第十九幕 今山の合戦 -鍋島決死隊、出撃-
元亀元年(一五七〇)八月十二日。
筑前国・博多
弘治三年(一五五七)の大内家崩壊から始まった毛利と大友の対決は、この日に終結を迎えようとしていた。両家の調停は幕府の直轄地となった博多で行なわれ、毛利家からは安国寺恵瓊と桂元重、大友家からは吉岡長増と臼杵鑑速が出席、幕府の名代として申次衆の大館藤安が立会い、将軍・足利義輝の裁断が告げられた。
「以前から申し渡していた通り、博多は幕府が直轄地として治めることとする。また奉行には細川下野守殿が就任するので、両家が博多にて取引を行なう際は下野守殿を通すように。宜しいな」
藤安がやや高圧的な態度で、両家の代表者たちに接する。
かつて上杉と北条の調停を行なった時とは、少し様子が違っていた。あの頃は幕府の力がまだ弱く、関東に威令は届いていなかったが、西征を経て謀叛方との戦いに勝利した今の幕府の影響力は、西国に於いては特に大きくなっている。毛利を降し、備中から四国までを版図に加えた足利義輝の威光は、九州にまで及びつつあった。
その為、毛利も大友も基本的に幕府の命令には従う姿勢で会談に臨んでいる。
とはいえ両家とも戦国の世で覇を競い合ってきた者同士である。幕府の思惑をそのまま受け入れるような真似をするほど寛容な精神は持ち合わせておらず、幕府へ各々の要求を突き付けている。
まず今回の和睦については、概ね大友家の主張が通っていた。
大宰府を始め、大友は現時点で制圧している地域の獲得に成功している。そういう点では侵略者側である毛利も同じに見えるが、最後の係争地であった高橋鑑種の岩屋城が今回の和睦で大友の所領となった。これは幕府の裁定が大友寄りであることを知る一つの根拠だ。無論、宗麟も幕府の意向を敏感に感じ取っている。
当然ながら宗麟は、追い打ちとばかりに裏切り者である鑑種の首を求めた。
「当家を頼った者を見殺しにすることは、毛利の威信に関わる。そもそも岩屋城はそちらのものとなったのだ。これ以上、欲をかくのは止められよ。見苦しゅうござる」
ただ毛利にも意地がある。鑑種の首ついては頑強に抵抗を示し、決裂すれば一戦も持さない覚悟であることを言葉の端々に匂わせている。
これに対し義輝は城の明け渡しのみで解決を図るも両者は一歩も引かず、交渉は難航する。
「幕府は当家の求めに応じ、兵を出されたはず。これまでも当家は幕府の命をただただ守り、忠節を尽くして参りました。それなのに、ここでも毛利の肩を持たれますか」
宗麟は天文十九年(一五五〇)の家督就任以来、幕府ひいては義輝を支援してきた。自家の都合があったことは認めるところだが、紛れもない事実でもある。よって義輝も毛利との関係を天秤で比べた場合、大友家に重心を置いていた。
それが元亀擾乱で一変する。
謀叛方の一斉蜂起で義輝は窮地に陥り、毛利の力がどうしても必要となった。その状況は武田信玄が生きている今も変わってはいない。現状、直接に幕府を支援できる毛利と間接的な勢力でしかない大友家の重要性は、過去とは違って逆転してしまっている。
ご都合主義にも受け止められるが、それはお互い様なところもあるので一概に義輝ばかりを責められるものではない。幕府が大友を頼ったのは確かであるが、宗麟が幕府を利用したことも、また確かである。それを知っている義輝は、大友に対する全てに筋を通すつもりはなかった。
だが宗麟にしては面白くない。幕府の非を咎め、義輝の痛いところを突いてきた。西征のきっかけとなった援軍要請を持ち出し、幕府の変心を強く糾弾することによって譲歩を引き出そうとしたのだ。これが功を奏し、鑑種は助命こそ認められたものの高橋家の名跡を捨てることになり、元就の配慮で小倉城主となる。
これにより高橋家は正式に宗麟の家臣である吉弘鎮理が継ぎ、名を高橋鎮種へと改めた。岩屋城の支配が完全なものとなったのだ。
ただ義輝も大友に釘を刺すことは忘れない。
「また此度、正式に探題職の廃止が決定した。九州は元より、西国、奥羽と全ての探題職は幕府の制度から撤廃されることになる」
「なっ……!?当家に、九州探題を辞めろと申されるか!」
まさに寝耳に水。これには長増、鑑速の両名が憤りを見せる。
「勘違いされては困る。何も辞めろという訳でも、大友殿に不手際があったという話ではない。ただ上様によって幕府の職制が見直され、探題職が廃止となっただけである」
「されど……!!」
「これは幕府の決定事項である。また此度の和睦調停に関係のある事柄ではないので、ここで何を申されても拙者から上様に取り次ぐことは有り得ぬと思って頂きたい!」
ピシャリと言って退けた藤安に二人は落胆し、大きく肩を落とした。
九州探題は大友家が九州制覇を目指すに当たって一番の大義名分になっていたものだ。古くは元寇に際して鎌倉幕府が設置した鎮西探題が大元となっているが、足利幕府では初代・尊氏が政争に敗れて九州に逃れ、再起を図る際に一色範氏を九州に残したことに始まっている。一時は旧御一家の一角である渋川氏が世襲して李氏朝鮮とも交易するほどの力を持つも時代と共に廃れていった。
その空席に九州で勢力を拡大していた宗麟が着目し、莫大な献金と共に探題職を獲得したのが永禄二年(一五五九)と十一年前のことである。以来、宗麟は幕府に代わって九州を管轄する者として、抵抗する勢力を排除しながら版図を拡大してきた。
それが幕府の力が増大し、事情が変化する。
あくまでも探題職が設置されたのは、幕府に地方を治める力がなかったからだ。繁栄を極めた足利義満の時代であっても幕府は中央を取り仕切る政務機関の域を出ておらず、強大な力を持つ探題や管領の叛乱は相次いだ。
それを義輝は“天下泰平”の旗の下、見直そうとしている。
(強すぎる力は、幕府の支配体制を揺るがす)
そう結論付けた義輝は、早くから管領職と探題職の廃止を検討してきた。
管領職は細川家の没落によって自然消滅し、関東管領は上杉謙信の忠義によって速やかなる廃止が実行に移された。残る探題職は九州が大友、奥州が伊達、羽州には最上が就任している。この内で伊達と最上は幕府の決定に口を挟めるほど大きくはなく、また遠国と影響は少ない。問題は、九州で六カ国の版図を有する大友家の存在だ。
よって義輝は一部の守護職も解任させるかどうか評定衆の中で出た議論を今回は見送る形で決着させた。藤安が言ったように宗麟に不手際はなく“解任”という扱いは和睦を長引かせるだけと義輝は判断したのだ。大友家は探題職の廃止を通達されただけで、他の守護職は筑前が毛利と大友で半国守護ずつとなった以外はそのまま据え置かれた。
「委細……、立ち戻って主に伝えまする」
二人としても宗麟としても認められるものではないが、幕府組織に対して物を申す権限は一切有していないため、どうしようもなかった。悔しそうに歯噛みする表情は、傍から見ていられるものではない。
一方で毛利方で参加している安国寺恵瓊は、大友の様子を窺い心の中でほくそ笑んでいた。
(大友も終わったな。このまま中央が固まれば、幕府は大友より毛利に重きを置く。大殿が懸念されていた右衛門督様の将来も、これで安泰か)
この和睦調停だけを見るならば、毛利は完全に勝者だった。
岩屋城を明け渡しはしたが、そもそも毛利の城という訳ではない。所詮は他人の物が他人に渡っただけであり、大した問題ではない。また筑前守護の内示を受けながらも一国保持を逃したが、元より内地に興味を抱いていない毛利からすれば、これも問題にすべき事柄ではなかった。
毛利が九州を狙った目的は、博多と海運の確保。
赤間ヶ関を支配し、玄界灘を独占すれば瀬戸内から九州までの海路が拓け、明や朝鮮との交易も広がり、毛利は莫大な富を得ることが出来る。かつて守護大名に貿易を制限していた幕府も毛利に筑前一国の内示を与えていたことから公に口に出来ず、元就は交易の黙認を獲得した。
しかも毛利は所領問題で折れることにより奉行職の人事へと介入している。備中代官・上野隆徳の配下となっていた細川下野守通薫の推薦を幕府に伝えたのは、博多に毛利の影響力を強く残すためである。
通薫は細川家の分家の一つ野州家の当主で、備中の在地領主として毛利の後援を受け、所領を奪還したという経緯がある。そういう関係から幕府と毛利が戦った高梁川の合戦には沈黙を貫いていたが、上野隆徳が代官に就任すると出仕し、麾下の有力武将として備中発展に力を尽くしていた。
その通薫を博多奉行に抜擢するという人事を、毛利は求めてきたのである。
確かに通薫は領地経営に不備はなく、それなりの器量を有してはいた。そして細川京兆家に血筋は近く、家格も申し分はない。ただ通薫の幕府への貢献は帰参してからのもので、博多を任せるほどのものはなかった。
しかし、義輝は通薫を奉行に任じた。
この頃、北陸で武田信玄が暗躍をしており、石山本願寺も健在で毛利の要求を撥ね付ける余裕がなかったからである。幕府としても認めれば毛利に対して筑前半国を割くだけで済み、決して悪い話ではなかった。毛利が九州へ張り付けている兵を解放できれば、いざという時に使えるという利点もあった。
そしてこの日、幕府と毛利、大友家の三者の思惑が錯綜した和睦が正式に成立した。幕府は博多の経営に本格的に乗り出し、毛利は即座に兵を退く。
そして大友は失った所領を取り戻すべく、矛先を別のところへ向けるのだった。
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十月十日。
筑後国・高良山
毛利との和睦で実質的に筑前の半分を失った宗麟は、所領を回復すべく矛先を別の場所へと向けた。一旦は豊後へ帰国するも稲刈りを終わらせると再び陣触れを発し、軍を進めてきた。
「和睦は幕府を介して毛利と結ばれたもの。龍造寺を討伐するのに何の遠慮がいろうか」
宗麟は並々ならぬ決意を以って肥前への侵攻を開始する。
“肥前の熊”こと龍造寺隆信は大内家に属していた。ただ粗暴な性格から評判はよくなく、大寧寺の変で大内義隆という後ろ盾を失うと肥前から追われる羽目になり、その後は筑後の大名・蒲池鑑盛の助力を得て領地復帰を果たし、主筋であった少弐氏を滅ぼすことに成功、以後は肥前の統一に向けて西肥前や南肥前を何度も侵食した。
この隆信の勢いに危機感を覚えた大村純忠や有馬義貞ら肥前の者たちが少弐氏を支援していた宗麟へ援軍を求めたのも、云わば自然な出来事であった。
以前から龍造寺討伐の機会を窺っていた宗麟は、漸く毛利との和睦を経て実行に踏み切ったのである。和睦によって軍役から解放されたのは毛利だけではなく、大友もまた大軍を肥前へ向けることが可能となっていた。
「ただ幕府との手前、儂は動かぬ方がよかろう。兵の指揮は、八郎に任せる」
流石に和睦が成った手前、毛利に与した龍造寺を攻めることは露骨に映ると判断した宗麟は、自ら采配を揮うことはせずに全権を従弟の大友親貞に委任した。自身は高良山に身を置いて肥前へ足を踏み入れず、諸国の豪族たちが余計な動きをしないように目を光らせることにした。
「御任せあれ。龍造寺など軽く捻り潰して参りましょうぞ」
一方で親貞も初めて大軍を与えられ、意気揚々と龍造寺の居城・村中城を目指す。大友勢には肥前の反龍造寺大名も加わり、公称六万とも八万を数える大友の大軍勢の様子を後に肥陽軍記はこのように記していた。
尺寸の地も残さず大幕を打つつけ家々の旗を立並べ、たき続けたるかがり火は沢辺の蛍よりもしげく、朝餉夕餉の煙立て月も光を失なえる。
主に肥前の国人である大村純忠や有馬義貞の子・義純、肥前・須古城の平井経治、元龍造寺与党であった後藤貴明、松浦水軍最大の一族である波多氏の一門でもある鶴田前勢、肥前蓮池城主・小田鏡光が西側一帯に布陣し、大友の軍勢が北側に布陣した。
村中城から北西の今山を本陣に大友親貞、戸次道雪、吉弘鑑理、馬場鑑周、横岳鎮貞、江上武種、高木胤秀、神代長良、犬塚鎮家、臼杵鑑速と錚々たる顔ぶれである。大友方は他にも勇将、智将を揃えてはいるが、大半は手にした南筑前の支配を固めるために宗麟の許におり、不在であった。
それでも大友方の陣容は厚い。龍造寺隆信は味方を募ること敵わず、五〇〇〇しか集められなかった。
勝敗は火を見るより明らかであった。
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十月十八日。
肥前国・村中城
龍造寺の居城・村中城では連日の如く白熱した軍議が催されていた。江里口信常、成松信勝、百武賢兼、円城寺信胤ら龍造寺が誇る四天王を始め好戦的な者たちが多い家中からは主戦を唱える声も多かったが、大友の大軍を前に降伏を唱える者も少なくはなかった。様々な意見が出されたがどれも決め手に欠くものばかりで、隆信は断を下せぬまま時間だけが過ぎていた。
龍造寺隆信。
熊と称されるのは、その巨漢からきている。過去に何度も裏切られていることから猜疑心は強く、敵はもちろんのこと家臣に対しても冷酷な一面を見せることもしばしばある。敵が如何に強大でも恐れることを知らず、決して気後れはしていない。
ただ現状は厳しい。
肥前の者たちは全て敵、龍造寺を庇護してくれていた蒲池鑑盛も大友方として兵を出している。また頼るべき毛利は大友と和睦してしまい、隆信は完全に孤立無援状態に陥っており、この戦いに勝利したところで先の見通しは立っていない。
「ここは幕府を頼るしかあるまい。幕府の命ならば、宗麟も簡単に手出しは出来まい」
当然と話題は頼みの綱である幕府に向く。だが、ここでも現実が厳しく圧し掛かる。
「判らぬでもないが、幕府の仲介を得るにしても幾日かかると思っている。その前に城が落ちてしまえば意味がないわ」
「では、どうするというのだ。勝てる公算が他にあるとでも申すのか」
「それを考えるため、こうして集まっているのではないか」
「ええい!だから儂は幕府を頼ったらどうか、という案を出したのだ。代案がないのなら人の意見に口を挟むではない!」
「何じゃと!?」
「何を!」
とある武将と武将がいがみ合い、刀の柄に手を伸ばして殺気立たせている。すると誰ぞ宥め役が現れては、また議論は振り出しに戻る。
こういうことが、もう何度も行なわれていた。
(埒が明かぬ。やはり左衛門大夫しかおらぬか……)
進まぬ軍議に隆信は苛立ちを覚えていた。
物見を放ち、未だ口を開かない腹心の鍋島信生へ隆信は視線を向けた。信生は両の腕を組んだままジッと広げられた絵図を見つめ、思案に耽っている。これまでもあらゆる情報から勝てる手立てを導き出し、主に進言してきた。
その信生が起死回生の策を出してくることを隆信は期待している。
(まともな戦法で大友の大軍を打ち破るのは不可能だ。勝つためには、総大将の首を獲る他はない)
厳島の合戦然り、桶狭間の合戦然り、だ。寡兵によって大軍を打ち破るには、敵本陣を奇襲して総大将を討ち果たしてしまうしかない。信生は大友親貞を討ち取ることのみに思考を集中させていた。
その信生がふと視線を周囲に向けたところ、主がこちらを見ていることに気が付いた。互いの視線が交差し合い、阿吽の呼吸で信生は口を開き始める。
「敵は大軍なれど、こちらは精鋭揃い。攻撃を撥ね返すだけならば、暫くは持ち堪えられましょう。されどいつかは限界が来ます。援軍のない籠城戦に勝利はございませぬ」
まず信生は籠城を主張する者たちを黙らせるため、籠城戦に先がないことを告げる。
「と、なれば奇襲か」
聡明な隆信も、信生が言わんとしている事にすぐ察しはついた。
「はい。敵本陣を襲撃し、総大将の首を挙げるしか方法はございませぬ」
「されど成功するものなのか。敵は六万と多く、平野部の多い城外では隠れる場所も少ないのだぞ」
「六万とは大袈裟、某の調べたところ敵の実数は恐らく四万ほどかと存じます。合戦続きの大友に六万もの数を揃えることは不可能にございます」
「それでも大軍だぞ」
「ご安心を。加えて肥前衆の士気は低うござる。奴らは西側に集中して布陣しており、小勢であれば夜陰に乗じて近づくのは難しくありませぬ」
「士気が低い?奴らが大友を頼ったのであろう。手伝い戦ではあるまいし、何故に士気が下がる?」
「彼らは大友がこれほどの大軍を送ってくるとは思わなかったのです。仮に我らを倒したところで、それは大友の手柄でしかなく、当たり前の如く龍造寺の所領は大友のものとなり、彼らの実入りは皆無となりましょう。これで士気が上がる訳がありませぬ」
「……うむ、確かにな」
信生の指摘は的を射ていた。
所領に関して強欲な宗麟は、勝った後に得られる土地を他人に分け与えるつもりなどさらさらなかった。筑前半国を失った分、肥前の所領で穴埋めしなければ割りに合わず、大樹に寄るだけの肥前衆には所領の安堵だけで充分と考えていた。
大将たる親貞は宗麟の意向を知っており、既に領地経営について口にし始めていた。これが肥前衆に伝わり、士気が下がっているのだ。
「敵大将の大友親貞は凡庸な男と聞き及びます。これといって目立った功績はなく、所詮は血筋だけの男に過ぎませぬ。大軍を揃えた事で気を大きくし、必ずや油断しておりましょう」
「奇襲は成功するか」
「……一つだけ、懸念がございます」
「何だ」
「親貞の隣には、あの戸次道雪が布陣しております。道雪は如何なる状況でも適切な判断をし、奇正応変に過ちはございませぬ。逆に親貞が凡庸なればこそ、警戒を厳しくしておるはずです」
「ならば奇襲が成功する公算は……」
「五分と五分……いえ、失敗する可能性の方が高いかもしれませぬ」
二人の額に嫌な汗が流れる。
道雪の名は、九州では重い。特に道雪は自ら身体に障害を負っている為か人の扱うことには長けている。采配を握らせれば九州で右に出る者はおらず、若い信生の腰が引けてしまうのも無理はなかった。
そして怖いもの知らずの隆信でさえ、道雪には一目を置かずには得ない。
「大友に降伏を申し出るならば、兵を失っていない今しかございませぬ。仮に奇襲が失敗したならば、恐らくは降伏を申し出ても家名の存続は許されぬかと」
「やはり降伏か……」
龍造寺家の存続だけを考えるなら、降伏という手段が尤も適している。それは間違いない。大友も龍造寺が兵を失わずに麾下に加わるのなら、取り潰しをするという真似も出来ないからだ。
家臣である信生の立場では、主に選択肢を用意することしか出来ない。あくまでも選ぶのは、主君である隆信でなければならないのだ。
(何れ機はあろう。今は恥辱に堪えてでも家名の存続を図るべきか……)
そう隆信と信生が考えていた時、勢いよく襖が開いて一人の女人が入ってきた。
「情けない。それが今から戦に臨む者の顔ですか」
高飛車に発言した女人は甲冑を身に付け、薙刀を力強く握り締めていた。相貌から明らかに老齢に達していると思われるが、年齢を感じさせないほどの覇気を持ち合わせていた。
「は……母上!?」
隆信と信生が、息を合わせて驚きの声を上げた。
入ってきたのは、隆信の母・慶誾尼である。慶誾尼は隆信の父・周家の死後、鍋島清房の継室になったことから、信生の母でもあった。
「貴方がたは男でありながら、まるで敵の大軍を前にして恐れている鼠のようではないか。男なら死生二つの道をかけて、大友の軍勢と戦いなさい!」
男の矜持を揺さぶるような言葉を慶誾尼は投げつけてきた。隆信と信生は罰の悪そうに視線を逸らしている。
「もし戦わないとなれば、この私が龍造寺を率いて戦います」
と慶誾尼は覚悟を口にする。これが隆信の背中を押すことになった。
魂を振るわされた隆信は、立ち上がって宣言する。
「出陣ぞッ!!」
村中城の士気は、最高潮に達した。
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十月十八日。
肥前国・今山
龍造寺勢が密かに出撃を決めた頃、大友方の本陣では別な意味で盛り上がりを見せていた。
「ほれ、もっと飲むがよい。遠慮はいらぬぞ!ははは!」
総大将の大友親貞が麾下の将を呼び寄せて酒盛りをしていたのである。顔を赤らませ、手には杯が握られている。戦場というのに遊び女の姿も確認できた。鍋島信生が予想した通りに親貞は大軍に気を大きくし、既に勝ったつもりでいたのだ。
ただ全員が愉しそうに飲んでいるといえば、そうではない。特に本陣へ招かれた肥前衆は勝ったところで所領が増えることはないと判っているだけ付き合わされることに鬱屈としており、口では笑っても目は笑ってはいなかった。
「何たる様じゃ!合戦の最中というのに、何をお考えか!」
そこに様子を聞きつけた道雪が怒鳴り込んできた。
鬼と称される道雪の激昂はたちまち酒盛りを中断させた。誰もが杯を止め、踊るのを止めて道雪の方へ視線を向ける。
「今すぐ止めよ!このような事、敵に知られたらどうするつもりか!」
主に対してすら平気で諫言する道雪である。大友一門であったも遠慮せずに自分の意見を堂々と口にする。自分が総大将だぞ、と思っている親貞も宗麟が重用している道雪の前ではたじたじとなり、言い訳を述べ始めた。
「そ……そう怒るな、道雪。一旦は帰国したとはいえ、我らは連日の戦続き。総大将自ら兵たちを労うのは当然のことではないか」
「常ならば、それも宜しいかと存じます。されど今は戦場、しかも明日は総攻撃が控えているのですぞ」
「判っておる。だからこんな時間から酒を飲んでいるのだよ。酒に酔い、早めに休めば明日の総攻撃に支障は出るまいて」
「油断のしすぎでござる。酒が飲みたいのならば、勝った後に浴びるほど飲まれるが宜しかろう」
「油断などしておらぬ。これは余裕というものぞ。此度、我らの幕下に加わった肥前の者たちへ大友の大きさというものを知って貰おうと思ってのことじゃ」
「なればこそ、勝って城を落すことで大友の強さを知って頂けばよい」
生来から口の回る親貞であっても熟練の道雪に敵うわけがない。酒盛りは即座に中止となり、各々が自分たちの陣へ帰っていった。
しかし、性懲りもなく親貞は道雪が帰陣すると身の回りの者たちを集めて酒盛りを再開させるのであった。
そして運命の夜が訪れる。
川上川沿いの勝楽寺に到着した鍋島信生と成松信勝は、まず物見を放って敵情をつぶさに調べ上げた。
「やはり道雪は警戒を厳しくしているな。陣からは、引っ切りなしに物見が出入りしておる」
「ならば如何にする。止めるか」
「いや、ここは我らが庭だ。見つからず進むことは難しくない」
二人は黙って首を縦に振ると、深く静かに勝楽寺から出撃していく。道雪がいる陣の前を避けるようにして一旦は西へ進み、それから北へと上っていった。
「どうじゃ」
「見張りの兵はおるが、やけに静かだ」
「貴殿の申した通りではないか。酔い潰れて寝ているのであろうさ」
「されど……」
目の前に敵本陣を窺いながら信生は嫌な予感を拭い去ることは出来なかった。不安が胸の内を支配し、信生の足を重くさせている。
「上手く行き過ぎている時は、そういうものさ。此処まで来たのなら、やることは限られておる」
「……相判った」
覚悟を決めた信生は、口を真一文字に閉じて高らかに右手を挙げた。その手がサッと下ろされたとき、龍造寺の兵が大友本陣へ雪崩れ込んだ。
「て……敵襲!敵襲じゃぁぁーー!!」
「邪魔じゃ!」
見張りの兵を押し倒すようにして、信勝が本陣へと突入していく。鯨波の声が断末魔の叫びを打ち消し、無数の白刃が容赦なく大友兵を襲った。隆信が奇襲部隊に選んだのは精鋭五〇〇。それに対して大友方は本陣だけでも三〇〇〇を有する。決して厚くない壁ではないが、歩は確実に前へと進んでいた。
「火縄の用意が出来た者から種子島を放つのじゃ!撃ち終わった者は、遠慮なく打ち捨てよ!」
先頭を行く信勝とは違い、信生は兵に指示を出して回っていた。
「撃てッ!」
持参してきた鉄砲を撃たせる。夜目の利かない状態では役に立たない鉄砲だが、その音は混乱を誘った。信生は敵の混乱を誘うためだけに鉄砲を持参していたのだ。それだけのために高価な鉄砲を使うということは、龍造寺がこの戦いに懸けているという覚悟の表れでもあった。
「左衛門大夫!勢いが殺されたら負けぞ」
「判っておる!儂も続く!」
信生と信勝はそこまでやると兵の指揮も忘れて我武者羅に突き進んだ。道雪を警戒している二人としては、彼が本陣の様子に気が付くまでに決着をつけておきたい。残されている時間は、然程に多くはなかった。
「殿!殿ッ!本陣が襲われております!」
そんな頃、敵の奇襲を告げる注進がようやく道雪の許にも入った。警戒していたためか眠りも浅くすぐに目覚めることが出来たが、元より身体に障害を持つ道雪である。飛び起きて駆けつけること叶わず、どうしても救援に赴くまでに時間を要してしまった。
「……間に合ってくれ!!」
既に本陣が襲われ始めてからかなりの時間が経過している。急がせようにも道雪の輿は人が担ぐものであり、馬で走るようには行かなかった。さらに山道である。道雪が救援に駆けつけた頃には襲撃から一刻(二時間)が経っていて、陣中は打って変わって静まり返り、戦いが終わっていることを告げていた。地面には龍造寺と思われる兵の死体はあったが、大友の兵の姿も多く見かけられた。そして本陣の周りを張ってきた陣幕も無残に斬られ布が垂れ下がっている。
最悪の覚悟を道雪はした。
「八郎殿!ご無事か!」
道雪が慌てて破られた陣幕の中に入る。辺りの様子からかなりの激戦が繰り広げられたことと窺い知れるが、驚いたのはそこではない。
「遅かったではないか、道雪」
縄目を受けた武将二人の前で床机に座す親貞が陽気に声をかけてきたからだ。
「見よ、こやつらが鍋島信生と成松信勝よ」
親貞は二人を軍鞭の先で突きながら、勝ち誇った表情を浮かべていた。
「くッ!放せ!殺せッ!」
「敵の縄目を受けるとは恥辱の極まり!自害を許されたし!」
もがきながら死を主張する二人に対し、親貞は冷たくあしらった。
「阿呆。許すわけがなかろうが」
何をどうしたかは判らないが、親貞は龍造寺の要とも呼ぶべき二人を捕らえた。これを機に降伏を迫ることも不可能ではない。これで合戦は終わる。
まさに大功である。
「敵を欺くには、まず味方からと申すではないか。昼間の酒盛りは、敵を誘う我が策よ」
どうだ、と言わんばかりに親貞は胸を叩いて見せた。道雪にすれば唖然とする他はなく、ただただ現実を受け入れるのみだった。親貞は奇襲を事前に予測し、龍造寺の重臣二人を捕らえた。それは間違いない。
呆気にとられた道雪の様子を見て満足したのか、親貞は兵に信生と信勝を連れて行かせ、道雪を下がらせた。そして一人の老人を脇へと呼び寄せると、一言だけ告げた。
「そなたの申した通りになったな、道意」
道意と呼ばれた老人は、サッと頭を下げるだけで何も言わなかった。
かくして今山の合戦と呼ばれた戦いは大友方の勝利で幕を閉じた。龍造寺隆信は降伏を受諾、所領の大半を失いながらも御家の存続だけは許されて蓮池城へと移った。
戦勝に気をよくした宗麟は肥前一国の支配を親貞に委ね、親貞は村中城を佐嘉城と改めて肥前支配の拠点とした。
大友と毛利の和睦で落ち着くかと思われた九州の状勢は、再び混迷の様子を漂わせ始めた。
【続く】
月一投稿が定番となりつつあります。申し訳ないです。
さて今回は史実の話と思いきや展開は逆転、全てのきっかけは“道意”と呼ばれる老人です。
道意が何者かは皆様ならすぐに察するでありましょう。彼は人に近づくのが非常に長けており、親貞を簡単に篭絡してしまっています。以後は親貞の側近として物語に登場してくるようになりますが、今章での登場は最後となります。
次回からは話が上方に戻り、信玄との決着まで描く予定です。