第七幕 唐橋の激闘 -生きた伝説と鬼の意地-
十一月十四日。
近江国・勢多川
前将軍・足利義輝の怒号により、戦が始まった。
「かかれぇぇいい!」
義輝方の先鋒は上杉勢の柿崎景家である。先鋒と決められていた勢多城主・山岡景隆は三好・松永方が二手に分かれて布陣していたために急遽、勢多一帯の地理に疎い上杉勢を支援することになった。一方で松永久秀が布陣した田上方面は予定通り蒲生定秀が先鋒を務める。
勢多川はとにかく川幅が広い。広いところでは二町(約200m)を越え、とても地勢を知らない者が簡単に渡河できる川ではなかった。よって大部分では両者が対峙するも弓矢での応射や喚声が飛び交っている程度だ。とは言っても敵陣に届くほどの強弓を射れられる者はごく僅かなために、死傷者はほぼ出ていない。勢多城の南側は川幅が狭くなっている箇所があり、山岡勢の支援で上杉勢の渡河が始まっていた。
「怯むな!楯を構えよ!慌てず進めい!」
景家の命令で兵士たちは弓矢に備え、楯を押し立てて徐々に三好方へ接近する。三好勢の先鋒・三好政康は麾下の将・池田勝正に命じてこれに当たらせた。幾百、幾千もの矢が柿崎勢を襲う。しかし、柿崎勢はこれに倒れる者はいれど、一兵一兵が脇目もふらずに前進を続けている。
「ええい!小賢しい真似を!!」
横一列に並んだ楯が迫ってくるのには得も言われぬ威圧感がある。部隊は着実に敵陣へ近づいていった。
その様子を岸から眺めていた景家は満足そうに頷き、馬首を北へ転じた。
勢多川の北側には勢多川唯一の橋が架かっている。唐橋で有名なこの橋は、平時なら多くの人が行き交う交通の要所である。この橋を、三好方は落とさずにいた。故にこの橋さえ占拠してしまえば、上杉勢は安全に川を渡ることが出来る。この唐橋を確保するのが、先陣たる景家の任務である。
「突っ込めぇぇぇ!!」
景家が自ら手勢を率いて橋を渡る。喚声を上げて駆け走る集団が一条の矢の如くなり、敵に向かっていく。この突進力こそが柿崎勢の強みである。第四次川中島合戦で武田本隊を壊滅寸前まで追い込んだのは、先陣を務めた自分である。その自負が、景家の誇りであった。
だが、景家の槍は敵に届くことはなかった。
「撃てぃ!」
景家の足を止めたのは二百挺近い鉄砲だった。景家…いや上杉勢はこれまで鉄砲の一斉射を受けたことない。上方でこそ鉄砲の流通は進んでいるが、東国では大名や在地領主がいくらか持っているだけで本格的に戦闘で使用した例はまだない。
この初めての出来事に、柿崎勢は思わず足を止めてしまったのだ。
「突っ込むしか能のない阿呆が!これだから田舎者は困る」
政康が大仰に笑う。唐橋は重要地であるために政康が自ら指揮を取って守っている。
「おのれッ!鉄砲とは卑怯な!」
叫んだところで状況が変わるわけでもなかった。鉄砲の応射は上方では一般的になりつつあり、その重要性は増しつつある。槍を付けられなかったことは、常に上杉家の先鋒を務めてきた景家の誇りを大きく傷つけた。だが景家が思いつく対処法といえば、弓矢と同じく楯を構えてひたすら進むしかなかった。
上方の戦が地方の戦と違うことをまざまざと見せつけられた瞬間だった。
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一方で田上側でも戦は始まっていた。
対するは蒲生定秀の二三〇〇と松永久秀の臣・高山友照の一五〇〇だ。こちらも川を挟んでの戦いになるが、大戸川は勢多川ほどの川幅はない。よって定秀は広く部隊を展開し、平押しで攻めた。
「撃てぃ!」
友照の号令で鉄砲が火を噴く。ばたばたと足軽が倒れるが、柿崎勢ほどの混乱はない。蒲生勢は鉄砲に慣れており、自身の部隊にも鉄砲を持たせている。倒れた仲間の屍を踏み越え、前進を続ける。
「撃ち返せッ!」
今度は蒲生勢の反撃で高山勢が倒れる。応射が続く中、数に勝る蒲生勢が少しずつ押し込んでいく。定秀としては、主君が出陣していない以上は先陣を任せられた自分が醜態を晒すわけにはいかなかった。
「さて、問題はこれからじゃが……」
ただ定秀には一つ心配があった。浅井長政が本気で蒲生勢を支援してくれるかだ。
今さら言う話ではないが、定秀の仕える六角家と浅井家は現在も交戦状態にある。今こうして同じ軍に身を置いているのは足利義輝という存在があるからでしかない。だが浅井としては、義兄・織田信長三万の援軍がある以上は必ずしも六角の協力は必要なく、蒲生勢がここで壊滅してしまっても問題はない。むしろ今後のことを考えると、潰れてしまった方が都合がいいはずだ。
「殿、今後のことを考えますると、即座の出撃は見送られるべきかと」
「その様な考え方は好かぬ!今の蒲生殿は味方じゃ!左様に心得ておけ!」
だが浅井長政という男は冷酷な策士や非道な人物ではなく、義を重んじる男だった。家臣の進言を退け、定秀を安心させるために早々に兵を進めた。
「皆!これまでの遺恨は一時棚上げじゃ。蒲生殿を支援せよ」
長政は軍団を二つに分けた。一方は自らが率い、蒲生勢を支援する。もう一方は磯野員昌に預けて大戸川の東側から渡河させた。すかさず久秀も奥田忠高に一手を預け、両者は戦闘状態に入った。
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戦が始まって一刻(二時間)余り。義輝は本陣とした勢多城内で報告を聞いていた。
「ふむ。上手く行かぬものよのう」
ここまで事が上手く進んでいた義輝は、一進一退で膠着する戦況に僅かな苛立ちを覚えていた。
「まだ戦は始まったばかり。今からにござる」
「されど輝虎。田上はともかく勢多の抵抗は激しい。兵どもの悲鳴がここまで聞こえてきておるぞ」
「相手も必死です。上様がその様に浮ついておれば、兵たちが動揺いたしましょう。どうか落ち着いて下さりませ」
「ふっ…余が浮ついておるか」
輝虎の指摘は正しい、と義輝は思った。目の前で戦が始まっているというのに、自分は城の中でじっとしている。何処か落ち着かなかった。やはり元来、自分は武人なのだと思う。座って兵を指揮しているよりは動いている方が安心する。その様な気質なのだ。しかし、武家の棟梁である以上はそうであってはいけないのだろう。そういう意味では、昨今の将軍は武家の棟梁でなかったのだ。名目上の存在であり、実が伴っていなかった。権威はあったが権限がなかったから、自ら指揮する兵がおらず経験を養う場がなかった。
それは今でも同じだ。戦っているのは義輝派の大名衆であり、自家の兵ではない。
(だが、これからはそうあってはならぬ……のだろうな)
この戦いで勝てば、義輝は将軍家を強くしなければならない、と決心をした。己が手で領地を経営し、兵を養い、諸国の大名に匹敵、凌駕する軍団を作り上げなくては、足利将軍家は傀儡のまま操られるだけの存在で乱世を生き長らえるか、滅びるかになる。その点では、この上杉輝虎から学ぶべき事は多い。
「では上様の不安をこの輝虎が拭い去って参りましょう」
輝虎はニコッと笑うと、一礼して退出した。替わるように入ってきたのは朝倉義景だ。
義景は輝虎が本陣に詰めている間、殆ど義輝の傍を離れていた。輝虎が居ると義輝は輝虎とばかり話をするため面白くなかったのだ。体のいい理由を付けて自陣に戻っていた。
「上杉殿は御出陣ですか?」
「うむ。流石は輝虎よ。自軍が苦戦しておるというのにあの余裕じゃ」
「苦戦しているのならさっさと出陣して指揮を取れば良いと思いますが…」
こういう皮肉をところどころ交えてくる義景を義輝は好きにはなれなかった。輝虎がここにいたのは、偏に総大将である自分を思ってのことだ。その自分を置いて離れていた者の言う台詞ではない。
そして、その義景を邪険には出来ない自分が腹立だしかった。やはり朝倉勢が主力で中核なのだ。その当主たる義景の存在は大きい。
(上総介よ……早く余の許へ参れ)
義輝は朝倉勢に代わって主力に成り得る信長の到来を待ち焦がれた。
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自陣に戻った輝虎は、さっそく義輝の言葉を家臣たちに伝えた。
「上様が“まだ唐橋を突破できぬのか”と御怒りじゃ。これでは上杉の面目は丸潰れぞ」
「それはいけませぬ。拙者が景家殿の尻を叩いて参りましょう」
「ならば弥太郎に命ず、景家を支援して唐橋を突破せい。急がねば儂が自ら先陣を務めるぞ」
「承知しました」
柿崎支援に名乗り出た小島弥太郎貞興は、先陣同士がぶつかり合う唐橋へ向かった。到着した貞興は、主君の言葉を伝えるべく景家の居場所を探った。
「おおりゃあああ!!」
「せいぃやあ!!
景家は勢多橋の中央で暴れていた。対する相手は粗末な鎧だが大きな金砕棒を振り回し、景家に襲いかかっている。景家は上杉家中でも指折りの剛の者だ。その景家を相手に攻めの姿勢を貫いている。相当の腕前に思えた。
「よき勝負ではないか」
弥太郎は主命を受けた身だが、目の前の激闘に目を奪われた。十合、二十合と繰り広げられる戦いは、まさに死闘であり、弥太郎は固唾を呑んで見守った。
「死ねやッ!」
「ふんッ!!」
景家が鋭い突きを繰り出す。が、相手も流石だ。金砕棒を横薙ぎに払って景家の槍を吹っ飛ばした。
「ええい!この馬鹿力が!!」
「お主が非力なだけよ」
槍を失った景家が太刀を引き抜く。しかし、金砕棒の渾身の一撃が景家を襲う。咄嗟に抜いたばかりの刀で防いだ景家だったが、愛刀は砕け、自身は威力に押されて後方へ投げ出された。
「い…いかん!?」
武器を失った景家の敗北は必至だ。弥太郎は景家救出するべく唐橋へ急いだ。
「止めじゃ」
「ええい!舐めるなッ!」
金砕棒を振り下ろす男の腕を景家は懸命に抑えるが、男の馬鹿力に金砕棒の重みが加わり、とても抑えられそうにない。そこへ、横から貞興が痛打の一撃を浴びせて景家を救う。
「や…弥太郎か。いらぬ真似を……」
「討たれる寸前だったではないか。大人しく後方で休んでおれ」
「何を申すか!このまま引き下がれるかッ!!」
「獲物もなければ戦えまい。ここは儂が引き受ける」
「…ううむ。獲物を取ってくるまでだぞ。いいな」
「ああ、わかっておるわ」
意地でも己の負けを認めようとしない景家は、憮然とした表情をしたまま後方へ下がっていった。
「儂に不意打ちとはいい度胸じゃのう。覚悟は出来ておろうな」
「ああ、貴様を討つ覚悟ならな」
男は立ち上がり、金砕棒を拾いながら弥太郎へ身体を向ける。
「上杉が臣、小島弥太郎じゃ」
「ほう…名乗りを上げるとは。やはり田舎者は古くさい」
源平合戦以来、一騎討ちが戦の華として語られなくなって久しい。特に上方での戦は殆ど組織戦に変貌しており、太刀を振るって暴れることはあっても正々堂々名乗りあって戦うことは少ない。だが、そういう古くさいことが実のところこの男は嫌いではなかった。
「十河存保が家臣、阿波国人・七条兼仲である」
まだ二十歳前後に見える若者の両腕は“鬼”の異名を持つ小島弥太郎の倍はあろうかと思うくらい太かった。この豪腕から繰り出される金砕棒の一撃の凄まじさは、無数の穴が空いた唐橋が物語っている。御陰で兵卒の移動がままならなくなっており、周囲で戦っている兵も僅かに数十といったところだ。ただ兼仲が陣取ってることで、鉄砲が飛んで来ないことは幸いだった。
「煩い小僧め!その生意気な口を塞いでくれるわ!」
「フン!雑魚が」
兼仲が金砕棒を振るう。弥太郎はこれを槍で受けるような真似はしない。受ければどういう結果になるか、景家との戦いで見ていて知っている。隙を見て槍を突くが、相手も流石の腕前で簡単に防がれてしまう。
「ならば……」
狙うは相手が金砕棒を振るい終わった時、その瞬間を狙う。重量のある金砕棒はよほどの豪傑しか用いることのできない武器であり、防御不可能の代物だが、あくまでも一撃必殺の武器な為にその後に出来る隙は大きい。こちらの攻撃を防ぐ手立てはないはずだ。
一合、二合、三合と隙を窺う。そして十三合目、痺れを切らした兼仲が不用意に上段から力任せに金砕棒を振り下ろしてきた。
「もらった!」
これを上手く躱した弥太郎が渾身の力を込めて槍を突き出す。しかし、結果は弥太郎の予想を反するものだった。
「甘いわ!」
驚くべき事に、目の前の男はまるで棒切れを扱うかの如く金砕棒を切り返してきたのだ。弥太郎の槍は叩き折られ、突きだした利き手に強烈な痺れが走った。
「うぐ……この化け物め」
「死ね」
再び金砕棒が弥太郎へ向けて振り下ろされる。
「くっ……」
「ちっ、逃げるのが上手い」
弥太郎は地面を蹴り、後方に飛ぶことで咄嗟に攻撃を避けた。
「諦めよ。力の差は分かったであろう」
兼仲が勝者の笑みを浮かべ、近づいてくる。弥太郎は刀を抜きたいところだが、利き手は痺れていて使い物にならない。
(こんなところで負けられるか!実城様、悲願の上洛ぞ!それも最初の戦の最初の戦いで……上杉の名に泥を塗るような真似は出来ぬ!)
弥太郎は渾身の力を込めて地面を蹴る。腕が使えないのなら、己の全てを使って相手にぶつけようというだ。
「お…お」
兼仲は弥太郎の思わぬ行動に反応できなかった。その身で突貫してきた弥太郎に激突され、後ろへ倒れ込む。頭は地面に叩きつけられ、軽い脳震盪を起こした。
兼仲に馬乗りになる形になった弥太郎が利き腕でない方の手で短刀を引き抜き、兼仲の喉元へ目がけて振り下ろす。兼仲は朦朧とする意識の中で弥太郎の首筋を掴み、思いっきり締め上げた。
「う…が…がご……」
首を締め上げられた弥太郎の顔が苦痛に歪む。だが弥太郎の眼は死んでいなかった。ギロリと兼仲を見据え、短刀を止めることなく振り下ろした。
「ぐはっ……」
弥太郎は口から血反吐を吐いた。そして意識を失う。だが、それまでだった。力なく倒れ込んだ弥太郎の下では、“生きた伝説”と称された七条兼仲が死んでいたのだ。
“鬼小島”の勝利だった。
「まったく…あの化け物を退治するなど、大したものよ。上杉一の侍は、そなたのようだ」
駆け寄った景家が、意識を失っている弥太郎へ最大限の讃辞を送った。
「後は儂に任せて休んでおれ」
景家は家臣に弥太郎の介抱を命じると、配下の兵を従えて敵中へ乗り込んで行く。兼仲という防波堤をなくした三好方は意気消沈し、精度の鈍った鉄砲だけでもはや景家の突撃を押し止めることは不可能だった。
勢多の唐橋は、上杉勢が占拠した。
【続く】
合戦前編です。
いや、合戦を上手く書くって難しいですね。(半分は一騎討ちですが…)今回は上杉勢中心でしたが、次話は他の陣営についても書いていきます。