第十二幕 流転の戦局 -痛恨の敗北-
九月二日。
伊勢国・長島城
天下分け目の山崎合戦から三ヶ月が過ぎ、全国では幕府方と謀叛方による小競り合いが続いている。将軍・足利義輝は幕府財政の悪化から一挙に事態の打開を図れず、戦力は膠着状態に陥りつつあった。
そこに武田信玄の蠢動が報じられる。
信玄の行動は各地の一向一揆衆の活動を活発にさせた。その影には無論、法主・顕如の暗躍がある。窮地に立たされている顕如にとって、信玄の逆襲は願ってもないことだった。義輝は石山御坊から目が離せなくなり、虎の親子の対立に付け込んで信濃侵攻を目論んでいた織田信長も予定を早めて長島への出陣を決めた。
そして岐阜を発した織田軍が伊勢へが入った。四万という大軍である。
織田信長率いる本隊は長島城の北東に位置する津島へ着陣し、佐久間信盛を大将とする尾張勢が北側の中筋口に布陣、また丹羽長秀が大将の美濃衆は西側の大田口に陣を張る。滝川一益の伊勢衆は南西の桑名へ侵攻し、長島一向一揆に味方する土豪たちに睨みを利かせた。
長島城は海上以外周辺を全て織田軍によって包囲された。
長島は本来、七島といい、その名の通り複数の島から形勢されている輪中地帯である。その中核が本願寺蓮如の六男・蓮淳が建立した願証寺で、地域の土豪たちを組織して自治勢力化していた。尾勢国境に位置する長島は節所で、信長にとって是が非でも押さえたい土地ながら一向宗との敵対を時期尚早と判断し、永禄九年(一五六六)の伊勢侵攻時に制圧を見送った経緯がある。しかし、願証寺は元亀擾乱に於いて本山の命を受けて謀叛方へ加担し、小江木城主であった信長の弟・信興を攻めて自害に追い込んだ。
「身の程知らずの坊主共が。儂に逆らったことを後悔させてやる」
身内を殺されたのだから信長も後には引けない、ということもあったが、信長にすれば一向宗の理解不能な行動に腹が立つという気持ちの方が強い。ましてや民草を誑かす坊主どもへの怒りは凄まじい。
(か弱き民草が自ら判断してのことではあるまい。欲深き坊主共が民を惑わしておる。その罪、死を以って償わせてやる)
織田領では他の領地に比べて税は安く、治安もいい。街道整備にも力を入れており、商業は盛んで領民は豊かだった。全て信長の手腕によるものだ。長島は織田領ではなかったが、周囲を織田家に取り囲まれており、その恩恵に預かっていたはずである。
それなのに一向宗は弓を引いた。制裁は、必要である。
「周囲の村を焼け」
全軍の到着を機に信長は、端的に命令を下した。
願証寺が一向宗の拠点である以上、周囲の村には一向門徒たちが多く住んでいる。その大半が長島城周辺の配置されている砦群に籠もっていたが、少なからず人は残っていた。それを信長は占領するのではなく、焼けと命じる。
「もはや帰る場所はないと知れ」
門徒たちへ絶望を味わわせる為、信長は村を焼き討ちした。自分たちの信じていた言葉が偽りであったことを思い知らせなければならない。
「始めろ」
「はっ!」
主の命を受けた将兵が、一挙に周囲の村々へ進軍を開始した。
家屋に火が放たれる。残っていた者の多くが殺され、もしくは辱めを受けた。京の治安を守っていた頃の織田軍とは相反する姿であったが、主の命となれば逆らえぬ家臣たちは、命令のまま着実に主命を遂行する。それが織田軍だった。
村を焼いた後、信長は長島への攻撃命令を出した。
信長は津島から出陣して小江木城を攻撃、奪還する。佐久間信盛は西別所、中江へ押し寄せて一向門徒の砦を攻め落とした。また丹羽長秀も大田口より香取砦を攻めたが、門徒らの一部に雑賀衆が加わっていたこともあって苦戦を強いられた。
「まだ仕寄れんのか!!」
砲術に長けた雑賀衆の銃撃は、極めて高い命中率を誇った。砦に近づく兵たちは逆茂木の撤去に手間取っているところを狙われてバタバタと倒れる。長秀は自ら前線へ赴いて勇を示して叱咤するも成果は上がらない。犠牲者を増やすだけだった。
「一旦、退くぞ」
そこは何事も堅実な長秀らしく、無理は禁物と撤退に移った。自らが殿軍を務めて兵を退かせる。一向門徒たちは執拗に追撃を仕掛けてきたが、早期の撤退で隊伍が崩れていなかった甲斐もあり、西美濃三人衆の安藤守就、氏家卜全との連携で損傷は最小限に抑えられた。
「五郎左が負けたか。まあよい」
一人だけ敗北を喫した長秀を信長は咎めなかった。蛮勇は信長の尤も嫌う行為の一つであり、冷静に対処した長秀の判断は妥当と受け止めていた。
「引き揚げるぞ」
その後、織田軍による再攻撃が行なわれるかと思いきや信長は全軍に撤退命令を出して引き揚げてしまう。
突然に織田軍が姿を消したことに一向門徒たちは唖然と見守るしかなかった。
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九月六日。
伊勢国・多度村
織田軍の引き揚げた長島には、焼き討ちにあった村々の被害状況が次々と報されていた。焼け落ちた家屋に惨殺された村人の死骸、そして根こそぎ奪い去れた田畠の姿がどの村からも報告されている。
「信長は何をしにきたのだ。村だけを焼き、攻め取った砦をも放棄するとは……」
「恐らくは見せしめであろう。織田家に逆らえば、こうなるということじゃ」
「ならば降伏するのか」
「まさか。儂は法主様を裏切れん」
「儂もじゃ。ともかく村へ帰ろう」
揃って首を捻る長島の首脳たちは、一様に織田の行動を示威行為に出てきたものと結論付けた。それ故に張り詰めていた緊張感は一気に緩み、籠城していた者たちは次々に自分の村へと戻り始めた。皆、家族の安否が心配でならなかったのだ。
村へ戻った彼らが目にしたのは、織田に荒らされて変わり果てた故郷の姿であった。報告で聞いた以上の惨状に慟哭し、果てには家族のいる浄土へ旅立つと嘆く者もいた。
そうした中で長島の西に位置する多度村の長が長島一向一揆の指導者・願証寺証意を訪ねて来た。
「周囲の村々の被害は酷うございますが、生き残っている者をおりまする。是非とも証意様直々の御声掛けをお願い致したく存じます」
悲観に暮れる村人を元気づけるため、村長は証意和尚の視察を望んだ。元より信仰心の厚い証意である。自分の言葉で民が救えるならと思い、多度村を訪れることを約束する。
「うむ。それがよかろう」
村長の懇願により証意は長島を出て多度村に赴いた。自ら織田軍の焼いた村を見て、震えるような怒りが湧いてくる。民を眺める慈悲の眼が、復讐の炎へと染まるのにそれほど時間はかからなかった。
「これは酷い。織田信長……、まるで第六天を支配する魔王の如き男よ。南無阿弥陀仏……、南無阿弥陀仏……、南無阿弥陀仏……」
積まれた死体の前で、証意は念仏を唱え始めた。護衛の兵も信仰深き一向門徒であるが為に、証意に倣って合掌し、念仏を繰り返す。
その僅かに証意の周囲から注意が逸れた瞬間、一発の銃声が鳴り響いた。皆が銃声に気が付いた時、証意の体は後方へと倒れこんでいた。
「証意様ッ!?」
衛兵がすぐさま近寄るが、証意は念仏を唱えていたままの姿で息絶えていた。
後頭部を貫かれての即死だった。証拠も出ず下手人こそ捕まっていないが、織田軍による暗殺なのは判り切っていた。証意の視察を申し出たい多度村の村長が、いつの間にか姿を消していたからだ。
証意の死はすぐに願証寺へ告げられ、跡目を嫡男・顕忍が継ぐことになった。ただ顕忍は未だ十歳の少年に過ぎず、指導者を失った一向一揆は不安を抱えながらも長島に籠もって徹底防戦するしか道はなかった。
織田軍からすれば、そのように見えただろう。一向門徒たちの怒りを甘く見積もった代償は、余りにも大きかったことに、信長は気付いていなかった。
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九月八日。
伊勢国・大田口
証意が死去したことを知った信長は、すぐさま軍勢を反転させて長島へ舞い戻ってきた。今回は津島へ本陣を置かず、前回攻略に失敗した大田口へ主力を集中的に投入するつもり本陣を据えた。
「一向狂い風に申せば、仏罰が下ったというのかな」
信長がニンマリと笑う。敵の大将を討ち取ったことに機嫌はよかった。
「彦右衛門、ようやった」
「はっ」
深々と礼をする一益。証意暗殺の実行犯は、一益麾下の忍であった。一益は以前より一向門徒らの一部に調略を仕掛け、多度村の村長を口説き落としていた。今頃、あの村長は尾張国内に宛がわれた大きな屋敷を前に目を丸くしていることだろう。
全ては予定通りの展開であった。
「さて、と」
信長が目の前に広げられた絵図を睨む。
ここからが本番である。長島城は海上に浮かぶ城も同然であり、そこに二万三万もの門徒が籠もっている。常識で考えれば、落すのは容易くない。どうしても船が必要なことを思い知らされる。
「長島城を直接に攻め落とすのは不可能でございます。此度は示威攻撃に止めまして、軍船を揃えてから再度攻撃されるのが宜しいかと存じます」
故に信長が一益の言に耳を傾けるのも当然だった。元々伊勢経略は一益が一手に任されており、主の期待に応えるだけの実績を残している。今回も敵の大将を討ち取るという大功を上げ、その発言力は伊勢国内に於いては筆頭家老をも凌駕していた。
現場を見た信長も早くから長島の即時攻略を諦め、軍船の必要性を認識していた。既に尾張水軍にも造船を下命し、伊勢大湊の商人たちへも船の調達を要求、志摩を治める海賊大名・九鬼嘉隆へも協力を要請する使者を発している。
ただ軍船が整うまでは時間がかかる。そして長島を押さえておくには、拠点となる城が必要である。よって信長は船が揃うまで、砦を攻略して長島を封じ込めておくつもりだった。
(いつまでも長島に構っているわけにはいかん。信玄が立ち直る前に長島を、いや甲信を併呑しておかねば……)
日毎に信長の焦燥感は本人の気付かない範囲で募っていた。
この頃、まだ秋山信友が籠もる岩村城は健在だったので、柴田勝家の信濃侵攻はまったく成果が上がっていなかった。一刻も早く信濃へ兵を入れなければ、甲信が武田義信で纏まるだけでなく幕府の介入も予想される。
「海に面した敵の砦を落すのは難儀いたしましょうが、内地にある拠点は別です。これだけの兵を持ってすれば、たちどころに制圧できましょう」
信長はいち早く長島を攻略するため一益の進言を受け入れた。
織田軍は滝川一益の活躍により坂井城、近藤城を攻め落とす。信長も東別所へと本陣を進めて一向門徒側を圧迫、大軍を目の前にして一向宗に味方する土豪たちは揃って人質を差し出し、恭順を誓った。唯一、顔を見せなかった白山城の中島将監は見せしめとばかりに織田軍の攻撃を受け、果敢徹せず降伏を余儀なくされた。
織田軍の快進撃、大勝利の連続だった。一向門徒らは証意を失った混乱で守勢一辺倒であり、堅く城門を閉ざして織田軍の攻撃に耐えていた。
しかし、一向門徒たちの籠もる砦はどれも要害であり、信長も試しに中江や大鳥居などの砦を攻めてみたが、船があることをいい事に一向門徒らは海上から大いに織田軍を脅かして抵抗、結局は落せなかった。。仕方なく信長は長島の西にある矢田城を修築して滝川一益を入れ、美濃への帰陣を決める。これ以上、攻めても進展はしないと判断したのである。
その辺りは無駄を嫌う信長らしいところだった。ただ合戦は、まだ終わってはいなかった。
「信長を逃がすなッ!証意和尚の仇を取るのだ!!」
一向門徒が織田軍本隊の帰路、多芸山(現・養老山)に先行して待ち伏せていたのである。織田軍は無防備な横っ腹を襲われた。
「おのれッ!」
完全なる油断、慢心が招いた結果だった。
初撃によって足並みを乱された織田軍は、組織だった反撃に移れずにいた。時折、侍大将が声を大にして兵に何かを叫んでいるが、だからといって状況が変わることはなかった。
この様子を織田の家臣・太田牛一は次のように日記へ書き残している。
“一向門徒どもは弓、鉄砲を持って山々へ分け入っては信長様の退路へ先回りし、行く手を塞いだ。伊賀・甲賀から馳せ集まった練達の射手たちが矢の雨を降らせ、我らは一転して一揆勢の猛攻に脅かされる立場となった”
そして次第に信長は追い詰められ、自身の傍にまで敵が寄って来た。
「くっ……!!」
信長は馬上から応戦するも、味方の討ち死にが後を絶たない。弓、鉄砲による敵の命中率が異様に高いのだ。指揮官たる侍大将を真っ先に討たれれば、指揮系統は瞬く間に混乱する。本隊は組織だった抵抗が出来ず、総大将の近くにまで進入を許してしまう。
「いたぞ、信長だッ!」
「……ちっ」
居場所を発見された信長が表情を歪める。そこに群がろうとする門徒たちを一人、また一人と斬り倒していくが、いくら倒しても門徒たちはわらわらと湧いてくる。
「まだ抗うかッ!」
我流であるとはいえ、義輝と数合は渡り合えるほどの実力を持つ信長である。数が多いとはいえ門徒たちに後れを取ることはないものの流石に疲労の色は隠せない。次第に得物を持つ腕も重くなっていく。
「御屋形様、ここは某に御任せを!」
主の危機に近習の林新次郎通政が殿軍を名乗り出た。
通政は一番家老・秀貞の子であるが、文官である父と違って“槍林”の異名を持つほど優れた武勇を誇っていた。今でも穂先は門徒たちの血で染まっており、バッタバッタと敵を薙ぎ倒している。その与力たる賀藤次郎左衛門も弓の名手と知られており、迫る門徒どもを次々と射倒している。
その中で信長は周りが仰天する行動に出る。馬を降りて通政の傍に寄ったのだ。敵が迫っている時に総大将がすることでない。
「新次郎、うぬの命は無駄にせぬ」
「勿体なき御言葉……」
苛烈な主君の思わぬ行動に通政は涙した。そして命を賭して主を守る決意を固めたのである。
「門徒どもめ。来るなら来い!」
通政の鋭い喝に、門徒兵たちは一様にたじろいだ。死を受け入れた男の、最期の咆哮である。
その後、通政は数度に亘って敵勢を押し返し、要所要所に踏み止まって防戦に徹した。容赦ない門徒らの攻勢を前に通政は自慢の槍を振るい続け、得物を失えば敵から奪い、また戦うという戦闘が繰り返された。
次第に周囲は闇に閉ざされ、静けさを取り戻した頃には首のない遺体が一つ転がっていた。その姿は一向門徒の怒りを主の成り変わって受けた所為で無数の刀傷が刻まれていたという。それでも主の生還を果たすという目的を、通政は立派に果たした。
そして最後の詰めを誤った信長の敗走は、織田軍全体に大きな影響を及ぼした。同様に他の部隊も襲われ、多大なる被害を出したのである。
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織田軍の敗北は全国に広く喧伝された。真っ先に知ったのは、東海にいる徳川家康だった。
家康は今川氏真を高天神城に封じて和睦話を黙殺し、駿河侵攻の機会を虎視眈々と狙っていた。そこへ幕府の介入があり、上意を以て和睦を命じられる。義輝の前では常に従順な態度を崩さぬ家康であったが、使者として赴いた島清興に対しては頑強に抵抗をしてきた。
「今川には戦う力は残っておりません。刑部大輔殿は幕府へ降参する意思を明確にしており、上様も降伏を認められております」
「何を申されるか。我らが調べによれば、今川勢は未だ意気軒昂とし、戦う姿勢を崩しておらぬ。島殿は刑部殿が幕府へ降参する意思を伝えたと申されるが、儂のところには何の申し出も届いてはおらぬ。恐らくは北条の援軍を呼び込むまでの時間稼ぎであろう」
「これは異なことを申される。徳川殿は、今の北条に援軍を遣わす余裕があると」
「それは認識の違いというものにござる。北条は当主の氏政が本隊を率いて関東へ出陣しておるが、隠居の氏康は小田原から動いていない。これは東海の戦況を睨んでのことに相違あるまい」
まさに堂々巡りとはこの事で、家康は清興の言に耳を傾けようとはしなかった。義輝の命令だと伝えても首を縦に振ろうとはせず、頑なに高天神の包囲を解かなかった。
清興は家康という男の狡猾さを知る事になる。東海に赴いて二ヶ月、清興は無為に過ごすことになった。
その間にも今川軍の兵糧は尽きつつある。粥は白湯に近づき、城内にある家畜や植物は早々に姿を消している。もう何日持つのか判らない状態であり、当主・氏真の健康すら危ぶまれた。そこまで家康は今川を追い詰めていたのだ。
(よもや徳川殿は氏真殿の死を待っているのではないか)
氏真には嫡男がいるが、今年生まれたばかりだ。幼君が駿河一国を切り盛りできるはずもなく、氏真の必ずや駿河に混乱を齎す。
(徳川殿の正室は今川義元の姪だ。その間に生まれた信康という子もいる。つまり徳川殿が武力を背景に我が子を今川家の当主に就けることも不可能ではない。最悪、嫡男を廃せずとも家康殿が外戚として後見役に座ることは出来る)
清興は家康の恐ろしい策謀を垣間見た気がした。
最初は義輝から言質を取って武力行使を企んで於きながら、氏真が降伏を決断した場合も想定して動いている。どちらに転んだとしても徳川が駿河を支配できるよう策してある。
それが織田の敗報で一変した。
「織田殿が一向門徒に敗れたと?」
「はっ。陣払い中に伏兵に遭い、織田軍は総崩れとか」
報せを聞いた家康は、まさか信長が敗れるとは思っていなかったらしい。驚いた表情で使者に問い返し、確報かどうか何度も訊ねていた。同様に清興も使者の弁に耳を傾ける。清興にしても織田軍の敗北は予想外のことだった。
「急ぎ織田殿へ使者を遣わすのだ。この家康に手伝えることがあれば、何なりと申されたし。そう伝えるのだ」
そう言って家康は表裏一転、態度をコロリと変えた。
「島殿。織田殿が敗れたことは上方にも大きな影響を及ぼそう。今川の一件は承知した故、上様にも宜しく御伝え下され」
途端に畏まった家康に清興は驚きを禁じえなかった。余りのことに、聞き返してしまった程だ。
「は……。されど、宜しいのですか」
「この一件は、そちらが求めて参ったことでありましょう」
「それはそうですが……」
ともかく家康は今川の降伏を認めた。
清興は煮えきらぬ態度のまま降伏を取り纏めるために高天神城へ入ることになり、数日後に起請文を交わした後に今川勢は駿河へと戻って城を徳川へ明け渡した。幸いにも氏真の健康に問題はなく、当分の間、療養すれば全快するとのことであった。
尚、掛川城に籠もっている北条勢は降伏の対象外とされており、孤立したまま遠州に残った。
「掛川の北条勢は徳川に囲ませておけ」
という命を清興は受けており、家康も北条勢を解放することに反対だったようで、命令を素直に受諾した。
義輝が北条をそのままにしたのは、氏康の出方を窺うという理由からだ。大将の北条綱重は一族の長老・幻庵の子であり、嫡男の時長が早世していたので家督は綱重が継いでいる。如何に氏康とはいえ、幻庵に対しては遠慮があるはず。その幻庵の子を見殺しには出来ないと義輝は判断している。
(徳川殿は、何を考えているのか)
主命を達成して帰京する清興の心境は複雑だった。
ただ一つ判ったことは、家康が幕府よりも信長に重きを置いているということだ。それは義輝が軽んじられていると同意だった。新たなる課題が見え隠れする中、足利義昭の謀叛に端を発した徳川と今川の対決は、ここに終焉を迎えたのである。
また織田の敗北は遠く関東にも影響を与えていた。義輝の予測通り眠れる獅子が遂に動き出したのである。
「今を於いて機は他にない」
上杉謙信と実子・氏政が関八州の覇権を争っている最中、小田原城で沈黙を守っていた北条相模守氏康が、幕府へ使者を送ってきた。正使として派遣された板部岡江雪斎は、氏康末子の北条三郎を幕臣として義輝に奉公している氏規の許へ派遣する旨を告げてきたのである。表向きは氏規の許で修行し、何れは上様に近侍させたいとのことであったが、その実は質であることは明らかであった。
次いで氏康は江雪斎に述べさせる。
「我が北条家は幕府に逆らおうなどと考えたこともなく、上方の謀叛に端を発した混乱から上杉殿と矛を交えるに至った次第でございます。願わくば上杉殿に矢止めを御命じになられますよう御願い仕ります」
同様に氏康は掛川城の解放を求めた。例えるなら氏康は幕府に人質交換を申し出たというところか。
(北条の身内が権少将の手にあるよりは、余の許に置いておった方がいい)
そんな義輝の思惑を氏康が悟っていたかは判らない。ただ義輝が条件を呑むだろう事は、予想がついていたとしか思えない。江雪斎を送ってきたというのは、そういうことなのだ。
「されど岐阜宰相が敗れたという時期に相模守が下手に出てくるとは、どうも合点が行かぬ」
義輝は率直な疑問を側近衆に投げ掛けた。織田と北条、これがどう繋がるのかが理解できなかった。
「織田殿の一件は関係ないのではありませんか。東海で幻庵殿の子が取り残されるのを嫌ってのことでしょう」
評定衆が一人・上野清信が言う。
たまたま時期が重なっただけで、関係性がないとの指摘は捨てきれない。だが義輝は、どうも二つに繋がりがあるように思えてならなかった。
(織田が徳川の援軍として東海に赴くというのは、両家の関係を計れば有り得た話だ。天竜川で敗れた今川に織田の軍勢を阻む力はなく、駿河はあっという間に平定される。さすれば相模守も困ったはずだ)
北条家は関東に兵を送り出しており、余裕はない。確実に戦線の縮小を求められ、せっかく勝ち取った房総半島も捨てなくてはならなくなる。織田軍の敗北は、当会から脅威が消え去ったことを意味する。氏康にすれば、そんなところに無駄な兵を割いておきたくはない。
「左馬助、どう見る」
「……はっ」
突然に義輝から訊ねられ、氏規は言葉を詰まらせた。
氏規は苦しい立場にあった。義輝に引き立てられ、評定衆に任じられるまで重用されている。それだけならば氏規は前途有望な幕臣の一人ということになるが、実家の北条氏は関東で争乱の元となっている。それを理由にすれば、義輝はいつでも氏規を更迭できる環境にあった。
ところが義輝は氏規を遠ざけるどころか更に重用し、傍に置き続けている。
「父の真意は判りかねますが、幕府と戦う気は本当にないと思います」
ようやく開いた氏規の口から氏康の性根の一部が語られた。短いが、的を射ていると義輝は思った。
「なるほど。戦う気はない、か……」
腑に落ちたのか、義輝は何やら思案に耽った様子で黙り始めた。
後日、義輝は氏康の条件を呑み“三郎の身が届いたのなら徳川へ掛川城を解放する”と書いた返書を江雪斎持たせて帰国させた。氏規は三郎が到着次第に面倒を見るように命じられ、安堵の溜息を吐いた。
山崎の合戦で松永久秀を破り、戦局は幕府方に大きく傾いたかに思えたが、織田軍の敗北により再び判らなくなりつつあった。
そして北陸でも、一匹の虎が信長の敗北に突き動かされるようにして軍を発した。
「時、来たれり」
時節は十月に入り、北陸道に風林火山の旗が翻った。
【続く】
二週間ぶりの投稿です。
さて今回は長島一向一揆とその後の情勢を主に描きました。
一向一揆については“ほぼ”史実に近い展開となりましたが、違いは第一次と二次長島合戦が一つになったことです。史実の第一次長島合戦は、完全なる示威行動で信長は数日で陣を引き払っています。これは浅井、朝倉という敵を抱え、畿内は信長包囲網が形成されたばかりの時期で大軍を長島に張り付けておけなかったからです。(と推察)
しかし、拙作では信濃侵攻を企みつつも即座に兵を引き揚げなくてはならない事情がないために、第一次と二次が一つになりました。あとは氏家卜全の戦死がなかったことですか。美濃衆を率いているのが勝家から長秀に変わっていたので、差が生じたとしています。(長秀は勝家ほど派手さはないが、堅実な戦をすると拙作では設定しています)
あとは遂に氏康が登場しました。
何を考えているかはさておき、織田軍の敗北がかなり広範囲に影響を及ぼしています。
次回、信玄が攻め込んだ越前を舞台に物語を描きます。