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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第五章 ~元亀争乱~
115/201

第九幕 新旧激突 -老虎と次代の龍-

六月二十五日。

越後国・春日山城下御館(おたて)


長尾景勝が治める越後国の中心、府中から僅かに離れた場所に大きな屋敷が一つ建っている。通称・御館と呼ばれている屋形の規模は東西二町弱(約250メートル)、南北に二町半(約300メートル)ほどを誇り、幅十二間(約20メートル)はある主郭を有し、大きさは越後一である。


この屋敷の主は景勝ではなく、元関東管領・上杉憲政で上杉謙信の養父に当たる人物だった。謙信が上杉の名跡を継いで本拠を厩橋城へ移した後は共に関東へ戻ったために今は空き家となっており、長尾家の番兵が屋敷の管理をしている。


その御館に景勝が入った。


景勝が春日山城へ戻らずに御館に入ったのには理由がある。滅多に変えることのない景勝の表情が苦痛に歪んでいることが、それを物語っていた。


「春日山が落ちたのは間違いないのか」

「申し訳ございませぬ!突然に武田が攻めて参り、本丸を奪われてしまいました」


報告に訪れた留守兵の一人が床に額を擦り付けて謝罪する。景勝は唖然とし、暫く茫然自失となっていた。従う諸将の表情も、概ね景勝と同様だった。


春日山城は長尾家の本拠であり、尊崇する義父・謙信から受け継いだ城である。それを事もあろうか養父の宿敵である武田信玄に奪われてしまうなど、あってはならない事態であり、何よりの屈辱だった。


「状況は?」


景勝は唇を噛み締めながらも必死に自分を抑え、兵へ問い質す。


「南三ノ丸、本丸は奪われましたが、二ノ丸と三ノ丸は確保しております。簡潔に申し上げれば、城の西半分が武田に奪われたことになります」

「ならば馬場から駆け上がり、城内に入ることは可能なのだな」

「はっ」


兵の目には光が見えた。それは希望が失われていないことを意味している。


春日山城は大規模な山城である。最高所である本丸を中心にいくつもの曲輪を巧妙に配置、重臣たちの居住する屋敷もある。要害堅固な城ではあるが、堀切や土塁は少なく、石垣すらない旧時代の山城だった。大規模であるために小数の兵では守れず、周囲に築かれた支城群も役には立たなかった。大手口から疾風の如く攻め込んできた武田勢は、一直線に大手道を駆け上がり、そのまま本丸を奪ってしまった。


大いなる油断。信玄が越後へ寄せてくる余裕も理由もないと考えて本庄繁長討伐へ全軍を動員したことが誤りだった。


しかし、幸いなことに武田にも広大な春日山城を全て占拠してしまうだけの兵はないようだった。南西側の大手道から攻め上って南三ノ丸を落として本丸を占拠しているが、二ノ丸、三ノ丸を攻略する前に景勝の本隊が現れてしまったため本丸を押さえたところで動きを止め、それ以降は守りに入っている。奪還は、不可能ではない。


「三ノ丸を確保しているのであれば、敵は兵糧を手に入れていないはず。いち早く城内へ兵を移すべきかと存ずる」


即座の入城を主張したのは、村上義清だ。


かつて北信濃五郡を治めていたものの信玄によって全てを奪われた武将である。その恨みは今を以ってしても晴れてはおらず、第四次川中島合戦では敵陣深くまで攻め入って信玄の弟・信繁を討ち取っている。猛将の印象が強いが、大名出身だけあって感情を優先させるような真似はせず、老獪な一面を持ち合わせている。


その義清が入城を主張する理由は、三ノ丸の米蔵にある。腹が減っては戦が出来ぬという言葉の通り、米蔵を確保していない武田勢の兵糧は恐らく手持ちが精々であり、荷駄で運べる量は限られているので、素早く兵を入れて三ノ丸を固めるべきと考えていた。


「それがよい。これ以上、春日山を奴らに好きにさせてたまるか」

「まったくじゃ。すぐに本丸も取り返してくれる」


血気盛んな越後の将兵たちは、守勢に甘んじることをよしとしていないようで、城に入るだけでは収まらない様子だった。


(本丸を取り返すことは不可能ではない。されど信玄は何故に春日山を攻めたのだ。本庄繁長の支援か。いや、今の信玄にそのような余裕があるとは思えぬ)


家臣たちが意気軒昂としている最中、景勝はじっと思慮に耽っていた。


景勝は本庄城からの撤退に際して揚北衆を中心に兵三〇〇〇を残したが、手元には七〇〇〇ほどが残っている。通常の城攻めには三倍以上の兵が必要というのが常識であるが、二ノ丸と三ノ丸を確保しているのならばやりようは充分にあった。しかも長尾勢は城の構造を知り尽くしている。本丸を押さえられたとて地の利はこちら側にある。その辺りを踏まえているからこそ、みな城を取り戻せることに疑いを持っていなかった。


ところが今の景勝には情報が圧倒的に不足していた。第一、信玄が春日山に現れた理由すら定かではない。それを知らずして、安易に兵を動かせば大火傷を負いかねない。何せ相手はあの武田信玄なのだ。無策というのは有り得ない。


「武田の数は判るか」


景勝が再び留守居の兵へ訊ねる。


「それが僅かに四〇〇〇ほどに過ぎないのです。風林火山の軍旗からして信玄が率いていることは間違いないのですが、山県や春日などの重臣たちの姿は見えませぬ」

「なに?それはどういうことだ」

「判りません。されど武田勢が四〇〇〇ほどであることからして、何かしらの伏兵がいることも考えられます」

「う……む」


景勝は両の腕を組み、静かに瞑想に入った。


これまで把握していた情報では、武田信玄の下には一万の兵がいたはずである。岩村城の秋山勢を合わせれば二〇〇〇ほど増える計算になるが、それは大した問題ではない。上原城で嫡男である武田義信と対立していた信玄が何故に春日山城を攻めたのか。そこが問題なのだ。


はっきりと判るのは、何らかの形で信玄は義信と和解したということだ。戦いに敗れたのなら春日山を攻める余裕はないはずであるし、勝ったのなら四〇〇〇という数は少なすぎる。そして、それ以前に春日山を攻めるという行為に意味があるとは思えない。信玄にとって今の敵は幕府であって、長尾家ではないはず。今さら長尾の居城を奪ったところで、益するところは少ないように思う。


あの武田信玄が、そんな無駄なことをするのだろうか。義父から信玄のことを聞き知っている景勝としては、その辺りがどうしても納得できなかった。


景勝は御館を本陣とし、甘粕景持を春日山城内に入れ、城を逆包囲する命令を下した。そこから先は、相手の出方を窺ってから決めるつもりでいる。


だが、信玄の思惑は景勝の予想からまったくといって言いほど外れていた。


=======================================


七月四日。

越後国・春日山城


睨み合うこと十日が過ぎた。


春日山の本丸に陣取った信玄は、上杉謙信が好んだ毘沙門堂を本陣と定めていた。


「このような陰気な場所に籠もるのが好きとは、謙信の奴はよほど暗い男なのだろう」


出家している信玄も信仰心の厚さでは負けないつもりではいるが、謙信は異常に思う。ひたすらに毘沙門堂に籠もり、読経三昧の日々を送るのは同じ国主とは思えない。あまつさえ不犯を貫き、武家の当主としての役目を果たさない謙信を、信玄は皮肉った。


「僧にでもなった方がよかったではないか」


そうすれば自分がこんな苦労をすることもなかったと思う。越後を難なく治め、甲信越を基軸に一大勢力を築いたことだろう。


そのような事を今さら考えても意味がない。今の信玄は、前だけを見ている。


「長尾勢は城を包囲するに留まり、何ら手立てを打てずにいる模様にございます」

「景勝も御館から動いておりません。透破の報せによれば、援軍を要請している様子もないとのこと」


信玄へ報告するのは、信濃を出てくる際に真田一徳斎より遣わされた真田信綱と昌輝兄弟である。


信濃国小県郡を領する一徳斎は、智の面で信玄を支えた名将である。元は海野氏に仕えていたが、信玄に帰属してからは忠臣として信濃経略に活躍した。一徳斎自身は病を期に隠居したが、その息子たちは何れも有能で、信玄も重く用いていた。


その一徳斎は武田の内訌には関与しなかった。真意は定かではないが、御家存続を考えてのことだと思われる。この度、信玄が義信に家督を譲ったことにより内訌は終焉を向かえ、信玄の越後遠征に嫡男と次男を遣わしてきた。これも忠義の表れと褒め称えたいところだが、一徳斎も戦国の世を生きる武将の一人である。


一徳斎は同時に四男の加津野信昌(後の真田信尹)、五男の真田信春を義信へ遣わしていた。三男の武藤喜兵衛は幕府に捕縛されていることから、どの陣営にも真田が存在していることになる。とはいえ嫡男を送って来ただけあって、一徳斎が信玄へ対して格別な感情を抱いていた事だけは確かだろう。


「謙信から譲り受けた城を奪われたのだ。他者に助けを求めるなど恥知らずなことは出来まいて」


目の前の問題に対し、心が邪魔して融通の利かない策しか立てられない景勝を信玄は鼻で笑った。


「右衛門尉、支度は整っておるか」

「はっ。いつでも運び出せまする」


名前を呼ばれた土屋昌続は、主の意図するところを察して即答した。


譜代家老の一人である昌続は、信玄を慕って今回の遠征へ参加していた。帰国ままならぬ遠征ということもあり、土屋の名跡を実弟である昌恒へ譲っての参戦である。


このように武田家中は、同じ氏族で親兄弟らが信玄と義信両方に属す異様な状態へと変化していた。


そうまでして信玄が何を目指しているのか、未だ一部の将にしか明らかにはされていない。ただ彼らの中には信玄についていけば間違いないという意識が今でも強く根付いている。故に嫡男、嫡流に属する殆どの者が、義信ではなく信玄についてきていた。


「それにしても謙信め。これほど貯め込んでいるとは意外であったぞ」


信玄は昌続から差し出された帳面を見て驚いていた。


帳面には春日山城の本丸にある金蔵へ納められていた黄金がどれほどあるかが記載されていた。その額、実に二万両もある。傍から見れば無欲な存在にしか見えない謙信にしては、少々大きすぎる額に思えた。


しかし、謙信も天下に名を知られた戦国大名である。万余の兵を運用するためには黄金は欠かせず、相当な額を持っていたとしても不思議ではない。いや、あって然るべきなのだ。


現に信玄がその経済力を金山から産出される碁石金に頼っていたと同じく、越後には鳴海金山があり、佐渡には西三川、鶴子などの金山がある。産出量だけを言えば、日ノ本全体の金山から採れる量の三割を謙信は占めていた。さらに直江津、柏崎の湊を越前敦賀や若狭小浜などと海運で結んで税を取り、越後丈布を特産品として奨励して上方で売りさばいている。


莫大な富が、軍神の遠征を支えていた。そんな謙信に意外にも信玄は感心していた。


謙信は私服を肥やす為に、こんなに貯め込んでいたわけではない。確かに黄金二万両は凄まじいが、春日山にそれがあるということは、厩橋移転に際して謙信は黄金も含めて景勝に譲ったことになる。もし謙信が我欲の強い人物なら、このような真似は出来なかったであろう。それだけに、皮肉にもこの二万両は信玄の大きな武器になってしまった。


「これらならば、面白い戦ができようぞ」


久しぶりに信玄の胸が躍った。思わぬ臨時収入が入ったことで、これからの策戦の幅が広がりを見せる。


信玄が春日山を攻めたのは、これから始まる一大反抗作戦に重要な意味を持っているからである。


実のところ信玄が目指している場所は加賀である。加賀は一向一揆の支配する土地であり、今も謀叛方の勢力圏として健在だった。他にも畠山七人衆が下克上を起こした能登、椎名康胤が神保長職と係争中である越中に謀叛方の版図はある。ただ三国には中核となる人物がおらず、個々に抵抗しているだけに終わっていた。


(北陸に行けば、三万から四万の兵が手に入る)


三国の実力者に呼びかけて蜂起させたのは信玄本人である。故に信玄が姿を見せれば盟主に選ばれるのは必然で、さらに二万両あれば多くの軍兵を雇うことも不可能ではない。そして今回は、数万にも及ぶ門徒たちを操るだけの将兵を伴っている。武田信玄が再起を図る地として、これほど相応しい土地は他にはなかった。


(儂は二度と負けぬ)


再び上洛を目指し、天下分け目の合戦に挑む。春日山は途上にあったからという理由で攻めたに過ぎないが、今後の事を思えば信玄が北陸から上洛を目指すには本庄繁長にはもう少し抵抗を続けて貰う必要があった。景勝に背後を突かれては、せっかく集めた兵を割かなくてはならなくなる。幕府、そして織田信長との決戦を前にして、信玄は一兵たりとも無駄にはしたくなかった。


「城は燃やす。今は長尾家の城とはいえ、元は謙信の城だ。それだけで繁長の支援になろう」

「はっ。畏まりました」


昌続が頭を垂れ、去っていく。


この二日後、春日山の本丸は炎に包まれることになった。


=======================================


七月六日。

越後・春日山城


朝方、春日山の本丸が炎に包まれた。


紅蓮の炎は瞬く間に家屋を伝って城全域へと広がりを見せていく。長尾勢が籠もっている二ノ丸や三ノ丸へも飛び火しており、兵たちは朝から消火活動に追われていた。


城を燃やしたということは、武田は春日山を捨てたという事だ。つまりは戦になると景勝は予感した。


「出陣じゃ!この代償は、貴様の首で払って貰うぞ!」


御館の景勝は気を吐き、信濃衆へ先発を命じた。武田勢の逃亡先が信濃だと考えていたからである。


ところが、だ。


「武田勢が進路を西へ執っております!」


まさかの事態だった。武田勢は南へと下らず、北陸道を目指して一旦は北へ進み、そこから西へと向かっていた。越後の西といえば、越中である。


(西?何故に信玄は西へ向かうのか)


信玄の目的を知らない景勝は、武田勢の行動に即座に対応することが出来なかった。


当然といえば当然である。戦国大名といえども領地、本貫へ対する拘りは当たり前のように持っている。景勝が本丸陥落に怒りを露わにしたのも、春日山が長尾の本貫であったからだ。義信との会談の内容を知らない景勝が、領地を捨てる策を信玄が執るなど考えも及ばなかった。


この戦国の世で居城が燃やされて平然としていられるのは、織田信長くらいだろう。そして信玄も、ここにきて同じ境地へと辿り着いていた。


「土屋隊が先行、まもなく鳥ヶ首岬へと差しかかります」

「護衛の源左衛門はどうしておる」

「日の入城の長尾景直に備えております。大した兵は残っておらず、突出してくることはないでしょうが、一応は警戒しておくとのことです」

「任せる。儂は小僧の相手をしてやらねばならぬからな」


そう言って信玄は不敵な笑みを漏らした。謙信相手ならいざ知らず、その養子如きに負けるとは微塵も思っていない。


土屋隊には大事な黄金を持たせている。それ故に四名臣が一人・内藤昌豊を護衛に付けた。進路上に長尾方の城があるが、武田の人数を以ってすれば抜けるのは訳もないこと。問題は、追い縋って来る景勝の本隊をどうあしらうかだ。


「長尾勢、来ます!」

「よし、始めよ」


信玄が命じ、使番が散っていった。


軍神・上杉謙信が挑んでも遂には倒すことの出来なかった甲斐の虎に、次代の龍が挑んだ瞬間であった。


「逃がすかッ!」


最初に武田勢に追いついたのは斎藤朝信だった。越後の鍾馗(しょうき)と称される武勇の誉れ高き名将である。


朝信は比較的に御館近くに陣取っていたため、南方に布陣していた信濃衆や城に入っていた甘粕景持よりも街道に近かった。もはや先手がどうこうと選んでいられる状況ではないため、長尾勢は武田に追いつける順に攻めかかることになった。


「鉄砲、放て!」


轟音が、鳴り響く。


牽制の銃撃を加えるのは、真田兄弟の部隊である。殿を務め、主の本隊を守る厚き壁として斎藤勢を阻んでいる。少ない鉄砲を信綱、昌輝の兄弟が敢えて分けて持つことで、絶え間ない射撃で斎藤勢の足を止めた。


「これしきでッ!臆せず進むのだ!」


朝信は兵たちへ前進を命じる。


思ったほどの被害は出ていない。鉄砲の数が少ないのだから、当たり前のことだ。しかし、銃声がするだけで兵たちは少なからず萎縮して見せるものだ。元々銃撃による成果を期待できないと割り切った真田の兄弟たちは、銃声による成果に主軸を置いていた。


斎藤勢の進撃は、真田によって明らかに鈍くなった。


「ならば儂が進むだけよ」


兵たちが気後れするならば、恐れる必要はないと我が身で示してやればいい。朝信は馬腹を蹴って前線に躍り出ると、そのまま敵中へ斬り込んで行った。


「殿を追うぞ!殿だけを戦わせてはならぬ!」


こうなると流石の兵たちも遅れを取るわけにはいかなくなる。主を追って突進し、両軍は矛を交えた。


刃が重なり合い、閃光がそこらじゅうで走った。方や撤退中であり、方や追撃中である。向かい合っての合戦なら追撃側が有利だが、長尾勢は虚を突かれての追撃であり、まともな隊伍を組めていない。勢いだけで攻めかかっているという状況だ。


そのために朝信は真田を破って信玄の本隊へ襲い懸かることが出来ずにいた。そこへ駆けつけたのが、後続の山本寺定長である。


「まもなく我らも追いつく。斉藤殿は気兼ねなく攻め続けられよ」

「有り難い。ならば信玄への道は、儂が切り開いておこう」


味方の応援に勇気づけられた朝信は、犠牲を省みずに真田への再突撃を敢行した。こうなると兵の多寡が物を言う。朝信の猛攻を前に真田兄弟の連携は崩され、遂には道を開けることになった。


「今じゃ!」


飛び出す定長は意気盛んに信玄を目指した。信玄本陣にさえ手をかければ、武田の動きは完全に止まる。さすれば数の多い長尾勢が必然的に有利になるのは目に見えている。


「な……!?」


開けた視界の先を見て、定長は絶句した。


なんと信玄が有間川を越えた辺りで動きを止め、長尾勢を迎え撃つかのように毅然として布陣しているではないか。悠然と風に靡く風林火山の軍旗は、川中島での信玄を思い起こさせるものだった。


「ええい!成るように成れッ!」


罠の可能性を感じ取った定長であるが、選択の余地はなかった。目の前には武田信玄がおり、後続は迫っている。右手には海、左手には深き山々がそびえている。武田の部隊が他にいないところを見ると、信玄自らが囮となって兵を逃がそうとしているのだと思われた。


「御屋形様には近づけさせぬ」


猛然と襲い掛かる定長の前に立ち塞がったのは、武田信繁の子・信豊だった。黒備えの軍装に身を固めた部隊は、殺到する山本寺勢を一手に受け止めた。


「小賢しい!諦めて信玄の首を渡せ!」

「それは出来ぬ相談だなッ!」


両者が勇躍し、渾身の一撃を繰り出す。火花が散り、二合、三合とぶつかりあった。


喚声が木霊し、将が馬上から激を飛ばす。士卒は槍を振りかざし、刀を突いては取っ組み合うという泥臭い合戦が行なわれていた。


「おのれ武田めッ!よくも春日山を燃やしてくれたな!」

「古臭い城じゃったから、よう燃えたわ!」


時には罵声を浴びせ合い、押しつ押されつの壮絶な戦闘である。皆が無我夢中となって目の前の敵と戦っている最中、信玄は何かを待っていた。


「いよいよじゃ、粘れよ」


細やかに指示を出し、時には本隊の兵を割いて信豊を支援する。この繊細なる采配こそ、孫子の兵法を規範として幾たびの勝利を掴んできた信玄の戦であった。


「武田信玄、有間川に留まって味方の撤退を支援している模様」


そんな戦いの様子が景勝の許にも報された。それを聞いたとき、景勝は定長と同じように罠の臭いを嗅ぎ取っていた。


「全軍、武田信玄のみを狙って突進せよ」


だが景勝が下した命令は、罠に一切の備えを築かない総攻撃だった。


(罠の可能性は捨てきれぬ。されど、どのような罠があるか探っている暇はない。ならば……)


これが謙信なら天性の嗅覚で信玄の罠を看破したのだろうが、景勝が真似できるはずもなかった。故にこそ執れる手段は一つ、信玄の首を挙げること。長尾勢の兵力を持ってすれば、遮二無二に突撃すれば不可能ではない。犠牲は出るだろうが、このままでは信玄に逃げられる。そうなった時の事を、景勝は考えていた。


景勝は信玄が金蔵にあった黄金二万両の存在に気付いていないとは思わない。信玄が壁になって味方を逃がす理由は、恐らく二万両にあると推測していた。つまるところ二万両が今後の信玄にとって必要なものであるということだ。


(まだ信玄は勝利を諦めてはいない)


勝利。それは有間川で行なわれている局地的な勝利のことではない。信玄が幕府の長である義輝を倒し、再び天下を手に入れるつもりであることを景勝は知ることになった。


「信玄が矢面に立って天下を目指すならば、私も養父・謙信に倣って我が身を晒すのみ」


景勝は愛刀を高々と掲げる。きらりと光った刀身が風林火山の軍旗に向かって振り下ろされた時、長尾勢の総攻撃が始まった。


「うおおおおーー!!」


それはまさに車懸かりを彷彿とさせる突撃だった。先手の柿崎景家が槍を突くと、即座に二番手の岩井信能も黒備えへ襲い掛かった。信豊も果敢に踏ん張ったが、今回は相手の勢いが勝った。信玄が原昌胤の騎馬部隊を送らなければ、討たれていたかも知れない程の窮地だった。


「儂の存在を忘れるなッ!」


春日山の南方に布陣し、三番手となった村上義清も既に突撃態勢を整え、信玄本陣へと迫った。城内に入って遅れをとった甘粕景持もようやく追いつき、突撃の構えを見せている。


「小童め、やりおるわ」


若干十五にして、車懸かりを操る景勝に信玄は瞳を爛々と輝かせていた。


景勝を中心に車輪が回転する毎に本陣の備えが削られていく。決して好ましい状況ではないが、武田と長尾がまともにぶつかれば、こうなることは川中島の合戦で知っている。どちらかが一方的な展開で勝利することは、まず考えられない。


「謙信の猿真似をすれば儂に勝てると思うたかッ!」


長尾勢の動きを察し、信玄は敵地の真っ只中で吼えた。


無論、信玄は景勝が謙信の真似をしているとは思っていない。如何に謙信の育て上げた越後兵だとはいえ、僅か十五で車懸かりを操る男が、武田信玄を前にして猿真似に興じるなどという間抜けはするわけがない。景勝が車懸かりを使ったのは、他に戦法がなかったからだ。そう仕向けたのは、他ならぬ信玄である。


(儂が有間川に留まれば、景勝は儂を狙うしかなくなる。敵の狙いが判っておれば、対策を練るなど造作もないこと)


景勝を含め長尾勢の全員が武田が西へと進路を取るとは思わなかった。故に隊伍は乱れ、陣形は崩れた。各将は別々に武田勢に攻めかかるしかなく、景勝は車懸かりを選ぶしかなかった。そして景勝が狙うのは信玄の本陣となれば、それに合わせて伏兵を仕込むなど難しい話ではない。越後は信玄にとって不案内の地であるとはいえ、宿敵の治める地だ。十年以上も前から間者を忍び込ませ、その地勢は詳細に絵図に描ける程にまで調べ上げてあるし、現地の者を金に物を言わせて雇ってもいる。武田勢が敵地に於いて機敏に動けるのは、こういう背景があったからなのだ。


「車懸かり、敗れたり」


信玄の双眸に光が走った。


采配を振るい、指示を出す。暫くした後に、その指示が馬場信春へ向けられたものであることが判った。


「カッカッカ!越後兵といえど謙信がおらぬでは、この程度か」


信玄より先行して前を進んでいたはずの馬場勢が、いきなり長尾勢の側面へ出現した。元より小勢である馬場勢は、大きく迂回して山間を通り、長尾勢の側面に出た。このために信玄は、自らが囮となって敵を足止めしたのである。


「武田だとッ!?あれは鬼美濃か!」


前面に意識が集中している長尾勢にすれば、如何に馬場勢が寡兵といえども無視できない存在だ。一番近くにいた岩井信能が急に反転しようとするものの、そのような時間を信春が与えるはずもない。


「崩れよ」


痛烈な一撃だった。これには信能は耐え切れず、兵は壊走する。


車懸かりの唯一の弱点といえば、側面攻撃への弱さである。九頭竜川で同じ戦法を朝倉勢が執ろうとしたが、その時は小島弥太郎の奮戦により防がれた。しかし、信玄は違った。絶妙な間で采配を振るい、馬場勢が一撃を加える。その卓越した連携は、熟練された兵と主従の信頼によって成されたものである。家臣に全てを任せてきた朝倉義景が出来る芸当ではなかったのだ。


岩井勢の崩壊により景勝本陣が窮地に陥った。車懸かりの云わば車輪の中へ侵入を許してしまい、馬場勢から景勝の本陣まで遮るものは何もなくなっていた。


「御実城様、御退きをッ!」

「ならん!」


直江景綱の進言を景勝は一蹴する。


意地といえば意地なのだろう。武田信玄に背中を見せたくないという思いが、強く景勝の中にはあった。と同時にこの敗北が後々に大きな禍根を残すものであることを知っている景勝としては、退いてはならないことを悟ってもいる。


「我が陣は本陣といえど、一千三百の人数がおる。対して鬼美濃の軍勢は、半数ほどではないか。恐るるに足らん」


理路整然と景勝は、退かなくていい理由を側近に説いた。


「……承知」


苦い顔を浮かべながらも、景綱は主の命に承服の意を示した。謙信との付き合いが長い景綱は、この養子が如何に養父を意識しているかを知っているのだ。普段は柔軟に家臣たちに意見を求め、耳を傾けるが、ここ一番では我を通す。そんな芯の通った男こそ、長尾景勝という武将だった。


「不死身の鬼美濃も今日までと知れ」


景勝が駆け出し、その後を景綱が追った。本陣総出で、鬼美濃へ勝負を挑んだ。


「ほう、逃げぬか。そうでなくては面白くない」


総大将の方から攻め寄せて来る事に、信春は嬉々として喜んだ。老練な信春としては、手間が省けるといったところか。ここで景勝を討ち取れば、三国だけでなく越後をも版図に加えられる。信玄が描いている構想に拍車がかかる。


「受けて立とうぞ」


土煙を巻き上げながら襲い掛かってくる景勝本隊を前に信春は馬を走らせた。


こうして有間川での合戦は、両本陣が戦闘中という不可思議な状態へと陥った。激しい戦闘が各地で行なわれながら、全員が総大将の安否を気遣いながら戦うといった不思議な合戦であった。


そして二刻後に結果が出た。


後続の支援を断たれた長尾勢は信玄の本陣を攻め崩すこと敵わず、また信玄も景勝の奮戦により馬場信春が手傷を負うといった苦杯の嘗めた。四〇〇〇いた武田勢からは五〇〇の犠牲者を出し、長尾勢は無茶な攻撃が祟って七〇〇を失った。


合戦は引き分けと言いたいが、それでも二万両を手に入れた分だけ信玄の勝利と云わざるを得ない。


六分の勝ち。


信玄がもっとも最上とする勝利が、そこにはあった。




【続く】

久しぶりの更新となります。年末が近づいてくるにつれて執筆の時間が少なくなり、今月は二話しか投稿できませんでした。申し訳ありません。可能な限り、元のペースに戻す努力はするつもりです。


さて今回は信玄VS景勝という世代を超えた対決となりました。結果的に信玄の勝ちでありましたが、まあ経験の差というところでしょうか。今の信玄は一皮向けた状態ですので、かなり手強いです。


その信玄の目的が今回、北陸行きだとはっきりしました。流石の信玄といえども兵がおらねば再起は図れぬといったところであります。北陸には一向門徒が多いですが、能登の畠山七人衆や椎名康胤は武門でありますし、麾下には武田の将兵もおります。(今回名前を出していない武将もまだいます)よって織田領侵攻時よりも信玄の軍勢は強力になります。


そして次回、この一連の信玄の動きがようやく上方へ伝わります。義輝そして信長が如何なる反応を見せるかが主な話です。

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