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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第五章 ~元亀争乱~
124/199

第十八幕 暗雲低迷 -迷走する坂東-

六月十九日。

上野国・厩橋城


 越前で朝倉義景を破り、関東へ舞い戻ってきた上杉謙信は、股肱の臣・本庄実乃と金津新兵衛こと義旧(よしもと)を救うべく厩橋城を取り囲む北条氏邦の軍勢へと攻め懸かった。氏邦は属将・喜多条高広が北条を見限って上杉へ帰参したことで兵力差に逆転が生じたことを懸念し、武蔵の防衛を優先すべく大きな犠牲を払う前に撤退を決断する。


「逃すものか」


 と逆襲に燃える謙信は追走を試みるが、遠く越前からの戦続き、強行軍で将兵たちは疲れ果ていた。謙信は已む無く追撃を断念し、その日は無事な再会を祝して城内で宴を催すことになった。


「皆には苦労をかけた。褒美として、儂の大事にしておる品々をくれてやろう」


 宴の席では、無欲な謙信らしく秘蔵の武具や甲冑などが勲功のあった者たちへ惜しげもなく与えられた。同時に酒も回り、この日は明日への不安を忘れて皆が騒ぎに騒いだ。未だ戦乱は治まってはいないが、謙信も周囲に混ざり一時の愉悦に酔い痴れていた。


「申し上げます。公方様が上方で松永久秀ら謀叛方と決戦に及び、見事に勝利した由にございます」


 そこへ上方からの吉報が告げられる。大望の、待ちに待った報せであった。


「まことか!」


 謙信の酔いは一気に醒め、家臣ら一同も粛然と使者の言葉に耳を傾ける。


「はっ!京近くの山崎という地にて、合戦に及んだとのこと。公方様は序盤から攻勢を強め、洛中へ逃げる松永らを追い、無事に帰洛を果たされました。大勝利にございます」

「御台所様は如何した。上様の御子は無事なのか。義昭様は?」


 酒も入っている所為か興奮した様子の謙信が矢継ぎ早に質問を飛ばす。使者は洛中が落ち着くまで留まっていたのか、問いに対する答えを全て持ち合わせていた。


「御台所様を始め、将軍家御一門の方々は全て御無事にございます。義昭公も公方様に降伏されました。されど松永久秀は最後の最後で洛中に火を放って逃走、京は灰燼に帰し、多くの民衆が家を失っております。また内裏も焼けましたが、幸いにも帝は比叡山に動座されており、身に一つとして傷は負っていないとのこと」


 吉報と凶報が同時に齎された。帝のこともあり、謙信は喜んでいいものか哀しんでいいものか判らないといった表情に一旦はなったものの、すぐに持ち直した。


「壊れたものは、また直せばよい。上様が帰洛を果たされたこと、帝が御無事であったことをまずは喜ぼう。して、上様は義昭様を如何にされるおつもりであろうか。何ぞ聞いてはおらぬか」

「はきとは判りかねますが、武田、本願寺、一色、山名と謀叛方の勢力が全てなくなった訳ではありませぬ。加担した者には厳重な刑罰があるものかと存じます」

「……それは死罪も有り得るということか」

「某の口からは、なんとも」


 義昭が殺される、とは使者の男は身分の違いから口が裂けても言えなかった。


 暫しの沈黙の後、謙信は紙と筆を用意させ、何やら書き始めた。そして懐から一通の書状を取り出すと、それを合わせて義輝へ届けるよう使者へ依頼する。


 義昭助命の嘆願書と、以前に義昭から送られてきた謙信宛の書状であった。


「来た道を戻って貰うことになるが、この嘆願書を急ぎ上様へ届けて欲しい。一日でも遅れ、義昭様の命が失われるようなことがあってはならぬ。義昭様の処遇が決まる前に、何としても我が意を上様に御伝え申せ」

「はっ。畏まりました」


 と主から託された男は、疾風のように謙信の前から立ち去った。


「皆、ここからは上様の勝利を祝う宴じゃ。明日、出陣せよとは言わぬ故、今宵は飲み明かすがよい」


 謙信は仕切り直しと言わんばかりに酒を追加し、皆に振舞った。久しぶりに心は晴れやかに落ち着き、時折に安堵の溜息が漏れていた。


「儂は席を外すが、遠慮はいらぬ。大いに騒いでくれ」


 ただ自身は最後まで宴には付き合わず、暫くすると中座して毘沙門堂へと籠もってしまった。その背中は何処か寂しげで、足取りも重かった。


「流石は上様よ。儂の力などなくとも御自身で謀反を平らげてしまわれた。これでは家臣の面目は丸潰れだな」


 謙信は義輝の帰洛を喜ぶと共に役に立てなかった不明を恥た。謙信が上洛を目指し、朝倉義景を二度も破ったことは上方の状勢に大きく影響を及ぼしているのだが、そうと本人は捉えていないらしい。その辺りが謙信らしいところである。


「もはや久秀めに挽回の余地はなかろう。後は儂が関東を平定すれば、上様の宿願は叶う」


 謀叛方の首魁であった松永久秀は破れ、武田信玄も息子に背かれて往年の勢力を失っている。現在に於ける幕府の大敵といえば関東の北条家くらいなもので、それを倒せば九州と東北が残っているも天下の権は定まったも同然である。


 義輝の夢である天下静謐は間近。後は自分の仕事、と謙信は決意を新たにした。


「出陣する!」


 一時の休息を得た上杉軍が北条の野望を食い止めるべく厩橋城を発ったのは、その三日後であった。すぐに国境を越え、最初の目的地である金窪城へ迫る。ここを落せば氏邦の居城である鉢形城は目前となり、武蔵への橋頭堡も築ける。途中にある烏川は以前に戦って謙信が勝利した縁起のよい場所であるので、敗者である北条が行く手を阻むべく進出してくることは考え難い。


(一気呵成に城を抜き、鉢形城を落とす!)


 謙信の読みは的中し、北条は野戦を避けて本隊を鉢形城に置いていた。しかし、金窪城へも相当数の守備兵を割いており、謙信は抜くことが敵わなかった。


 金窪城には守将は氏邦の補佐を務める猪俣邦憲と副将に老練な本庄実忠がいた。


 本庄実忠は元々上杉憲政の配下で、北条がその武名を天下に轟かせた川越夜戦で唯一、上杉方として奮戦し、大挙して押し寄せてくる北条の攻撃を退けて主・憲政の脱出を成功させる武功を挙げた老将であった。歳を重ねても耄碌(もうろく)はしておらず、卓越した戦術眼には磨きがかかっている。その守りは堅く、勇猛果敢で知られる上杉軍も実忠の前では城壁一つとして越えられなかった。


「上杉殿には遺恨はなけれども、今は北条に身を置いておる立場じゃ。全力で相手をさせて貰うぞ」


 実忠は古い型の武将であり、元上杉家臣と知っても状勢次第で叛服するような考えは持ち合わせていなかった。この男にとっては徹底的に戦って敗れない限り、降伏は有り得ないのだ。かつて上杉から北条へ、北条から上杉へ実を移した時も最後まで戦っての結果でしかない。


 そして今は、武蔵一国が北条の守護国となったことにより籍を北条に置いている。ならば、今の主君の為に全身全霊で働くのが、実忠という武将だった。


「さあ、来い!」


 齢七十を超える身で自ら槍を持ち、戦う実忠の気迫は他を圧倒した。上杉の先鋒は北条高広(上杉に転じたことにより姓を戻した)であったが、その猛攻の前に一切の怯みは見せなかった。


 それから幾日か経った時のことである。途端に上杉の攻撃が弱くなり、遂には撤退して行ってしまう。


「何が起こったのだ?」


 実忠は守将である邦憲と相談するも解決せず、鉢形城の氏邦へ問い合わせるも答えは出ない。皆、首を傾げて上杉軍が去るのを見ているしかなかった。


 この時、謙信の足を止めたのが武田信玄であったことなど、上原で今生の別れを告げた武田義信でさえ、父・信玄の動向を予期できてはいなかったのだから、北条方の誰も知る由はなかった。


「お……おのれッ!信玄ッ!!」


 謙信の許には春日山城が攻められているとの報せが届いていた。攻めたのは謙信の宿敵である武田信玄であり、越後守護・長尾景勝が本庄繁長攻めをしている虚を突いての電光石火だった。謙信もこればかりは想定しようのない事態であった。


「あの卑怯者めがッ!堂々と戦も出来ぬのかッ!!」


 瞬く間に謙信の額には青筋が浮かび、顔を真っ赤にさせて烈火の如く怒った。手を(こまね)いている内に続報が届き、春日山が陥落したと聞いた時は普段の謙信からは想像もつかないほどの罵詈雑言の数々が飛び、周囲を震えさせた。一度、暴れ出した龍を止める手立てを家臣たちは持ち得ない。皆、口篭って主の怒りが鎮まるのをひたすらに待つしかなかった。


「待っておれ信玄!儂自ら、貴様をそっ首を叩き落としてくれるわッ!!」


 だが、今回ばかりは度が過ぎたらしい。謙信の怒りは鎮まることなく、遂には春日山へ向かうと言い出した。


「恐れながら申し上げます!」


 咄嗟に本庄実乃が御前に飛び出して諫言した。


「いま我らが関東を留守にすれば、北条の思うがままにござるぞ。御屋形様、少しは頭を冷やしなされ。そのような御姿、公方様が見たら嘆き哀しまれますぞ」


 こういう時の扱いは、やはり実乃が長けていた。主を諭し、正しき方向へ導く。まさに忠臣の鏡というべき姿であった。


「ぬぐ……」


 義輝の名が出たことで、謙信は我に返った。


 いま関東はまさに動乱の渦中にあると言ってよい。


 上方の争乱をきっかけに野望を剥き出しにした北条は、房総半島に侵攻して安房と上総二カ国を領する里見義尭・義弘親子を降伏させ、その軍勢を取り込んで北上、千葉胤富と合流して今度は下総の結城領を侵し始めていた。既にいくつかの城は落とされており、結城晴朝の結城城へと着実に歩を進めている。


 また謙信の要請で奥州へ行っていた佐竹義重も自領へ帰還し、独自に動き始めている。手始めに水戸城の江戸重通を自ら元服させて配下に加えると大掾貞国の治める府中城へと入った。義重からの報告では、貞国と合流した後に結城支援に向かうとあったが、軍勢の動きは著しく遅い。


 それは宇都宮広綱が下野国内の情勢が不安定な為に居城から動けなかったからだ。謙信はすぐさま軍を発して彼らを糾合し、北条と叩き潰さなければならないのだが、越後と武蔵の両面に敵を抱えている上杉は身動きが取れない状態にある。家中では越後か、関東かと意見が二分し、答えの出ないまま数日間が過ぎ去った。


 すると越後からの続報で、信玄が攻め落とした春日山を放棄して北陸へ去ったと伝わってきた。これでようやく関東に専念できると思われたが、景勝は居城を取り戻すことに成功したも追撃の途上の有間川で起きた合戦により多くの損害を被っていた。このままでは本庄繁長の征伐も延期をせざるを得ない、というのが越後に残してきた旧臣たちからの話だった。


 それが謙信の心を大きく揺さぶっていた。


「拙者と金津殿で越後へ参りましょう。兵は僅かばかりですが、御実城様が失った兵を補うことは叶うはずです」

「よいのか」

「何のこれしき。それに我らなら越後に詳しゅうござる故に適任でありましょう」


 実乃の申し出に謙信の顔はパッと明るくなった。久しぶりに浮かんだ主の笑顔に実乃はホッとし、深々と頭を下げて越後へ向かっていった。


「よし、ここからぞ」


 心機一転し、北条攻めを再開させる謙信であったが、依然として金窪城は堅く、容易に落すことは敵わない。その間にも北条氏政は結城領を侵し続け、結城晴朝や宇都宮広綱から謙信へ救援を請う使者が相次いだ。


「鉢形城を落したら、必ずや救援に向かう」


 悔しさに唇を噛み締めながら謙信は、何度も使者に同じ言葉を伝えるが、現実はそう甘くはない。謙信が金窪城を落として鉢形城に攻め寄せられた頃には、既に八月も終わりを迎えていた。


 その鉢形城は、北条の一翼を担う氏邦の居城だけあった金窪城以上の堅牢さを誇っていた。


 鉢形城は深沢川と荒川の両川が合流する地点に築かれており、まさに断崖上に建つ天然の要害。平野部に面している南西側が唯一の攻め手であるも馬出を始め、秩父曲輪、逸見曲輪、大光寺曲輪と三つの曲輪によって強固に守られており、そこから二ノ丸、本曲輪へと連郭式に続いている。


 しかも城内には氏邦以下一万の将兵が入っている。対して謙信は一万二〇〇〇と僅かに上回っているに過ぎず、まともな城攻めでは落ちそうにない。それでも謙信は鉢形城を放置して救援に赴くことは出来なかった。いま上野を空にすることは、領主としての責任を放棄するも同然だった。


 仕方なく謙信は城下に火を放って何度か城兵を外へ誘い出そうと試みるが、大将の氏邦が徹底的に籠城を決め込んでいた為に成果は一切でず、無為に時間だけが過ぎることになった。


 この頃、上方では義輝が諸大名に国替えを命じて新体制を築きつつあった。しかし、遠く坂東の地では幕府の政権基盤が不安定なままであったために影響が小さく、攻勢を強める北条家の勢いが増していることを懸念する大名が多かった。


「もはや謙信の風下に立つ時は過ぎ去った。我らは独立するぞ」


 そして唐沢山城主の佐野昌綱が上杉から北条へ旗を翻した。


「昌綱が裏切っただと!?」


 当然、謙信は昌綱の裏切りに目を真っ赤にさせて怒りを露わにした。昌綱は以前にも謙信を裏切ったことがあり、その度に許してきた経緯がある。ただ上方で大規模な謀反が起きたばかりの今、謙信の我慢は限界に達していた。


「此度ばかりは許すことは出来ぬ!」


 拳を強く握り締め、決意を口にする謙信であるが、現実的な問題として対処のし様がなかった。昌綱の唐沢山城は下野国にあり、ここからは遠い。結局、何ら手立てを講じることは出来ずに見ているしかない。


「せっかく上方では上様が勝利を得られたというに、儂は何をやっておるのだ」


 遅々として進まぬ関東計略に謙信の苛立ちは日々募っていく。憂さ晴らしに大杯をあおる夜は増えていき、時節は秋に入り十月を迎えた。


 この月、関東を揺るがす大事件が起こることになる。


=====================================


十月十二日。

相模国・小田原城


“謙信倒れる”


 その報せが届いた時、北条家の本拠地である小田原城では一族の重鎮・北条幻庵が前線で氏政と共に戦っている松田憲秀を呼び戻して真偽を問い質していた。


「謙信が倒れたというのは確かなことなのか。誤りであったならば、御家の舵取りを大きく狂わせることになるぞ」

「何度も確認させたことにございます。今や上杉方はその噂で持ちきりでありまして、我らに通じようとする者も出始めております」


 憲秀が幻庵の問いに答える。普段は陽気な幻庵もこの時ばかりは終始、険しい表情を崩さず、眉間に皺を寄せている。それほどまでに北条、上杉の間で起こっていることは深刻だった。


 始まりは八月のことだった。


 実は謙信が倒れる前に北条氏康が卒中で倒れていたのだ。それが起こった時は小田原城内はまるで天地が揺れたかのように騒然となった。


「御本城様のことは他言無用じゃ。本丸への出入りを制限し、決して外に洩らすでない」


 幸いにも幻庵が在城していたことで騒ぎはすぐに収まった。氏康のことを知る者は一部の人間に止められ、氏政の留守を代行していた氏康の政務を幻庵が取り仕切ることで、表向き平静を保った。それでも事の真相は何処からか洩れるものである。故に幻庵は事前に策を講じる。


“北条氏康が病に倒れた。呂律も回らず、意思の疎通も難しい状態にある”


 そう風魔に命じ、世間で囁かせたのだ。偽装を匂わせるために鎌倉仏日庵で病気平癒祈願と称し、大般若経の真読も行なわせた。無論、前線で戦っている氏政ら北条一門には上杉を騙す謀略であると報告をし、味方の動揺は未然に防いでいる。当の氏政も幻庵の言葉を疑うことなく、まったく父の事など気にかけることなく軍を動かす。


 これにより上杉方では“氏康倒れる”の報は北条の虚報であると断じられることになった。幻庵の目論見通りの結果となったのである。


 そこに、今度は謙信が倒れたとの報せが入ったのだから、北条方が驚くのも無理はない。だから幻庵はすぐに憲秀を呼び戻し、事の次第を確かめたのだった。


 結果として結束は北条の方が固く、氏康が倒れたことは露見しなかったが、謙信が倒れたことは露見してしまったのである。氏康と同じく卒中であり、原因は酒の飲みすぎよるものと推測されていた。


「いや、しかし……、本当に御本城様が倒れられていたとは……」


 視線を左右させ動揺を隠しきれない憲秀は、謙信のことよりも氏康が倒れたことが本当だったことに衝撃を受けていた。


「一時は危険な状態にあったことは確かだ。されど今の御本城様は意識もはっきりされておる。確実に快方に向かっておる故、安心せい」


 当時のことを思い出しながら、幻庵が憲秀を気遣った。


「まったく尾州は心配性じゃな、儂が死ぬものか」


 同じく腹心を気遣ったのか、襖がサッと開け放たれて氏康が姿を現した。これには幻庵の方が驚きを露わにした。


「御本城様。床から出られてはなりませぬ」


 起きてきた氏康に対し、老体とも思えぬ早さで立ち上がった幻庵が駆け寄り、諫言を口にする。


「幻庵様には御心配をおかけ致した。……もう、大丈夫にございます」


 幻庵の肩を借り、氏康はゆっくりと床に腰を下ろす。そして大きく深呼吸してから憲秀の方へ視線を移し、話し始めた。


「尾張守、謙信が倒れたというのは真であったか」

「はい。御本城様こそ、大丈夫なのでありますか」


 出陣する前と違い、痩せて肌の色も青白くなっている主君の姿に憲秀は愕然とする。当人は元気な姿を見せて安心させたつもりなのだろうが、本復したとは言い難い様子に憲秀は不安を覚えた。


「案ずるなと言った。それよりも、これからの行動次第で北条の家がどうなるか決まっていくだろう。間違いは犯せぬぞ」


 重い主君の言葉に二人が揃って喉仏を大きく動かし、首を縦に振った。


「まずは将軍が上方の戦いを制した。時間はかかるやもしれまいが、時期に勢力を取り戻すであろう」


 氏康の頭には、これまで起こった全てのことが入っていた。風魔より齎された情報を整理し、脳漿(のうしょう)を振り絞った。身体の衰えは如何ともし難くも、頭の回転だけは抜群に冴え亘っている。


「されど本願寺は孤立しつつも粘っております。北陸に逃げ込んだ信玄も何やら暗躍しているようにございます」

「どれも悪足掻きに過ぎぬ。本願寺も信玄も、何れは幕府の前に敗れよう。問題は、それまでに北条の身の振り方を決めておかねばならぬということだ」

「御屋形様は、あくまで武力による関八州の統一を目指すようにございます」


 最近は氏政と行動を共にすることが多かった憲秀が、現在の方針について代弁する。


「拘り過ぎるのはよくない。これまではそれでも良かったが、幕府方が謀叛方を倒し、今川が幕府に降伏するとなると状況は変わってくる。特に謙信が倒れたのだ。この好機を活かさぬ手はない。尾州、謙信が倒れたことを将軍が知ったら、どう出ると思う?」

「……それは」


 急な問いに憲秀は答えることが出来ず、口篭った。


 これまで幕府は関東のことは全て謙信に任せてきた。一度は織田を遠江まで派遣してきたが、云わばそこが幕府が直接介入できる限界であると暗に告げているに等しい。出来ることといえば、せいぜい軍使を派遣してくる程度であろう。それですら今の幕府に出来るかどうか疑わしいが、何れ時が経てば必ずや直接介入してくることは見えている。しかし、それがいつのことになるのかは誰にも判らない。未だ将軍ですら想定は出来てはいないはずだ。ただ関東の騒乱を長く放置する事は、将軍の威信に大きく失墜させることになる。そうしないための選択肢が、一つだけ存在していたことに氏康は気付いていた。


「謙信の代わりを務められるような者は、関東におらぬ。常陸介も坂東太郎と呼ばれてはいるが、謙信に比肩すれば間違いなく劣る」


 才覚の上では謙信に匹敵するかもしれない佐竹義重も、まだ若く将軍の信任は得ていない。その義重に関東の一切を任せるほど将軍は無能ではないし、阿呆でもない。


「加えて織田が長島で敗北したらしい。一向門徒如きに敗れるとは、案外と織田信長も大した事がないやもしれぬな。尤も、一度敗れただけで断じてしまうのは早計ではあるがな」


 その実力は間違いなく謙信と並び称されるのだが、信長を話の上でしか知らない氏康にとって織田の話は上杉ほど重くはなかった。


(将軍職再任以来、幕府を支えていた謙信、信長という義輝公の両腕が()がれた。幕府と交渉し、関東に於ける北条の覇権を確立するのは今を以って他にない)


 合戦で勝利するだけが家の発展に繋がる訳ではないのだ。北条家の強さは、他の追随を許さぬほど圧倒的な軍勢を催すことの出来る国力を育てた民政にある。合戦など所詮はきっかけの一つに過ぎず、成してきたのは他ならぬ氏康だった。


 その氏康を正確に評価しているのは、皮肉にも将軍本人である。幕府の税制が氏規を通して北条流に改められたのも、優秀性を将軍が認めたからだ。


「……一人だけ、謙信の代わりを務められる者がおりまする」


 一時の沈黙の後、憲秀が考えた末の答えを口にした。


「御本城様にございます」


 それを聞き、氏康の口元は僅かに緩んだ。まさに氏康が考えていたことと同じだったからである。


「幕府に使者を出す。手始めに東海の事に決着をつける。関東のことは、それからだ」


 こうして板部岡江雪斎が幕府へ派遣されることになった。


=====================================


十月二十日。

下総国・結城城


 北条氏政は三万八〇〇〇の大軍を率い、結城晴朝の籠もる結城城を包囲していた。城には晴朝ら四五〇〇が籠もっているが、誰の目にも落城は時間の問題に映っていた。


 血気に逸る氏政はすぐにでも力攻めを敢行し、城を攻め落とそう考えていたが、小田原より帰還した松田憲秀が氏康の命令として待ったをかけた。


「莫迦な!これだけの兵で囲んで、城を落すなとの命令があるかッ!」

「御本城様からの厳命にございます」

「納得いかぬ!確かめさせたところ、結城方の戦意は決して高いとは言えぬ。我らが激しく攻め立てれば、すぐにでも降参してくるのは目に見えておるのだぞ」

「それでも、御命令にございます」


 憤慨し、認められぬといった表情の氏政は、唾を飛ばしながら憲秀に詰め寄った。


「理由を申せ!」

「御本城様は幕府との交渉されるつもりでおります。既に板部岡江雪斎が上洛し、三郎(北条氏秀)様を質とすることを申し出ております」

「な……、父上はいったい何を考えておるのじゃ」


 城攻めを中断させただけではなく、幕府に人質を差し出したとの報せに氏政は開いた口が塞がらなかった。確かに謀叛方を制した幕府の動きには氏政も気に掛けるところがあったものの北条家が下手に出なければならない程の状況とは思っていない。


 やり場のない怒りに振り回されるが如く、氏政は懐から二通の書状を掴み取って憲秀へ“見ろ”と言わんばかりに投げ渡す。


「そなたがいない間に壬生綱雄、皆川俊宗が我らに与すると言ってきた。那須の連中も間違いなく我らに同心するはず。判るか、もはや宇都宮広綱は孤立しておる。つまり下野は手に入ったも同然ということだ。後は目の前の城を落し、常陸の佐竹を叩けば関東に敵はおらぬ。謙信が倒れた今、誰もが関東の主が北条であると気付いたのだ。この好機、逃すわけにはいかぬ」


 既に関八州統一までの筋書きが氏政の中では出来つつあった。そこへ氏康に介入されたのだから、気分がよいはずがない。そして何よりも関八州を統一するのは、北条“氏政”でなければならないと思っていた。それこそが、名実共に父を超えることになると氏政は信じているのだ。


 だが憲秀は氏康の病状を正しく知っている。いま幕府の威光を無視し、傍若無人に振舞う危険性を理解していた。


(御屋形様では名が軽すぎる。御本城様が健在な内に、幕府との交渉を纏める必要がある)


 故に憲秀は、氏政を前にしても一歩も退かなかった。


「御本城様は幕府の総代として、関東を治めることを目指しております」

「ふん!関東管領にでもなるつもりか。あれは将軍が廃したではないか」


 かつて関東の統治機関として設けられていた鎌倉府は足利義氏の帰洛で正式に解体され、関東管領も上杉謙信の辞任を最後に廃止が決定している。今の幕府に関東を統治する機関は存在していないが、将軍が実質の統治者に謙信を選んでいることは関東では童でも知っていることだ。


 謙信が倒れた今、それに氏康はなろうとしている。


「役職云々ではありませぬ。関東は北条に任せる、と将軍が認めればよし。我らは矛を収め、関東の統治者として堂々と振舞えば宜しいのです。故に今は幕府の心象を悪くするような行動は慎まねばなりませぬ」

「認められるかッ!」


 軍扇を叩き割り、氏政は駄々っ子のように陣幕の奥へ引っ込んでしまった。多くの武将が氏政の考えに同調しているのか、一人また一人と憲秀の目の前から去っていった。


 その中で北条綱成が一人、憲秀の傍に寄って小声で呟いた。


「まさか御本城様が倒れられたとの風聞は、真のことなのか」


 憲秀は一瞬、驚いたように目を見開いた。


 綱成にすれば、氏政の傍らで共に関八州制覇の戦を御膳立てしてきた憲秀が、いきなり小田原に召還され、意見を翻したことを不思議に思っていた。


 小田原で気になるといえば、二ヶ月ほど前に氏康が倒れたとの噂が流れたこと。上杉方を惑わすための策とは聞いたが、あの頃の北条は快進撃の真っ只中であり、敢えて策を打つ必要性を綱成は感じなかった。


 それから推測される可能性の一つは、噂が本当であること。氏康が倒れ、指示も出来ない状態にあるとすれば、噂を流さなければいけなかった説明はつくし、憲秀が小田原に赴いて意見を変えた理由にもなる。


 綱成を騙し通すことは不可能と感じた憲秀は、真実を口にする。


「御本城様は意識ははっきりとされておるが、とても本復されたとは言い難い。予断は、許さぬ」


 氏康の死期。それを聡明な氏康自身が悟っていない訳がなかった。そもそも卒中を起こした者が長生き出来た例は少ない。一旦は持ち直しているとはいえ、再発する可能性は十分にあるはずだ。恐らく氏康は、自身の目の黒い内に幕府との決着を図るつもりなのだろう。


 もし氏康を幕府が認めたならば、氏康が死しても後継の氏政がいる。それは生涯不犯を貫いている謙信との大きな違いであった。もし謙信に壮年の実子がいれば、幕府に衝け入る隙はなかったかに思う。


「御屋形様の事は、儂に任せてくれ。決して暴発せぬよう、よく言い聞かせる」

「頼みますぞ、上総介殿」


 それから氏政は何度か結城城への攻撃命令を出すも、諸将の多くが戦巧者である綱成の反対意見に靡いたために結局は攻撃は行なわれなかった。綱成と憲秀の目論見通りとなったが、敵方が二人の思惑など知る由もない。


 十一月に入り、援軍が期待できないと考えた結城晴朝が北条氏政に降伏を申し出たのである。綱成も憲秀も、これを止めることは出来なかった。


 そして北条の軍勢が常陸へと入った。




【続く】

約一ヶ月ぶりの投稿でございます。合いも変わらず忙しい日々が続き、時間を割けておりません。まあ、その理由も仕事で出世が決まったからというのだったりするので悪い話ばかりではないのですが、落ち着くまで時間がかかりそうです。


本当に申し訳ありません。


さて久しぶりの関東編となりました。謙信が卒中に倒れ、氏康も卒中に倒れてしまいました。これは史実通りの結果だったりするのですが、拙作ではものすごくタイミングの悪い時期だったりします。


今章十二幕で義輝が氏康の態度に違和感を覚えていたのは、これが理由だったのです。


氏康は甲相同盟を結ぶよう遺言したと言われますが、個人的には甲相同盟は氏政が望んだものと思っています。どちらかといえば氏康は越相同盟を軸に考えていたのではないか、と思うのです。


故に本作でも氏康は越後つまりは幕府を重視し、氏政は軽視しているとの傾向があります。特に氏政は今の幕府よりも強大な豊臣政権すら軽視していた節があるので、ある意味で当然かと。氏康は義輝が氏規を通して改革を推し進めていることから、意外にも懐深くに入り込めるのではないかと考えています。一方で氏政の行動を野放しにしていたのは、取れるものは取れるうちに取っておくという戦国大名の性ともいうべきものでしょうか。


ともあれ関東の情勢は混迷を極めたまま年越ししそうな感じです。この先を描くのは、すいませんがまた随分と先になりそうです。


次回は九州編であり、毛利と大友の和睦の結末を描いた後に史実でも起こった“あの合戦”を描きます。意外な人物も登場するので、ご期待下さい。



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