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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第五章 ~元亀争乱~
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第十三幕 富山軍議 -二強、将軍を挟み撃つ-

十月十一日。

越中国・富山城


北陸街道と飛騨街道を結ぶ交通の要衝・富山城は、神通川を天然の堀として活用した要害で、神保長職が越中東部へ進出する要として築いた城であった。しかし、その城内には城主であった神保氏を示す竪二引両は一つとして見受けられない。変わりに(ひるがえ)っているのは、武田菱と風林火山。誰もが知る甲斐の虎・武田信玄の軍旗である。


「信長が長島で負けたらしい。どうやら天運は、まだ儂にあるようだ」


昨日、届けられた吉報に城の主はニンマリと頬を緩ませた。早速に信玄は主だった者を呼び集め、軍評定を催す。


軍議には馬場信春や内藤昌豊を始めとする信玄へ付き従った重臣一同と若手衆、外様に椎名康胤と畠山七人衆の遊佐美作守続光、長続連、温井景隆ら、それに加賀一向一揆を代表して七里三河守頼周、鈴木出羽守重泰が参加していた。


現在に於ける信玄幕下の武将達がほぼ全員が集まった形だ。


「越前は門徒たちの働きによって混乱の極みにござる。武田殿の御来援があれば、すぐさま一国を併呑できましょう」


開口一番、意見を述べたのは七里頼周であった。


頼周は武士の出身ながら顕如に見出されて坊官になった経緯から、自身も一向宗へ熱心に打ち込む信者だった。最近では門徒たちから慕われて“加賀大将”と呼ぶ者もおり、その為か好戦的な意見を主張することが多い。これまでも再三に亘って信玄へ出陣を求めていたが、全て斥けられ、待ったを掛けられていた。それが信玄が軍議を催すと聞き、ついに出陣の機会が訪れたと喜び勇んでいる。


「待たれよ。加賀は長らく一向宗の統治下にあった故、遠征に出られても問題ないかもしれないが、能登、越中は未だ磐石とはいい難く、ここはいま少し足元を固めるべきかと存ずる」


対して出陣を見送るよう主張し続けているのが、遊佐続光ら畠山七人衆である。


彼らは能登守護である畠山義綱・義続親子を追放し、義綱の子・義慶を新当主に戴いて家中の専横を実現した。目的を果たした今、出来ることなら能登を離れたくはないというのが本音だ。


「遊佐殿に同意いたす。敵が動けぬなら今こそ、足元を固める好機というもの。拙速に動いて破れでもすれば、我らに後はござらぬ」


続けて温井景隆が声を上げる。もちろん畠山七人衆として、己が利益を最優先に考えての発言だ。


しかし、彼らの性根など端から信玄には見抜かれていた。


「ここは三河守殿の御意見が上策に存ずる。機は今を於いて他になく、全軍、支度は相整っておりまする。御屋形様の下知さえあれば、いつでも都に上れましょう」


それは馬場信春が七里頼周の意見を肯定したことからも窺い知れた。


織田家が長島一向一揆に敗北した今、越前は元より上方も混乱している。間もなく雪が降る季節を控えていることからも、出陣をする機会は今を逃せば来春となり、その頃には織田も幕府も復活しているだろうから、勝ち目は乏しくなる。


「御屋形様。武田の戦ぶり、早う上方の奴らに見せてやりたく存ずる」

「左様。上方では武田組み易しとの風聞が流れているとのこと。まったく以って不愉快でござる。我らの力、侮ればどうなるか思い知らせてやりましょうぞ!」


若手を中心に出陣を支持する声が相次いだ。その声を、隣で遊佐続光が苦々しい表情で聞いている。


「武田、武田と、己のことばかり考えず、我らのことも考慮して頂きたい!信玄殿は、我らが盟主でござろう」


続光が憤慨し、鼻息を荒くして言った。このまま出陣に流れが傾けば、能登勢だけ残るというわけにはいかなくなる。何としても出陣は避けたかった。


「美作守殿。能登が固まらぬのは、前守護の義綱殿が生きているからでござる。しかも伝え聞いたところ、義綱殿は幕府に助けを求め、能登奪還を願い出ているとか」

「そ……それは、風聞に過ぎぬ」


信春の言に、続光は口篭った。


尻垂坂で信玄に敗れた畠山親子は越中に留まらずに幕府を頼り、上方へ逃れている。畠山親子を将軍がどのように遇しているかまでは伝わっていないが、常識で考えれば現守護の義慶を幕府が認めるはずもなく、義綱の守護復帰を名目に反撃に出ることは間違いない。もし続光が能登を安定させたいと考えているのなら、畠山親子を暗殺するか、もしくは信玄の再上洛を助けて新たな政権の下で義慶の守護就任を正式なものにしてしまうしかないが、前者は現実的に不可能な話だ。


つまるところ畠山七人衆は、信玄に協力するしか道はなかった。


「果たして、安易に風聞で斬り捨ててよいものか、もう一度よく御考え下され」


応対はないものの続光はガックリと肩を落とし、項垂れる。他の七人衆からも出陣を拒むような発言を一切しなくなり、軍議は出陣の方針で決した。


そして、ようやく信玄が口を開いた。


「まず目的をはっきりさせる。我々の目的は京に囚われている義昭様を御助けして将軍職に就け、政を正しく回帰させることにある」


将軍・足利義輝の実弟である義昭は謀叛の罪から隠岐へ配流が決定しているが、山陰には山名、一色という幕府に服わぬ者どもが健在なため、現在も京に留まっている。京を奪還すれば、その身柄を押さえることも不可能ではない。とはいえ当の義昭は既に敗北を受け入れて後事を兄・義輝へ託しており、将軍職へ就く気はさらさらない。そんなことは露とも知らない信玄であるが、実際はどうにでもなる。義昭が拒んだところで義昭の子・如意丸を担ぎ出せば済むのだ。


足利公方を救い出し、将軍とする。これを大義名分に信玄は掲げたが、当人ですら大義に掲げるには弱いと考えていた。


(勝ってしまえば、後は何とでもなる)


力こそ正義の戦国乱世では、結局は勝者になってしまえば大義は後から付いて来る。信玄には、いま一時だけ軍勢を纏めておくだけの大義があれば充分だった。


「次に越前だが、浅井を倒すのは後回しにする」

「何と!?それでは越前に入っている門徒たちは、如何になりましょうや!」


途端、頼周が反発する声を上げるが、それを信玄は手を挙げて制した。


「何も放置するという話ではない。無論、越前に入り次第に揺さぶりをかけてはみるが、浅井は何れかの城に籠もるであろう。早々に攻め落とせればよいが、その保障はない。時がかかり過ぎれば雪が降り始め、我らが動けなくなる。よって封じ込めておき、その間に我らは上方へ攻め込むのだ」


近江の暖かさを知っている信玄は、雪の季節となる前に越前を抜けることが第一の目標に掲げた。


「そして近江で幕府と決戦する。恐らくは北近江の余呉辺りになるのではないかと、儂は予測しておる」

「越前ではなく、北近江ですか。では幕府は浅井を見捨てると?」

「見捨てはするまいが、越前まで遠征してくる余裕もなかろう。だが儂が近江へ入れば、無理をしてでも動かざるを得ん。間違いなく余呉辺りで儂の南進を食い止めようとするであろう」


二度も上洛している信玄の頭には、近江の地勢はこと細かく入っている。江北に出向いたことはないが、近江で大軍を展開できる地は限られている。それは余呉湖畔の木之本辺りか、足利義輝が三好勢と決戦した勢田周辺となる。しかし、京からほど近い勢田まで敵である信玄に攻め込まれたのなら、将軍の面目は大きく損なわれることになるため、義輝は余呉での決戦を選ぶと信玄は確信していた。


その確信の裏付けは、もう一つの理由も大きい。


「いま余呉は信長の領地だ。織田領での決戦なら、将軍は信長を引っ張りこめる」


信玄は義輝の考えを正確に見抜いていた。


今の幕府は財政難から大軍の動員が難しい状態にある。越前まで遠征できないのは、それが原因である。そこで頼れるべきは織田家となるのだが、信長は上杉謙信と違って無条件で援軍を遣わす程お人好しではない。だが織田領自体が脅かされるとなると話は変わってくる。信長は領主として、大名として己が版図を守らなければならない。確実に自ら出陣し、大軍を派遣してくるはずだ。故に義輝は近江・余呉での決戦を想定し、準備を進めていると睨んだ。


将軍親政を目指す義輝が信長を御しきれずにいることは、先の浅井家との騒動から一目瞭然である。


(信長と幕府の両方を相手にすることは、儂にとって好ましいことではない。まずは将軍、そして信長と各個に撃破するのが兵法の常道というものだ)


長島で敗北した織田がどれほど傷を負っているか、正確なところは判らない。織田勢の規模が判らない以上、信玄はもう一手、打っておく必要があった。


「信長の出陣を防ぐため、一隊を飛騨へ派遣する」

「飛騨?確かに飛騨は幕府方の版図ではありますが、我らの背後を脅かすほどの脅威はございません。しかも飛騨への派兵が信長とどういう関係があるのでしょうか?」


唐突な信玄の発言に、誰もが首を傾げた。


一門の武田信豊が発言した通り飛騨は江馬輝盛が謀叛方であった父・時盛を暗殺したことで、姉小路を盟主とする一勢力に纏まっている。ただ飛騨は織田領というわけではない。しかも勢力は脆弱でとても外征する余裕はなく、如何に幕命が下ろうとも信玄の背後を狙えるとは思えなかった。


信玄の発言の意図を誰もが掴みかねた。


「なるほど、好餌を撒くということでござるな」


その中で一人、的確に主の考えを読み解いたのは内藤修理亮昌豊であった。


「うむ。飛騨が混乱に陥れば、信長が付け入る隙が生じる。信長であれば、間違いなく喰らいつこう」


飛騨は幕府方であるからこそ、信長が版図を広げられる範囲が信濃に限られている。その信濃とて義信が幕府方へ帰参を果たしてしまえば手が出し難くなる。


しかし、飛騨で一波乱あればどうなるか。


飛騨は小国であるために、一国の主とはいえ姉小路が動員できる兵力は多くはない。無論、信玄が送り込む兵も三〇〇〇と少なくする。つまり信長が飛騨を欲すれば、一、二万の兵を送るだけで手に入れることが可能となるわけだ。そして飛騨を手に入れれば、越中や能登などにも勢力を広げることが叶う。


一方で信玄からすれば、僅か三〇〇〇ほど割くことで万単位の織田勢を決戦兵力から減じさせることが出来る計算になる。信長は信玄の狙いに気付くだろうが、乗ってくると思った。


(そして儂の動きに合わせて、石山も動く)


北陸だけではなく、信玄の動きは遠く摂津の味方にも強い影響を与える。


まさに信玄の真骨頂、日ノ本全体に大きく視野を広げた壮大な戦略が開始されようとしていた。


「そこでだ、修理亮。そなたに飛騨へ赴いて貰いたい」


信玄が飛騨侵攻の大将に選んだのは、考えを読み抜いた昌豊であった。


「なんと!?此度は御屋形様が、その生涯を懸けられる大一番。それに儂の力が必要ないとは……、少々呆れ申した」


この突然の下命に昌豊は明らかな不満をぶちまけた。信玄に対し、ここまではっきり物を言う人物は、そう多くなく、周りの連中は目を丸くして驚いている。


「そなたにしか頼めぬのだ」

「嫌でござる。こういう事は、若い者にでも任せなされ」


そう昌豊が言った途端、望月信永、土屋昌続ら若手から不満の声が上がる。皆、信玄を慕って国を捨ててきた身、主の下で戦うことを望んでいる。老臣の言葉とはいえ、簡単に呑むわけにはいかなかった。


「ほれ、皆が騒いでおるぞ」

「関係ありませぬ!」


頑なに拒む昌豊に対し、隣に座る信春が耳打ちする。


(御屋形様は信長の出陣を防ぐ御考えにある。飛騨へ進んだとはいえ信長が自ら兵を率いてくるという保証はない。場合によっては美濃へ攻め込むことも考えねばならん。とても若い者には任せられぬ)

(それはそうだが……)


不満は口にしても、昌豊は主の考えを理解していないわけではない。信玄に仕えた期間が長い分だけ、主と共にありたいという想いが強いのだ。


「ええい!仕方ありませぬな!」


膝を叩き、昌豊は承服を口にした。そして主の眼を真っ直ぐに見据えながら、深々と礼をする。


「その代わり、必ずや勝って下さいませ」

「任せておけ」


並々ならぬ闘志を漲らせる信玄の双眸は、真っ直ぐに天下を見据えていた。


その後、細かい陣容の詰めが行なわれ、富山城での軍議は終わる。そして二日後の十月十三日。


(おびただ)しい軍勢が、富山城の大手門を出て西へと向かっていった。


風林火山の軍旗が、激しく風に靡いていた。


=======================================


十月二十日。

摂津国・池田城跡


この日、将軍・足利義輝は有岡城に籠もる荒木村重との合戦を視察するために本陣が置かれている池田城跡にいた。


有岡城は荒木村重が自らの采配で伊丹城を改修し、築城の名手でもある松永久秀が縄張りを褒めた程の堅固さを誇る。城に籠もる兵は三〇〇〇余り、対して囲い込む側は一万二〇〇〇と決して城攻めが不可能な数ではなかった。


総大将を命じられている和田紀伊守惟政は、山崎での合戦後に力攻めを強行したことがある。池田民部大輔勝正を先陣にして攻め込んだ幕府軍は、鉄砲や弓を乱射して大いに城壁に迫ったが、敵の抵抗は激しく、また堅い石垣に阻まれて多くの被害を出してしまった。惟政や勝正の家臣にも犠牲者が出たことから、惟政は再び方針を兵糧攻めへと切り替えている。


また八月には荒木方が惟政の本陣へ夜襲を仕掛けたこともあり、この時は惟政も討ち死にを覚悟したと後に義輝へ語っている程の激戦で、馬や兵糧などが荒木方に奪われてしまった。京では“荒木勢強し”との評判が高まり、義輝の気分を害したのは言うまでもない。


それから四ヶ月ほど経った今も、村重は石山本願寺と歩調を合わせるか如く抵抗を続けていた。


「上様。まこと面目次第もございませぬ」


義輝が督戦に現れる度、惟政は謝罪の言葉を口にしている。それを義輝は飽き飽きした表情で返す。


「もうよい、紀州。余とて本願寺との合戦を終わらすべく奔走しているが、なかなか思う通りに進んではおらぬ」

「内裏の修復は終わったと聞き及びましたが」

「一月も前にな。されど延暦寺の僧どもが帝の動座に反対しておるらしく“日取りが悪い”の一点張りじゃ。大方、余が延暦寺の荘園を返さぬことを根に持っているのであろう」


義輝は鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。


この夏より義輝は本願寺との合戦を和睦にて終わらせようと模索していた。石山での合戦は兵力差からしても力で屈服させることは難しく、幕府の負担は増す一方である。かと言って幕府から下手に出ることは難しく、袞竜(こんりょう)の袖に(すが)るのが最善であった。幸いにも時の帝・正親町帝は義輝に好意的で、帝が独自に顕如へ対して勅状を発する動きすらあるという。


ただ帝側と幕府の意思疎通は諮れていない。何故ならば、帝の身は今も比叡山・延暦寺にあって、義輝の意向が正しく帝側に伝わらないからだ。内裏の完成を機に再三に亘って帝の動座を求めても、延暦寺は陰陽師と共謀して首を縦に振ろうとはしなかった。


延暦寺は信玄方の動きに乗じて、新たな荘園獲得を目論んでいた。


「帝の御身を利用にするなど、あってはならぬことだ」


当然ながら怒りを露わにする義輝であったが、延暦寺内では関白・近衛前久も自由に動けないらしく、成果は上がってはいなかった。


「もう一度、某に攻めさせて下され。次は必ずや城を落として見せまする」


池田勝正が拳を握り締め、義輝へ願い出る。


義輝の前では逸ることの多い勝正であるが、その用兵は巧みであり、先陣を任されていながら全体の中で被害は少ない方だった。八月に起きた荒木方の夜襲から惟政を救ったのも勝正である。


戦巧者の少ない幕府に於いて、勝正も義輝が頼りとする一人だった。


「民部大輔。気持ちは判らぬでもないが、今は他に優先すべきことがある」


しかし許可を出すことは出来ない。本願寺と和睦さえしてしまえば、有岡城は味方を失って自落することは判っている。いま悪戯に兵を損なえば、信玄との決戦に影響が出てしまう。それは避けたかった。


「去る十六日、武田信玄の軍勢が手取川を越えて越前へ乱入いたしました!」


そこへ信玄が越前へ攻め込んだことが報じられる。伝えたのは、長政から派遣された浅井家中の者だった。


「……ちっ、早いわ!して、信玄の率いる軍勢は如何ほどの数か」

「正確には判りかねますが、十万を越えているとのこと」

「十万だとッ!?」


いくら信玄が北陸三州を合併し、一向門徒たちの支援を得ているとはいっても十万は多過ぎる。恐らく十万という数は信玄が風潮させているのだろうが、それでもある程度の軍勢を擁していなければ、すぐに嘘だとバレてしまう。


(少なく見積もっても三、四万。多ければ七万ほど……、現実的に見て五、六万が妥当か。されども越前に入れば更に軍勢の規模は増すことになる)


義輝の額に嫌な汗が流れた。


山崎の合戦を契機に謀叛方との戦いは山場を越えたと思っていた。少なくとも自分が不利な状況で戦うことになるとはまったく想定していなかったことだ。刈り入れの時期を過ぎ、また先月には細川藤孝が実弟の晴藤と共同して但馬へ攻め入り、竹田城主・太田垣輝延を幕府へ降伏させて生野銀山を手に入れている。これにより幕府の財政は少しずつ持ち直しつつあるが、現在に於いて捻出できる兵力は限られている。


義輝は今年中に本願寺との和睦を取り纏め、来春に信玄と決戦するという筋書きを思い描いていた。それが早くも崩れ去る。


「越前守は如何にしておる」


義輝は浅井長政の現状について使者に問い質した。


「はっ。我が殿は武田勢の侵攻を聞いて俄に飛び出され、出陣する下知を飛ばされましたが、家老衆の諫止により思い止まり、今は一乗谷への籠城を決め、その支度に追われておりまする」

「一乗谷?あそこは富田長繁によって攻め落とされたのではないのか」

「いえ、城主であった前波吉継殿は城を捨てて落ちられたので、城郭は無傷にございます。長繁が置いていた兵も少なく、今は我らが奪い返してございます」


一乗谷は義輝も検分したことのある難攻不落の名城である。織田によって城下は焼かれたものの名将・朝倉敏景が築いた縄張りは今も健在だった。過去に落城したのは、守備兵の数が城の規模に比例する程いなかったことが原因で、浅井が全軍で籠もれば数万の敵に対しても充分に抵抗が出来る。


「上様。如何になさいますか」


惟政が主へ問う。信玄の侵攻は、摂津表へも多大なる影響を及ぼす。惟政の想定の中には、全軍を退かせて信玄と決戦する事も有り得ると見ていた。


「即刻、岐阜宰相に急使を遣わせ!それと陸奥守、土佐侍従にもだ。可能な限り兵力を掻き集め、信玄との決戦に備える」


義輝の下知を受け、後ろで控えていた使番が一斉に散った。


今年中に信玄が攻め寄せてくることを何も義輝はまったく想定していなかった訳ではない。かねてより諸大名へは、いつでも出陣の命に応じられるよう支度を整えておくよう通達しており、堺の会合衆に依頼して船の調達も終えている。義輝の命を受けた大名衆は、西国の海を渡ってすぐさま馳せ参じるであろう。


それでも信玄との合戦に間に合うかは怪しいところだった。


「では我らも陣払いをしますか」


故に惟政が陣払いを求めたのも自然な流れといえる。


「有岡、石山の包囲は解けぬ」


しかし、義輝は包囲続行を選んだ。


摂津の敵を解き放つことは京を敵の前に晒すも同然で、せっかく減らした兵糧の補充も許してしまう。後々へ禍根を残すだけで、利点は何もない。


「余は信玄への手当てがある故に京へ戻るが、紀州は引き続き、眼を光らせて荒木方の突出に備えよ」

「はっ、畏まりました」


義輝を愛馬に跨り、それを惟政が見送ろうとした矢先のことである。新たな報知が義輝のところへ舞い込んできた。


「石山の一向門徒が四天王寺より出撃し、味方である能勢頼通殿の陣へ襲い掛かってございます!」


信玄の越前侵攻が義輝の許へ届いたのと同じく、顕如のところにも報知は伝わっていたのである。


機に敏な顕如は早速に軍を動かし、摂津衆の一人・能勢頼通を攻撃した。世に言う天王寺合戦の幕開けである。


武田信玄と本願寺顕如。


二つの強敵に挟まれて、義輝は窮地に陥っていた。




【続く】

久しぶりの投稿、申し訳なく思う次第であります。


今回は主に信玄の動くを中心に描きました。また有岡城の村重の現状にも触れています。この有岡城ですが、史実と違う点がいくつかあるので改めて説明をしておきます。


①尼崎、花隈などの城を村重は有していない。

②怱構は築かれておらず、史実ほどの規模はない。

③中川、吹田、高山、塩川など史実で挙兵した連中は幕府方に属している。(最後に登場した能勢も同じ)


こういった辺りです。


次の更新がいつになるのかは判りませんが、一ヶ月に一話しか更新できないといった状況は避けたいと思っています。


最後にお気に入り登録が1000件を突破しておりました。この場を借り、御礼を申し上げたく思います。まだまだ物語りは続きますので、引き続き読んで頂けると嬉しい限りです。

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