第六幕 房総合戦 -見放された義尭-
元亀元年(一五七〇)四月二十九日。
下総国・国府台
上方で足利義昭が降伏した時より話は一月ほど遡る。関八州の制覇を悲願とする北条家の反抗は、突如として始まった。
関東最大の勢力を誇る北条家は相模、伊豆、武蔵三カ国の守護大名である。永禄十年(一五六七)の和睦によって正式に足利幕府の守護へ任じられ、一族の氏規を上方へ送って幕政の一翼を担っている。幕府内に於いては織田、毛利、上杉に並ぶ四強の一角と云えよう。その当主・氏政は当初、足利義昭を奉じて武田信玄や畠山高政が謀叛を起こした際には、将軍・足利義輝が関東の治安を命じている上杉謙信と連絡を取り、協力を呼びかけていた。つまりは幕府方に与する姿勢を取っていたのだ。北条の変わり身に謙信も戸惑いを見せていたが、上州・箕輪城攻めに北条氏邦が援兵として遣わされると謙信は北条からの申し出を快く受け入れ、上方で苦境に陥っている主に助勢すべく北陸道を上っていった。
元々人を疑うことは好みとしない謙信は、北条の変心を信じてしまっていた。
「待ちに待った機会が訪れた。これからは儂の時代よ」
氏政は東へ進む軍列の中で、瞳は爛々と輝かせていた。次なる合戦が己の汚名を返上する機会となれば、尚更だった。
北条の若き当主・氏政は現状を快く思っていなかった。北条は幕府の守護として関東の統治を認められたが、権威の拠り所として関八州制覇の大義名分に利用していた古河公方は幕府の召還命令に従って帰洛してしまい、幕政への参加という名目で一門・氏規を人質に獲られている。守護職の獲得など実力で関東を治めてきたと思っている氏政にすればおまけ程度にしか思えず、謙信に関東管領を辞させたとはいえ、どうも将軍は最初から管領職を廃止する意向だったようである。つまりは体よく和睦の条件に利用された訳だ。
(あの和睦で当家が得たものは皆無。幕府に屈したに等しい)
恥辱を受けた、と氏政は思っている。そして何よりも不満に思うのは家督たる自分に決定権がなかったことだ。和睦は父・氏康の手で行なわれており、氏政は絡むことが出来なかった。というのも氏政は三船山で里見に敗れており、これが小田原まで攻め込まれる要因となっていたので、一切の口出しは許されなかった。
それから三年余り、氏政は不遇の日々を送る。
氏政は合戦がしたくて仕方がなかった。氏政の戦績は三船山の敗北で終わっている為に戦下手という印象が付いてしまっている。これを払拭させたいとの想いが強く、父よりの解放も求めていた。父は近年、戦場に出なくなり、その為に氏政は戦場に於いてのみ当主として実権を振るえているとの実感を味わうことが出来た。それなのに和睦によって関東は戦からなくなっては、氏政の鬱屈は晴れることない。もう不満は限界まで募りつつあった。
そんな時に上方で大規模な謀叛が起こった。しかも黒幕であった武田信玄より密使が訪れ、事前に計画の一端を知ることが出来た。これは大きかった。正直いって父は余り乗り気でなかったように見受けられたが、そこは父と違う道を行きたくなる性分である。氏政は父よりの自立という本音を父祖の悲願を隠れ蓑に実行に移すべく、計画を練り始めた。
成果は上々である。武田義信、今川氏真と新三国同盟の成立させ、上杉謙信を関東から追い払い、千葉氏を利用して里見との間に諍いを起こさせ、合戦の大義名分とした。その結果が目の前の勝利である。
「御屋形様、御覧下さりませ。里見、真里谷の軍勢が散を乱して逃げていきますぞ」
「よし、追撃じゃ。このまま房総を我が手に収めるぞ」
松田憲秀の呼びかけに氏政は満更でもない表情を浮かべた後、高々と采配を振り下ろした。
上方で大規模な謀叛が起こっている事は、既に関東諸侯にも伝わっている。当然ながら彼らが注目したのは北条の動向であるが、氏政が上杉謙信に協力して武田方の上州・箕輪城を攻めさせていた甲斐もあって北条は幕府方であると判別されていた。唯一、北条を疑っていた人物がいるとすれば安房、上総の大名・里見義尭であろう。義尭は千葉胤富が真里谷領へちょっかいを出してきた背後に北条がいると睨み、嫡男の義弘に命じて戦支度を進めていた。
「機先を制す」
義尭の行動は素早かった。
里見と北条の地力を冷静に比較すれば、二倍以上の差がある。その北条を相手に義尭が互角以上に戦えていたのは、常に戦の主導権を握っていたからだ。今回も同様で、義尭は北条が攻めてくるのを座して待つつもりはない。北条の野心が明白ならば、こちらから国境を越える。可能な限り領地より離れたところで戦えば、兵を徐々に後退させ援軍が到来するまで時間を稼ぐことが出来るからだ。何れ関東を不在にしている上杉謙信や佐竹義重が戻ってくるはずであるし、それまでは宇都宮や結城など中堅どころの大名でも援軍に駆けつければ、北条の足を鈍られることは敵う。
「されど武蔵まで入り込むのは危険すぎる。やはりあそこしかあるまい」
義尭が戦場に選んだ地は、両家に於ける因縁の地・国府台であった。
国府台は天文七年(一五三八)、永禄七年(一五六四)と二度に亘って両者が矛を交えた地だ。一度目は小弓公方・足利義明の暴走によって敗北、但し義尭は義明の無謀さに気付いていて無傷の撤退をしている。その後、房総の盟主を失った安房と上総では義尭が台頭するようになった。そういう意味では、合戦は敗北であっても里見にとっては意味のある合戦であった。
二度目は序盤こそ里見が優勢であったが、一時の勝利が油断を招いて敗北、多くの家臣を失う羽目になった。義尭は上総に於ける勢力を大きく減退させるに至るが、三船山の勝利によって挽回した。
そして今回が三度目の戦いとなる。時間稼ぎが目的であるが、隙あらば勝ってしまおうとも義尭は考えている。ここで勝利すれば、広大な武蔵を版図に加えることも夢ではない。齢六十を超えて先が見えてきた義尭としては、人生最後の大勝負に出たという訳だ。
「粋がるなよ。格の違いというものを知るがいい」
意気軒昂と気勢を上げる里見勢を激しく睨みつけ、氏政は言った。
(儂の本領を見せてくれる)
里見が本気なら、北条も本気なのだ。それは兵力に如実に表れていた。
この合戦に氏政は三万を動員している。上州へ一万、今川への援軍に五〇〇〇を派遣していることを考えると限界まで出してきたことになる。また前回の三船山合戦には参陣していなかった北条一の戦巧者・北条綱成を連れて来ている。まさに氏政の決意の強さが窺える陣容と云えるだろう。これに千葉勢五〇〇〇が加わって北条方は三万五〇〇〇の大軍となった。対する里見勢は一万二〇〇〇。両者には三倍近い開きがあった。
もちろん義尭も考えもなしに無謀な野戦を挑むつもりはない。地勢をよく知る国府台を選んだのは、国府台には城郭址があるからだ。国府台城は今は使われていないが、名将・太田道灌の築いた城で縄張りの遺構は健在、土塁や堀切は防衛に一役を買うだろう。場合によっては山上から果敢に逆落としを仕掛ける気でいる。国府台が保てなくなったら、捨てればいい。これなら兵力で劣っていても充分に時間を稼ぐことが出来るだろう。
(里見刑部も老いたな)
氏政は義尭が援軍頼みの戦略を練っていることなど百も承知だった。北条に単独で挑んでくるのは謙信くらいであり、他は群れを為して挑んでくるのがこれまでの常識であった。将軍の介入で関東に変化はあったものの大名どもの本質は以前のままなのだ。
氏政は誰も援軍には駆けつけて来ないと予想していた。上杉謙信と佐竹義重の不在、これが理由だ。
実際、彼らの動向は氏政の読み通りだった。
「相判った。可能な限り早く援軍を差し向けよう。刑部殿には御心を強く持たれるよう御伝えあれ」
「有り難き御言葉、我が主もきっと喜ばれましょう」
義尭の援軍要請を下野の守護大名・宇都宮広綱は快諾した。
「殿、いま少し里見への援軍を見合わせた方が宜しいかと存じます」
それに筆頭重臣の芳賀高定が反対の異を示す。
「何故じゃ」
「北条の挙兵、決して魔が差したものではありますまい。厩橋の一件から考えても、以前より計画してのことでありましょう」
「かと申しても里見を放ってはおけまい。里見を潰せばよし、とあの北条が考えているとは思えぬ」
北条家の野心が関八州の統一にあることは周知の事実である。里見が滅びれば、その矛先が別のところへ向けられることは必然であった。それを広綱は指摘している。
「存じております。北条の刃は、何れ宇都宮へも向けられましょう」
「ならば、何故に出陣を反対する」
「皆川、佐野、壬生あたりが北条と繋がっている可能性がございます」
「あやつらがいま一度、北条に奔ると申すか」
「懸念は、捨て切れませぬ」
「むぅ……」
高定の言葉に、広綱は俄に表情を歪ませる。
皆川、佐野、壬生は何れも下野の豪族たちである。三者とも宇都宮家との関係がよくないのに加え、過去に北条の陣営に属したことがある。もちろん上杉に属したこともある。つまりはそれだけに信用できない相手だということだ。北条に通じていたところで何の不思議もない。
「動かれるならば、佐竹殿と行動を共にすることを御勧め致します」
「已むを得んか。里見殿には、いま暫く我慢して頂くしかあるまいて」
こうして宇都宮家は援軍派遣を見送ることになった。
「我らが単独で動いたところで、北条に勝てるとは思えぬ」
宇都宮が動かなければ結城晴朝には何も出来ない。ノコノコと戦場に出て行けば、返り討ちに遭うのは目に見えていた。
宇都宮に続いて、結城も援軍を見合わせた。
「どいつもこいつも人事と思いおって!明日は我が身と何故に感じられぬのか。北条を退けたなら覚えておれよ!」
関東諸侯の薄情さを義尭は口汚く罵った。だが、これが関東なのである。
北条という敵の存在だけで連合できるならば、謙信があんなに苦労することはなかった。皆、自分が生き残ることだけに必死で、危険を冒してまで他者を助けようとは思わない。上杉の力が強くなればこれに従い、去れば過去を忘れたように北条へ鞍替えする。確固たる意思で関東に拠っているのは、佐竹など極一部というのが正直なところだった。
(奴らが二の足を踏んでいる内に里見を叩ければ、やりようはいくらでもある)
その性根に氏政は鋭く衝け込んだ。
上方で謀叛が起こっているとはいえ、幕府の力がかつてない程にまで大きくなった今、北条の挙兵は傍から見れば氏政が部の悪い博打を打っているような感覚を抱いてしまうが、実はそうでもない。氏政も将軍の介入を懸念こそしてはいるが、前回と同様に兵を送るまでには至らないと考えている。仮に将軍が上方で勝利したところで、東国には武田や今川、北陸の抵抗勢力が残っており、将軍の力が本当の意味で関東まで及ぶのに最短でも一年やそこらはかかる。謙信だけなら、北条は臆したりはしない。
それでも優位な状況を作り出すために、謙信の帰還までに里見を倒す。それが氏政の策に於ける基本方針だった。国府台の合戦は、その始まりに過ぎない。そして合戦は、全てに於いて氏政の思惑通りに進んだ。
国府台の合戦に氏政は即断速戦の姿勢で挑んだ。上流側を千葉胤富、下流側を遠山政景ら江戸衆、中翼には地黄八幡を掲げる綱成の精鋭を据えた。先陣だけで一万三〇〇〇と里見全軍を上回っている。
「先年の借りを返すのは今ぞ!懸かれーッ!!」
綱成の掛け声に兵たちが鬨の声を上げ、鯨波の波が太日川(江戸川)を押し渡っていった。対岸からは渡河を阻止すべく、矢弾が嵐のように降り注いだ。
「怯むな。両翼の味方が渡河を終えるまで、耐え抜くのだ」
凄まじい矢雨に脅える兵を綱成が平時と変わらぬ声で落ち着かせ、防戦が一時の事であると伝えた。
里見勢は寡兵であり、国府台に拠っているので太日川で北条の渡河を防いでいるのは七〇〇〇程度に過ぎない。綱成の麾下ですら五〇〇〇の人数を誇り、その上で里見には北条の渡河を防ぐ力が決定的に欠けていた。関東では上方と違い、鉄砲が少なかったのだ。
上方の合戦であれば、兵力差があったとしても安易に渡河は出来ない。猛烈な銃撃を浴びせられて損害を被ることになるからだ。如何に楯で防ごうとも、楯そのものを破壊するだけの力が鉄砲にはある。弓矢では飛距離こそ勝っても楯を破壊するだけの力はなかった。残念ながら関東に於いて鉄砲の普及はまだまだと云わざるを得ないのが実情だ。弓矢が中心の里見勢では、隙間なく楯を構える北条勢に対する有効な手段はない。しかもこちらが川を渡ることは厳禁では、弓矢に於ける射撃だけで防御に徹する綱成勢に大した被害は与えられない。
その間に両翼の北条勢が難なく渡河を終えた。戦の趨勢はそこで決したと言えるだろう。
「右翼の真里谷信高殿が崩れかかっております」
「戯け!早すぎるわッ!!」
脆すぎる味方の備えに、義尭は憤慨する。中翼では嫡男の義弘が指揮する軍勢が粘っているとはいえ、流れを変える一手を義尭は持ち得ない。
「勝った!勝った!」
その間にも両翼の支援を得て、綱成が攻勢に転じてくる。国府台の上からは、敵の二陣である北条氏照が出撃している様子も窺えた。義弘は地黄八幡の旗に押されて隊伍を崩しかけており、次なる攻撃を支えきれるとは思えなかった。
(儂が山を下りて加勢すれば戦えようが、北条には未だ一万以上もの予備兵力がある)
時間稼ぎが目的の義尭にとって、ここでの総力戦は望むところではない。決断は、早かった。
「くっ!北条め。兵を退くぞ!」
退路が塞がれることを懸念した義尭が撤退を発令するが、一万二〇〇〇もの軍勢が素早く動けるはずもない。逃げ遅れた者が相当数おり、彼らは例外なく北条兵の刃にかかっていった。
「まだ終わった訳ではない。当初の予定通りに籠城戦へ切り替えれば充分に戦える」
敗走する最中でも義尭は、巧みに兵を呼び集めて先日に奪ったばかりの小弓城へと入った。かつて足利公方を迎えた城である。ここを落とされれば上総への侵入を許してしまうことになる。義尭にすれば絶対に死守すべき防衛線であった。
「ここで粘っておれば、直に援兵が駆け付ける。何れ上杉殿や佐竹殿も帰還し、北条は戦わずして兵を退く事になるであろう」
そう言って義尭は落ち延びてきた兵たちを元気づけた。見え透いていたが、これまでの関東では日常的な流れであったので、兵の士気は思ったよりも下がらなかった。
しかし、現実は無情なものである。関東諸侯は義尭の援軍要請を表面上は受け入れても、軍を発したという報せを終ぞ届かない。義尭は矢のように催促の使者を発すると共に防戦の支度に追われた。ジッと耐えて援軍を待つしか里見が生き残る手段は残されていなかった。
「兵糧攻めなど悠長なことは出来ぬ。即刻、攻め落とせ!」
援軍到来の可能性が残されている以上、氏政も手を緩めることはない。氏照を国府台に残して糧道を守らせると、残った兵を率いて房総半島深くに攻め入った。
小弓城は猛攻に晒され、三日の攻防の末に落城する。その後、義尭は上総国・椎津城に籠もって抵抗を続けるが、ここも長くは持たなかった。しかも椎津城の戦いで真里谷信高が討ち死にしてしまい、真里谷の遺臣が執拗に北条への降伏を訴えてくると里見の進退はいよいよ窮まった。
「腰抜けどもめが!北条輩などに降れるか!」
痛烈な罵倒が彼らに浴びせられる。それは表向きの態度だった。
真里谷の降伏論を一蹴した義尭であったが、真里谷が単独で降伏してしまえば安房への退路を塞がれかねないと思っていた。仕方なく義尭は安房に近い峰上城へ退き、嫡男の義弘は造海城へ入れて最後の防衛線を張った。その上で真里谷領を事実上で接収し、有無を云わせぬようにしたのである。
「我らが城を奪うとは何事でござるか!」
当然、真里谷の者たちの不満は募る。そうまでしなければなかったのは、里見という家を守るためだった。
(真里谷が降伏してしまえば、北条は全力で里見を潰しにかかるはず。今ならば真里谷領を手土産に交渉の余地はある)
義尭は非情にも真里谷を里見が存続する為に売るつもりだった。時間が経てば経つほどに上総の城も悉く北条の手に渡る。最後の決断は早い方がよかった。
安房一国を保つため、北条に降伏するか否かが迫られていた。
(里見の家が滅びては意味がない。上杉殿が帰還するまでの間、恥辱に堪え忍ぶ)
降伏の意を決めた義尭の眼は、まだ死んでいなかった。復讐の機会が訪れるまで、雌伏する意思を固めていた。
義尭は居城の久留里城へと戻ると降伏の使者を北条の陣営へと遣わした。上総一国を割譲し、質に生まれたばかりの義弘の子・梅王丸(後の里見義重)を差し出すという条件提示し、最後には自らが氏政の陣を訪れて降伏を申し入れた。
「御家と当家の差は明々白々だったにも関わらず、ちと降伏が遅かったな。里見家は源義重を祖とする名家、このまま滅びるのは忍びない。恩情を以って安房一国を安堵しよう」
「北条殿の有り難き御配慮、厚く御礼申し上げる」
氏政の癇に障る物言いに義尭は心にもない台詞で応じた。地に伏せた義尭の顔に、憤怒の表情が浮かべられていたことなど氏政は気にも止めなかった。
こうして里見の降伏を認められたが、氏政はもう一つ条件を容赦なく付け加えた。
「すぐさま軍勢を整えて我らに加わられよ。無論、兵糧や弾薬は自弁で賄って貰う」
敗戦した里見には過酷な条件であった。
義尭は敗残の者たちから比較的に軽傷な者を選び、義弘の弟・義頼が三〇〇〇を整えて北条勢に合流した。これは関東に於ける合戦が終わっていないことを意味していた。
時節は六月に入っていた。
【続く】
今回は久しぶりに関東の話となります。
さて関東では上州・厩橋の話が以前に出てきましたが、今回は氏政本人がどのように動いたかの話でした。(厩橋は次回です)
三船山の敗退が最後となる氏政が、初戦の相手に選ぶのは里見家であります。謙信、義重の不在もあって助けに向かえる者たちはおらず、見放された格好となり降伏を余儀なくされました。氏政にしてもいち早く謙信に備えたいとの考えがあり、里見を何が何でも滅ぼしてやるとまでは思っていなかったことにより、ギリギリのところで生き延びることになりました。
とは言っても安房と上総に於ける国力は圧倒的に上総が勝りますので、その上総を失った義尭は大きく勢力を減退させることになりました。しかも一族を軍勢ごと人質に獲られています。
そういう場面で次回はいよいよ厩橋の攻防です。時期的に義重も関東へ帰国していることなので、その動きも少し触れることになると思います。