第二十三幕 忠義の嵐、舞う -征夷大将軍・足利義輝-
十一月十八日。
近江国・余呉
余呉で行われている土岐光秀率いる幕府軍と武田信玄の戦いは、当初こそ信玄方の攻めが散漫で小康状態に突入しつつあったも、これは完全な信玄の策謀であり、真の目的であった畠山義続の誘い出しによって鉄壁と思われた幕府軍の防衛線に大きな楔が打ち込まれた。
義続は命からがら逃げ延びたものの能登畠山の当主・義綱は、無残にも余呉の地に屍を晒すことになった。
(羽柴が動けば、まだ何とでもなる)
状況を打開するべく伊勢公方・足利義氏の軍勢を動かし、織田の将・羽柴秀吉に援軍を要請した光秀は、直談判の末に秀吉を動かすことに成功、信玄の猛攻に肉薄しながらもぎりぎりのところで防衛線の崩壊を防いだ。
そこへ予期もしない幕府軍の援軍が到着する。
「御注進!信玄が越中勢を動かしております。搦め手方面へ向かっている模様!」
光秀の許に椎名康胤が動き出したとの報せが入る。ただ援軍の到来を知らない光秀は、当然なように信玄が搦め手へ後詰を送ったものと判断してしまう。
「ここからはとても手当てが出来ぬ。羽柴を信じる他はない」
前線の防衛で手一杯の光秀は、唯一遊軍として岩山に布陣している秀吉を頼るしかなかった。参戦を決意した秀吉ならば、もう静観に徹することはないだろう。搦め手側が苦戦しているのなら、自ら援軍に赴いてくれるものと光秀は信じた。
ところがである。
椎名康胤が向かったのは西近江路方面であり、そこには光秀も知らぬ幕府方の援軍が到来していた。
「武田様からの報せによれば、幕府方援軍の先鋒は吉川元資のようにございます。援軍の総数は五、六千とのことでございますが、吉川勢は凡そ一千五百ほどに見受けられます」
配下からの報せを聞く康胤の表情は余裕そのもので、自らの敗北をまったくといっていいほど想定していない。椎名勢は四〇〇〇もの陣容を誇り、軍神・上杉謙信に敗北したとはいえ越中では戦に明け暮れてきた猛者たちで構成されている。康胤自身も中国で名高き吉川といえど、その息子に過ぎない元資とかいう者に負ける気などしていない。
「流石は信玄様だ。延暦寺を手懐けておられるとは畏れ入った」
康胤が驚いていたのは、その報せを信玄が延暦寺より受け取ったことだ。
北陸にいながらも常に上方との繋がりを保っていた信玄に対し、康胤は舌を巻いた。信玄が北陸に辿り着いた頃は疑針暗木なところもあったのは事実だが、こうも連戦連勝で近江まで突っ走られれば嫌でも信心が募ってくる。もはや康胤は心から信玄の家来になりつつあった。
「これで越中は儂のものになったも同然だな」
それでも戦国武将の気質が見え隠れするのは、戦後の打算つまりは領地獲得に目が入ってしまうところだろう。今でこそ信玄預かりとなっている越中での旧神保領は、上方制圧後に康胤に引き渡される約定が交わされている。
早くも越中の主になった気でいる康胤の内には、慢心が確かに存在していた。それが取り返しのつかない事態を招いてしまうことなど、康胤は思いもしない。
「前衛!崩れます!」
「な……なんじゃとッ!?」
余りにも早過ぎる展開に康胤は驚き、唖然とした。
幕府軍先鋒との槍合わせに前衛が大した時間もかけぬまま競り負けてしまった。大将の気構えが将兵に伝染し、敵を寡兵と侮ったことが原因であるが、もっと大きな要因が戦場にあった。
「も……申し上げます!敵兵と交戦中の兵からの報告です。敵大将と思われし武将を確認したところ、どうも元資という者ではないようにございます」
「どういうことだ?」
「吉川元資は二十三と聞き及んでおります。されど敵大将は明らかに壮年の武将でございました」
「見間違えではないのか」
「あの気迫、並みの武将に出せるものではありませぬ。まさしく鬼と見間違うほどの形相で……」
「……鬼吉川」
自然と口にした言葉に康胤は背筋が凍りつき、身が縮まるような感覚に陥った。
鬼吉川といえば、戦国の世に一人しかいない。謀聖・毛利元就の一子であり、その躍進に大きな力を発揮した両川の一角・吉川家現当主の元春である。
「鬼吉川が、何故に近江に……」
回答を得られぬ疑問を口にし、戸惑っている康胤を余所に、吉川の猛攻は続いている。備えは中央から歪み、兵たちの足並みは乱れたままだ。ようやく康胤が我に返って指示を出した頃には、もう挽回は難しくなっていた。それでも軍勢が機能しているのは、偏に椎名勢が四〇〇〇という兵を抱えているからだ。同じ数で戦っていれば、既に崩壊していてもおかしくはない。
しかし、それも目前であった。
「右翼に敵の別部隊が展開中!旗印は七つ酢漿草!」
「酢漿草!?そのような紋は聞いたことが……」
「左翼にも敵!三階菱に五つ釘抜紋!三好勢と思われます!」
「莫迦な……ッ!!」
「他にも九曜紋!四つ目結紋!剣片喰紋が確認できます!」
もはや開いた口は塞がらず、茫然自失となった康胤が兵をまともに動かすこと能わず、椎名勢は散り散りとなって消えていくしかなかった。そして康胤自身も、この波に飲まれて命を散らしていくのだった。
椎名勢崩壊の報告を聞いた信玄は、眉間に皺を寄らせて舌を打った。
(吉川元春に長宗我部、三好に細川、後は尼子、それに宇喜多か)
幕府の援軍は少なくとも聞く名前はどれも天下に名を知られた大名たちのものだった。元春がいることを考えれば、全て当主もしくは当主に順ずる地位にある者が率いていると考えてよいだろう。それら一つ一つが一〇〇〇やそこらの兵で余呉までやってきた。つまり幕府方の援軍は精鋭中の精鋭で固められており、椎名康胤が早々に敗北したのも頷ける。
そのような芸当できる人物、束ねられる存在はこの日ノ本にたった一人しかいない。信玄が敵とする相手が、遂に近江に姿を現したのだ。
「やはり自らの手で戦わぬと気が済まぬか」
ふいに信玄の口が緩んだ。自然と笑みが零れたのである。やはり自分も戦国乱世を生きる者だと改めて実感する。
「馬場美濃の部隊を吉川に当てよ。他の部隊は、儂がまとめて引き受けてくれる」
余呉での合戦が、終盤に差し掛かった。
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十一月十一日。
摂津国・天満森
時は少し遡る。
土岐光秀が越前と近江の国境で武田信玄と戦っている最中、ここ摂津国石山でも激しい合戦が連日に亘って続けられていた。十月二十日の戦闘以来、本願寺は二日に一度は攻め寄せては、義輝を悩ませている。特に雑賀衆の一員・的場源四郎と佐竹伊賀守は強く、他を圧倒していた。義輝が救援に赴くことで、将軍殺しを嫌う顕如の意向が働き、味方は難を逃れるも本陣へ戻るとまた攻めてくるという繰り返しで、時だけが無駄に過ぎてしまっている。
「上様!今度は一色修理大夫様の陣に敵が押し寄せております!」
「左馬助を向かわせよ。余は、ここを動けぬ」
義輝が軍配を振りかざし、兵を動かしていく。
石山に於ける幕府軍の要は義輝の本陣と東に布陣する北条左馬助氏規、それに南方に位置する吉川元資、毛利元清らの毛利勢、そして前回の合戦で壊滅的打撃を受けた摂津衆の代わりに増援に狩り出された足利晴藤の播磨勢であった。
山名討伐を命じられていた播磨公方こと晴藤は、生野銀山の奪取を果たすと山陰の雪を警戒して進軍を止めていた。そこへ兄からの召集がかかり、軍勢を摂津へ差し向けたのだ。しかし、播磨勢も戦に続く戦を経験しており、三五〇〇ばかりの人数しか引き連れて来られなかった。
いないよりはマシと義輝は割り切るが、凶報はそれだけではない。
近江に於ける織田信長の不出馬が噂され、最悪なことに関東で上杉謙信が倒れたという話まで伝わってきた。これには義輝も俄に眉を曇らせ、対応に苦慮している。
義輝の許を訪れた北条の使者・板部岡江雪斎は強気に述べた。
「上杉様が御倒れたなった今、関東の争乱を鎮められるは我が主・相模守しかおりませぬ。幕府として当家に関東の鎮定を御命じになれらましたのなら、即座に平定して御覧に入れましょう」
この言葉に義輝は、率直に怒りを覚えた。
「争乱の元凶は、北条との声も届いておるぞ」
「これは余りの仰せ。当家は幕府に一族の者を遣わし、忠勤に励んでおりまする。そもそも乱の元は真里谷と千葉の領地争いが発端、そこに里見が野心を以って介入し、幕府に代わり我が北条が鉄槌を下したまでのこと」
「今川刑部に援兵を遣わしたことは、如何に説明する」
「今川と徳川の私戦に義兄弟として、手を貸しただけのこと。他意はございませぬ」
「厩橋の一件はどうじゃ?」
「上杉殿の家臣が武田の庇護下に入っていた箕輪の喜多条と繋がっておりました。これは合戦の経緯で明らかになっております。当家は身を守るために上杉と戦いはしましたが、幕府に逆心を抱いての事ではありませぬ。その証拠に、三郎君を幕府に預けると相模守は決断されております。上杉との和睦は当家も望むところ。されど当家と上杉が矛を収めたところで関東の争乱は収まらぬほどにまで拡大しております。幕府の威光を知らしめる為、上様の命を受けた者が力を以って鎮圧する必要がございます」
「それが相模守と申すか」
「他に適任者がおりましょうや」
江雪斎は自ら言葉に自信を持っていた。
北条は一度、幕府に恭順を示している。氏規の忠勤ぶりは義輝も認めるところで、河内十万石を与え評定衆に抜擢したことは記憶に新しい。また三年もの間、北条氏康は幕府の意向に従って一切の軍事行動を行なわなかったのも事実である。
江雪斎の言葉を全て信じるつもりはないが、謙信からの報告が途絶えている現状で義輝が関東の実情を正確に知る術はない。
「相判った。三郎の身は幕府で預かろう」
「されば掛川城の囲みは」
「解くよう徳川権少将に命じる」
「有難う存じます」
「されどいま以上に関東で兵を動かすことは禁じる。今後、余の耳に北条が兵を動かしたと届いたならば、先ほどの言葉は全て嘘偽りのものであったと断じる故、左様に心がけよ」
「しかと主に伝えまする」
北条の意向を呑んだ義輝に思えたが、江雪斎が引き下がると小姓の一人を呼んで命令を下した。
「権少将に使いを送れ。掛川の包囲はすぐに解かずとも構わぬ。可能な限り引き伸ばし、北条の動きを封じるのだ」
「はっ。畏まりました」
掛川城には北条の長老・幻庵の子である綱重がいる。幻庵は初代・早雲の子であるが故に氏康が家中で遠慮する唯一の人物である。その子を人質同然として掛川城に閉じ込めている以上、おいそれと解放することは出来ない。将軍として約定は守る必要はあるが、せめて上方の状況が一段落するまでは、そのままでいてもらった方が都合がよかった。
(岐阜宰相が動かぬ、厩橋中将が倒れたとなると、余の戦略を根底から見直さねばならぬ)
今の義輝に余裕はない。
義輝の戦略では、自身が石山、信長が信玄、謙信が北条、毛利が大友の相手をすることで成り立っている。唯一思い通りに進んだ大友家と毛利の和睦は、宗麟が肥前へ兵を向けたことにより毛利の枷が完全に解き放たれた状態にある。仮に義輝が明確な恩賞を約束すれば、いま以上に毛利の合力を得ることは難しくはない。
毛利元就が本腰を入れれば、石山だろうが信玄だろうが相手をするだけの力を持っている。幕府の勝利は、ほぼ約束されるだろう。
(果たして、それで幕府の将来は安泰であろうか)
元就に野心なくとも次代の当主たちは判らない。家督の輝元は凡庸と聞くが、それを支える両川は健在だ。また輝元の次の当主が元就に匹敵するだけの才覚を持ち、野心に魅せられたのなら幕府の支配体制を揺るがす事態を招く懸念もある。諸大名の力は弱すぎても問題だが、強すぎるのも好ましくない。その為には、この難局を自力で乗り切らなければならなかった。
「申し上げます!下間頼廉の部隊が北条様の軍勢に襲い懸かっております!」
だが状況は、義輝に考える暇すらも与えない。
石山本願寺に籠もっている門徒兵の部隊と交戦している一色藤長が苦戦している今、救援に向かわせた氏規の足を止められるのは拙い。下手をすれば藤長が敗走し、再び包囲網に穴が開く可能性もある。
「上様!某が参ります!」
本陣に詰めている蒲生賦秀が援軍を志願する。義輝が許可を出そうとした矢先、今度は西側で敵が動き出して蜷川親長の部隊を圧迫し始めていた。賦秀が援軍に赴き、義輝が本陣を動かせば中央ががら空きとなる。もし顕如が本腰を入れて天満森を攻めてくれば、三淵藤英と上野清信では太刀打ちは不可能だろう。彼らの政才は評価できても、軍才は当てに出来ない。まず間違いなく敗れるはずだ。
(どうする……、何か手はないのか)
義輝は臍を噛み、表情を険しくする。視線はらしくもなく泳ぎ、音を立てて歯軋りをさせる。この窮地に打てる策を模索するも一つとして思い浮かばない。
その状況を笑ってみているのか、本願寺顕如は露骨にも義輝に揺さぶりをかけて来ている。
一つ、幕府は本願寺を赦免すること。
一つ、石山の領有を認めること。
一つ、山科本願寺の再興を認め、力を貸すこと。
一つ、加賀、越前は本願寺の勝って次第とすること。
一つ、耶蘇教の布教を禁止すること。
攻勢を保ちつつ顕如は、以上の五箇条を認めれば謀叛方と手を切ると言って来た。石山と和睦が成れば、義輝は摂津にある軍勢の大半を余呉に向けられることとなり、勝利を手にすることが出来る。ただそれは、果たして本当に勝利と呼べるものなのだろうか。
答えは、否である。
(余は、断じて屈服はせぬ)
義輝は雑念を振り払い、和睦話を一蹴した。虚勢であったといえば、その通りだろう。明確な打開策があったわけでない。それでも義輝は夢を、天下泰平を諦めるわけにはいかなかった。
武田信玄が生涯を懸けた大戦略は、確実に義輝を追い詰めている。それでも義輝は踏み止まり、最後の最後まで希望の光を求め続けた。
その結果、それが実る時が訪れる。
西方に軍勢の姿あり、義輝の抱える問題を全て吹き飛ばしてしまった。義輝が本来持っているはずの力が、この現象を生み出したのだった。
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さらに遡ること二十日ほど前、伊予国湯築城では新たな守護となった三好義継が領地経営に乗り出していた。本貫である阿波を離れ、三好家隆盛の礎となった河内国惣村十七ヶ所を失っての新天地であるも義継の胸は高鳴っていた。
(これで亡き聚光院様に顔向けができる)
三好の英雄・長慶の栄華が儚くも散ってから六年が経っている。三好の当主が国持ちに返り咲いたことは、長慶の名誉を少なからず回復させた。この六年、義継の内に圧し掛かっていた重石は、伊予拝領に伴って音を立てて崩れ去った。
しかし、予断は許さない。三好一族が将軍家を蔑ろにし、義輝の命を狙ったという悪評は未だ消えていない。義輝も上方で戦い続けており、聞くところによれば状況はかなり悪いらしい。故にこそ義継は、ある行動に出ようと叔父の康長を呼んでそれを持ちかけていた。
「なに?上方に、いま一度出兵したいと申すか」
伊予を賜り、ようやく帰国して領地経営に乗り出した矢先の出来事に、康長は眉を曇らせて反対の意向を露わにした。
「左様。故に叔父上には兵の徴集と儂の留守を御願いしたい」
それでも義継は自分の考えを曲げるつもりは一切なかった。そんな甥の覚悟を知らぬ康長は、公然と反対の意見を述べ始める。
「せっかく所領を頂いて軍役から解放されたというに、何を言い出すのじゃ。今は領内の仕置きが優先、上方で戦が続いているとはいえ幕府からは何の命令も届いてはおらぬではないか」
命令がないにも関わらず、義継が無意味な出兵を望む理由を康長は掴み兼ねた。だが義継の言い分は単純明快そのものだった。
「謀反勢との戦いは、今も終わってはおりませぬ。しかも謀反には当家の家宰であった松永久秀が強く関わっている。奴の所在が掴めぬ今、三好の当主が安穏と領地に引きこもっていてよいはずがありましょうや」
「謀反方と何ら繋がりがないことを、左京殿自らが示すと?されど上様は、そなたに逆心があるとは微塵にも思うてはおるまい。でなければ伊予を恩賞に下さらなかったはずだ」
「如何にも。されどいつ何処で誰が三好の讒言を口にするか判ったものではありませぬ。三好が生まれ変わったこと、誰の目にも明らかにするには今が一番の好機でございましょう」
義輝の馬前にて三好の当主が槍を振るう。傍から見れば“忠義の士”に見えることだろう。長きに亘って将軍家を傀儡の立場で操ってきた三好家に求められることこそ、忠義を示すことだと義継は考えていた。
(それに聚光院様は“将軍家と共にあってこその三好家である”といつも仰られていた)
永禄の変と呼ばれる将軍弑逆計画が長慶の生前に実行されなかったのは、長慶が強く反対していたからである。家中を牛耳っていた松永久秀であっても長慶の意向は無視できず、仮に計画を強行すれば斬首も有り得た。それだけ長慶は、将軍家と一線を越えることを嫌っていた。
長慶が将軍家をどのように思っていたかは、今では知る由もない。
だが将軍家と三好家の対立は、上方の争乱が引き起こしたものとも云える。状況が違えば、叔父・長慶は上杉謙信と並び評されるほどの忠臣として時代に名を残しただろうと義継は思っていた。
(聚光院様の意志は、儂が引き継ぐ)
まるで三好長慶を彷彿とさせるかのように三好の当主として固い決意を曲げない義継に対し、遂に康長は折れた。
「いま一度上方へ行くと言えば、西園寺などは不満を申すぞ」
「彼らは連れて行きませぬ。戦意の低い者たちを連れて行けば、三好の意志が上様に伝わりませぬ」
「集められても一千が限度ぞ」
「それで結構。叔父上、お願い致す」
こうして三好勢の出陣が決定した。
この義継の行動が、大きなうねりとなって全国に波及するなど当人すら気が付いていなかった。後に時流の変化は、ここにあったと指摘する歴史家は少なくない。
「なに?左京大夫殿が上方へ向かわれると。上様から御命令でも下ったのか」
まず反応があったのが隣国讃岐の守護・朽木元網である。
三好勢が上方へ向かうにはどうしても讃岐を通過しなくてはならない。義継は領地通過の許可を得るべく使者を元網の許へ派遣していた。
「いえ、上様より御命令は受けておりませぬ」
「では、何故に上方へ向かわれる」
「我らは帰国を命じられましたが、上様は今も戦陣に身を置かれておりまする。それを御助けすることこそ、家臣の勤め。それを果たしに参るだけのこと」
主に看過され、さも当然と言ってのける使者に元網は触発されてしまう。
「三好が出兵すると聞いて幕臣の儂が行かぬ訳には参らぬ。我らも上方へ行くぞ、遅れるな!」
三好に続いて朽木も出兵を決めると、四国が俄かに騒然とし始める。
「此度は足利一門の行く末を決める戦となろう。姫路の中納言殿には出陣の命が下ったと聞いた。伊勢の左兵衛督殿も余呉に兵を出しておる。我らだけが領地に留まってよいわけがない」
「四国勢の中で長宗我部だけが駆けつけぬとあっては、当家の名折れ。船を使えば誰よりも早く上様の許へ参じることが適う。池頼和に水軍の支度を命じよ」
阿波の足利義助、土佐の長宗我部元親も我先にと兵を整え、上方へ向かっていった。当然ながら四国の様子は瀬戸内を越えて中国にも伝わり、山陽山陰を巻き込んで出陣が相次ぐことになる。
「冬が近く、山名に兵を動かす余裕はあるまい。今こそ上様に恩義を返す絶好の機、御当主自ら兵を率い、上様に出雲拝領の御礼を申し上げるべきにございましょう。また窮地に追い込まれた上様が毛利に合力を求めるは必定、尼子が毛利の後塵を拝したとあれば、興國院(尼子経久)様に申し開きが立ちませぬ」
山陰で山名祐豊攻めが一段落していた尼子家中で、筆頭家老の立原久綱が主君である義久に出陣を進言する。これに義久は大きく頷き、同意を示した。
「上様より賜った御恩は返しきれぬほど大きなもの。源太兵衛尉の申すこといちいち尤もじゃ」
「さすれば、某が道案内いたします。上方は上様と共に駆け巡った地ゆえ、詳しゅうござる」
「頼もしいのう、鹿之助。任せたぞ」
「はっ!」
山陰からいち早く尼子が出陣し、途上で上野隆徳、石谷頼辰、細川藤孝ら幕臣衆を巻き込んで数を増やしていった。
そして中国最大の大名・毛利元就も動きを見せた。
「潮時か……」
義輝の命令がないまま諸大名の出陣が相次いでいると聞いて、元就は呟いた。
毛利は大国が故に将軍家と渡り合えた。高梁川の合戦に負けても五カ国を維持し、九州に於いては博多の人事に介入、筑前半国も幕府に認めさせた。このようなことが可能だったのは、かつてとは比べものにならないほど大きくなった幕府が相手でも毛利が大国であり、元就が健在だったからだ。
諸大名が征夷大将軍という存在に心から靡き始めた今、毛利だけが我を張り続けることは将来への禍根を残す。元就が死に、幕府が今よりも大きくなったのなら、いずれ将軍家は毛利家の弱体化に乗り出すだろう。
それは元就の望むところではない。
「大殿。元春の叔父上より上方への出陣を求める使者が参っております」
そこへ家督の輝元が顔を出す。用件は吉川の出陣許可であった。
「ふふ。やはり元春が最初か」
武人の気質が似ているのか、元から将軍に惹かれていた元春が毛利家中に於いて一番に声を上げてきた。曲がったことが嫌いで、筋を一本通す硬骨漢であるが、時代の流れを嗅ぎ取る嗅覚に優れている。かつて元春が不出来と評判だった熊谷信直の娘を反対を押し切って娶り、信直を味方に引き入れて毛利発展に貢献したことは誰もが知るところ。此度、ここで幕府に味方することが何よりも大事だと本能で悟っているのだろう。
そしてもう一人の支柱・小早川隆景も元春に遅れること半日、出陣を求める使者を送ってきた。隆景もまた、時流の変化を感じ取っていた。
「儂が領内に留まっておれば、宗麟も大それた事は出来まい。輝元、そなたは毛利の家督として役割を果すがよい。一族を率い、上様に奉公せよ」
「はっ。畏まりました」
かくして元就の許しを得た毛利の軍勢が瀬戸内を通って摂津に姿を現した時には、石山は鳴りを潜め天満森には諸大名が居並び、その中心に義輝の姿があった。
「お初にお目にかかります、毛利右衛門督輝元にございます。此度は一族総出で上様の加勢に参りました」
「同じく吉川治部少輔元春にございます。愚息が世話になっておりまする」
「小早川左衛門佐隆景、藤景殿と共に加勢いたします」
毛利輝元、吉川元春、小早川隆景と毛利の重鎮が揃い、小早川家に養子に入った藤景(足利藤政)も着陣した。義輝の前には中国、四国の大名たちが出で揃い、等しく頭を垂れている。隙間を塗って入り込む日差しで胸板の天照大神と八幡神は眩く、そして義輝は名の示す通り輝いて見えた。
大名や小名が問わず平伏す征夷大将軍・足利義輝が、誕生した瞬間である。
(これが、余の本来の力か)
征夷大将軍とは古来より武家の棟梁を意味する役職である。武力を背景とした絶大な権力を誇り、その命令は誰であっても逆らうことの出来ない絶対者として日ノ本に君臨する。かつては上位の存在であったはずの治天の君すら意のままに操り、外つ国からも王として認められた歴史がある。
その本来の地位に義輝は戻ってきた。正直に言って、ここまで絶大な力を持つものだとは想像もしていなかった。権威の象徴として、力なき将軍として長きを生きてきた義輝は、将軍職というものを見誤っていたのだ。
もはや恩賞を約束して諸大名を動かす必要はなく、役職に任じて懐柔する時代は終わった。主として命を下し、功績を上げた者にのみに恩賞を与える。織田や毛利、上杉で当たり前のように行なわれていることが諸大名を相手に堂々と出来るようになったのだ。
征夷大将軍として、義輝は再出発する。
義輝は深く息をし、諸大名に告げる。
「大義である。余の命令がないにも関わらず、よう集まった。そなたらの忠義を謀叛方の者どもに見せつけ、真の武士が何たるものかを教えてやれ!そして大義なき者の末路が如何なるものか、天下に知らしめるのだ!」
「は、ははっーッ!!」
平伏した諸大名の前で、義輝は自らの勝利を確信していた。
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十一月十七日。
京・二条城
摂津に諸大名が馳せ参じ、兵力が大幅に増強されたことにより義輝は陣を離れる決意を固める。総大将には播磨公方・足利晴藤を任じ、副将は足利義助と毛利輝元に任せた。石山本願寺を囲む大軍の指揮は、概ね大軍を指揮した経験のある輝元とその補佐役たる小早川隆景が主導するだろうから、安心である。
後は義輝が余呉に向かい、信玄を倒すことで決着はつく。
信玄の脅威がなくなれば余呉に張り付けている軍勢を摂津に戻し、有岡城を攻め落とす。さすれば全軍で石山を包囲することになり、味方を失った顕如は膝を屈する以外に取れる道はなくなる。それで上方の争乱は収まり、義輝は地方へ目を向けられる。
そんな折、義輝は余呉へ向かう途上に兵を休ませるつもりで一旦、二条城へ戻っていた。長く離れていただけあって政務が滞っているものも多く、義輝の決済を仰ごうと目通りを求める者が相次いでいた。時間も限られているので全てを相手には出来ず、限られた者のみが義輝との謁見を許されたが、その中に珍しい名前が一つあった。
武藤喜兵衛。
信玄の腹心として丹波口で戦い、蟄居処分されている武田の臣は、これまで武田の内情を一切、喋ることはなかった。その喜兵衛が、この時期に如何なる目的があって義輝へ目通りを願ったのか。
(今さら気が変わったか)
義輝が率いて戻ってきた将は、同陣を主張した吉川元春を先鋒に長宗我部元親、三好義継、細川藤孝、尼子義久に山城で参陣の許しを得た宇喜多忠家を加えて凡そ六〇〇〇余。皆、競って参陣を争ったために率いてきた兵が少なく、余呉に割ける兵力は限定的だが、それでも大名当人が率いる部隊は精鋭の名に相応しく、万余の兵に匹敵した。
それを知り、信玄を裏切る気になったのか。ともあれ有益な情報が得られる可能性もあり、義輝は陪臣で罪人であった喜兵衛の目通りを異例にも許すことにした。
しかし、当然ながら罪人に許される謁見の場は庭先となる。
「目通りの許しを頂き、感謝いたします」
喜兵衛は庭の小石に額を打ちつけながら、義輝へ感謝の言葉を述べた。
「よい。面を上げるがよい」
「はっ」
喜兵衛が静かに顔を上げる。その表情からは罪を悔いている様子など欠片も感じられず、覇気を漲らせる義輝を恐れてさえもいなかった。
武藤喜兵衛もまた、主同様に戦国の武将たる気質を備えているのだった。
「して、如何なる用向きか。とうとう信玄めの陣容でも喋る気になったか」
義輝は喜兵衛に遠慮なく問いかけるが、大胆にも喜兵衛は義輝の問いを鼻で笑って返した。その豪胆さ、驚くべきである。
「諸大名に忠義を求められる公方様が、某に裏切りを勧められるとは、不思議なものでございますな」
「喋る気はなさそうだな」
「某は武田の家に仕える者にございます。どうして主が不利になることを口に出来ましょうか」
「さすれば如何なる目的で、余に目通りを願った」
語気を強めて義輝が問い質すと、喜兵衛は姿勢を正し、再び顔を地に伏せて話し始めた。
「武田に仕える者なれど、某は武士。全ての武門が公方様の家来であるならば、某も家来の一人となりましょう」
「理屈の上では、そうだな」
「故に公方様に申し上げておきたい儀がございます」
「申してみよ」
「はっ。九州の大友家のことでございます」
「お……大友?」
大友という予想もしていなかった言葉に、義輝は目を丸くさせて驚いた。武田と大友がどう繋がるのかまったく理解できず、この瞬間に喜兵衛が義輝に伝えたいことが何であるかすらも想像が付かなかった。
そんな義輝を気にも止めず、喜兵衛は話し続ける。
「某は主の命にて大友家と連絡役を務めておりました。宗麟は主に対し、味方する条件として毛利領である周防に長門と石見、それに伊予を要求しております」
「……なるほど、宗麟が伊予をのう」
ようやく喜兵衛が目通りを求めた理由を察し、義輝は得心がいったと顎髭を擦りながら頷きを繰り返した。
宗麟が毛利領を求めるのは、抗争していた相手だからと言い訳は充分に立つ。しかし、伊予は違う。伊予は今でこそ三好義継に与えられているが、当時は御牧景重が代官を務める明確な幕府領である。それを宗麟が求めたという事は、大友に叛意があった証拠となる。
それは今後の九州経略に於いて重要な要素となるだろう。そして喜兵衛の立場も、今の一言でガラリと変わった。
喜兵衛が生かされているのは、光秀が庇ったこともあるが主には信玄がいるからである。武田の内情を知る者として、罪人ながら義輝は斬首を命じなかった。だが余呉で信玄が敗北してしまえば、喜兵衛が生かされている理由がなくなる。そうなれば死を賜っても不思議ではない。
ところが今の一言で全てが変わった。
義輝は大大名の存在を好ましく思っていない。毛利、上杉、織田や北条などが該当するが、大友家もその一つである。本音では、処分して減封できるならしたいと思っているはず、と喜兵衛は推測している。その喜兵衛は義輝が九州にて大友家と対峙する上で、重要な役割を持つ。宗麟に叛意があったことを示すことが叶えば、大友家を処分する大義名分となるだろう。その為には信玄を倒した後も義輝は、喜兵衛を生かさなければならない。無論、仮に信玄が勝利したとしても喜兵衛は変わらず重用されるだろう。
「相判った。そなたの言葉、余の胸の内に留めておこう」
この瞬間、喜兵衛は義輝と信玄、このどちらが勝っても生き延びる術を得た。
武藤喜兵衛。
義輝を前にしての立ち回りから、後に真田姓に服すことになる彼を“表裏比興の者”と呼んだ者がいたという。
【続く】
お久しぶりでございます。
一月以上ぶりの投稿となり、申し訳ありません。今回は久しぶりに義輝がメインの話しとなり、テーマは征夷大将軍となります。これまで恩賞を提示して諸大名を動かしてきた義輝が、自らが持っている“本当の力”に気が付いた回となります。読者様の中には鋭い方もおり、義輝は新生室町幕府の力を過小評価していないか、と指摘されておりました。
その通りであります。
その理由が、義輝がこれまで諸大名と接してきた手法を変えられなかったことであり、変えて諸大名が動くとは思わなかったことにあります。毛利や織田など大大名は相変わらず幕府と伍するだけの力を有していますが、浅井や長宗我部など一国ほどを保持しているに過ぎない大名からすれば幕府の力は絶大に映ります。幕府の意向を無視するなど以ての外であり、我先に忠義を示すことが求められます。その波に、今回は元就も乗る決断をしました。
全ての流れが変わったのです。云わずもながら武藤喜兵衛も、その一人であります。随分と前に張っていた伏線を回収する回ともなりました。
この波に取り残されているのは織田や大友、北条などになりますが、彼らの動きがどのようなものかは今章終盤から次章序盤の話になります。
次回、義輝が参戦した余呉合戦が始まります。注目は吉川元春VS馬場信春でしょう。お楽しみ下さい。