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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第五章 ~元亀争乱~
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第二十幕 余呉堅陣 -堂々・羽柴秀吉-

十一月四日。

信濃国・高遠城


甲信の守護大名として長く君臨していた武田信玄が領国を捨ててから早くも五ヶ月が過ぎていた。甲斐は大身である穴山信君や小山田信茂が武田義信に従っていることで大きな混乱は生じてはいないも信濃では残された者が身の振り方をどうするかで必死であり、とても中央の争乱に気を回している余裕はなかった。


「信玄様が甲斐守殿へ家督を譲られたそうだ」

「儂も聞いた。家中には信玄様へ付いて行った者も少なくないというが、そなたはどうする?」

「所領を空けるわけには行かぬ。甲斐守殿に従う他はあるまい」


そのような会話が国中の至る所で行なわれていた。そこに幕府方、謀叛方という言葉はなく、あくまでも武田の中で身の振り方をどうするか、という中身でしかない。


高遠城もまた、その渦中にあって揺れていた。


「四郎様、いい加減に兄君に従われよ。太郎様は四郎様を上原城主とし、正式に諏訪領を任せたいと仰せにござる」

「家督を奪っておいて、儂にまで当主面か。兄上も勝手なものだ」

「武田の家督は、正式に御屋形様より太郎様へ移譲されており申す」

「無理やり奪ったも同然だろう。儂は認めぬぞ」


駄々っ子のように(へそ)を曲げてしまった諏訪四郎勝頼の説得に山県源四郎昌景は難儀していた。


今年の六月、上原で会談した信玄と義信は互いに理解をし合うことはなかったが、武田家の家督が二つに割れるという事態だけは防ぐことが出来た。義信への家督移譲が認められ、信玄が甲信を捨てたことにより武田家は再び一つに戻ろうとしていた。


義信は自らの足で領内を回り、家臣たちに事情を説明して回った。当初は戸惑いに己の去就を明らかにしない者が後を絶たなかったが、義信の当主らしからぬ態度に家臣たちは皆、感動して無二の忠誠を誓い、時間の経過と共に武田家の争乱は収まりつつあった。


この十一月までに甲信は、ほぼ全て義信の名に於いて束ねられつつある。最後の難関が、実弟・四郎勝頼の帰順であった。


義信は家長として、勝頼の面倒を見ることを父・信玄に約束している。信玄は義信の言葉を疑っておらず、義信も嘘を付いたつもりはない。現に昌景を通し、勝頼を諏訪領を任せたい意向を伝えてきている。昌景にすれば信玄が義信に家督を譲った以上、武田同士で争いたくはない。勝頼は四男といえ諏訪家を継いでいる身であり、庶流だ。嫡流の義信に従うのは道理だと思っていた。


しかし、勝頼の心中は複雑だ。兄を認めたくないという気持ちが心を強く支配している。


現在、父・信玄に味方して兄と反目している勝頼は信濃伊那郡に孤立しているも麾下には赤備えの猛将・山県昌景がおり、三〇〇〇もの兵を抱えていた。幕府方に通じた小笠原信嶺と藤沢頼親が依然として抵抗を示しているが、彼らは義信に同調したというより野心から武田家を離れたために帰参を義信は認めておらず、鎮圧は目前であった。


勝頼は日頃の鬱憤を晴らすかのように、彼らを激しく攻め立てた。


「ふん、所詮は他人を頼りにせねば何も出来ぬ輩よ」


そして松尾城、田中城は陥落する。信嶺は支援を受けていた徳川家康を頼って落ち延び、頼親は自害して果てた。これにて伊那郡は完全に勝頼の治めるところとなった。ようやく勝頼を縛っていた鎖が断ち切れたのだ。


ただ頑強に抵抗していた信嶺と頼親が簡単に敗れたのには、勝頼の知らない裏事情があった。これには上方の状勢が大きく影響しており、武田の問題が甲信だけでは収まらないことを意味していた。


「織田からの使者だと?」


突然に高遠城を訪れた者は、織田を名乗った。


柴田勝家に命じて信濃を狙う織田信長は甲信はバラバラでいてもらった方が都合がよく、義信によって一つに纏まることを嫌った。信長にすれば義信に反抗する勝頼は、協力を呼びかけるには最適の人物である。信玄の子でありながら織田と姻戚関係にあった勝頼を旗頭にすれば、再び武田を二つに割ることが出来るからだ。


そう判断した信長は、家康を通じて小笠原と藤沢への支援を取り止めた。これが両者の滅亡に大きく作用していることなど、勝頼は知る由もない。信長は勝頼支援に方針を切り替え、高遠に使者を送り込んだ。


「痴れ者めッ!即刻、首を刎ねよ!」


ただ勝頼も武田の安泰を強く望む一人である。熱し易い一面があるが決して暗愚ではなく、信長の魂胆など端から見通していた。


織田からの申し出を勝頼は、使者の首を刎ねることで返事とした。


しかし、勝頼は見落としていた。織田信長からの魔の手は、勝頼だけに向けられてはいなかった。信玄に与し、密かに義信へ通じていた木曽義昌が織田に寝返っていたのだ。


十一月十五日。ついに信濃は織田の侵攻を受けることになる。


=====================================


十一月九日。

越前国・一乗谷城


満足な抵抗が出来ぬまま信玄に押され、一乗谷まで逃げてきた浅井長政の許に土岐光秀の使者が訪れた。ようやく希望の光が差し始めたことに家臣たちは気色を浮かべ、幕府の援軍として赴いている柳沢元政も安堵の表情を浮かべていた。


「これより反撃でござるな」

「うむ。浅井の強さを信玄めに見せ付けてやらねばなるまい」


江濃係争より鬱憤の溜まっている家中では、憂さを晴らしたくて暴れたい連中がぞろぞろといる。長政の出陣命令を今か今かと待ちわびており、誰もがガシャガシャと甲冑を鳴らし、すぐにでも飛び出さんと気持ちを浮つかせていた。


この時点で長政は光秀が画策した證誠寺、平泉寺協力の下での信玄包囲が崩れていることを知らない。浅井家中はもちろんのこと元政も知る由はない。誤った情報が戦況を如何に左右するか。誰にも予測はつかなかった。


「日向守殿の前進を無駄には出来ぬ。我らも城を出て、信玄を圧迫する」

「うおおおーー!」


待ちに待った出陣命令に、喚声が応えた。浅井勢は柳沢元政にも出陣を請い、両軍八〇〇〇が一乗谷を出撃していった。一旦、街道に出るために北上してから西へ進路を採り、そのまま信玄のいる鳥羽城へと向かう。


その途上でいくつか小さな叛乱に出くわした。僅か数十でしかない一向門徒の集団であるが、長政は国主であるが故に見過ごせず、鎮圧を命じる。圧倒的に数が違うために差して時間はかからなかったが、散発的に起こっている叛乱が少し気にかかった。


そして浅井勢が鳥羽山の北・浅水に差し掛かった時である。先行する磯野員昌より伝令が遣わされた。


「武田軍は鳥羽城を出撃し、南下している模様。狙いは恐らく土岐殿のいる龍門寺城かと思われます」

「龍門寺城にいる兵は一万数千ほどだったな」

「聞き及んでいるところでは、一万二千ほどのはずです」

「急がねば、拙いな」


武田軍の数は幕府方の数倍を擁す。故に包囲し、圧迫する策に出たも一対一で戦えば勝敗は見えている。


(信玄が南下したということは、我らが一乗谷から出てきたことを知らないのか。それとも別の思惑があるのか……)


長政が一旦、行軍を止めて思案に耽っているところ、側近の遠藤直経が先ほどの小さな叛乱について原因を報せてきた。


「どうやら信玄が各地の一向門徒に挙兵を呼びかけたようにございます。奴らは手当たり次第に村々を襲っており、もはや収拾は取れておらぬ様子。このまま放置すれば、越前は大変なことになります」

「……信玄め。他人の領土だからといって、好き勝手にやりおって!!」


長政は腸が煮えくり返るようだった。


武田信玄といえば、長政の若い頃は強者の象徴だった。六角家に虐げられ、家来筋でしかない者の娘を嫁に取らされた頃、一時は憧れすら抱いたものだ。その采配は天下一と称され、治世に於いても他国を圧倒しているのが、武田信玄という名将だった。


それが、どういうことだ。


己の野心がために領民を狩り出し、日々の暮らしの糧である田畠を荒らす。戦国乱世では珍しくもない光景ではあるも信玄という武将は、他とは違ったはずである。信玄は勝った後に越前を支配するつもりがないのか、とさえ思えてしまう程に。


「殿。如何なさいます」


直経が主の裁断を仰ぎ、長政が当主として決断を下す。


「元より越前に於ける我らの支配は浸透しておらぬ。小賢しい叛乱に目を奪われるよりは、争乱の根源たる信玄を倒してしまった方がいい」


物事の本質を長政は見失っていなかった。


「日向守殿を支援する。者どもッ!進めッ!」


かくして浅井勢は信玄の後を追う様にして南下していった。


=====================================


十一月十日。

越前国・湯尾峠


長政が信玄に追いついたのは、翌日のことだった。


「後方に敵軍!家紋は三つ盛亀甲に花菱!浅井勢にございます!!」


注進が入り、信玄が背後に視線を移す。


「浅井の抑えを命じていた連中は如何にした」

「敗れ去ったようにございます」

「かつて天下に名を馳せた朝倉もここまで落ちたか。草葉の陰で照葉宗滴は泣いておろう」


最初から過度な期待を持っていなかったのか、信玄は言葉ほど悲観に暮れてはいないようだった。


信玄は浅井の抑えとして、麾下に加わった朝倉の旧臣たちを鳥羽城に残してきていた。かつて浅井の上位にあった朝倉家の者たちならば、浅井に対して意地もあるだろうと考えての処置である。無論、数が足りないので一向門徒を五〇〇〇ほど付けている。ただ元来より仲の悪い朝倉と一向門徒たちである。互いに協力することなく、浅井相手に城に籠もって戦うことよしとはせず、野戦を挑んでは個々に戦い、敗れ去っていた。


「仕方あるまい」


信玄は諦めたような口調で言い、床机から重い腰を上げた。


「美濃、浅井の相手をしてやれ」

「武田の兵を使うことになってもよいので?」


命じられた馬場美濃守信春は主に問い返した。元々武田の兵は来るべき決戦に備えるため温存しておく予定であったはず。信玄の命は、この方針に逆らうものであったので、信房は確認を求めたのだ。


「今さら陣替えは出来ぬ。仕方なかろう」

「では、可能な限り損耗は控えます」

「無用だ。余計なことに気を回せば、返って被害は大きくなるものだ。全力で相手をすれば、結果として被害は最小に抑えられる」

「はっ。畏まりました」


と信春が一礼して去ると、信玄は再び前を向いて軍配を握り締めた。


幕府軍との戦いは、一向門徒に激しい被害が出ているも確実に前進している。元より数で圧倒しており、一向門徒には死を恐れぬ不屈の魂が宿っている。味方の屍を越えて突き進む姿は、正直に言って敵に回したくはないと思う。


しかし、そのような彼らの命を擦り潰してまで信玄は進まなくてはならない。足利義輝がどのような天下を抱いているかは知らないが、信玄には信玄なりの天下がある。それを創造する最後の機会を逃すわけにはいかなかった。


(上洛し、畿内の争乱を治めるのに一年、法度を定めるのに一年、そして後事を託せるだけの仕組みを作り上げるのに一年……、それまで儂の命が持つかどうか)


己の余命を悟っている信玄には余り時間は残されてはいない。幼い時分より夢に見てきた天下が手を伸ばせば届くところまで来ている。ここで諦めるつもりはない。


「押し出せッ!」


遂に武田軍の後方で浅井との戦いが始まった。


一番槍を突けたのは磯野員昌。朝倉勢を破った勢いのまま武田に一撃を喰らわせ、食い込むようにして陣中へ深く入り込んでいった。


「ほう……、強いな」


武田軍の最後方に位置していたことで先陣となった原昌胤は、磯野員昌の意外な強さに胸を躍らせていた。弓合戦をすることもなく突進してくる磯野勢に驚嘆は隠せず、大将が強いことは自ずと知ることが出来る。


「受けて立とうではないか!」


昌胤は高揚し、応えるようにして吼える。


突っ込んでくる磯野勢に対し、昌胤は陣を三段に構えた。弓隊で威嚇し、怯んだところに二陣の長槍隊が槍衾を喰らわせる。そして最後に足軽と騎馬隊で以って掃討する。


「何のこれしきッ!続けッ!!」


しかし、磯野勢は弓矢に臆することなく勢いそのままに接近してくる。槍衾をも気迫のみで押し込み、隊の一部が崩してしまった。


「しまったッ!!」


昌胤が悲鳴を上げる。


流れが変わったことで騎馬隊の投入が難しくなった。抱える足軽だけでは磯野勢を止めることは難しいように思える。すぐさま土屋昌続に援軍を依頼し、後援を得ることで陣の建て直しを図った。


「そのような時、与えると思ってか!」


員昌は人垣を飛び越えて昌胤に襲い掛かった。


武田の背後を衝いたとはいえ、数の上では幕府方は信玄の半数にも満たない。峠道が幸いし武田方は大軍の利を活かせておらずにいるが、余裕を与えれば逆転されるのは明らかであり、勝ちたいのなら緒戦の勢いで押し切ってしまうしかなかった。


となれば、是が非でも先陣の武将を討ち取って勢いを維持する必要があった。


「……こ、このッ!!」


組み打ちに持ち込まれた昌胤は完全に動きを封じられる。首を獲られぬよう必死で抵抗を試みるも、相手の力が強くなかなか外れない。


「おらぁッ!」


両手を封じられた昌胤は敵に対して頭突きを食らわすが、員昌は額に血を流しながらも堪えた。


「浅井を舐めるなッ!」


員昌は昌胤を押し倒し、首筋に短刀を突き刺した。昌胤は絶命し、浅井が緒戦を制した。


「うおおぉぉーー!!」


員昌の咆哮に、浅井の士気は頂点まで高まった。


「この好機を逃すな。進めッ!」


すかさず長政は海北綱親、赤尾清綱、雨森清貞ら浅井の精鋭“海赤雨の三将”を全て投入する決断をする。合戦の主導権を渡たす訳には行かず、かといってこちらの陣容は乏しい。いざという時の事を柳沢元政に託すと、自らも陣を進めて味方の支援に出る。


「越前守殿だけを行かせたら、拙者が上様に怒られます」


ここで元政が長政に異を唱えてきた。自分も出撃すると言い出したのだ。


若く実直な長政は義輝のお気に入りだった。苦しい中で元政を越前に遣わしたのも、長政を死なせたくないが為である。それ故に元政は長政と共にあることを願った。


「……忝い」


長政は元政に礼を述べると、先に出撃した海赤雨三将を追い戦場に姿を晒す。武田方は土屋昌続が原昌胤の支援に出ていたが、昌胤が討ち取られた影響が強く支えられずに後退、海北綱親が磯野員昌と交代し、綱親に疲労が見え始めると赤尾清綱が前に出る。そして雨森清貞が清綱と交代する。浅井は果敢に部隊を投入して武田を攻め立て、確実に一段一段と崩していった。


「ここが踏ん張りどころぞ!気を抜くなッ!」


続いて後援に出た真田信綱、昌輝兄弟も崩れ、武田信豊の黒備えが三将の侵攻を必死になって防いでいた時に長政が現れる。大将の登場に味方は奮い立ち、ますます武田は押される格好となった。


「不甲斐ない。御屋形様は嘆かれておられるぞ」


その苦境を救ったのが、信玄から全権を委任された馬場信春であった。


有間川の合戦では生涯に於いて初めて手傷を負ったものの敵本陣を駆け抜けて生還した信春の異名“不死身の鬼美濃”は未だ健在であった。信春がいる限り味方は死の恐怖を感じることはなく、ただ前を向いて敵に当たることが出来る。


信春は長政同様に自軍を前線近くまで進めると、自ら槍を振るって味方を鼓舞する。


「押せッ!押せッ!押しまくれッ!」

「退くでないッ!返せッ!返せッ!」


これにより勢いを取り戻した武田に長政は苦戦を強いられ始めた。元より浅井は坂を上る形で武田に当たっているため、勢いを逃したら取り戻すことは難しい。武田の攻撃は三将に代わって元政が受けているが、これも長くは持ちそうになかった。ここで長政が支援に出ても、ジリ貧に追い込まれるだけである。


「撤退するならば、余裕のある今しかございませぬ」

「口惜しいな。いま少しであったものを……」


信春さえ破れば、信玄の喉元に刃を突き立てることが出来たはずだ。かつて六角承禎を破った野良田合戦であれば、上手く行ったことも信玄相手には通じないということか。


「……退くぞ」


長政は苦渋の決断を口にする。


越前の国主として、ここで兵を失うわけにはいかなかった。長政が退けば光秀も耐え切れず、いつかは近江へ撤退していくことになるだろう。そして信玄は近江へ出る。


もし幕府軍が近江で信玄を破れば、浅井にも展望が開けてくる。もはや自力で勝利を呼び込むことの出来ないことを知った長政は、一乗谷へ戻って味方の勝利を祈ることにした。


そして戦場は、近江へと移る。


=====================================


十一月十六日。

近江国・余呉


近江の北端にある余呉湖。


古くは淡海(琵琶湖)の一部だったという言い伝えがある。三方を山に囲まれ、南の賤ヶ岳からは琵琶の海を一望することができ、西には南北に北国街道が通っている。小さな宿場町こそあるが、大して人は住んでいない土地だ。土岐光秀率いる幕府軍と武田信玄の激闘が行なわれている越前からほど近く、敵が現れるとしたら間違いがなくここを通ることになる。


故に将軍・足利義輝は、余呉を決戦場に選んだ。


征夷大将軍として信玄に山城まで入られては沽券に関わる。従来通りに勢田で防ぐことも一策ではあるが、叡山に動座している帝のことを慮れば可能な限り遠い地で撃破するのが好ましい。かといって越前まで大軍を送ることは出来ないので、決戦場は余呉となった。信玄も上洛路に北陸道を選んだ以上、余呉での決戦は避けられない。


そして義輝は、決戦の支度を織田信長に一任した。


信長が近江を治める大名であるという理由が表向きだが、江濃係争を引き起こした責任を取らせるのが本音だ。


(義弟と争ってまで欲しがった地だ。岐阜宰相も死力を尽くして守るであろう)


と義輝は信長の心中を量った。しかし、信長は近江の防衛を家臣である羽柴藤吉郎秀吉に丸投げし、自らは積極的に関与しようとはしなかった。


信長が近江を守る気があるのか、とさえ疑ってしまう程に。


「御任せくださりませッ!信玄如きを相手するのに、御屋形様の手を煩わせたりは致しませぬ」


そこは常日頃から大言壮語の秀吉である。任されたことをいい事にますます調子に乗り始める。ただ秀吉は単なるほら吹きではなく、力量が備わっているために見事なまでの陣地を言葉通りに築き上げていった。


余呉湖の北、茂山と神明山から東野山までの直線状に複数の砦を築いて防衛線とし、東の大岩山から田上山の麓にかけて狭くなっているところに第二の防衛線を張る。どの砦も早普請ながら手抜きなどは一切みられない。今浜の築く予定だった城の建材や小谷城を破却した際に出た廃材を転用、使用した陣地は、軍略の天才である竹中半兵衛重治が智恵を出し、築城の名人たる秀吉が総普請の陣頭指揮をしている。その防衛陣は、鉄壁を誇った。


その秀吉が陣を張る地として選んだのが余呉湖の東岸に位置する岩山である。戦況全域を広く望める絶好の場所だった。


とはいえ秀吉のいる地が本陣ではない。本陣は第二防衛線の南、木之本にある。そこには伊勢公方こと足利義氏が義輝の命令で出陣してきており、今回の総大将を務めることになっている。秀吉は織田軍の総指揮を任されたと言っても家中では外様の身、義氏の相手は同じく織田を代表して出陣して来ている譜代の丹羽長秀がしているので、気楽だった。信玄が迫っているというのに終始、笑顔は絶えない。


そんな秀吉を幕僚の蜂須賀彦右衛門正勝は不思議がった。


「藤吉郎、随分と余裕じゃねえか。前に信玄と戦った時は、あんなにびびってたのによ」

「当然ではないか。此度の戦いは勝つ必要がないし、負けたところで責任は問われぬ。こんなに楽な戦いはないわ」

「勝つ必要がない?どういうことだ。信長様が来られるまで、時間を稼ぐのじゃねえのか?」


秀吉の言に疑問を抱いた正勝に対して、隣に座る重治が答える。


「彦右衛門殿。信長様は近江には参られませぬ」

「来ない?まったく兵を動かせぬ訳じゃねぇだろう。飛騨にいる内藤某って奴を警戒してのことか」

「いえ、そうではありませぬ」

「訳が判らねぇな」


正勝には信長が動かない理由が判らなかった。盟友の浅井と争ってまで手に入れた地をむざむざと失ってもいいと思っているのか。それとも別の思案があるのか。


それには推測であると前置きをしてから秀吉が回答した。


「小六どんよ。御屋形様の眼中には、既に信玄はおらぬ。御屋形様は仮に信玄が上洛を成功させたとしても、大した問題にはならぬと考えておられるのだよ」

「もっと訳が判らなくなってきた。上洛を防ぐために俺らはいるんじゃねぇのかよ」

「上洛されて困るのは公方様であって、御屋形様ではない。信玄には自前の兵は少なく、そんな状態で京を占拠したところで基盤を築くのは難しい。かの大内義興や三好長慶とて、大兵を擁しながらも結局は地盤を築くことに失敗しておる」


西国最大の守護大名であった大内義興は数万の大軍を擁して十一年間もの長きに亘って在京したが、帰国すると即座に政権を失った。また三好長慶も存命中は京を完全に膝下に置いていたが、死後二年も経たずに三好一族は京を失っている。


それほどまでに京を力で支配するということは難しいのだ。ただ支配するのならば、兵を持たずに権威の象徴として都にあった足利将軍の方が、上手くやるだろう。現実、足利将軍は何度も京を追放されながらも帰洛を果たしている。これは力だけでは京を支配できないことを物語っていた。


「えらい博識じゃねぇか」

「はっはっは。全て半兵衛の受け売りよ!」


盛大に笑って見せる秀吉の横で、半兵衛が静かに礼をした。


「でもよ。近江に来ねぇとしたら、信長様は何をやるんだ?」

「御屋形様は、信濃と飛騨を獲られる。特に東が少し騒がしくなっているようじゃからな、先々を考えれば、今のうちに東国へ影響力を築いておくことは必要だろう」


まるで秀吉は己が戦国大名になったような物言いだった。それは主・信長と同じ目線で物事を考えている証拠であり、秀吉に言わせれば既に信長は戦後を見据えた行動に入っていることになる。


義輝でさえ見ている信玄を、信長は見ていない。これが何を意味しているのか。ここにいる誰もが気付いてはいなかった。それは独自に“天下”というものを見据えていなければ、理解し得ないものだったからだ。


“天下布武”


信長だけが見ているそれは、果たして何なのか。単なる“天下”とは何が違うのか。少なくとも信長は日ノ本の在るべき姿をはっきりと掴んでいることだけは間違いなかった。秀吉は、その片鱗を見たとでも言うのだろうか。


翌日、越前より撤退してきた土岐光秀の軍勢が秀吉らに合流した。


早速に光秀は義氏に挨拶を済ませると秀吉の許を訪れ、対応策の協議へ入った。信玄が姿を見せるまで大して時は残されていない。素早く陣立てを決め、これに備えなくてはならないが、秀吉の対応は冷たかった。


「各々方の陣地は用意しておりますれば、後は任せられた陣地を死力を尽くして守れば宜しかろう」


言葉遣いこと丁寧だが、言っていることは命令に等しい。とても陪臣が幕臣に言う台詞ではなかった。


「そちらの指示に従えと?」


光秀の言葉には明らかな不満が含まれていた。


決戦場を選んだのは義輝であって、支度は義輝から信長へ委任されている。秀吉は信長の代行というだけで、義輝の名代たる光秀に命令する権限を秀吉は有していない。なのに秀吉は光秀の意見を訊こうとする素振りがまったくなかった。聞く耳持たずといった様子に光秀も感情を害した。


「今にも武田が現れるという時、悠長にしている暇などありますまい。それに陣立ては左兵衛督様も御認めになられていることにござる」


義氏の許可を得ていると言って、秀吉は押し切ろうとする。


元々義氏の家臣は少なく、簗田晴助、一色月庵といった賢臣はいても秀吉と半兵衛の言を覆すほどの才はない。二人に“これが最善の策です”と言われればそれまでなのである。


予め義氏の言質を得ていたのは、光秀に口を出させないためか。


(官兵衛、何とかならぬか)

(こればかりはどうにも。流石は竹中半兵衛……“今孔明”と称されることだけはあります)


光秀は腹心の黒田孝高に助け舟を求めるが、孝高の智謀を以ってしても秀吉の采配は現状に於いて最善であった。


気に入らないのは光秀たち幕府軍が前衛なのに対して、秀吉ら織田勢は後方に位置することだ。越前から撤退してきたことを踏まえれば仕方のない面もあるが、光秀に至っては最前線に置かれることになる。これでは合戦が始まってしまえば目の前の敵に掛かりきりとなり、他に手が回らなくなるのは目に見えていた。前線が嫌というわけではないが、光秀としては戦況の眺めるだけの余裕は作っておきたかった。


秀吉が決めた布陣は、次の通りである。


前線より茂山砦に蒲生賢秀が二〇〇〇、神明山砦に畠山義続、神保氏張ら二三〇〇、もっとも激しい攻撃が予想される中ノ郷に土岐光秀の一四〇〇、東野山城に波多野秀尚ら丹波勢四二〇〇が布陣、ここまでが第一防衛線であり、その全てが越前遠征に赴いていた諸将が務めることになる。


「敵は街道沿いに主力を出して参りましょうが、兵力では我らを上回る。搦め手も激戦が予想され、こちらは我ら織田が引き受け申す」


そう言って秀吉は絵図を指し示しながら説明を加えていった。


第二防衛線は、岩崎山砦に蜂須賀正勝一八〇〇、下余呉に義輝の命で派遣された島清興一五〇〇、岩崎山砦に羽柴秀吉三六〇〇、西側の賤ヶ岳砦は丹羽長秀が四〇〇〇で守備し、西端の祝山に山岡景隆二二〇〇、本陣は木之本の浄信寺に置かれ、足利義氏が名目上の総大将として陣を構える。


義氏が伊勢より連れて来た兵は四五〇〇で、幕府方は総勢二万五三〇〇となる。


「委細は承知した。されど羽柴殿、一つお聞きしたい」

「何ですかな?」

「織田様の出陣は、いつ頃になられる」


光秀は語気を強めて問い質した。


当然ながら光秀は信長が出てくると思っている。この兵力で信玄を敗れるとは安直に考えてはいない。信長が出て来るまでの時間稼ぎであり、決戦は信長と合流してから行なうものだと信じていた。


「もう暫くは。我らも長島で大きな犠牲を払った。軍の再編にも時間と銭がかかり申す」

「拙速は織田軍の得意とするところのはず。聞くところによれば、東濃に軍を進めておるとか」

「甲信の武田義信は去就を明らかにしておらぬ。いま東濃の軍を返す訳には参らぬ」

「甲斐守殿は、上様に従うと書状を寄越してござる」

「言葉だけではないか。上原で信玄を見逃し、伊那の弟を野放しにしておる。本当に幕府へ従うか判ったものではない」

「それは織田様が出て来れぬ理由にはならぬ」

「だからこそ我らがおる。御屋形様がおらずとも充分な働きは致す故、ご案じ召されるな。義輝公とて此度は出陣されておりますまい」

「上様は石山に出られておる故に来られないのだ。織田様とは事情が違う」


光秀と秀吉との間で、見えない火花が散った。


秀吉が言っているのは、義輝が出てこないなら信長も出ないということだ。主と公方を同列に捉える秀吉に対し、光秀は苛立ちを覚えた。


征夷大将軍は、大名とは違う。言うなれば信長は国主であるということと官位の序列で上だというだけで、光秀と大して差の無い地位にあるのだ。義輝が出てこないから出陣しないというのは理屈に合わない。


結局、そこから話は進まずに光秀は自陣に帰すことになった。悪戯に時を要することは、信玄を喜ばすだけなのだ。いち早く陣地を視察し、備えを固めねばならなかった。


「……ちっ、羽柴か。どうも好かぬな」


初めて会ったにも関わらず、光秀は秀吉と仲良くできる気がしなかった。


「某は殿と同じく大器者と御見受けいたしましたが……」


一方で孝高の印象は違った。陰と陽という違いこそあれど、どちらも稀有な才能を有しているように思えた。単独でこれだけ広大かつ堅固な陣地を短期間で築き上げ、光秀を前にしても一歩も引かぬ度胸は、義輝が重きを置いている織田信長が余呉という地を任せたのも、判るような気がする。あのような者の下で策を練られる竹中半兵衛は、まるで青空を羽ばたく鳥のように自由気ままな戦場を描くことだろう。


「土岐光秀か。いけ好かぬ奴じゃ」


また秀吉も同様に光秀とは生涯、上手く付き合えるとは思えずにいた。幕臣と織田家臣という立場で幾たび顔を合わせる機会があるかは判らないが、許されるなら二度と見たくはない顔である。


「珍しいですな。秀吉殿が人付き合いで悩まれるのは」


半兵衛には“人たらし”と呼ばれる秀吉が困っている姿が面白く映った。常から表情を変えぬ男が腹を抱えて笑いそうになっている。


「儂だって、好かぬ相手くらいおるわい」


それに秀吉は腹を掻き、ぷいっ顔を膨らませて見せた。


幕府方は内々に問題を抱えながら、大きな敵に望まなくてはならなくなった。


武田信玄、近江へ侵攻す。


光秀らの後を追って近江へ姿を現した虎は、敵の布陣を見て一言だけ放った。


「……勝った」


将軍・足利義輝の姿もなければ織田信長もいない。然しもの織田もまったく兵を出さないということは出来なかったのだろうが、成果は上々である。土岐光秀など信玄の知る名がいくつか戦場にはあるが、その誰を相手にしても信玄は負ける気がしなかった。


挿絵(By みてみん)


信玄は北陸街道攻略に一向宗を始めとする主力を置き、西側の搦め手となる山沿いに精鋭たる武田勢を据えた。


具体的には、街道沿いに鈴木重泰七〇〇〇、林谷山に七里頼周八〇〇〇ら加賀一向宗、最前線の今市に甘利信康四〇〇〇、東野山攻略は望月信永が四六〇〇で担当する。どちらも越中一向門徒の支援を受けており、数だけは多い。


他にも天神山に畠山七人衆八〇〇〇が入って、眼前の旧主を引き付けている。また信玄が突破を狙う塩津海道沿いには土屋昌続一二〇〇、武田信豊一五〇〇、真田兄弟一〇〇〇と続き、副将として馬場信春三〇〇〇が指揮を執る。後詰として椎名康胤四〇〇〇を行市山に置いているが、これをどちらへ向かわせるかは戦況次第となる。また信玄は内中尾山に布陣、守る兵は六〇〇〇と多い。


信玄方は総勢で四万八三〇〇と幕府方のほぼ二倍を誇るが、越前で七万近くまで達していたことから考えれば、浅井の抑えや湯尾峠の突破に大きな犠牲を出てしまっていた。それでも余呉での合戦に勝ってしまえば、後はどうとでもなると信玄は考えている。石山本願寺と挟撃すれば幕府の本隊を破るのは造作もなく、織田も長島に引き続いて余呉で敗れれば、単独で信玄に勝てるほどの勢力は保てない。ならば、幕府の本隊を破った後に濃尾に侵攻し、平らげてしまえばいい。


そんな信玄の思惑を羽柴秀吉が築いた防衛陣が待ち受ける。


虎と猿。


近江で二度目の決戦が始まろうとしていた。




【続く】

さてさて今回は少し投稿ペースを早めることが出来ました。


遂に信玄との決戦が始まろうというのに、義輝と信長という二人が不在という有様。光秀と秀吉という史実では因縁深き二人が、両兵衛を付き従えて防戦に努めます。


果たして結果が如何になるのか。ひっそりと島左近も参戦していたり……


合戦の模様は全四回を予定しています。最長でも二ヶ月以内には終わらせたいところです。(本音としては一ヶ月)

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