゃ。但し弓や鉄砲を叡山に向けることは禁ずる。叡山には帝がおわす故な。叡山の事を片付けるのは、帝が都に戻られてからだ」
「はっ。畏まりました」
光秀は恭しく礼をし、主命を承服する。
この強気な命令は義輝の気持ちを表していた。延暦寺は洛中炎上で焼け落ちた御所の修復が終わったにも関わらず帝の動座に抵抗している。荘園を獲得し、自らの利権を拡大しようという分不相応な野望が見え隠れしている。信玄が義昭という貴種を失っても征夷大将軍である義輝に正面から挑めたのは、帝を抱える叡山との繋がりがあったからに相違ない。
(思い上がりも度が過ぎればどうなるか、判らせてやらねばなるまいな)
義輝は叡山の処置をどうするか、ある程度の考えが纏まっている様子だった。その後、義輝は羽柴秀吉と丹羽長秀呼び、織田勢の加勢を労うと共に信長の動静について問い質した。
「岐阜宰相は何故に出陣しない」
強い口調からは先ほど織田勢を労ったばかりという様子は窺えず、強い口調である。これに織田譜代の長秀が答えた。
「遅参のほど誠に申し訳ございません。我ら織田家は長島の敗北で手痛い損害を出しており、動かせる兵は僅かしかいなかった次第にて」
「ならば、そなたらを率いて宰相が参ればよかろう。それに動かせる兵がないと言いながら織田は、信濃に兵を向けているではないか」
「信濃は信玄の領国。警戒するのは当然かと存じます」
「信玄は甲信を捨てた。両国を従えておるのは子の甲斐守だ。甲斐守が余に従う意向であることは宰相にも伝えてある」
さらにきつい言葉を義輝は投げ掛けた。長秀は言葉に詰まり、どのように回答すべきか悩んだ。そこへ羽柴秀吉が割り込み、いきなり義輝の前に絵図を広げ始めた。
絵図には、岐阜を中心に近隣国一帯が描かれている。
「甲信の武田義信は公方様に従うと言いながらも実のところ享受は不確かにございます。それに信玄は飛騨にも兵を送っていながら近江へも攻め寄せました。長島も、未だ一向門徒らが籠もり幕府に敵対しております。これらを差配するのはちょうど中間に位置する岐阜が適しており、御屋形様は岐阜を動きたくとも動けなかったのです」
秀吉は絵図を指示しながら、信長が岐阜に居続ける重要性を説いた。
「御屋形様はまさに戦支度の最中なれば、時が来れば必ずや天下平定のため働かれることでありましょう」
確信めいた言葉で、秀吉の説明は終わる。
秀吉の言う“天下平定のため”とは、義輝への忠義にも取れるし、自らの野心にも置き換えることが可能だ。後でどうなろうとも言い繕える言葉に違いない。
しかし、義輝は秀吉を追究することは出来なかった。
(岐阜宰相が余のために働いていることは疑いようのない事実。ここで事を荒立てては諸大名に余計な不安を与えるだけだ)
長島一向一揆との対決も本願寺が幕府と敵対しているからであり、本人の出馬はなくとも家臣に命じて余呉に堅固な城砦群を造り上げたのも信長の手によるものだ。信濃侵攻も今の義信の態度からすれば、已む得ないことだと言える。
一見、織田に叛意は欠片すらも見えない。独自の動きも幕府と敵対しているものだけに向けられているのも確かだ。
(甲斐守には決断を迫らなくてはならぬようだな)
その夜、義輝は一通の御内書を武田義信に宛てて書いた。義信が幕府よりも武田安泰に重きを置いていることはこれまでのやり取りからも判る。ただ義信が不鮮明な態度を取り続けていることが、織田に衝け込む隙を与えているのも事実である。
もし義信が義輝の為に動けば、信長の介入を防ぐ手立てはある。仮に義信が将来的に敵に回ろうとも織田の勢力拡大は幕府存続に大きな禍根を残しかねず、義輝の望むところではなかった。
=====================================
十一月十九日。
越前国・敦賀
余呉合戦の翌日、一部の軍勢を置いて越前へ出立した義輝は、途中で敦賀に立ち寄る。敦賀は越前国が浅井長政に与えられた後も旧朝倉景恒家臣団が治めている。ここに信玄の誘いに乗らず幕府方に残った朝倉景綱が妻子を伴って逃げ延びており、義輝は越前の状勢を知ることになった。
「されば越前守は一乗谷に戻っておると?」
「はっ。浅井殿は武田軍に湯尾峠で一撃こそ与えましたが、国内に於いて守勢を覆すこと適わず、一乗谷へ戻っております」
当初こそ長政は、信玄の南下を脅かすべく北国街道を封鎖することによって幕府軍の援護を図ろうとした。しかし、当然ながら信玄は長政の思惑を読んでおり、武田方に鞍替えした旧朝倉家臣を始め一向門徒たちに街道守護を厳命している。結果、長政は街道を奪い返すこと出来ず、一乗谷に戻るしかなかった。
「近江から逃げてきた者たちはどうした」
「申し訳ございませぬ。昨日、今日のことにて、しかとは判りかねまする」
「左様か。なれば、よい」
義輝は余呉より逃亡した七里頼周らの動向を調べつつ北上、各地で蜂起して暴れ回る一向門徒たちを制圧しながら長政のいる一乗谷を目指した。
「これが、あの一乗谷か……」
二日後、一乗谷に到着した義輝は織田軍に焼かれたまま放置されている惨状を見て、時代の移り変わりの早さを感じることなった。
「安養寺は、もうないのか」
かつて義輝は永禄の変で京を追われた際、朝倉義景を頼って一乗谷へ赴いた。安養寺を借り、義景の建てた仮御所を住まいとした。城下で過ごしたのは僅かに五ヶ月という短い間であったが、朝倉氏に百年も治められた一乗谷の繁栄ぶりは今も記憶に残っている。
その安養寺もなければ、仮御所も綺麗に燃えてなくなっている。あの頃の面影は、寂しく山上に城郭が残るのみだった。
「上様!」
そこへ柳沢元政が長政を伴って姿を見せた。義輝がわざわざやってきたことを聞きつけ、出迎えに参じたのである。
「監物か。越前守の援護、大義であった。御陰で信玄を討ち破れたわ!」
と言って開口一番、義輝は大仰に笑った。
「では、信玄が死んだというのは、やはり噂ではなかったのですね」
「うむ。激しい合戦ではあったが、信玄は余呉で死んだ」
「おめでとうございます。これで天下泰平の実現に、また一歩近づいたのでありますな」
「まだまだそなたらにも働いて貰わねばならぬ。頼りにしておるぞ」
「はっ!」
優しく家臣に語り掛ける義輝と頭を垂れる元政の姿は、まさに主従の理想とも言える姿であった。それを敢えて諸大名に見せ付けることによって、義輝は決して家臣を見捨てることない情に篤い将軍であることを演出したのである。
実際、元政は永禄の変以前から義輝に仕えている功臣であるので、義輝も元政に掛ける情は他者よりも深い。
「そなたも国替えで領内の差配もままならぬ時に、苦労をかけたな」
そして次に義輝は、元政の横で膝を着く長政に話しかけた。
「もったいなき御言葉にございます。監物殿を差し向けて頂き、なんとかこの一乗谷を保つことが出来ました。信玄の動きに対して然したる働きも出来ず、申し訳ございませぬ。どうか御許し下さいませ」
「何を申すか。余は、そなたの働きに満足しておる。恩賞として、加賀二郡の切り取りを許す。平定の後は、そなたの好きにするとよい」
「……ま、まことで!?」
思わぬ恩賞に、長政は目を見開いて驚いた。元亀擾乱に於いて本貫を失ったものの越前一国を与えられたばかりの浅井に対しては、破格である。
ただかつて越前一国を支配した朝倉に対して加賀一国の切り取りが許されたのに比べれば、見劣りする。しかも越前に於いて敦賀郡が依然として景恒の遺臣によって統治され、幕府の影響が強いことを考慮すれば、加賀二郡を長政が支配したところで浅井の力は実質、越前一国を治めているのと大差はない。
それでも越前が信長より与えられ、義輝によって追認された国であることからすれば、義輝が長政に与えたものは何かしら形として残しておくべきである。ここで気前よいところを見せれば、浅井は幕府に心服する。これから幕府領は北陸へと広がって行くのだから、多少の加増を躊躇すべきではないと義輝は判断した。
「信玄を討ち破り、こうして味方が大勢揃ったのだ。越前一国、早々に取り戻すぞ」
頼もしき面々が義輝の背後に集う。
幕府軍は義輝の本隊と浅井軍を合わせて三万近くに届こうとしていた。叡山の抑えとして土岐光秀と戦後処理に北近江の領主・羽柴秀吉の二人を残してきたが、他は全て連れて来ている。それに浅井、柳沢の部隊が合流したのだ。これだけの数と勇将が揃えば、越前の回復など時間の問題であった。
「近江を脱した七里頼周は北ノ庄辺りで兵を纏めております。数は少なくはありませぬが、どうやら国内に残った一向門徒たちを集めている様子」
長政の口より一向一揆勢の動きが報せられる。
「加賀まで下がらぬところを見ると、未だ越前に未練を残しているようだな。なんと強欲な者どもよ」
義輝は吐き捨てるように、北ノ庄で巻き返しを図る一向門徒たちを侮蔑した。
指摘された通り七里頼周はせっかく手に入れた越前を捨てたくないと思っていた。余呉で負けはしたが越前には万を超える門徒衆が残っており、加賀からの増援も呼びかければ期待ができる。それには国境に近く街道沿いの北ノ庄が尤も適していた。
敵の目論見を見抜く義輝は、一向宗に時間を与えず速攻で叩くつもりでいる。即座に出陣を決意し、軍勢を動かした。
一方で七里頼周も敗北したばかりで自軍の士気が低いことは理解していた。だから敢えて前に進むことによって兵の逃散を押し留める策に出た。
義輝率いる幕府軍二万七〇〇〇余と一向一揆勢二万一〇〇〇は一乗谷の西・浅水で激突する。
合戦は始まる前から勝敗が見えていた。信玄有利と見て武田に寝返っていた朝倉景健を始め、景盛、景冬ら一門衆、堀江景忠が恥も外聞もなく寝返りを申し出てきたからだ。
「我ら一同、公方様に弓引くつもりはございませぬ」
彼らの言い分は、揃って長政との遺恨であって幕府に他意があってのことではない、ということだった。
「うぬらの顔など見たくもない。余の天下平定に、うぬらの力などいらぬわ!」
これに義輝は激昂、彼らの申し出を一蹴し、一揆勢もろとも裏切り者を討ち取るよう厳命した。
そして合戦は始まる。序盤は戦うしかなくなった一向一揆勢も意地を見せて奮戦していたが、それも長くは続かず合戦は僅か一刻(二時間)ほどで決着がついた。一度たりとも劣勢に陥らず、幕府軍の圧倒的な勝利だった。一向一揆勢唯一の戦果といえば、追撃で深入りしすぎた溝江長逸の父・景逸を討ったことくらいだ。
幕府軍は朝倉景健を含め朝倉景冬、小林吉隆、黒坂景久ら旧朝倉家臣の多くを討ち取った。特に浅井勢の活躍が目覚しく、討ち死した将の多くは浅井の手によって首を挙げられている。
これにより越前国内に於ける旧朝倉家臣団は激減することとなり、欠所に浅井譜代の家臣たちが宛がわれることで越前は浅井による支配が浸透していくこととなる。
「この勢いで加賀まで攻め入ってくれようか」
思いの他、順調に事が進んだことにより義輝に加賀侵攻という欲が出た。合戦勝利の余勢を駆って北ノ庄を奪い返し、九頭竜川一帯も取り返した。加賀の一部を手に入れておけば、冬の間に仕掛ける調略も効果が上がるというものだ。来春の北陸征伐も少しは楽できるだろう。
そこへ急使が飛び込む。
「申し上げます」
急使といえど悪い知らせではない。どちらかといえば味方の動きを報せるもので、傍から見ればよい報せに映る。しかし、中身が問題だった。
「去る十九日、岐阜の織田様が俄に兵を起こされ、飛騨へと攻め入っております」
詳細は使者から次々と語られた。
信長は自ら一万五〇〇〇の兵を率い、姉小路良頼の要請に従って飛騨入りを果たしたという。武田が飛騨に入れた兵は凡そ三〇〇〇、少しは味方を増やしているだろうが時間的に信玄敗死の報が届いている頃合である。織田の大軍を相手に戦えるはずがなく、飛騨は確実に織田の手に落ちるだろう。
(宰相め。余が信玄を破ったのを見計らって動きおったな)
義輝は眉を曇らせる。
余呉合戦があったのは十八日で、勝敗はその日の内に岐阜へ届けられたはずだ。秀吉は確かに言った。“御屋形様は戦支度の真っ最中”だと。それが本当ならば、信長はいつでも動けたことになる。
(飛騨を手に入れた宰相が次に向かうのは、間違いなく越中であろうな)
信玄敗死により北陸三カ国が主を失っている。これを幕府は来春にも手勢を派遣して制圧にかかるつもりだが、正直なところ金銭的な問題も含めてどれほどの軍勢を催せるか不明である。その事は信長も予測がついているはず。ということは幕府が北陸の制圧に手間取っている間に信長が自らの勢力を広げることは可能だ。
(ここは一度、宰相と腹を割って話をする必要があるな)
信玄を破って真の自立を果たした義輝であるが、信長と謙信はやはり幕府にとって重要な存在なのは間違いなかった。武田信玄という強敵が消え、天下平定が見えてきたこの時期に、信長との調和は絶対不可欠なもの。一度、互いの考えを整理しておく必要があった。
「一向一揆勢の討伐は成った。後は越前守に任せても大丈夫であろう。余は、ここらで引き揚げる。監物、そなたはいま少し残り、越前守を助けよ」
「はっ。畏まりました」
織田軍動くの報せが届いた翌日、義輝は全軍撤退を下知した。その上で信長の動きを制止する策に出る。
「一度、そなたらにも岐阜宰相と引き合わせたい。帰路、少し寄り道をして岐阜に立ち寄るとしよう」
義輝は、西国諸大名を引き連れて岐阜に向かうことを告げた。
義輝が岐阜に来るとなれば、信長は飛騨から引き返すしか術がなくなる。その上で天下について語り合おうと考えていた。
無論、それは無言の威圧にもなることは、簡単に予測できることだった。
【続く】
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。本年も恐らくは完結しないであろう剣聖将軍記を宜しく御願い致します。
さて今回は完全な戦後処理です。
新たな動きとして信長の飛騨入りがありましたが、予測済みの方もおられたでしょう。義輝と信長のやりとりと今回、義輝が義信に送った書状による動き、最後に上方の状勢を描いて今章は終わります。(つまりあと三回)
次章は結末へ向けてかなり重要な章となるのですが、長さ的には一章、二章ほどでしょうか。それほど長くは予定していません。というのも義輝の登場回数が激減するからです。その分、信長と謙信の登場が多くなります。
一応、その次の最終章も同じくらいの長さを予定しています。ここでは義輝の登場は比較的多いですが、光秀や晴藤にもスポットを当てる予定です。
最終章の後に外伝を描くまでがこの剣聖将軍記の物語になります。これとは別に義輝の“暴れん坊将軍”的なお話も書いてみたくなってたりするのですが、それは全てが終わった後の楽しみにしたいと思っています。
投稿頻度が減っている所為で完結まで時間がかかっておりますが、引き続きお付き合い宜しく御願いします