第四幕 元亀擾乱 -終わりと始まり-
元亀元年(1570)七月。
応仁の乱以後、麻の様に乱れた天下は一向に終息の気配を見せることなく百年もの月日が経過していた。世を治めていた足利幕府の権威は時代と共に低下していき、かつての鎌倉幕府のようにいつ終焉を迎えても不思議ではない状態であった。それでも生き永らえていられたのは、朝廷の没落によって幕府に代わる権威が存在しなかっただけで、決して幕府に力があったわけではなかった。
そんな将軍家の嫡流に生まれ出た最後の希望が十三代将軍・足利義輝である。
義輝は武家の棟梁である征夷大将軍でありながらも数え切れないほど京を追放されている。一度は将軍職を失うこともあった程だ。それでも石に噛り付き、幕府の復活を望んだ。その甲斐もあって将軍職に復帰し、宿敵・三好家を成敗して京畿一帯を支配下に置くと天下は再び足利の下に治まりつつあった。都の人々は喝采を以って義輝の功績を讃え、平和の到来を実感していた。無論、その中心にいる義輝にも力が入る。関東の兵乱にも介入し、ほぼ思惑通りに事を収めた義輝は自らが天下を再平定することに疑いを持たなくなっていた。いま思えば、それは慢心に近いものだったのだろう。
畿内を万全に纏め上げたと思っていた義輝は、次なる標的を西国の雄・毛利家に定めた。都合十三万もの大軍を動員して西征を決行、圧倒的な軍事力で毛利領に迫り、周防、長門、安芸の三カ国以外の割譲を命じる。当然、毛利は五万の大軍を揃えて抵抗する意思を示す。いざ決戦と思われた矢先、それは起こった。
突如として叛旗を翻した守護大名たち。兄の政に不満を抱く実弟の義昭。管領への復帰を望む畠山高政。幕府を牛耳って天下人の座を狙う朝倉義景。義輝への復讐を画策する松永久秀。源氏の正しき政を取り戻さんとする武田信玄など多くの叛乱分子の思惑が絡まった大規模な謀叛だった。敵の力量を見誤った義輝は、勝利を確信していた伊丹・大物合戦で無残な敗北を喫した。
窮地に陥った義輝は建て直しを図った。その後、織田信長や上杉謙信、毛利元就など新時代を求める大名たちの協力もあり、七ヶ月に及ぶ激闘の末に松永久秀を倒して京への凱旋を果たした。未だ各地に残存勢力が存在しているものの一区切りついたことは間違いなかった。義輝は度重なる軍役で疲弊していた兵たちを一部を残して解き放ち、論功行賞に取り掛かる。
この論功行賞で重視すべきは、諸大名の配置転換である。謀叛に於いて守護大名たちが旧領回復に躍起になっていたことを鑑みるに、この論功行賞が幕府の将来を決めると言っても過言ではない。それを見抜いた義輝は、大名たちに容赦ない国替えを命じた。
「諸大名の本貫へ対する拘りは強い。この機に全ての根を断ち切らねば、泰平の実現など夢物語よ」
義輝の強い意向により譜代大名を始めとする多くの者が本貫地を離れて転封となった。
上方ではまず山城国の代官を三淵藤英から上野清信へ変更させた。これまで藤英には義輝の補佐と代官職を任せていたが、幕府領が西国に大きく広がったことにより両立できるものではなくなっている。よって義輝は代官職を別の者に任せることにし、それに伴って幕政を正式に整備することとした。今まで義輝は管領や政所を廃止して評定衆に政全般を総轄させていた。義輝の方針であるが、当座の処置であったことは認めざるを得ない事実だ。この件も含み、法度を定めてきちんとした形にしておかなければ、幕府の存続は見込めない。
最初に手を付けたのは幕府の最高機関をどうするかだった。将軍に権限を集約させるのは当然だが、管領職のような役職を設けるわけにはいかない。仮に将軍が何らかの理由で政務が執れなくなった場合、その者に強大な権力が付与されてしまうからだ。義輝は幕府に存在した多くの役職を整理し、最高機関に評定衆を選んだ。
評定衆は鎌倉幕府でも最高機関だった。この長が北条得宗家であり、世襲制だったことから北条氏は莫大な権力を握ることになる。足利幕府でも同様の機関が設置されているが、管領の存在から影響力は微々たるものに過ぎず、名誉職の色合いが強い。これを現在は実務機関として活用している義輝であるが、これまで正式に最高機関として定めたことはなく、法の上ではかつてのものと変わりはなかった。それをいま改める。但し、得宗家のような存在が現れることは防がなければならないので、評定衆は専任ではなく交代制とした。更に旧来の三管領や四職のように一部の大名家に限った交代ではなく、幕臣や譜代大名から幅広く任命するように定める。また将軍家一門からは選出しないことにした。これは足利公方家が将軍に近い権力を持つことを避けるためだ。この辺りを義輝は北条氏(後北条氏)の政を参考とした。北条は評定衆を輪番制で設けて関東で優れた統治を行なっている。以前に税制や検地を義輝が取り入れたのは記憶に新しく、今回もより幕政が北条流に近づいた形となった。
評定衆の任期は四年、定員は従来の二十四名から大幅に削減されて八名となり、半数を二年ごとに交代させるようにした。最初は三淵藤英、蜷川親長、上野清信、北条氏規が四年、細川藤孝、一色藤長、朽木元綱、和田惟政の四名が二年後に交代する。この人事で注目すべきは、やはり氏規が任命されたことだろう。現時点で義輝は北条家を敵と認識している。直接の敵対はしていないが、上杉謙信の留守を狙って厩橋城を攻めたことを義輝は許すつもりはない。それでいて氏規を優遇しているのは、かつて三好家にしたように場合によっては氏規を北条の正統として擁立し、割るつもりでいるからだ。
筆頭職には当然ながら義輝は藤英を選んだ。ただ筆頭職とはいえ、かつての管領職のような巨大な権限は与えず、役職は幕府最高職としながらも職務上の権限は殆ど変わっていない。評定衆で纏められた意見を代表して征夷大将軍に助言する。筆頭とはいえ権限はその程度で、決定権は全て将軍に属したままである。但し、選ばれるのは評定衆を務めた経験のある者として新任者と前任者は除外する。つまり次回の筆頭職には、今回任命された八人の内で藤英の除いた七名から選ばれるということだ。
ちなみに義輝は評定衆の一人に明智光秀を任命するつもりだった。光秀の才を一郡を任せているだけに止めるのは宝の持ち腐れとしか言いようがなく、傍近くで存分に力を奮わせる方がよい。しかし、光秀は“幕臣となって日が浅い私に幕府の重職は分不相応でしかありませぬ。暫くは今のままで忠勤に励み、誰もが認める功績を上げることが叶った時、改めて御受けしたく存じます”として辞退してきた。
「もうよい。そのように己を自嘲するのであれば、気が済むまで蟄居しておれ」
これを聞いた義輝は苛立ちを隠さず、驚いたことに光秀へ蟄居を命じた。感情的な差配に藤英が思わず諫言して再考を促すが、義輝は蟄居を取り下げなかった。実際は言うほど怒っていなかったからだ。しかし、光秀の態度は今後の事を思えば感心しない。才があるにも関わらず、卑屈になっていては肝心なときに力を発揮できない。生真面目な性格が悪影響し、一区切りしたことで塞ぎ込んでいるのだろうが、そんなものは幕府のためにならない。故に光秀には、自分が怒っていると思わせる必要があった。義輝は光秀の役目を解かず滋賀郡の統治を光秀自身の手に委ねたままにしているので、聡い光秀なら早々に気が付いてくれるはずだと思っている。
それでも蟄居という言葉が出てくる分だけ光秀が義輝の感情を害していたことは間違いなかった。
また義輝は都の復興に専念させる役職として京都所司代職を新設し、政所の廃止によって執事を解かれていた摂津晴門を起用、今後は山城の統治と洛中の統治を分割されることになった。
他にも馬廻衆の規模を格上げして正式に奉公衆として統合させた。奉公衆は五番編成であったが、それを八番編成に変えて一番衆を将軍の馬廻に位置づけ、柳生宗厳が引き続き務める。他七番は幕府が治める京畿七カ国から代官に選ばれている者が担当し、その規模は往時の一万から四万ほどまでに拡大した。ちなみに京畿七カ国以外の幕府御料地の代官職を務める者は奉公衆には含まれず、職務上の権限に大差はないものの格式で一段下となった。
奉公衆の統合に際して宗厳は大和国内で加増を受けた。配下には数千石を領する者も現れ始め、大名としての風格を備えつつある。この宗厳の加増によって大和での幕府御料地が減ることになったが、義輝は筒井順慶を減封することによって帳尻を合わせた。
松永久秀に敗れて姿を暗ませていた筒井順慶は、山崎の合戦後ひょこりと自領に戻っていた。それを知った義輝は順慶を即座に召し出し、鳥取城で味方を見捨てた行為をきつく咎めた。ただ当時の状況からして筒井一手ではどうしようもなかったことは流石に考慮した。順慶は減封された上で大名としての独立した権限は奪われたものの幕府直属として筒井家は存続を許された。この沙汰に大和で幕府の支配が強まることを懸念する興福寺が異見を挟んできたが、義輝は一切取り合わなかった。
また近江では栗田郡に加えて蒲生郡を山岡景隆が治めるようになったが、義輝は勢田城の再建は許さず、拠点は勢田川の東ではなく西側へ置くように命令、景隆は大津で城の普請を始める。この城は、一年後には坂本城に続く要害堅固な水城として完成することになる。(大津は滋賀郡に含まれるが、この地のみ例外とされた)
義輝の沙汰が織田家を見据えたものであると景隆は察していた。織田信長が江北を謀叛方から切り取ったと言い張り、義弟・浅井長政からの所領返還を拒んだことは織田と領地を接する景隆にとって衝撃であり、影響を与えたのだ。これは後に大津城が堅固な造りとなったことからも窺い知ることが出来る。
その織田家は版図を江北まで広げ、犬上郡の佐和山城と高島郡の大溝城を改修して今浜に新城を築いている。これが幕府を意識してのものなのか、はたまた別の意味を持つものなのかは定かではない。しかし、現実として幕府と織田家の間で近江国内に城普請が次々と行なわれていた。
一方で江北を失った浅井長政は、気の晴れぬまま朝倉氏の一乗谷城へ入った。所領こそ倍増したものの何もかもが最初からやり直すことになった長政であったが、流石は朝倉氏である。焼けて何もなくなったが区割りは計画的に整備されており、その絵図も城内にしっかりと残されていた。それを見て長政は朝倉家の統治が浅井よりも数段と優れていたことを知ると同時に、その基盤を活かし切れなかったかつての盟友を哀れに思った。
「されど一乗谷は朝倉の影響が強すぎる。街道から外れていることも見過ごせぬ。これからも浅井が越前を統治していくこと考慮すれば、拠点は移すべきだろう」
長政は一乗谷を拠点とするべきか悩んだ。
小谷という本貫を失った以上、一乗谷に拘る理由が長政にはない。ならば何処に移るか。次点として候補に上がったのは朝倉景恒の治めていた敦賀であったが、敦賀は旧領近江に近すぎた。今後のことを思えば近江への未練を残さぬようするべきであり、出来る限り遠い方がいい。そこで長政が選んだのは、加賀一向一揆という敵がいることを考慮して北ノ庄だった。北ノ庄であれば目の前に平野が広がり城下町を形成するには充分な広さがあるし、九頭竜川を防波堤できるので越前の防衛にも適している。また加賀へ攻め込むという点でも越前の北側に位置する北ノ庄は都合がよかった。
長政は一乗谷で知行割りを済ませ、北ノ庄に入って新城の普請に取り掛かった。
その隣国・若狭は柳沢元政に与えられた。江北が織田家のものとなった今、若狭は幕府が東国へ出るための唯一の窓口になってしまった。丹後への侵攻も予定されているため、信頼できる腹心に任せる必要があったのだ。公家出身としては異例の大抜擢であり、義輝が実力あるものならば誰でも取り立てるということを示すよい例となった。元政の出世により実家である柳原家は、朝廷内で本家たる日野家に並ぶ力を有することになる。
また南伊勢には足利公方として義氏が入封した。旧北畠領がそっくり与えられた形となったが、志摩国は九鬼嘉隆が幕府方について具教と戦ったことを評価され、幕府の代官として治めることを認められている。本来はこのようなことはないのだが、九鬼が持つ水軍という特性からその支配を認めた方がよいとの判断であった。
他にも北条氏規が約束通りに旧畠山領の南河内を与えられるなどあったが、和田惟政や池田勝正ら摂津衆の面々は石山本願寺と荒木村重が健在なのことから配置換えできず、太刀や金子などを与えられるに留まった。
ここで視点を西へと移す。
山陽道は実弟の足利晴藤が御一家の筆頭として播磨を統治し、拠点を姫路に定めた。最初に晴藤が入ったのが姫路だったというのが理由であるが、義氏以上に独自の家臣団を持たない晴藤の補佐に黒田の家来たちが付いた事が大きかった。これは光秀の家臣となった元姫路城主・黒田孝高に差したる知行地が与えられていないことを意味している。何せ光秀は今回の論功行賞でまったくと言っていいほど加増をされていないのだ。義輝が恩賞を与えなかったのではなく、本人が辞退したという話だった。蟄居を言い渡されたのも、この辺りが前段としてあったのだったら頷ける。故に孝高が家臣一同を引き連れて光秀に奉公することが叶わなかったのである。
これにより黒田の家臣たちは二人の主を持つという特殊な状態となった。とはいえ光秀がこのまま一郡を治める身で終えるとは晴藤は思わない。兄・義輝は光秀を信頼しているし、何処かで加増を受けるはずだ。
「いつまでも黒田には頼っておれぬな」
晴藤は播磨衆の中から信の置ける者たちを選び始めている。守護代の別所は重用せざるを得ないが、上月城主の赤松政範も中々の人物だ。それでも人選には時間がかかり、暫く播磨経略は概ね黒田の主導で行われることになった。
また備前では浦上宗景の死去に伴って嫡子も宇喜多直家に謀殺されたことにより後継者がいなくなっていた。嫡流である浦上政宗の孫で宇喜多直家に擁立された久松丸がいるにはいたが、動乱の最中に行方知れずとなっていた。やがて発見されるも既に遅く、衰弱していた久松丸は死去してしまう。どうやら直家は毛利に降伏する時点で久松丸の存在を疎ましく思ったらしく、病死に見せかけるために毒を盛っていたようだった。ここに浦上の嫡流は絶えることになった。
「これでは浦上家が途絶えてしまう。なんとか致さねば……」
重臣・大田原長時は御家断絶の危機を前に東奔西走することになった。そして苦労の末に遠縁に当たる者を摂津国有馬で探し出し、幕府へ継嗣として申請した。長時の働きによって浦上家の存続は首の皮一枚で保たれたかに見えたが、義輝は家督相続を認めなかった。血の薄さや正当性に欠けることもあったが、宇喜多直家の叛乱は宗景の失態でもあったからだ。関係を改善させようとせず、松山城では直家を見殺しにしようとした宗景を義輝は知っている。であるからこそ、遠縁に当たる者に継がせてまで浦上を存続させる気にはなれなかった。
代わりに備前を与えられたのは義輝の側近・三淵藤英で、長時を含め浦上家の家臣はそのまま藤英の預かるところとなった。ただ藤英は評定衆筆頭である。浦上旧臣たちの待遇は以前よりも遥かに良くなった。但し、宇喜多一族は備前国内に留まることを許されず、上方に微禄を与えられて奉公衆へ組み込まれることになった。ちなみに藤英は在京し続けなければいけない立場にあるので、実際の統治は嫡男の三淵輝英に任されている。
次いで美作国は石谷頼辰が引き続き代官として幕府の統治を代行し、正式に鶴山を本拠と定めて検地を開始、幕府の支配を強めている。同じく備中国も上野隆徳が代官に据え置かれていたが、隆徳の所領が備前国常山にあったことを義輝が問題視した。
「備中の代官ともあろう者が備前にいては、満足に職務を果たせるとは思えぬ。隆徳には備中へ拠を移すよう命じる」
これを受けて隆徳は常山から程近い高松への移転を決め、美作同様に検地が始められた。
山陰道では因幡と但馬は細川藤孝が守護となり、鳥取城に入って山名祐豊討伐の指揮を執ることを命じられた。伯耆と出雲の者たちも藤孝の命に従うよう幕命が下されている。ただ国替え直後ということもあって今年中の山名討伐は事実上で不可能となったことは明らか、義輝もその辺りは考慮しており、年内の成果として求めたのは生野銀山の制圧だけだった。これは播磨の晴藤も命じられていることであり、尚且つ但馬制圧までは阿波の兵を用いることも許されているので難しい話ではなかった。
また隣国の伯耆には一国守護は置かれず、幕府方として山名攻めに協力した南条元清に認められたのは六郡の内で久米、八橋、河村の三郡のみだった。残る汗入郡は松井康之、会見郡は細川輝経、日野郡は沼田清延ら幕臣を派遣して藤孝の与力とし、正式に郡代という役職を設けた。似たような役職として幕府には小守護代というものがある。守護の下で郡単位で統治を行なっていた者を指すが、小守護代が陪臣であるのに対して郡代は直臣であり、郡代の方が身分は上で身代は小さいものの守護と同等の立場となっている違いがある。
また四国でも大きな国替えがあった。
山陰へ転封となった細川藤孝の代わりに足利義助が入封し、阿波公方に返り咲いた。立場は晴藤と同じく御一家の一つとされて将軍職の継承権が与えられている。伊勢半国を所領とした義氏を合わせて後に御三家と称されるようになり、序列は播磨公方、阿波公方、伊勢公方の順で将軍家に継嗣がない場合のみ相続権が与えられることが法度により定められた。順序を定めたのは、公方家同士で相続権が争われることを防ぐためである。
この公方領三カ国を含め京畿七カ国を義輝は幕府支配の基礎と定めた。以前のような大大名に頼るような政は争乱の元であり、かといって公方家にかつての鎌倉公方のような大権を与えてしまえば、何処かで幕府に反抗するのは歴史が証明している。力は自ら保持するに限った。それが山城、近江、丹波、大和、摂津、河内、和泉の京畿七カ国である。ただ将軍家一門たる公方家を疎かにすることは幕府の権威を貶めることにもなるので、近くもなく遠くでもない周辺国に一国限定で配置する。これならば幕府の目が届く距離にあり、諸大名に担がれることもない。仮に何れかの公方家が将軍職を求めて叛乱を起こしたとしても七カ国対一国の対決となり、端から勝負は見えている。それさえなければ平時は畿内十カ国が幕府の支配下にあるので、将軍が日ノ本の王として君臨するには充分な力を有する。
一方ですんなりと行かなかったのが伊予である。国内で御家騒動が発生し、それが御牧景重が守護を解任されるという事態にまで発展することになった。
山崎の合戦で討ち死にした石川通清の跡を嫡子の勝重が継いだのだが、一族で高尾城主の石川越後守が反発し、乱を起こしたのである。近藤尚盛ら重臣らが勝重を支持したことにより乱はすぐに収まったのだが、義輝は彼らが幕府に何の相談もなく兵を起こしたことに激怒した。
「家督がことは幕府に届け出ることが慣習であり、それを怠ったばかりではなく勝手に兵を動かすとは言語道断である」
即座に石川家は改易とされ、守護だった景重も責任を咎められて職を解かれることになった。景重は暫く謹慎となり、後任には三好義継が選ばれた。長年に亘って幕府を牛耳り、義輝の命すら狙った三好家が功績を認められ、晴れて正式に幕府政権下の大名に復帰したのである。義継が統治していた淡路は実質の支配者だった安宅信康が守護に昇格し、三好一族で二カ国を治めるという堂々たる大名復帰となった。
土佐の長宗我部元親にも旧一条領が恩賞として与えられ、土佐一国は名実共に長宗我部の治めるところとなった。
これらの国替えに伴って義輝は諸大名の官位を奏請した。今の朝廷には義輝に負い目のある公家が多く、大半が認められてかなりの者が叙任された。ただ恩賞を辞退した明智光秀の昇進は見送られ、後に公卿を打診された上杉謙信も“自分は何も成していない”として昇進を拒んだ。
それらを含めた武家官位の序列は以下の通りである。細川藤孝のように位階のみ昇進した者もいれば、織田信長のように外様でありながらも公卿に列した者もいる。また領地のみの加増で昇進を見送った者と様々である。
足利義輝 正二位 右大臣兼右近衛大将如元
足利晴藤 従三位 権中納言
織田信長 正四位上 参議
細川藤孝 正四位下 参議
上杉謙信 正四位下 左近衛権中将
足利義助 従四位上 右兵衛督
足利義氏 従四位下 左兵衛督
毛利輝元 従四位下 右衛門督
三淵藤英 従四位下 右京大夫
三好義継 従四位下 左京大夫
一色藤長 正五位上 修理大夫
和田惟政 正五位上 紀伊守
朽木元綱 正五位上 宮内大輔
徳川家康 正五位下 右近衛権少将
浅井長政 正五位下 越前守
長尾景勝 正五位下 弾正少弼
蜷川親長 正五位下 大和守
上野清信 正五位下 兵部大輔
摂津晴門 正五位下 中務大輔
柳沢元政 従五位上 大監物
池田勝正 従五位上 民部大輔
明智光秀 従五位下 日向守
上野隆徳 従五位下 備中守
山岡景隆 従五位下 主計頭
北条氏規 従五位下 左馬助
蒲生賢秀 従五位下 侍従
長宗我部元親 従五位下 侍従
吉川元春 従五位下 治部少輔
小早川隆景 従五位下 左衛門佐
尼子義久 従五位下 民部少輔
安宅信康 従六位下 淡路守
その他にも公家衆でかなりの入れ替わりがあった。代表的なところを挙げれば、従二位権大納言であった一条内基が正二位となり、義輝の昇進によって空位となった内大臣に就いた。日野輝資は正五位上から従四位下・蔵人頭まで一気に昇進した。この他にも近衛、一条の家礼を中心に高位の官職を占め、朝廷で大きな力を持つことになった。
論功行賞の発布は幕府政権外にいる大名家にも大きな影響を及ぼしている。
基本的に武田信玄や山名祐豊など幕府と直接敵対した者は、朝敵にはならなかったが解官されることになった。幕府での役職も解かれ、討伐の対象とされた。目下、義輝が討伐を急いだのが石山本願寺と有岡城の荒木村重である。京の近くに抵抗勢力が存在することによって、和田惟政や池田勝正ら摂津衆は論功行賞の対象から外され、官位の昇進のみに終わっている。彼らの不満は城攻めに注がれることとなり、緊迫した空気が摂津一帯を漂っていた。
また幕府が直接関われない東国では、謀叛方の中核を担った武田信玄のみ正式に討伐令が発せられた。この役目は織田信長に任されることになり、周辺大名は討伐に協力するよう命じられた。しかも義輝は征夷大将軍の権限を使い、立場が曖昧な武田義信や敵方になる北条氏政にも御行書を送った。揺さぶりをかけたのである。このように義輝が正攻法に出ないのは、東国の状勢が芳しくないためだ。
東国の要は上杉謙信なのであるが、五月の初旬まで謙信は越前で朝倉義景と戦っていた。北条が厩橋を取り囲んだという報せが届き、謙信は帰国を決断したわけだが、すんなりと帰られるわけがなかった。帰路には能登の畠山七人衆や一向一揆勢、椎名康胤が存在しており、味方は神保長職だけしかいない。この内で康胤は長尾景勝に一敗して勢力を減じさせていたが、それでも数の上で謙信は不利だった。しかも厄介なことに彼らは謙信の強さを知っているので正面から合戦を挑んでくることはなく、手勢を出撃させては退くを繰り返して妨害した。それでも謙信は着実に兵を進めて何とか越後に辿り着くも、上野に戻ったのは六月の半ばの事であった。そこからどうなっているかを義輝は把握していない。謙信の帰国時に繋がっていた北陸道の連絡が絶たれた所為である。今では謙信が盛り返したのか、北条が優勢なのか判らず、判っている範囲では越後で起こった本庄繁長の謀叛が鎮まっていないことだけで、やはりいい報せはなかった。
さらに西へ視点を向けると大友宗麟が幕府へ対して毛利との和睦調停を申し出てきていた。義輝としては宗麟の依頼で西征に動いた経緯もあり、拒む立場にない。これを機に義輝は肥前、肥後、筑前と大友家の支配が強くない地域の守護職と九州探題職の解任するつもりでいるが、問題は毛利が受け入れるかどうかだ。毛利には筑前一国を任せると内示を伝えているので、和睦を調停すると約束を半ば反故することになる。しかし、元々毛利の筑前侵攻が玄界灘の支配にある点を考えれば受け入れる目算が立たないわけでもない。そこは強かな元就である。だからといって簡単に応じるとは思えなかった。上方で謀叛方との合戦に協力させた分、義輝としてもある程度は譲歩しなくてはならないだろう。落しどころが見つかるまで、暫くは息もつかせぬ高度な駆け引きが繰り返されることになるはずだ。
天下一統の道は長い。
かくして天下を揺るがせた謀叛劇、後に“元亀擾乱”(永禄の変との兼ね合いから元亀の年号が用いられた)と呼ばれた戦いは、ここに終わりを告げた。
【続く】
今回は論功行賞がメインです。また幕府の組織改変についても少し触れさせて貰いました。その辺りで注意点を一つ。北条氏規が評定衆に選ばれたことについて、外様じゃないのか?と思われる方がいると思います。
評定衆への就任条件は、幕臣であることもしくは譜代大名としました。氏規は後北条一門でありますが、幕臣に列したので条件をクリアしていることになります。また後北条氏が伊勢氏に連なる一族であることも影響しています。
また今回は勢力図の作成にチャレンジしてみました。ワードで作ったので荒々しい部分もあるでしょうし、正確さに欠けるところもあるかと思いますが、感想を聞かせて頂けると嬉しく思います。
ちなみに幕府直属というのが譜代大名で、恭順というのが大名家として独立しているものの幕府の命令に従う者たち。敵対は言うまでもなく、動向不明は敵対はしていないものの何を考えているのか判らない連中(幕府目線で)ということです。その他の大名家は史実通りに幕府と繋がりは持っているが、それ以上でも以下でもないという存在です。
尚、小さくて見難いという方は画像をクリックしていくと少しは大きく見られるはずです。ご参照下さい。(しかし、いざ作ってみると織田家の領地は小さいですね。広さ=石高ではありませんが、如何に基礎がしっかりしているかが判ります)
以前に官途の序列を記して欲しいとの要望があり、今幕に含ませて頂きました。拙作では武将を受領名で呼称することが多く、今後は今幕で列した名前が基本となります。ご参照下さい。
ちなみに...
義輝は上様、公方様、右府と呼ばれ
信長は宰相または織田宰相、岐阜宰相、
謙信は左中将、厩橋中将、
家康は権少将や居城から浜松殿と呼ばれたりします。
大規模な昇進は今後はありませんが、これまでのように個別で昇進された場合でも呼称は変化していくことになります。判り難い人もおられるでしょうが、雰囲気を出す意味を込めての処置ですので変えるつもりはありません。
次回は義輝の話ですが、次々回は前章後半でも余り語らなかった関東状勢を二話ほど予定しています。