第十一幕 檄文、飛ぶ -一向門徒大蜂起-
八月十二日。
摂津・石山本願寺
浄土真宗最大の勢力・本願寺派の本拠地である石山御坊は、幕府軍の大軍によって包囲されていた。総大将には評定衆筆頭である三淵藤英、副将に同じく評定衆の蜷川親長が指名されているが、文官上がりの彼らには万を超える大軍を総轄する技量に欠けていた。それ故に石山御坊の南にある天王寺砦すら奪えず、手も足も出ない状態が続いている。
石山から京までは一日ほどの距離にある。よって将軍・足利義輝は京の政務で忙しい中でしばしば姿を見せ、総軍の指揮を執るしかなかった。
(十兵衛よ。本来、これはそなたの役目ぞ)
帷幕に姿の見えない腹心を想い、義輝は心の中で呟く。
幕臣の中で大将の器量を持つ者は限られている。義輝の見る限り、細川藤孝と明智光秀の二人が該当する。その両者を比べたとき、光秀が勝ると義輝は思っていた。
しかし、光秀は自分が出しゃばることに躊躇がある。元より古風な人間であるために、幕府内での序列や下らぬしがらみに捉われているのだろうが、その壁を早く打ち崩して貰わねば、天下一統は遅れに遅れる。義輝一人で出来ることは、限られるのだ。藤孝を召還すれば早いが、藤孝には藤孝で地方を任せなくてはならず、上方には置いておけなかった。
「無理に攻める必要はない。包囲を続行し、敵が突出して来た場合にのみ迎撃せよ」
義輝は織田軍の築いた付城を軸に包囲戦を続けることを命令した。義輝が付きっ切りで指揮を執れれば別の手段もあるが、数日に一度は京へ戻らなくてはならず、無理は致命傷に成りかねない。
その為、一向一揆側の士気を低下させることも出来なかった。
「幕府も諸大名の助けがなければ、この為体ですか」
一方、籠城側の指導者である法主・顕如は、御影堂の奥で静かに仏へ祈りを捧げていた。毎日のことであるが、今日は珍客が訪れていた。
服装は何処にでもいる僧の姿をしているが、鷹の様に鋭い眼光に削げた頬肉、鼻は人の半分ほどの高さしかない。異形の者とは、こういう者をいうのだろう。
この者、実は武田信玄の抱える透破の一人であった。ある依頼を遂行するために幕府軍の包囲をすり抜け、飄々と石山御坊内へと入り込んでいた。
「して、武田殿はいつ頃に兵を発せられる」
「九月……と申したいところでありますが、正直を申せば間に合いませぬ。十月となりましょう」
「十月ですか。……北陸は既に纏められたと窺いましたが?」
「軍備を整えるのには時間がかかります。刀槍に甲冑、兵糧や玉薬と揃えねばならぬものが多々ございますゆえ」
「なるほど、武士とは不便なものですね」
そう言って顕如は瞑想に入る。
(甲斐の虎・武田信玄は未だ健在といったところですか。どうやら思惑以上に事が進んでいるようですね)
表情こそ変えぬが、顕如は笑いが止まらなかった。父・信虎の如く信濃で暴れて討ち死にすると思っていた信玄が、北陸に身を移して再起を図っている。しかも守勢に転じるのではなく、攻勢に出るとは顕如も予想しなかったことだ。
加賀、能登、越中の三国が結束すれば、軍勢は三万を下らない。これに門徒たちが加われば、信玄は幕府と五分に戦える。再上洛も現実味を帯びてくる。
「加賀の門徒を先行して越前へ送りましょう。越前に埋伏している者たちにも声を掛けます」
顕如は信玄からの申し出を受けることにした。
信玄の準備が整うまでの間、門徒たちに越前を荒らせるだけ荒らさせる。幕府側が対応に追われている頃、満を持して信玄が大軍を入れる。上手く行けば信玄が越前を平らげるのに時間はかからないだろう。
「有り難き御言葉、主も喜びましょう」
「御武運を御祈りしておりますよ」
「はっ。それでは、これにて」
そして男は消えるようにして去って行った。顕如はその場を動かずに瞑想を続けたが、暫くして下間頼廉が顔を見せる。
「武田殿の使者が参ったとか」
「はい。どうやら入道殿は、幕府ともう一戦やらかすつもりのようですよ」
「勝てますかな、幕府に武田殿は?」
「……無理、でしょうね」
先ほど使者の男には“武運を祈る”と言っておきながら、顕如は信玄の勝利には悲観的だった。いや現実的だったと言った方が正しい。
「今の幕府は強大です。織田、毛利、上杉などの大大名も味方しており、如何に入道殿とて勝ち目があるとは思えません」
「では、どうなさるので?」
「入道殿とて意地はありましょうから、幕府を相手に一勝二勝はするでしょう。ならば右府殿の目は北へ向くはず。その間に和睦を取り纏めます」
「和睦となれば有岡の荒木殿が孤立いたしますが、よいのですか」
「門徒たちの命を守るためです。それも致し方ありません」
冷徹に言い放つ顕如の言葉には、法主たる者としての慈悲の心は微塵も感じられなかった。生き残るためには、味方すらも斬り捨てる。まさに弱肉強食の世界を生き抜く戦国大名・本願寺光佐の姿が、そこにはあったのである。
そして檄文が全国へ飛んだ。
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八月十六日。
京・二条城
本願寺顕如が足利義輝を仏敵と断じる檄文を全国の門徒たちへ発したという報せは、すぐに京へ戻っていた義輝の許へと届けられた。
「余が仏敵だと?法主の立場をよい事に民草を惑わす狂言を吐くとは、顕如の性根も見えたな」
寺社勢力に圧力を掛けている義輝であるが、法整備の一環としてやっているだけで特に特別な感情を抱いているわけではない。だからこそ自分が仏敵と断じられることに違和感を覚えてしまうのだ。だが既得権を潰される側は、何が何でも義輝の行動を阻止したい。義輝を仏敵と称するのも、そういう背景があってのことである。
ただやる事なす事が苛烈で派手な本願寺は寺社勢力の中でも敵が多く、過去に矛を交えた法華宗は元より同じ浄土真宗の三門徒派なども反本願寺の立場を鮮明にしており、義輝支持を掲げていた。つまり義輝が仏の敵とは、寺社勢力というよりは本願寺の都合でしかなかった。
「如何ガナサイマシタカ?」
皮肉にも義輝が報せを受けたのは、寺社勢力の敵である耶蘇教の宣教師ガスパル・ヴィレラの訪問を受けている時だった。
ヴィレラは先の山崎の合戦でも切支丹大名たちを謀叛方から離反させるのに一役を買っている。義輝はヴィレラの功績を認め、高山親子を始めとする切支丹たちは所領を安堵し、焼け落ちた住院を南蛮寺として再建することも約束した。今日はその御礼を述べるためヴィレラが義輝への謁見を申し出、実現に至っている。
「気にするな。本願寺の者どもが騒いでいるだけだ」
あくまでも小事だと、義輝は装っていた。
「アノ者タチハ、信徒タチノ寄進デ贅ヲ尽クシテオリマス。トテモ神ニ仕エル者ニハ思エマセヌ」
「まったくじゃ。あ奴らにもヴィレラのような無私無欲の精神があれば、余も強くは当たらぬのだがな」
神に仕える者とは思えぬほどヴィレラは痛烈に本願寺を罵る。義輝とヴィレラ、立場の違う二人ではあるものの本願寺に対する嫌悪感は共通していた。
先の戦で本願寺が信玄に味方したために義輝は敗北を喫し、ヴィレラは本願寺を含む仏教勢力の大半から迫害を受け続けている。よい感情を抱かないのも無理はなかった。
「されどヴィレラ、そなたが帰国するという話は本当か」
「ハイ。本日ハ、ソノ御挨拶モ兼ネテ御伺イシマシタ」
「何故に帰国する」
「印度ノイエスズ会ヘ報告ニ参リマス。近頃ハ体調ガ優レズ、船旅ガ無理ニナル前ニ海ヲ渡ロウト存ジマス」
「印度とは天竺のことであろう。羨ましいのう、余も行ってみたいものだ」
「是非ニモ。上様ガ参ラレタナラ、イエスズ会ヲ挙ゲテ御案内イタシマス」
「それは楽しみじゃ」
決して叶わぬ夢であることが判っていながらも義輝は談笑を続け、二人は異国の話に花を咲かせた。義輝は帰国するヴィレラに多くの土産を持たせ、その中には洛中の様子を描いた屏風もあった。
それが元で義輝の治世は、広く世界に知られることになる。ヴィレラが著した“耶蘇会士日本通信”では、義輝の事は常に好意的に書かれており、イエスズ会は幕府の保護の下で布教を続けていく事になる。
これが二人の最後の別れとなった。
翌月、ヴィレラは平戸から船で印度へと戻り、元亀三年(一五七二)に没する。後任にはルイス・フロイスが選ばれ、幕府との折衝を行なっていくことになった。
そして義輝が耶蘇教への支援を強めていくと同時に、本願寺との対立を深めていくのである。
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八月二十八日。
伊勢国・長島城
伊勢では謀叛方だった北畠具教が降伏し、将軍家一門である元古河公方・足利義氏が大河内城へ入って統治を進めていた。また相変わらず北伊勢は織田家の版図であり、その支配を任されている滝川一益が信長の帰還によって勢いを取り戻している。もはや一向一揆勢の反撃の芽は詰まれたかに思われていた時に、石山から檄文が届いた。
「仏敵・足利義輝に味方する織田信長に屈してはならぬ!門徒たちよ、再び立ち上がるのだ!」
長島一向一揆の指導者・願証寺証意は顕如からの檄文を受けて一向衆を扇動し始めると織田領内は騒然となった。
元より将軍への忠誠心など持ち合わせていない連中である。信仰心の強さを利用され、近くの村々を襲い始めたのである。
この事態にいち早く反応したのは、やはり織田信長である。
「彦右衛門には門徒どもの勝手を絶対に許すなと伝えい!一向狂い共め、そんなに極楽へ行きたいなら、儂自ら三途の川を渡してくれようぞ」
九月に予定していた出陣を早め、八月の末日には三万の大軍を率いて長島へ向かったのである。これに現地で滝川一益ら北伊勢の織田勢が加わり、その数は四万近くにも膨れ上がった。
当然ながら伊勢での出来事は、足利義氏の許へも報せが入る。
「我らも出陣した方がよいのであろうか」
伊勢守護を任されている立場から、義氏は自らも出陣するものと考えていた。
「織田家からは何ら連絡はありませぬ。元よりこちらを頼るつもりはないようです」
義氏の重臣・一色月庵は己の推測を交えて主へ助言した。
この月庵の推測は、あながち間違ってはいない。信長は自領のこと故に幕府に頼るつもりはなく、自分の手で解決する気でいたのだ。連絡を寄越さないのも、必要ないと考えているからだ。
「とは申せ、何もしないわけにはいくまい」
領地外の出来事とはいえ、国内で起こった事に対して何の行動も起こさないのは面子にも関わる。恐らく上様も無関心でいることは望んではいまい。そう義氏は思っていた。
「では、いつでも兵を発せられるよう支度だけは整えておきましょう。されど我らとて伊勢に入ったばかりで余裕があるわけではありませぬ。叶うことなら出陣をせぬで済めば、それに勝ることはありませぬ」
月庵の言葉に義氏はただ頷くのみだった。幾たびの合戦に利用されてきた義氏としても本音としては合戦は避けたかったのだ。
古河公方改め伊勢公方家では、まだ領内の掌握には至っていない。将軍親政を実現した本家の当主・義輝に倣い、伊勢公方家で公方親政を実現できるかどうかは、これからに懸かっているのだ。出来れば穏便に事を進めたいという気持ちが義氏の中にあった。
そして九月に入り、とうとう信長と長島一向一揆の前面対決が始まるのである。
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九月八日。
越前国・龍門寺城
越前は未曾有の大混乱に陥っていた。加賀から一向門徒たちが雪崩れ込み、越前国内でも至る所で一向門徒たちが蜂起したのである。
元より越前は本願寺中興の祖と呼ばれる八代・蓮如が吉崎に拠点を築いて布教をしていた事もあり、、門徒の数も多い。拠点となった吉崎御坊自体は永正三年(一五〇六)の第一次九頭竜川合戦の後に破却され存在していないが、信仰の根は絶たれていない。最悪だったのは、この一向門徒の蜂起に旧朝倉家臣団の多くが参加していたことだった。
彼らの多くは朝倉の下位に当たる浅井に従うことをよしとしない者たちだった。
「浅井など、朝倉の助けがなくば生きていけなかった者たちではないか。戦い敗れた織田ならば兎も角、何故に浅井の指示に従わねばならぬのか」
その急先鋒が府中龍門寺城主・富田長繁であった。彼らは織田家に敗れて従ったのであり、越前は織田が支配するものだと思っていた。それがいきなり浅井が入ってきて上に立った。それを名門の矜持が許さなかったのだ。
まず長繁が狙ったのが、早くから浅井支持を打ち出して朝倉旧臣へ辛く当たっていた前波吉継だった。元より仲が良くなかった両者が激突するのは、自明の理と言えた。
これに信玄が目をつけたのは流石としか言いようがない。加賀の一向一揆を通して繋ぎを取り、長繁を篭絡したのである。
「富田殿の言い分は尤もである。浅井に越前を支配する名分はなく、それを笠に着る前波吉継は誅伐されて然るべきであろう。当方としては、義に厚い富田殿へ支援は惜しまぬつもりだ」
加賀一向一揆の協力を取り付けた長繁は、遂に行動を起こす。一乗谷城主となっていた吉継を急襲して殺害すると、三万谷へ逃れていた吉継の家族を追って全員を殺害した。
事を成し遂げて感慨に耽る長繁であるが、これで終わるはずがない。
「痴れ者がッ!武門の者とは思えぬ蛮行、許せぬ!」
これが浅井長政の怒りに火を点けてしまう。
「長繁を討つ!」
陣触れを発し、軍を起こそうとする長政。それを赤尾清綱ら重臣たちが止めに入った。
「いま軍を起こせる余裕が当家にあると御思いか」
「左様、当家は越前移封により本貫を失っており申す。しかも越前国内は先の争乱で荒れ果てており、これ以上、民草を虐げることは避けねばなりませぬ」
「判っておる!されど長繁は浅井の支配を認めぬと申しておるのだぞ。討たずして何とする!」
長政とて現状は把握している。今まともに兵を起こしたとして、恐らく一万も集まらないだろう。それでも浅井存続が懸かっているのだ。動かなくてはならない、と長政は思っていた。
「されど加賀の一向門徒も動いております。我らが北ノ庄を離れれば如何になるか。御屋形様も御承知のはず」
北ノ庄は加賀と一乗谷の中間に位置している。長政が軍を発して長繁を討ちに行くということは、北の守備を放棄するに等しい。仮に出陣するにしても、当たれるのはどちらか一手に限られるのだ。
「織田と幕府に、責任を取らせましょう」
阿閉貞征が言った。
貞征は久政に味方して謀叛方に与したが、敗れて降伏した身だ。しかし、謀叛方に転じた理由を立場から已む無しと判断され、赦免されて元の立場に戻っていた。
その貞征の言葉に、多くの者が同意を示した。
そもそも浅井が北近江を追われたのは、信長の江北横領とそれを幕府が認めたからである。確かに領地は倍増したが、ここで失っては何の意味もない。多くの者が、浅井を救う責任が織田と幕府にあると思っていた。しかし、織田は先頃に長島一向一揆討伐に大軍を発したばかりだ。東濃へも柴田勝家を大将とする一軍を送っている以上、援軍を差し向けてくれるとは思えない。もし送ってくれたとしても、それは浅井に変わって江北を治めることになった羽柴秀吉となるだろう。その秀吉と肩を並べて戦をすることを家中は受け入れられるだろうか。
答えは、否だ。
織田を頼ることは、今の浅井には不可能だった。
(さて如何にするか)
と長政が迷っているところに幕府からの使者が訪れた。使者は若狭守護・柳沢元政家中の者だった。
「若州勢、悉く出陣の支度が整っています。上様からは越前守様の指示に従うよう仰せつかっております」
「まことか!?」
長政は義輝の用意周到さに驚いた。
この頃になると信玄の動きは長政も知るところとなっている。本願寺との敵対は周知のことだが、ここまで事が早いとは長政も予想していなかった。常識で考えれば信玄が動けるのは雪解けの後、来年の三月頃だ。故に長政も春先までに新城の普請を終え、信玄の南下に備える予定だった。
「既に我らは若越国境まで迫っております。その気になれば、一日で府中まで到達できます」
「それは有り難い。監物殿には、敦賀勢の指揮を預ける故、臨機応変に対応を御願いしたい」
「畏まりました」
使者は去り、長政の心に幾ばくか余裕が戻ってきた。
義輝は信玄の動向を知った時から、比較的に傷の浅い若州勢の動員を計画していた。丹後の一色義定は丹波で軍勢を壊滅させられている事から、とても隣国を侵す力はなく、元政が領国を留守にしたところで影響は少ないと考えていた。
だが一方で、幕府が派遣できる軍勢に限りがあることの証にもなった。若州勢は僅かに三〇〇〇しかおらず、幕府の威信を示すには不十分だ。その若州勢しか送って来ないとは、逆を言えば送れないと言っているも同じなのだ。
それでも来るべき決戦に備え、時間を稼ぐしかない事情が義輝にはある。それまで越前は何としても保っておきたかった。
義輝と信玄。先の争乱の勝者と敗者だが、置かれている立場は偶然にも似通っていた。
一向一揆による蜂起は、ここより過熱していくことになる。
【続く】
皆様、明けましておめでとうございます。休みが正月しかないので、元日からの投稿となりました。
昨年中は一年を通して拙作を御覧いただき誠にありがとうございます。引き続き今年中に完結できるか判らない作品ではありますが、どうか末永い御付き合いを御願い申し上げます。
さて一向一揆の決起が始まりました。越前での争乱は史実と似通っていますが、史実以上に朝倉旧臣が離反しているところが大きな違いです。今後、長政がどうなってしまうのか。そして信玄は。
その越前を描くのは次々回となります。では次回は何処かというと、長島一向一揆が舞台となります。暫くは一向一揆関連が続き、その後一旦地方へ視点を移し、再び上方を描いてから今章は終了となります。