第三幕 江濃係争 -国替え断行-
七月四日。
山城国・二条城
足利義昭を奉じる謀叛方の敗北から凡そ一月が経ち、将軍・足利義輝は謀反方によって滅茶苦茶にされた幕政の再建に着手し始めていた。関所の再撤廃、荘園の没収、その他の法度を以前に戻し、義昭が奏請した官位も強制的に復させた。また義輝政権下でも認めていた京の七口に設置されてあった関所を全廃を決定した。
「都の復興には数万もの人夫を集めなければならぬ。そのような危急の時、いちいち関所があっては邪魔になる」
という理由で七口関の廃止は発布された。義輝にとっては何れ撤廃するつもりだったので、よい名目となった。
炎に包まれて何もかも消えた京の都だったが、都の復興を御題目に幕府が諸大名へ献金を募ったこともあって早速に多くの人夫を送り込まれてきた。これに七口関がなくなったことも重なって、人の流入は増加し、驚異的な速度で都の再建は進んでいる。これならば一年ほどで復興が成るのではないかと思う義輝であったが、同時に幕府の財政が厳しくなっていく現実に頭を痛めていた。
そこで義輝は京畿七カ国の以外の軍勢を解散させることを通知した。これ以上の軍役は、財政に及ぼす影響が大きすぎるという判断からである。西征の出陣から十ヶ月、望郷の念が募っていた兵たちは漸くの帰郷を果たすことになるが、そのまま帰す訳にはいかない理由が義輝にはあった。論功行賞である。義輝としては然るべき恩賞を武家の棟梁として与える必要があったのだ。
「まずは細川宰相を呼べ」
最初に声を掛けられたのは細川藤孝だった。股肱の臣だということもあるが、本当の理由は別のところにあった。
「細川藤孝、御召により参上仕りました」
広間に現れた藤孝が主君へ挨拶する。言葉こそ短いが、その動作は流れるように美しく、流石は有職故実に通じていることはあり、幕臣の模範というべき男である。
「よう参った。此度は大義であったな。宰相が働き、見事であったぞ」
入ってきた腹心を義輝は上機嫌に労った。
「ははっ。されど勝龍寺城では上様の御手を煩わせてしまいました。どうか御許し下さいませ」
「宰相の不手際ではない。余が采配したとて多くの犠牲を払うことになったのだ。あれは相手が悪かったと思う他はあるまいて」
義輝が溜息まじりに勝龍寺城攻めのことを思い返した。あれは窮鼠猫を噛むどころではなかった。追い込まれた虎は命尽きるまで暴れ続け、多大なる犠牲を生んだ。山崎の合戦は殆ど完勝に近かったにも関わらず、最後に下手を打ったと思う。本当に後味の悪い最後だ。
「あの事はもうよい。それよりも今後のことじゃ」
義輝は気分の悪くなる話を早々と切り上げ、本題へと移った。義輝が脇に控える三淵藤英に目で合図を送ると、藤英は用意していた絵図を二人の間に広げた。絵図は畿内を中心に描いたもので、そこには諸大名の名が書かれてあったが、所々に現状と異なる部分があり、大名の身分でない幕臣などの名前も複数確認できた。いま現在を表しているものでないことは確かである。
「兄上、これは?」
藤孝が兄である藤英に絵図の意味を訊ねた。
「これは上様が御考えになられた諸大名の配置じゃ。上様は大規模な国替えするつもりであられる」
「国替え……。確かに謀叛方の版図は大きく、全国に散らばっておりました。論功行賞での国替えは已む無しにございますな」
「それもあるが、大事なるは先々のことじゃ。これからの幕府が磐石であり続けるためにも諸大名の国替えは必須なのだ。無論、譜代や外様に関わらずな」
「……外様、ですか」
その言葉を聞いた途端、藤孝は絵図の中でも広大な所領を持つ織田信長の名前に視線が向いた。
尾張と美濃に加えて北伊勢と南近江、石高にすれば凡そ百五十万石を優に超え、浅井や徳川という大名と縁戚となって脇を固め、東山道や東海道を抑えて熱田や津島の湊を有している。国力だけでいえば幕府と比べても遜色のない力を持っていた。毛利の版図が削減された今、全大名の内でも実力は一、二を争う存在であることは間違いない。そして、それは幕府として決して好ましいものではないだろう。
(やはり宰相も同じ危惧を抱いているようだな)
絵図を険しい表情で見詰める藤孝を見て、義輝は自分と似たようなことを考えているのだと思った。
ただ間違えないようにしなければならないのは、織田家は味方ということだ。一時的に恭順を示していたとはいえ潜在的に敵だった武田信玄とは違い、最初から義輝に尽力し、その命令に従って西征にも兵を出している。その事実を否定してはならない。要らぬ疑いは、織田を敵に奔らせるだけである。
もちろん義輝も西征前に信長を信じると決めた以上、裏切るとは思っていない。ただ強大な織田家という存在が幕府の本拠地である京から程近いところに存在しているということが、幕府の将来に悪い影響を及ぼすと判断している。国替えさせたいところだが、今の幕府には織田家に命じる力も空き地もない。ならば必要以上に気に掛けるよりは、幕府自体の力を強めることに専念した方がよい。目の前の絵図は、そのためのものだった。
その手始めに股肱の臣である藤孝を転封する。上に立つものは、親しき者にも厳しくなければならない。
「細川宰相には因幡、但馬二ヵ国を加増する。但馬は山名祐豊がおるが、これを制圧した後は宰相の好きに致せ。但し、生野銀山は幕府の直轄とし、山名討伐後に阿波は返上して貰う」
「……異論はございませぬ。されど理由を伺うても宜しゅうございますか?」
絵図の中で山陰地方を治める大名として自分の名があった。そのことから転封になることを予測していた藤孝に戸惑いはない。ただ理由を聞いておく必要はあると思った。この国替えは、単なる国替えではない。幕府の将来に関わる主の方針が込められているものである。これからも幕臣として天下泰平に尽くすのであれば、家臣として主の考えを正確に知っておかなければならない。
「そなたには苦労をかけておる。本来であれば上方に三カ国ほど与えて報いたいところであるが、幕府をより磐石なものとするには譜代であろうが外様であろうが上方には置けぬ。上方は幕府の直轄領として治める」
そう言い切って義輝は一つ一つ手に持つ扇子で絵図を指し示しながら説明を加えていった。その説明から窺えるのは、義輝が街道を押さえることに重点を置いていることだった。
「晴藤には播磨、宰相が抜けた阿波には義助を据える」
播磨が与えられている実弟である足利晴藤を軸に備前と美作へ幕臣を置いて山陽道を押さえさせ、藤孝の抜けた阿波には義助を後釜に据える。阿波には四国を縦断する南海道が通っており、やはり交通の要衝なのだ。四国には外様の長宗我部がいるが、讃岐と伊予も幕臣系の大名なので四国は概ね幕府の指図通りに治められる。後は山陰道をきっちり押さえられれば、幕府の西は鉄壁となり、揺らぐことはない。そこで選ばれたのが藤孝というわけだ。
それならば義助に山陰を与えればよかったのではと思われるが、残念ながら義助には新たに幕府の版図へ組み込まれたばかりの因幡と未だ敵地である但馬を切り従える力量はない。但し、阿波ならば公方として長く根を張っていたこともあって安定的に治められると思われた。現に四国を再平定した時には阿波公方の名が形だけのものではないことは証明されており、大きな問題こそ起こらなければ充分に治めて行けるだろう。後はじっくりと義助が育っていくのを待つしかない。
そして当然なように西側の安定を図るならば、東側にも目を向けなければならない。その中で義輝が重視したのが東海道の人事である。
「蒲生を伊賀守護に昇格させ、山岡美作に蒲生郡を与えることとした」
義輝は親の賢秀が伊勢と近江で、子の賦秀は義輝の膝下で大いに働いた。恩賞として蒲生は伊賀の代官職から昇格させて守護とする。もちろん藤孝から阿波を取り上げたように日野城を含めて蒲生郡は収公する。所領は倍増するので文句は言わせないつもりだ。また収公した蒲生郡を山岡景隆に与え、東海道と東山道の防衛を任せるというのが近江での義輝の方針である。
この役目、実は義輝は他の者に任せるつもりだった。景隆も無能ではないが、飛び抜けて有能でもない。一郡、二郡くらいは見事に治めてみせるだろうが、二つの街道を押さえさせるには力不足であることは否めない。何故ならば、その先にいる大名家は織田家だからだ。織田は味方であるとはいえ他家である。そして信長ほど気難しい相手は並の者では務まらない。もし義輝が予想しているような事態が起こったならば、景隆には荷が重いと思われる。
その役目をこなせる者は、幕府内に於いて一人しかいない。だからこそ義輝は、その者に幕府が持つ近江三郡をそっくり与えるつもりでいたのだが、内示を伝えた際に当人が“論功行賞は公正明大に行なわれなければなりませぬ。自分は大きな失態を犯したのみ、所領を没収されても文句は言えぬ立場でございます。その私が過分な恩賞を受ければ諸大名からの反発は必定、よって辞退を申し上げたく存じます”と言って断ってきたのだから目算が狂ってしまった。
(阿呆!余を支えんとするうぬが、斯様に小さな身代で満足しておってどうする!)
義輝は当人の自覚のなさに腹を立てた。幕府の所領は増えても人材は決して豊富とはいえない。だからこそ有能な人材に所領を宛がい、大いに力を奮って貰わなくてはならないのだ。それなのに一度の失敗で卑屈となり、恩賞を辞退するなど余りにも大局から目を背けた行為だった。何れは一国を与えようとまで考えていただけに落胆は大きい。義輝は三度に亘って恩賞を受けるように重ねて伝えたが、頑なに辞退を繰り返すばかりで埒が明かなかった。
(上様は諸大名を本貫から切り離されるつもりか)
話を聞いている内に藤孝にも義輝の考えが凡そで読めてきた。
自分が山陰に移されるのもそうだが、蒲生から本貫を取り上げることや絵図に記された他の大名たちのことから考えれば、義輝が諸大名を本貫地から別の場所へ移すつもりなのは明白だった。
今回の謀叛は特に旧領や本貫へ対する意識が強く働いていた。京極高吉の寝返りがいい例で、義輝の許では旧領回復が見込めないと思い込んだ輩が総じて謀反方に与している。その事に気付いた主君は、だからといって下手に出て彼らを旧領に戻してやるような甘い性格ではない。逆にこの混乱に乗じ、一気に清算するつもりでいるのだ。確かに諸大名の配置替えが成功すれば畿内に於ける幕府の力は磐石となり、最盛期であった三代・足利義満の御世を凌駕することだろう。
「どうやら気が付いたようだな」
義輝が藤孝の表情を読み取り、その考えを肯定していく。
「小禄を食む者は構わぬが、大身の者がいつまでも本貫に拘っておったらいつまでも乱世は治まらぬ。今は外様には手を付けられぬが、譜代のものから順を追って転封させていくつもりだ」
「畏まりました。我が身は上様に尽くすのみでございます。行けと命じられれば、山陰でも九州でも果てには唐、天竺にまで参りましょうぞ」
「はははは、そのように遠くまで行かせたら余が困ってしまうわ」
と言って義輝は大仰に笑い、釣られて藤孝と藤英も兄弟揃って笑みを浮かべた。
「されど上様、伊勢はどうなされます?北畠中納言が降伏したとはいえ、そっくり織田家へ渡すわけには参りますまい」
藤孝は伊勢に話題を転じた。
先月末に北畠具教が降伏したことにより、南伊勢は幕府の預かるところとなったのだが、現実として謀叛の鎮圧に貢献した織田家へ対して唯一恩賞として授けることの可能な土地でもあった。
織田家は西征以前には周囲を幕府系大名に囲まれていた。今回の騒動で武田と北畠が謀叛方に与したことにより、織田は信濃と南伊勢に版図を拡大できようになったが、信濃には武田信玄がいる。まさか信玄討伐が終えるまで織田家へ恩賞を与えないということは無理なので、幕府は南伊勢を織田に与えなければならない。藤孝の推測は現実的で正しい見方だ。
「伊勢は義氏に任せようと思う」
しかし、義輝の判断は違った。
「義氏様に?」
「うむ。伊勢は長く国司家が統治してきただけあって家格の低い者を軽んじる傾向にある。義氏ならば、不足はあるまい」
北畠が治めていた南伊勢は、東海道から外れているとはいえ窺えるところにある。いつでも街道を脅かせるというのは脅威でしかなく、そこに義氏を据える意味は充分にある。しかも義氏は古河公方として傀儡の身に長くあったこともあり、独自の家臣団を持っていない。古河公方家の家臣団は大半が潰えており、簗田晴助、持助親子と一色月庵が関東より付き従っているくらいで、絶対数が足りなかった。その義氏が南伊勢を治めるなら、北畠の家臣団をそのまま義氏に付けられるという利点を活かせられる。
(それならば中納言も納得しよう)
この沙汰は降伏した具教への配慮でもあった。元々具教が幕府に敵対したのは信長との確執があったからであって、義輝に何かしらの含むところがあった訳ではないのだ。義輝が三好征伐へ赴いている間に兵を動かした信長によって北伊勢を奪われ、今回はそれを取り返そうとしたに過ぎない。ただ事実はどうあれ幕府と敵対したことを許すわけにはいかない。所領の召し上げは当然だが、義氏に預ければ一門や家臣たちは生き延びられる。具教も暫くの蟄居謹慎の後に御相伴衆として復帰させ、何れは再起の機会を与えるつもりでいる。
「されど上様。織田殿への恩賞は宜しいのですか?」
当然の疑問を藤孝が投げ掛ける。南伊勢を幕府が収公してしまえば、織田家へ与える土地がなくなってしまう。恩賞がないと知れば不満に思うのが当然だ。織田の強大さを考慮すれば、信長に不満を抱かせるのは危険かと思う。もし信長が謀叛方に与していたら、恐らく幕府は負けていたはずだ。その危険を敢えて冒す主の真意とはいったい何なのか。
「上様は織田殿を公卿にするつもりだ」
答えたのは藤英であった。
「公卿?」
「そうじゃ。公卿に就いている大名は然程おらぬ故、名誉でもある」
公卿とは参議及び従三位以上の非参議の者を差す。戦国大名の中では大内義興、義隆親子や伊東義祐など例外もあるが、公家の中でも限られた者にしか許されず、三好長慶や細川晴元など歴代の天下人も昇っていない地位である。現在の幕府に於いて義輝の他は、参議である藤孝と以前に義昭が任じられていただけということを考えれば、如何に破格の地位であるかは判る。それを義輝は信長に与える。
(されど、あの織田殿が公卿などの地位に満足するであろうか)
接点は光秀ほどないにせよ少なからず信長を見ている藤孝としては、公卿を与えたところで信長は喜ばないと思った。名誉ではあるものの信長は上杉謙信とは違うのだ。
(弾正は余からの恩賞を受け取ろうとするまい)
その兆候を義輝は信長の中に見ていた。しかし、不思議と不安はない。それは信長の行動原理が出会った時から何も変わっていないからだろう。まあだからこそ見えてくる問題もあるので、頭が痛いことに変わりはないのだが……。
(弾正を公卿にすることで幕府としての体裁は繕える。後は、余次第だな)
今回の謀叛に於いて義輝の版図は著しく広がりを見せた。敵対者は未だに存在するが、備前に備中、因幡と伯耆、南伊勢と志摩を新たに得た。近い内に一色義定の丹後と山名祐豊の但馬が加わるの間違いなく、一向宗の蔓延る北陸にも兵を進めるつもりだ。そうやって畿内が固まれば石山本願寺も降伏しているだろうし、場合によっては此方の方が早いかもしれない。そうなれば紀伊の平定も時間の問題となるだろう。そこまでの道筋は出来ている。いつ何処となりと転封を命じられるまで幕府が力を付ければいいだけの話なのだ。
この直後、義輝が予想した以上の事態が起こることになる。
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七月八日。
美濃国・岐阜城
美濃表で武田軍との合戦に勝利し、江北を平定、越前朝倉を倒して若狭をも取り戻した織田信長は上洛して義輝に報告した後、足早に居城へと戻っていた。謀叛方の首魁・松永久秀が敗れたとはいえ各地では敵対勢力が現存しており、信長も長島一向一揆に武田信玄という大きな敵を二つも残している。ただ織田はすぐに軍勢を派遣できる状態になかった。岐阜の城下は信玄によって燃やされており、再建こそ命じているが信長の不在で作業は捗っていない。ここで領民を放って出陣すれば、人心は信長から離れていってしまい領地経営に大きな悪影響を及ぼしてしまう。
また石山本願寺を包囲している柴田勝家が帰還していないことも軍勢を派遣できない理由の一つだった。今のままでは織田軍の力は二分しており、信玄だろうが一向一揆だろうが厳しい合戦を強いられることになる。持てる力を存分に振るい、勝つべくして勝つのが信長の流儀なのだ。悪戯に合戦を長引かせるのは銭の浪費でしかなく、武田義信の謀叛も鎮まっていないことから信長は佐久間信盛へ滝川一益支援を命じただけで、暫くは岐阜の再建に注力することにした。
そして七月に入って勝家が岐阜に帰還した直後、信長の命令が下された。
「九月には出陣して門徒どもを討つ。支度を怠るな」
信長の最初の標的となったのは、長島一向一揆であった。
一向一揆勢は今年始めの挙兵で尾張小江木城へ襲い掛かり、信長の弟・信興を殺害している。今回の出陣は弟の弔い合戦でもあり、見せしめの合戦。信長に刃向かえばどうなるかを一向狂い共に思い知らせてやらなければならない。信長の瞳はメラメラと怪しく燃え滾っていた。
そんな中、信長を訪ねて岐阜へやってきた一行がいた。信長の義弟で北近江の領主・浅井長政である。
「何としても義兄上には首を縦に振って頂かねばならん」
長政は鼻息を荒くし、今にも合戦に赴かんとする様子であった。ただでさえ大男の長政が赤ら顔で城門を叩くのである。その所為で門兵が咄嗟に槍を向けてしまい、長政に一喝されるという事件が起こった。城内は俄に騒然となり、何事かと信長自身が姿を見せるまで発展した。
武田軍の放火によって山麓にあった信長の居館も焼けている。その再建の陣頭指揮は信長自らが執っており、城門が騒々しいことに気が付いたのだ。それでいて見て来いと命じるのではなく、自分で赴いてしまうところが何とも信長らしいところだった。
「左衛門佐殿が、何故に岐阜におる?」
現れた信長は長政の訪問に驚いていた。つまり長政は予め自分が来訪することを伝えていなかったことになる。
「義兄上か。これは話が早い」
さっそくに信長へ会えたことを長政は喜んだ。
わざわざ浅井の当主である長政が岐阜まで信長へ会いに来たのには理由がある。それは浅井の生死すらも分かつ問題、領地の返還だった。北近江の浅井領は、近江での戦闘が終わった後も織田が占領したままなのだ。
信長は浅井領を取り戻した。山崎の合戦後に小谷城へ戻った長政は、当然なように領地は即座に返還されるものと考えていたが、織田に小谷以外の城を明け渡す気配はなく占領し続け、今では織田の城代側と領主側で小さな武力衝突すら起こっていた。すかさず長政は書状を遣わして信長に所領の返還を求めるが、信長の返答を意外なものだった。
「左衛門佐殿がどのように理解しているかは存ぜぬが、当時の北近江は謀叛方である浅井下野守が版図であった。それを我らが独力で切り取ったわけであるからして、当家で治めるのは当然のことである」
これには流石の長政も怒りを露わにした。とはいえ相手は義兄である。感情を必死に抑え、再び書状を送った。
「それは理屈に合い申さぬ。浅井の当主は左衛門佐長政であって、下野守久政ではない。仮に下野守の指図があったとしても、墨俣合戦に於いて下野守は織田家に降伏しており、その時点で江北は左衛門佐の所領に戻っているので、江北の所領は返還されて然るべきである。もちろん所領を取り戻してくれた礼は別の形でさせて頂くつもりでおります」
強弁に返せと言わなかったのは、久政が信長の弟と家臣を討ったという負い目が長政にあったからだ。領地を取り戻したのも信長であり、久政の身柄も素直に引き渡している。それ故に長政は幕府に訴えるということもしなかった。義兄ならば、話せば判ると思ったのだ。
そんな義弟に信長は冷たかった。
「確かに下野守を墨俣に於いて捕縛したが、下野守は降伏したわけではない。その後も下野守の意に従う政元がおり、門徒どもの巣窟たる江北十ヶ寺なども健在、江北は依然として敵地であった。何度も申すようだが敵の所領を切り取ったのであるから、その土地は織田家のものである」
信長は一向に長政の求めに応じようとせず、議論は平行線のままであった。長政としては、これ以上は領地問題を引き延ばす訳にいかず、直談判しかないと岐阜城に乗り込んできたのである。
長政の来訪を事前に知っていれば信長も面会を拒絶することも出来たが、顔を会わせてしまったならば話を聴かずに帰すことは難しい。流石に城門で話すことは出来ないので、信長は仮住まいとしている屋敷で長政の話を聴くことにした。
「今日こそは、我が領地を返して頂きます」
挨拶を抜きにして、長政はいきなり本題に切り込んだ。それほどまでこの一件が浅井にとって死活問題であることを暗示させている。
「またその話か。返還には応じられぬと何度も伝えておろう」
「承服できかねます!今も我が家来たちは帰る場所もなく困り果てております。即刻、返して頂きます!」
うんざりとした表情で信長が返す。その態度に苛立った長政が床を叩き、ずいっと前に出た。
浅井家臣の間では今でこそ批難の対象が信長となっているが、領地の返還が滞れば何れは矛先が問題を解決できない長政へ向く。一度、それが起こってしまえば浅井の大名としての存続が危ぶまれてしまう。
だが、次の言葉が二人の間の空気を完壁に凍りつかせてしまった。
「返そうにも江北は秀吉に与えてしまった故、不可能だ」
「……なッ!?」
唐突に告げられた一言に、長政は言葉を失ってしまった。
義輝が論功行賞を進めているのと同じくして、織田家中でも論功行賞が行なわれていた。信長は江北五郡を治めていた浅井領の内で坂田、伊香、浅井の三郡を木下秀吉に与え、今浜を拠点にするよう命じた。一国一城の主となった秀吉は、これを機に姓を羽柴へと改めている。既に先日、今浜へ入って新城普請の検分を行なっているところだ。
「他人の領地を家臣に与えるなど、如何なる料簡でござるか!」
当然、長政としては認められる話ではない。領地を取られているだけでなく、新たな法度でも出されれば浅井の支配は根底から揺らぎかねない。すぐに止めさせなければならないが、信長が長政の求めに応じる気配は一向にない。
「やれやれ、そんなに所領がなければ困るか」
「当たり前にござる!」
「ならば越前をやる」
「え……越前?何を仰せか……」
突然の信長の申し出に長政は言葉を詰まらせた。
越前はいま織田の支配下にある。江北と同様に切り取った越前も信長は幕府に返さずに自分で治めていた。無論、若狭もその一つである。義輝が織田へ所領を与えようとしなかったは、こうなることが判っていたからだ。
信長は永禄八年(1565)の上洛戦の折に幕府からの恩賞を辞退したが、独力で切り取った六角領は幕府に引き渡さなかった。その際、義輝は力がなかったことから織田の江南領有を黙認した。今回も同様に信長は所領を返すつもりはないらしい。ただそれを義輝が前回のように黙認すると思っているかといえば、否である。
実は長政が岐阜を訪れる二日前に信長の使者が義輝の許に派遣されていた。使者は信長の庶兄・信広であったが、長政の訴えが幕府に行く前に機先を制そうとしたのは間違いない。話の中身は所領の交換だった。
「織田と浅井の間で所領の交換を行ないたく存じます」
「所領の交換?何処と何処を交換するのだ」
最初、織田の申し入れに義輝は首をかしげた。
領地を接している大名同士が諍いを避けるために領地を交換する例は過去にもあるので、それ自体は何も不思議な点はない。幕府を通すというのも筋道からして正しい。問題は何故いまという時期なのかということと、何処と何処を交換するかということだ。
「小谷と越前を交換いたします」
「越前?それは越前一国ということか」
「左様にございます」
「余は越前を織田に与えたつもりはないが」
義輝は語気を強め、威圧的に信広を下問した。伝わってくる迫力に気圧されないよう信広は頭を伏せ、目を合わさぬ様にして返答する。
「え……越前は当家が切り取った土地にございます。故に当家で治めております」
「江北や若狭を引き渡さぬのも同様か」
「左様にございます」
「ふん、まあよい」
意外にも義輝はただ溜息を一つ吐いただけで、それ以上は信広を問い詰めることはしなかった。
(弾正め。左衛門佐の所領も返還していなかったとは思わなかったぞ)
信長が攻め取った土地を自分で領有するつもりなのは予想がついていた。故にこそ義輝は浅井に越前半国を与えて強制的に織田家から所領を引き渡させるつもりだった。それならば浅井家への加増にもなるし、信長も義弟の長政になら領地を引き渡すだろうと読んでいた。また他の土地を認めることで織田家への恩賞を幕府が与えたことにもなるので、南伊勢を幕府が収公しても問題はなくなる。そのはずだった。
しかし、信長は義輝の予想を大きく超えた行動に出た。浅井領を返還せず、長政を小谷に閉じ込めて選択の余地をなくした状態で越前移封を強要する。越前は大国、浅井からすれば所領は倍増することになるので、家来の中には賛成者も現れるだろう。そうなれば必要なのは長政の決断のみとなる。
越前移封は長政に利点がないわけではない。浅井家は数代に亘って江北に根を張る土地に縛られた典型的な国人大名だ。今でこそ長政が目立っているが、実際は家老衆の権限は無視できないほど強い。これが新地に赴くとなれば、知行割りは全て長政が取り決めることになる。それは大名権限の強化に繋がり、初めて浅井という家は長政の自由となる。聡明で織田家を見ている長政が、それに気付かないはずはない。
(浅井の越前移封はよい。本貫たる江北から切り離すことも余の考えと相違ない。恐らく弾正は、余の考えを理解した上で使者を遣わしたのであろう)
義輝と信長の考え方は近い。それは以前から感じていたことだ。自分から信長に寄って行った部分もあるが、信長が義輝を認めている部分もあるだろう。ただ義輝としては、このまま信長の申し出を受けるわけにはいかない。そして全てを斥けるだけの力もない。故に一つの条件を提示する。
「相判った。されど越前は一度、幕府が収公した後に左衛門佐に恩賞として授けることとする。また江北も同じく幕府が収公し、弾正に与える。それでよいな」
過程は違えど、結果は同じなのだから認めろと義輝は言った。
「構いませぬ」
それに信広が頭を深く下げ、了承の意を示す。過程になど、信長は興味ないのだろう。肩の荷が下りたのか、強張った肩が少し下がっているのを見て、義輝は信広が気を抜いていることが判った。ここで追い討ちをかける。
「だが若狭は返して貰うぞ。弾正には若狭奪還に骨を折ってもらったが、若狭勢の主力たる武田信景を降伏させたのは余である。若狭を織田が治める謂れはない。そちらの言い分は認めたのだから、こちらのものも認めて貰おうか」
義輝の突き刺したような視線が、信広を鋭く捉える。
信長の狙いは判っている。鉄砲の産地である国友村だ。あの土地を手に入れるために、これ程の無茶をしたのだ。信長の鉄砲への拘りは強く、越前と若狭よりも重いということなのだろう。そうならば浅井に一国を渡すなど気前のいい事が出来るのも頷ける。
「畏まりました」
その証拠に信広は、冷や汗をかきながらも承諾を口にした。これは予め信長が認めていたことになる。
「うむ。なればよい」
かくして幕府が介入したことにより長政は越前へ移封となった。幕府と織田家の間に立たされた長政が異論を挟む余地はなかった。ただ人の気持ちとは簡単に割り切れるものではない。本貫を奪われたという思いは消えず、織田と浅井の関係は、これを機に微妙なものになっていった。
【続く】
さて今回は論功行賞の話です。大筋を記述したわけですが、他の者については次回で纏めますので、次回を参照下さい。
今回の本題は義輝の方針と信長の独走です。国友村を手に入れた織田の鉄砲はより強化されることになります。また織田と浅井の間に確執が生まれたとはいえ、表向きは今まで通りです。どう変わっていくかは今後に描いて参ります。