第十五幕 飛翔のとき -慧眼の士、覚醒す-
十月二十二日。
摂津国・天満森
天王寺での激闘から二日後、各所では大規模な会戦は起こらなかったものの散発的な小競り合いが続いており、両陣営ともに緊張感が漂っていた。いつ再び激しい合戦になるかも判らず、幕府陣営の大将である将軍・足利義輝は、武田信玄の南下に備えるべく京へ戻りたい気持ちを必死に抑え、摂津の地に留まっていた。
その様子を本願寺陣営の大将・顕如法主は、いつものように高櫓の上から眺めていた。顔は仄かに綻んでおり、まるで勝者のような余裕が感じられる。
「ふふっ、右府殿も相当に焦っておいでのようだ。信玄殿が越前を突破した頃が、和睦の頃合であるな」
絶対的な自信が、表情からは窺えた。
石山における戦闘は、数でこそ劣っているも勢いは完全に本願寺勢が勝っている。まともに戦えば、恐らくは勝利することは難しくはない。しかし、ここでの勝利が本願寺に利益を齎すとは思わない。かつてとは違って幕府は余りにも強大化し過ぎている。何れは復活し、また攻めて来るに違いなく、徒労に終わる。
(一時の勝利を手にしたところで、幕府が諸大名を総動員してくれば勝てる見込みは乏しい。右府殿が天下泰平などという幻想を抱いている内に、和睦を結ばねばならぬ)
戦国乱世を終わらせる。
百年以上に亘って打ち続く戦いの日々が終わるなど、夢幻にしか顕如には思っていない。将軍は強大な権力を握って諸勢力を弱体化させることで幕府の力を相対的に強くし、乱世を終わらせようと画策しているらしいが、百万の門徒を従える本願寺にとっては、はなはだ迷惑な話だった。
乱世があるからこそ、民は救済を求める。乱世があるからこそ、本願寺は栄える。事実、この百年の歴史がそれを証明していた。
もし将軍が端から諸大名の力を借りて諸国の討伐へ踏み切れば、あっさりと事を成してしまうだろう。織田、毛利、上杉と幕府に恭順を誓っている大大名は多く、三好や長宗我部、徳川に浅井ら小大名も含めれば既に日ノ本の半分を制している。いま将軍が絶大なる権限を行使して全国の大名へ所領安堵を申し渡し、武田・本願寺の討伐を求めれば、激に応じる諸侯は多いはずだ。それだけの影響力を、いまの将軍は持っている。
それを判っていて将軍が実行に移さないのは、偏に“天下泰平”という夢に捉われているからである。何事も自力で解決しなければ、いつまでたっても幕府の力は弱いまま強くならない。それでは義輝が生きている間の泰平は築けても、死後にどうなるか判ったものではない。それを義輝は危惧している。ならば、如何なる犠牲を払おうとも本願寺の将来を今のうちに定めておく必要がある。
(さあ信玄よ、早く近江へ来い。その身を本願寺のために捧げるのだ!)
期待に胸を膨らませ、顕如は信玄の到来を今か今かと待っていた。
一方で義輝は眉を曇らせ、渋面を作って畿内一円を描いた絵図をずっと睨んでいた。まさに蜘蛛の巣に捕らわれた獲物の如き、身動きの取れない状態に追い込まれている。
(信玄への手当ては行なっているとはいえ、満足とは言えぬ。余が出向ければやりようはあるやもしれぬが、今のままでは石山は離れられぬ)
義輝は信玄が北陸に現れたと報せを受けたときより、いつかは上洛してくるものだと考えて対策を講じている。こちらから遠征していって討伐するのが手っ取り早いが、今の幕府は財政問題から越前まで大軍を派兵する余力がない。ただ本拠地の京から近い近江国となれば、話は別である。いくらか派兵する余裕は生まれるし、大名小名たちは己が領地を守るために立ち上がるだろう。そして織田家も巻き込める。
信玄へ対抗する兵は、いくらか用意できる計算となる。
「上様。明智日向守殿が参りました」
「来たか!」
義輝が思案に耽っているところ、待望の人物が現れた。
明智日向守光秀。
義輝の幕下で尤も才気に溢れる武将で、政略と軍務の両面に精通している万能の武者。新しき世を望み、南蛮文化にも深い知識を持ちながら古きを尊ぶ精神をも持ち合わせ、故事礼式に精通、家臣や領民を慈しむ心を忘れず、領地・坂本での評判は京にも届いている。
信頼は篤く、義輝は光秀を参謀として用いることを望んでいるものの、当人はその性格により先祖代々の幕臣たちを押し退けて前面に出ることをよしとはせず、幕府のために自らの才能を惜しみなく発揮することに躊躇がある。その小さな不満が義輝の中で積み重なり、蟄居という事態にまで及んだ。
蟄居には至ったが、義輝は光秀を遠ざけようという気はまったくない。自らの心中を察して欲しいという一つの愛情表現に近かった。
(十兵衛よ、何をしておる。そなたならば、余の代わりすら務まろうというのに……)
本音から言えば、自らの意志で義輝のいるところまで昇って来て欲しいという期待がある。しかし、人材に乏しい今の幕府にすれば光秀の力は必要不可欠であり、それを待っている時間的な余裕はなかった。もはや猶予は残されていない。故に義輝は、現れた光秀に発破をかけることにした。
「十兵衛、久しいな」
義輝は光秀を受領名ではなく、通称で呼んだ。親しみを込めたつもりだが、勘気を被っていると思い込んでいる光秀は、その事に気付いた様子はなく堅苦しい挨拶から入った。
「はっ。上様に於かれましては御健勝で何よりにございます。此度は某が不甲斐ないばかりに上様の御気を煩わせてしまい、面目次第もございませぬ。この先は心を入れ替えて誠心誠意、忠勤に励みますれば、どうか……」
「そのようなことはどうでもよい」
「も……申し訳ございませぬ」
言葉を遮られ、光秀は慌てて手を付いて謝罪した。それを見た義輝の瞳には、哀しみがある。
(そなたは、そのように小さくなる男ではあるまい)
光秀のらしくない態度に少し感情的になった義輝だったが、一たび瞼を閉じて眼を開いた時には、優しく微笑みかけていた。
「面を上げよ」
「は……ははっ」
顔を上げ、こちらを仰ぎ見た光秀の表情が少し和らいだのが義輝には判った。光秀は姿勢を正し、主君の言葉を待っている。
(かけてやらねばなるまい。我が心の言葉を)
義輝は少しだけ己の心情が伝わった気がしていた。
「そのように畏まるな。此度、そなたを呼んだのは他でもない。信玄がこと、聞き及んでおるな」
「北国三州を束ね、一向門徒たちを引き連れて越前に入ったとか」
「流石よ、耳の早さは相変わらずだな」
「手前は何も。家臣の一人が報せてくれたのです」
「……黒田官兵衛か。姫路中納言より活躍ぶりは聞いておる。よい家臣を召抱えたな」
「はっ。官兵衛の手配により、いつ何時でも上様の御命令に従えるよう兵の支度も整え終えておりまする」
「抜かりはない様で安心したぞ、それでこそ明智十兵衛という武士よ」
「何度も申しますように、手前は何もしておりません。全て家臣たちの功績にございます」
「その家臣らを含めて、明智という家がある。謙遜をするな。余とて、一人で出来ることは少ない。十兵衛を始めとする家来たちの佐けがあってこそ、大事を成せるのだ」
諭すような口調で、義輝は言った。
義輝は光秀に対して“蟄居”を申し渡しているが、制限は何も設けていない。生真面目な光秀は“自分は何もしていない”と言い張るが、実のところ本人が居城に籠もってジッとしていただけで、配下には指示を出してやるべきことはやっていたのである。戦支度とて、家臣の黒田孝高が信玄到来を報せはしたものの、その進言を採用するかどうかの決断は光秀が下したものである。
いま何をしなければならないのか、光秀は判っている。故に義輝は、命を下す。
「此れより越前へ赴き、信玄めの足を止めよ」
「余呉での支度が整うまで、時を稼げば宜しいのですね」
「左様じゃ。丹波、近江、伊賀の者たちを与力に付ける。数は少なかろうが、洛中に北陸を追われた畠山義続親子と神保氏張もおる。各々が信玄に対して遺恨が深かろう、連れて行ってやれ。明智一手でやれることよりは、増えるはずだ」
この年の七月に越中国・尻垂坂で信玄との合戦に破れ、所領を失った畠山義続・義綱親子は京にいた。幕府を頼っての上洛であったが、一番の理由は義輝上洛の折に畠山家に恩賞として与えられた山城一万石があったからである。本拠を失った畠山親子にとって、この一万石は再起を懸ける最後の希望だった。
また神保一族である氏張は、畠山氏の猶子である。越中で信玄により長職の一族が滅ぼされると義続によって擁立され、同じく山城に与えられた一万石を相続した。これにより義続は神保領一万石をも手に入れたのであった。
義続の戦国大名としての枯渇さは、敗れて尚も失われていなかった。
それが判っていても義輝が彼らを保護したのは、復権を助けて貰った報いだった。永禄八年(一五六五)の上洛戦で、上杉以外の北陸勢が成した役割は決して大きくはないものの従軍して供をしたのは確かである。征夷大将軍として、武家の長として恩知らずな真似は出来なかった。
「畏まりました。して、総大将は蒲生侍従様もしくは畠山修理大夫(義綱)様のどちらになりましょうか」
ところが光秀は明後日の方向に思考を巡らせていた。
(まったく、そなたは変わらぬな)
義輝は大きな溜息を吐いた。
手抜かりのない働きは相変わらず見事であるも光秀は性根の部分では何も変わっていなかった。義輝が光秀を大将とするつもりで話していても、光秀自身は他の者が総大将に任じられると思っている。自分は補佐役に徹し、義輝の意向に添うよう軍を動かすことが己の役割と考えているのだ。
ここは、やはりはっきりと言葉にするしかない。
「阿呆!我が意を受けて兵を指揮できるのは、そなた以外におらぬ。そなたが総大将じゃ」
「て……手前がですか?さ……されど、侍従様は一国の守護であられます。修理大夫様は庶流とはいえ三管領の家柄、一介の郡代である手前が総大将では、序列に問題が生じまする」
途端、義輝の眉間がピクリと動いた。
確かに序列云々は幕府に於いて重要で、義輝ですら簡単に無視できない事柄であるものの信玄という大敵を前にして構っていられるほど、今は安穏とした状況ではない。能力ある者が前に立ち、兵を動かさなければ勝利は掴めず、天下一統は遠のく。
(そなたが自らの殻を破らないのであれば、無理やりにでも引っ張り出してくれよう)
そう義輝は決意した。
「十兵衛よ。そのように序列が気になるのなら、余が解決してくれる。確か、そなたには嫡男がおったな」
「は……はっ。彦太郎と名付けた子がおりまする」
「歳はいくつだ」
「まだ二つにございます」
ふいに息子の事について訊ねられた光秀は、要領を得ないまま聞かれたことに対して答えた。理解できず戸惑っている様子は知的な光秀からは想像できない姿である。そして、次の言葉を最後に光秀の顔は見る見るうちに青醒めていくことになる。
「余の娘・藤は三つじゃ。似合いとは思わぬか」
凍り付いたかのように、光秀は固まった。口をパクパクと動かし、暫くして我に返ったかと思うと物凄い勢いで頭を床に擦りつけ、平蜘蛛のように這いつくばって必死に言上した。
「畏れ多いことでございます!類稀なる名誉、格別なる御配慮と存じますが、明智家など小名に過ぎず、家柄も土岐家の傍流の傍流と、武家の末席に身を置く者にございます。とても藤姫様を御迎え出来る家ではございませぬ!」
「小名なのが不足か!家柄が気に障るか!」
「滅相もございませぬ!自分は石ころ同然の身から上様に御引き立て頂きました。過分なる御恩を賜った上は我が一族・家臣から子孫に至るまで、将軍家への御奉公を欠かさぬつもりでございます!」
「ならば土岐家を継げ!何れ相応の所領もくれてやる。それで家柄、小名の問題は解決しよう」
「う……上様!?某をそこまで買って頂けるとは恐悦の極み、誉れに存じますが、土岐家は御当主である頼芸様が健在と聞き及んでおります。今は確か、関東にいる身内を頼って寄寓されているとか。それを押し退けて家督に就くなど……」
「余に奉公できぬ頼芸など知ったことではないわ。左様に頼芸が気にかかるのであれば、そなたが土岐家を継いだ後に面倒をみてやればよい。土岐が一国の守護として再興するのならば、頼芸とて不満には思うまい」
主の言葉に光秀は唖然とした。
今の言葉は、光秀に一国を与えると言ったも同然だった。何処の国かは判らないが、光秀が一国の守護となり、かつて侍所頭人を務めて評定衆に列し、尾張・美濃・伊勢三カ国の守護を兼ねた名門・土岐氏を継いで将軍家の外戚となれば、義輝の名代として諸大名を従え、総大将となるには何の障りもない。
これらは全て、義輝の決断次第でどうにでもなることだった。
「うえさ……」
「十兵衛!」
尚も口を開こうとした光秀を義輝は制し、立ち上がって太刀掛に掛かっていた刀を勢いのまま掴んだ。ドカドカと光秀の前に進み、今にも斬りかからんかという勢いで、その刀を抜き床へと突き刺した。
「幕府の体面、余の意地、そなたの拘り。全て“天下泰平”の前には些事に過ぎぬ。万民が求めし乱世の終焉、その実現の為に十兵衛の力が必要なのだ。余の為にとは言わぬ。無辜の民が為、そなたの力を貸してくれまいか」
「……上様。もったいのう存じます」
義輝の言葉は、光秀の心の奥底に突き刺さった。それこそ鋭い刃に貫かれたかのように、深く深くと。いつしか、光秀の頬には涙が流れていた。
「我が剣・鬼丸国綱を暫し預ける。余の名代として越前へ赴き、信玄の野望を食い止めよ」
「はっ!我が命、全て上様が為、天下万民が為に捧げます!」
光秀が再び顔を上げた時、その相貌には輝きが戻っていた。
明智光秀を改め、土岐光秀覚醒の瞬間であった。
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十月二十六日。
越前国・北ノ庄
武田信玄の侵攻に際して、越前は大混乱に陥っていた。
元亀擾乱により越前一国の太守となった浅井長政は、来るべき加賀攻めへ向けて本拠を北ノ庄へ移すも新城の普請が終わる前に敵の侵攻が始まってしまう。報せを届けたのは、国境近くの坂井郡溝江館の主・溝江長逸だった。
「武田信玄の大軍が手取川を越えております!その数、十万を超えまする。越前守様に於かれましては、すぐさま公方様へ急使を御遣わし下さいませ」
長政の面前に現れた長逸は、幕府を頼るよう進言した。頭を垂れて平伏する姿には長政への忠義心が窺えるも、長逸は伏せたまま表情をにやつかせていた。
(信玄方に与したところで、長繁や景忠の下に置かれるだけ。それは我慢ならぬ。ならば儂は、幕府に付いて生き残ってやる)
長逸は国主となって日の浅い長政へ心服などしていなかった。報せを届けたのは、溝江領と隣接する領主・堀江景忠と仲が悪く、景忠が一向一揆側に奔ったために必然的に浅井方に付くしかなかった状況と、戦後の立ち位置を考慮しての判断からだ。というが、実のところ信玄の到来に生命の危機を感じて逃げ込んできたに過ぎないのだが、この長逸の立ち回りが幕府方の行動を大きく狂わせてしまう。
長逸は長政の許を一時的な避難所としか考えておらず、長政を通して幕府を動かし、所領の回復を目論んでいた。十万という情報も、長逸が幕府に重い腰を上げさせるために誇張した数であった。
「援軍の見込みが乏しい我らが勝利するには、乾坤一擲に野戦で勝負するしかない。照葉宗滴殿に倣い、九頭竜川で敵を迎え撃つ」
大軍に臆さないのが、長政のよいところであったが、それは時と場合による。
朝倉宗滴しかり、義景しかりと加賀からの侵攻に対しては九頭竜川で防ぐのを常している。つまり信玄に対しても同じということになるが、相手は大半が一向一揆勢と言えども率いる将は戦国最強の名を欲しいままにした武田信玄である。
北ノ庄にいる浅井軍は四〇〇〇。溝江長逸の六〇〇が加わったものの焼け石に水である。まず勝てないと思っていい。
「勇敢なのは結構。ですが、勇気と無謀を履き違えてはなりませぬ」
「ぬぐッ……!!」
長政は浅井の宿老・赤尾清綱の諫止により出撃を思い止まった。
「如何にする。普請途中の城では信玄の侵攻は防げぬぞ。どうせよと申すのだ!」
長政は拳を握り締め、やり場のない怒りを撒き散らした。ただでさえ大柄な体格な長政が暴れ始めると手がつけられない。家臣たちは黙りこくり、老練な清綱へ主を託す。
「籠城先は一乗谷しかありません。幸いにも柳沢監物殿が奪い返してくれております。合流すれば、我らは一万近い軍勢となり、敵が多かろうとも二月、三月は持ち堪えられます」
浅井の窮地にいち早く駆けつけた柳沢元政は、金ヶ崎城を拠点とする旧朝倉景恒の家臣団である敦賀勢と共に北上、一乗谷城を奪い返していた。
「持ち堪えてどうする。援軍なくば、籠城戦に勝ち目はないぞ」
「援軍ならば、幕府に頼んでおり申す。また織田家にも……」
「幕府が送ってきたのは、たったの三千。義兄上に至っては一兵も寄越さぬではないか」
幕府の事情、織田の現状を長政も理解していないわけではない。ただ江北を奪われ、朝倉遺臣の大半が放棄した越前を所領としたことで、何やら貧乏くじを引かされた気分になっていた。もし江北が浅井領のままならば、もっとやるようはあったはずだと思ってしまうのだ。
だが、他に選択肢はない。それは長政も判っている。
「……一乗谷へ移るぞ」
苦渋の決断を、長政は下した。
浅井勢四六〇〇は普請のままならぬ北ノ庄を放棄し、かつて朝倉家が居城とした一乗谷へと移った。柳沢元政の三〇〇〇に敦賀勢一二〇〇、総勢八八〇〇が長政の持てる軍勢である。
その昔、朝倉義景が越前一国で二万を擁していた頃に比べると、圧倒的に数が少なかった。
一方で信玄も破竹の勢いというわけではなかった。浅井が放棄した北ノ庄を接収したまでは良かったが、別の問題が生じ始めていたのである。完全に誤算であり、予定になかったことだ。
「富田長繁が魚住景固を討っただと?」
「はっ。長繁は前波吉継を滅ぼした後、かつての同僚であった魚住景固を龍門寺城へ呼び寄せました。祝宴を催して油断させ、朝餉の席で討ち果たしたようにございます。その後、長繁は魚住領へ侵攻し、景固の鳥羽城は落城しております」
「あの大戯けめがッ!」
信玄は越前各地に忍ばせていた細作の報せに苛立ちを隠そうともしなかった。軍配を地面に叩きつけ、吐き捨てる。
富田長繁は信玄と通じて挙兵に及んだ。しかし、やっていることと言えば前波吉継を攻め滅ぼし、魚住景固を謀殺するなど、浅井家と敵対するというよりは別の目的があるように思えた。
(長繁め。浅井には敵わぬと見て、儂に相手をさせるつもりか)
その心中を、信玄は見透かす。
一向門徒の力を借りたとはいえ、長繁一手では浅井長政に負ける可能性の方が高い。しかも浅井には早々に幕府より援軍が遣わされており、一乗谷も奪い返されてしまっている。これが転機となったのだろう。長繁は自力で越前を平定することを諦めていた。
そして信玄による越前平定後、据えられる国主の座を狙ったのだ。その為に邪魔になる存在を消していっているのである。
「御屋形様、これは一大事にございますぞ」
事態を重く見た馬場信春が、危急を告げて言葉を紡ぐ。
「富田長繁は御屋形様の支援を得ていると公言してござる。つまるところ魚住景固は、御屋形様の命によって殺されたと思われても不思議ではありません」
「儂の意ではないが、美濃の申す通りだろうな」
「はい。長繁の真意は定かではありませぬが、このままでは朝倉遺臣を味方に付けるという御屋形様の目論みは露と消えまする。何せ武田に味方してよいか、皆が疑心暗鬼に陥っているでしょうからな」
信春の言う通りだった。
元亀擾乱で主だった者が滅んだが、百年も張った朝倉の根は深く、生き残っている重臣たちも意外に多い。朝倉景健や景綱など一門衆も健在だ。これらは全て、信玄に味方すると内示を得ている。
それが、このままでは崩れる。由々しき事態だ。
長政に続き、信玄も苦渋の決断を下す。
「長繁へ使いを出せ。越前での働き大儀である。儂自ら労をねぎらい、褒美を取らす故に鳥羽城で会おうと伝えい」
総大将の下知により、陣から早馬が飛び出していった。そのまま信玄の眼は虚空を睨んだまま離さなかったという。
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十月三十日。
越前国・金ヶ崎城
将軍・義輝より主命を受け、新たに土岐氏の家督を継いだ光秀は、京にて麾下の軍勢一四〇〇に波多野秀尚、赤井忠家、籾井教業ら丹波の豪族ら四四〇〇、畠山義続親子に神保氏張の二六〇〇、また近江にて栗田・蒲生二郡を治める山岡景隆の二二〇〇、伊賀守護・蒲生賢秀の二〇〇〇と合流する。
総勢で一万二六〇〇と信玄の率いる兵に比べて圧倒的に少なかった。本来であれば、これだけの軍勢さえも起こす余裕は幕府にはない。財政の枯渇と摂津での長陣、余呉での決戦支度と優先しなければならない事は多く、遠征は避けたかったのが正直なところだった。
されども決戦は時期尚早と義輝は判断している。未だ幕府に余力が生まれていないことが主な理由で、諸国に発した義輝の下知、長島で敗北した信長の復活を待つために時間を稼がなければならない。
(……十二月までの凡そ一月。それだけ信玄の足を止められれば、春まで信玄は動けなくなる。そうなれば上様の勝利は確実だ)
光秀は明確な目標を持って越前へ赴いた。
予め義輝が信玄の襲来に備えていた御陰で速やかに兵は整い、光秀は命を受けてから僅か八日後には金ヶ崎城へ入ることが出来た。
「まずは越前の状勢を詳しく探らねば始まらん」
事前にあらかたの情報収集は行なっているも現地で得られる情報とは雲泥の差、しかも状勢は日々変化しており、信玄方の最新の動きを掴む必要がある。
早速に光秀は物見を放ち、越前中を巡らせた。
「武田信玄の軍勢は二七日より鳥羽城に留まっている模様、いち早く信玄へ呼応した富田長繁が魚住景固から奪った鳥羽城へ信玄を迎え入れたようにございます」
翌日、戻ってきた物見の一人が信玄の居場所について報せてきた。これは大きな成果だ。
「鳥羽城といえば、ここと一乗谷の中間に位置する城じゃ。浅井殿と繋ぎを取り、信玄めを挟撃するべし」
この報せに感化された者が一人いた。旧能登守護の畠山義続である。
「本気で仰っているのか。信玄方の数、十万を超えているのだぞ」
まともな意見ではない、として波多野秀尚は義続へ異を唱えた。
「誇張じゃ、誇張。実数はもっと少ない。そうであろう、日向守」
秀尚の言葉など意に返さず、義続は光秀に問い質した。
総大将にも関わらず敬称を省かれた光秀は、一瞬だけ鋭い視線を送って見せたが、すぐに元の表情に戻り集めた情報を諸将へ伝える。
「一向門徒たちは離合集散を常にしており、正確な数は不明にござる。ただ信玄が信濃より連れて参った兵は少なく、北陸三州の国人、一向衆ら合わせて五万ほどと某は見ている。加えて越前でも味方を募っている様子、今より増えることは間違いない」
「されば合流される前に急ぎ攻める他はない。我ら数は少なくとも歴とした武士の集団。一向一揆が大半の武田方ならば、必ずや討ち破れよう」
武士の面子を第一とし、一向宗を見下したような物言いは三管領の家柄から来るものなのか。義続は信玄の策謀によって国を追われ、失地回復の機会も失った。その憎しみや深く、ましてや敵方には自分を裏切った畠山七人衆が加担している。
(奴らは絶対に許さぬ!)
義続の中に復讐の炎がメラメラと燃え滾っていた。
(それにしても儂が総大将ならば、斯様な面倒はいらなかったものを……。上様は何故に我ら等持院様代々の家臣を重用して下さらぬ。謀叛を起こした尾州家の連中に同情はせぬが、その気持ちは理解できなくもない)
また義続は総大将に任じられなかったのも不満に思っていた。
とはいえ義輝は義続を冷遇しているつもりはない。その忠義に報いるために、かつて義続が義輝の為に派兵した二〇〇〇と同数の兵を此度は奉公衆より割いて貸し与えていることからも、それは判る。ただ釈然としないものが義続の中にあるのは事実だ。
(結果で示せとの仰せなら、そうするまでのこと)
戦国大名としての意地か、義続にも義輝が求めんとすることは自ずと察しがついていた。能登一国を切り盛りしてきた実力は、義続にもある。拙かったのは、義続が冷静でなかったことだ。
信玄と旧臣へ対する憎しみから、義続は“合戦”という結論から離れられなくなってしまっていた。
「浅井勢は八千八百。一乗谷へ一部を残しておくことを考えると出撃可能な兵は八千でござろう。挟撃したところで二万僅かに超える数では、信玄には敵わぬ」
「戦は数でするものではない。それに相手は一向一揆勢が大半を占める。勝算は充分にある」
光秀と口論になる義続だったが、その意見に賛同するのは神保氏張くらいなもので、大半の者は光秀の意見を支持した。彼らは数々の戦いで光秀の器量を認めていたのである。
「合戦をせずして、上様の命令を守れようか」
仕舞いには義輝の名を持ち出す始末で、義続は合戦を主張し続けた。これには光秀もカチンときた。
「何も戦わないと申している訳ではない。一戦もせずして信玄の足を止められるとは思っておらぬ」
「ならば、何故に躊躇する」
「疾きこと風の如く、侵掠すること火の如くの信玄が、三日も鳥羽城に留まっている理由が気にかかる」
「日向守殿、何かあると?」
光秀の疑問に蒲生賢秀が問いかけると、光秀は重く首を縦に振って答えた。
「調べによれば、朝倉の旧臣たちは揃って武田方に通じるはずであった。されど富田長繁は魚住景固を討った。これが判らぬ」
「何が判らぬというのじゃ。富田とやらは前波吉継も討っておる。信玄の命令だったのであろう」
「いや、前波吉継は浅井方と誼を通じていた故に討たれても不思議ではなかった。されど景固は信玄に寝返るつもりだった。配下の者が、鳥羽城から信玄の下へ景固の使者が行くところを見ている」
「ふん、それは単に配下が間違いを報せただけであろう」
「私は配下を信じている。我が家中に左様な怠け者はおらぬ」
家来を悪く言われた光秀が、キッと義続を睨みつける。堪らず義続はたじろぎ、眼を逸らす。
これは以前の光秀ならば考えられない態度である。先ほどから口調も違っており、守護、旧守護の面々へ対等に話している。
何かが、光秀の中で変わったことは確かだ。
そこへ先ほどとは別の物見が帰って来る。
「富田長繁が信玄によって成敗されました。理由は定かではありませぬが、武田方の発表によれば、長繁が野心に捉われ、所領を広げるために敵味方問わずに刃を向けたからとのことにございます。信玄は改めて朝倉旧臣に対し、自らへ味方するよう呼びかけております」
突然の報に俄に陣内が騒然となった。
「これだ!長繁の行動は独断であったのだ。それを信玄は快く思わず、長繁が油断するまで待ち、鳥羽城で暗殺したのであろう」
光秀は思わず立ち上がり、好機の到来に歓喜した。
「どうするのじゃ?」
矢継ぎ早に、義続が訊ねる。
「信玄が朝倉旧臣へ呼びかけたところを見ると、暫くは鳥羽城から動かぬと思われる。ならば、その間に我らも味方を増やす」
「味方だと?そのような者が何処におる」
光秀の言葉に義続は呆れ返った。
味方がいるのなら疾うの昔に越前国主である長政が集めているはず。もし光秀が織田や長尾、上杉に期待しているなら論外である。距離的にも遠く、その余裕もなければ間に合うはずもない。
しかし、光秀の顔は至って真面目であり、自信に満ちている。
「越前には三門徒衆と呼ばれ、一向宗を快く思わぬ連中がござる。同じ浄土真宗ながら本願寺とは敵対しており、越前が百姓の持ちたる国になることは避けたいはず。また天台宗の属する平泉寺も味方に取り込めよう」
真宗の一派である三門徒衆は、證誠寺・誠照寺・専照寺の三山を中心に北陸で一大勢力を誇っていた。本願寺蓮如の登場により北陸で一向宗の勢力が拡大すると、三門徒衆の力は衰えを見せ始めた。そのまま滅亡していくのは三門徒衆の本意ではなく、長く朝倉家に味方して一向宗と戦っていた歴史を持つ。
また平泉寺も延暦寺に属す立場から反本願寺を貫いている。先の戦いで朝倉義景を裏切ったのも、織田の威勢に靡いたというよりは一向門徒と誼を通じるようになった義景を許せなかったという理由が大きい。
これらは共に、一万近い僧兵を抱えている。
「三門徒衆、平泉寺の力を借りられれば、二万近い数が集まる」
「僧兵どもを頼れと申すか!」
「信玄も門徒たちの力を借りておる。目には目、歯には歯でござる」
「そのように上手くいくとは思えぬ。それに奴らが確実に力を貸すとも限るまい」
「いや、必ずや我らに付く」
「何故に言い切れる」
気持ちのよいくらいに断言する光秀を義続は腹正しく思った。それでも光秀の態度は変わらず、理路整然と返す。
「天文法華の乱で見られるように、寺社どもの争いは醜く相手の存在そのものを許さぬ。それが武家同士の争いと違うところでござる。三門徒衆も平泉寺も、我らに味方しなければ生き残られぬ」
かつて都で一向宗と日蓮宗(法華宗)の間で諍いが起こった。
天文元年(一五三二)、台頭する一向宗に危惧を抱いた日蓮宗が細川晴元の協力を得て、山科にあった本願寺の寺院を焼き討ちした。これにより力を付けた日蓮宗であったが、天文五年(一五三六)に比叡山延暦寺が介入、日蓮宗へ対して法華宗を名乗るのを止めさせようと幕府へ裁定を求めた。幕府は後醍醐天皇の勅許を証拠として日蓮宗を保護し、これを斥けるも延暦寺は黙らず、日蓮宗へ対して末寺になるよう独自に圧力をかけたのである。
結果、近江守護・六角定頼の援軍を得て蜂起した延暦寺の衆徒は、洛中洛外に点在する日蓮宗の寺院を悉く焼き尽くした。伝え聞くところ、被害は応仁の乱を上回るという。寺社衆の恨みの深さを物語っていた。
対して武門は敵であっても存在を否定することはない。戦場での死は有り得るも時には相手を許し、時には配下に加えて加増することもある。その忠義を評価し、褒め称えることも珍しくはなかった。
寺社と武門では、根底から違っている。だからこそ義続は気に障るのだ。
「そなたに武門の意地はないのか」
「天下泰平の実現を前に、武門の意地など些事に過ぎぬ」
確固たる決意が、光秀の言葉からは窺えた。
義輝の言葉を思い出し、光秀は腰にかけた鬼丸国綱を力強く掴んだ。主の夢を実現させるため、全てを投げ打つと決めた。自分が他人からどう思われようと気にはしない。結果を示し、義輝の為に泰平の実現を叶える。それが己の役目、役割。
(信玄め、覚悟するがよい。……越前は、私の庭だ)
事前に国内を調査し、情報を得て万事の備えで侵攻した武田信玄。そして越前を拝領し、国主として防衛に努める浅井長政。その二人のどちらよりも光秀は越前を知り尽くしている。
朝倉義景の客将として過ごしてきた日々は確実に光秀の中に培われていた。誰よりも越前を知り、越前という土地、民を慈しんだ。この国で、自分に判らないことはない。
土岐光秀が、信玄を迎え撃つ。その時が刻々と迫っていた。
【続く】
さて今回の主役は光秀です。
土岐氏を継ぎ、将軍家と縁戚になった光秀が幕府内で大きな出世を遂げました。正確には家督継承は行なわれておらず(手続き上、時間的な余裕がなかったため)、藤姫も三つなので婚約したに止まります。まだ嫁いだわけじゃありません。(所謂、秀頼と千姫状態)
しかし、それを義輝が認めたということが、大きな要素です。今後、光秀の立場は飛躍的に向上することになります。
いやいや、畠山一万石といい藤姫といい随分と前の伏線を漸く回収する回となりましたよ。畠山の加増なんて第一章ですからね。いつの話だよってな感じです。第五章もそろそろ終盤に差し掛かって参りました。次回は越前での攻防を描き、その後に二幕だけ上方から話を外します。一回が関東、もう一回が九州での話です。
その後、信玄との最終決戦が始まるという流れで物語を描きます。
ちなみに藤姫と婚約した光秀の子・十五郎ですが、幼名が判らなかったので便宜上で光秀と同じにしています。竹千代や犬千代の如く嫡男が当主の幼名を受け継いでいくのと同じにしていますので、あしからず。