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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第五章 ~元亀争乱~
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第二幕 地方情勢 -敗北者たちの選択-

六月五日。

摂津国・石山本願寺


石山本願寺の歴史は、明応五年(1496)に八代法主・蓮如が大坂の地に坊舎を築いたことに始まる。大坂という地名の如く石山には大きな坂があり、その坂の先にある台地の上に建てられた阿弥陀堂と御影堂を中心に御坊、寺内町が形成されている。この寺内町は淀川の河口付近に位置する渡辺津に接していて、瀬戸内を渡って来る荷船が毎日のようにやって来る水上の要衝だった。それから歳月を重ねるごとに石山は発展していき、七十余年が経った今では多くの商人や職人が住むところとなっていた。周辺には大坂平野で田畠を耕作する農民たちの家も少なくなく、京や堺ほどではないが石山は紛れもなく京畿に於ける有数の大都市であった。


ただ石山は単なる栄えた町ではない。町そのものが城郭と呼べるほどの代物であり、時の天下人たちが手を出せなかった不入の土地でもあった。


石山が大城郭に変貌を遂げたのは、天文一揆が発端である。本願寺門徒の急激な拡大に危機感を抱いた法華衆徒が天文元年(1532)、武家の争いに便乗して大津の顕証寺を攻め落とし、それまで一向宗が本拠を置いていた山科本願寺を焼き討ちにした。石山へ移転を余儀なくされた一向門徒たちは、時の法主・証如の下で石山に城郭の整備を始めるに至り、掘、塀、土塁を築いて櫓を建て、寺内町をすっぽりと囲んでしまう(かまえ)を設けた。いつしか大坂は“日本一の境地”とまで呼ばれるようになり、宣教師ガスパル・ヴィレラは“日ノ本の富の大部分を石山の坊主が所有している”とまで言い切った。それは一宗教勢力に過ぎない石山本願寺が要害堅固な砦だけではなく、絢爛豪華な伽藍までを備えていたことを皮肉っての言葉だったが、本願寺の財力が抜きん出ている事実を物語っていた。


その石山本願寺は、義輝の時代になっても天下の政から独立した立場を保っている。一度、永禄八年(1565)に摂河泉を平定した織田信長が“内裏の再建費用”として矢銭五〇〇〇貫を徴収したことがあったが、この時は顕如も幕府を敵に回すことをよしとせず、素直に応じていだけで決して幕府に膝を屈した訳ではなく、単に波風を立てる必要はないとの判断に過ぎない。無論、この状況を義輝が好ましく思っているわけはなく、いつかは一向宗を膝下に置かなくてはならないと考えていた。その意思の下で以前に朝倉義景へ加賀切り取り次第の内示を与えていたのだが、これが一向宗と敵対する原因になってしまった。明らかなる失策だった。


そして今、石山本願寺は柴田勝家ら織田勢と蜷川親長の二万五〇〇〇余に包囲されている。籠城する門徒の数は一万八〇〇〇と寄せ手を下回っていたが、石山の堅固さを考えれば充分に抵抗できる人数である。


石山本願寺で一際目立つ建物に高櫓がある。城外を見渡せる高さを誇り、また城内の至るところからも望め、櫓に立つ人物を全ての者が崇めなければならなくなるような設計になっていた。


「もう幕府は攻めて参らぬようですね」


その高櫓の上で法衣を纏った人物が幕府軍を見下ろしながら呟いていた。膨よかで耳たぶも大きく温和そうな顔つきをしているが、その目は細く瞳にはギラギラと輝るものがあり、一段の人物であることを推察させる。天文十二年(1543)の生まれというから未だ三十路を迎えていないはずだが、その立ち振る舞いには武家にはない洗練された高貴さが漂っており、年齢以上のものを感じさせていた。


本願寺顕如。諱を光佐といい、百万ともいわれる門徒を束ねる絶対者である。


「はい。柴田なる者、評判を聞く限りでは猪武者の類かと思いましたが、案外と戦というものを心得ているようです」


その顕如に傍らで応じるのは、坊官・下間頼廉。僧侶としては最高位である法印の僧位を与えられている顕如の側近で、刑部卿と号している。軍事面に於いては事実上の最高責任者で、伊丹・大物合戦にも一向門徒を率いて参戦した剛の者だ。


「織田は野田と天満などに複数の砦を築いている模様。南の四天王寺も狙われております」

「撃退は可能ですか?」

「いま以上に人数の開きが出なければ、間違いなく守りきれます。ですが、幕府が更に援軍を送ってきたならば籠城に徹する他はありません」

「大納言殿が降伏した今、幕府と敵対し続けるのは本意ではありません」

「承知しております」

「かと申して石山を退去するつもりもありません」

「兵糧がいつまで持つかという問題がございますが、二月、三月でなくなることはありませぬ。優に一年は戦えます。有岡の荒木殿も我々が降伏しない限りは共に戦うと申しております」

「それは重畳。ならば、その間に活路を見出すことに致しましょう」


顕如は静かに告げると、そのまま高櫓を下りて行った。


この後、顕如は天下に檄文を発して一向門徒へ再蜂起を促すことになる。頼廉は有岡城の荒木村重と繋ぎを取りつつ洛中炎上の混乱に乗じて戦場を脱していた雑賀・根来衆に更なる協力を呼び掛け、織田に対抗して木津、難波、楼岸に砦を築いた。また信濃で孤軍奮闘する武田信玄へ密使を遣わし、勝利を諦めず奮戦するように願った。但し、これは縁戚である信玄を思っての行動ではなかった。


(武田入道殿には悪いですが、本山が和睦するまでは大いに暴れて貰いますよ)


対等なる和睦。それが顕如の狙いだった。


足利義昭が降伏したとしても幕府に敵対する勢力がいなくなったわけではない。身近なところでは荒木村重が尚も籠城を続けており、山陰には一国を保っている山名祐豊と一色義定がいる。一向門徒の力が強い北陸は一時的に上杉謙信に荒らされてはいるが、今も加賀や能登、越中の大半が反幕府勢力のままだ。信濃には盟友・武田信玄がおり、東海や関東でも幕府へ敵対する勢力は活発に動いている。恐らく幕府はこれらの勢力へ討伐軍を差し向けるだろうが、如何に幕府といえども全ての勢力を一度に相手することは不可能と思われる。となれば順々に兵を送り込むことになる。


(この石山は幕府の喉元に突き刺さった刃も同然。内府殿からすれば、早々に片付けたいと思うでしょうな)


遠方に軍を派遣するには、畿内の安定化が不可欠である。つまり幕府が兵を送る第一番目が石山である可能性は高い。その石山を力で攻め落とせないと知れば、焦った将軍が譲歩してくる見込みは充分にある。問題は和睦に踏み切る時期だけ。将軍の譲歩を引き出すには周辺の敵対勢力が健在であることが絶対条件であることを改めて申すまでもないが、時期を失して武田や山名が滅び、遠国に振り向けられていた兵力が石山に集結することことだけは避けなければならない。総力戦になれば瀬戸内を幕府が押さえている以上、こちらが敗北するのは判っている。その前に何としても将軍の譲歩を引き出す。


(半年から一年といったところですかね)


顕如は大坂という地から、天下の趨勢を眺めていた。


=======================================


六月七日。

信濃国・諏訪湖畔


美濃から撤退して凡そ一月。苦渋の決断をして信濃へと戻ってきた武田信玄は、謀叛を起こした嫡子・義信を速攻で倒して再び天下を争うべく上方に戻るつもりだった。しかし、その思惑は義信が上原城まで退いたことにより早くも崩れてしまっていた。


(父が美濃から戻ったとあれば、野戦には応じられぬ。家中には父には勝てないと思う者が多く、例え軍略で勝っていても兵が及び腰となっては負ける公算が高い)


父・信玄の帰国をいち早く知った義信は、塩尻峠から迷うことなく陣払いした。相対している馬場信春は背中を見せた義信勢に対して追撃を仕掛けるが、義信は要所要所に穴山の鉄砲隊を配置し、撤退を支援させる堅実さで対抗した。まさしく武田の嫡流に相応しき用兵であり、鬼と恐れられる信春も充分な成果を上げられずに追撃を諦めた。


(内通者がおるのではなかろうな)


その報せを聞いて、最初に信玄が疑ったのが内通者の存在だった。敵対しているとはいえ家臣間の繋がりが強い両者は何処で繋がっていても不思議はない。実際に信玄も細作を忍ばせて情報を得ており、同じ事を義信がしていることは充分に考えられる。それでも信玄が義信の行動を正確に把握できていないのは、義信が情報が漏洩していることを前提で軍を動かしていると考えるのが自然だ。重要な方針を己の一存で決め、軍評定では洩れても構わないことだけを話す。それならばこちらが義信の動きを掴めなくとも説明がつく。


(阿呆が……ッ!!)


つくづく的確な采配をしてくる嫡男に信玄は苛立ちを隠せずにいた。


ただ事が上手く運ばなかったから苛々しているのではない。武田を継ぐに足る資質を備えながらも自分の考えを理解しようとしない我が子に信玄は強い憤りを抱いているのだ。もし義信が信玄の指示通りに軍を動かしていたならば、いや駿河攻めの頃から反目せずに従っていたならば、と思わずにはいられなかった。義信が味方なら、ここまで武田が天下獲りに遅れを取ることはなかったはずだ。素質があるのなら、乱世に生まれ出る者として素直に天下に向かって勝負するべきであろう。それがかつて源頼朝にも対抗した初代・信義から続く由緒正しき武田の主としての気概というものと思う。


「埒が明かぬ。上原城を攻め落とすぞ」


痺れを切らした信玄は、ついに容赦ない命令を下した。


「お……お待ち下さい」


それに馬場信春が待ったを掛けた。もう親子の対立は止めようがないと割り切っていたが、ここでの城攻めは無謀に思ったのだ。城内の義信方が六〇〇〇に対し、こちらは一万余しかいない。犠牲を増やすだけと理路整然に信春は説いた。


「上原城は堅城。かつて諏訪頼重は敵わずと見て城を捨てた故に難なく奪えましたが、力攻めとなるととても人数が足りませぬ」

「孫子曰く“上兵は謀を()つ。其の次は交を伐つ。其の次は兵を伐つ。其の下は城を攻む。城を攻むるの法は已むを得ざるが為なり”。そのような事は心得ている』


いらん進言だとして、信玄は信春の言を一蹴する。


孫子では最上の戦い方は敵の策謀を先読みして無力化することと教えており、次点として敵の同盟や友好関係を断ち切って孤立させることであると書いてある。その二点が不可能な場合に於いてのみ敵と戦火を交えることを許しているが、その中で最もな下策が城攻めであった。城攻めは犠牲が多すぎる上に得るものが少なく、基本的に行なうべきではないと孫子は言っている。これを敢えて犯すつもりは信玄にはない。


「予州、義信に内通せい」

「……は?」


突然の命令に木曽義昌は応じられなかった。また当人だけではなく、その場に居合わせた全員が信玄の命令の意味するところに首を傾げている。


(まったく、こやつらは……)


武田の家中に武辺や軍略に優れた者は多いが、裏方である謀に長けたものは少ない。その面で信玄を支えていた山本勘介は既に亡く、後継となった真田一徳斎も病を理由に三年前に隠居してしまっている。また新たに武田の智嚢とするべく鍛えている武藤喜兵衛は上方に置いてきていた。


「言葉のままじゃ。予州は我が一門、寝返るとなれば太郎めは喜んで受け容れよう。さすれば勝利を疑わず、打って出てくるはずじゃ」


堪りかねた信玄は、命令を噛み砕いてからもう一度だけ伝えた。


「されども予州は裏切らぬ。後は太郎を逃がさぬよう包囲して討てば、戦は終わる」

「な……なるほど」


信春も義昌も一族の情すらも平然と武器にしてしまう主の恐ろしさに思わず息を飲んだ。


その後、義昌は信玄の指示通りに密書を城内に遣わし、内通を申し出た。しかし、信玄の思惑と裏腹に義信からの反応は薄かった。


(太郎め、予州の内通を疑っているのか)


信玄という存在がいなかった信濃で義昌が裏切るならば理解するが、信玄が帰国して裏切るのでは理屈が通らない。それは判る。だが、これを断って義信に勝利する策が残されているとは思えない。互いに将兵を出し尽くしている以上は兵力の差に変化が生まれず、今のまま野戦で信玄に勝てると考えているほど義信は阿呆ではない。義昌の内通は、決め手になるほど有効な手段だ。


(迷っておるのか。はたまた別の理由か。ともかくいま少し時をかけるしかあるまい)


すぐに信用されないのなら、辛抱強く粘るしかない。動かざること山の如し。信玄の代名詞といえる言葉だ。信玄は待っている間に、伊那で戦っている勝頼へ早く謀叛を鎮圧するよう下知を飛ばすと同時に山麓に築かれている居館を占領させた。義信へ揺さぶりを掛けたのである。


「も……申し上げます!」


そうこうしている間に上方から報せが届いた。この事が信玄の事情に変化が生じさせる。京で謀叛方が破れ、義昭が降伏したという報せは戦略を根本から練り直す必要を迫っていた。


「莫迦な!?久秀はどうした?奴が簡単に敗れるとは思えぬ。近江か大和に退いて、もう一戦と軍勢を再編しておるはずじゃ」


この時ばかりは信玄も素直に報せを信じることは出来なかった。半信半疑なままで、敵の策謀という線を捨てていない。しかし、使者は上方の惨状を有りのままに伝えると、それが事実であると思えてくる。何故ならば、嘘にしては話が大き過ぎるからだ。


「松永殿は山崎で敗北した後、京を焼いて行方を暗ませております。もう一戦などという余裕はありませぬ」

「きょ……京を焼いただとッ!?」

「洛中は火の海と化し、何も残らぬ有様とか。内裏も焼け、帝も叡山へ動座を余儀なくされたとのこと。ですが、既に洛中の全域が将軍の手に帰しておりまする」

「……莫迦な」


衝撃の出来事だった。あまりの事にさしもの信玄も目眩を覚え、目の前が闇に覆われていくような感覚を味わった。ふらふらと力なく地面へと倒れ込み、慌てて家臣たちが寄り添っていく。


「お……御屋形様!?」


重臣の一人が肩を貸して主の身体を抱えて起こすが、信玄の眼は焦点が合わずに泳いでおり、まだ足に能力が入らずに回復するまで時間がかかってしまった。


「だ……大丈夫じゃ。心配をかけた」


暫くして信玄が家臣の手から離れ、再び床机に座り直した。


ここまで驚かされたのは、人生で初めてと言ってもいい。合戦で敗北しただけならばまだしも、京を焼くなど馬鹿げているとしか言いようがない。しかも帝の動座にまで事が及んでいるとしたならば、もはや謀叛方に天下の大義は失われたと判断するべきだ。朝廷と公方を失い、謀叛方は瓦解していく。その末路がはっきりと信玄には見えていた。


(……まだじゃ。まだ儂は終わらぬ)


それでも信玄は諦めていなかった。策こそ弄したが、戦ったのは久秀であって自分ではない。全力でぶつかって敗れたなら諦めもつくが、まだ自分は力を残している。諦めるのは、まだ早い。


「あの痴れ者めッ!何という愚かなことを為出かしてくれたのだ」


突然に容赦のない罵声が飛んだ。絶望の淵から蘇った信玄には久秀に対する怒りしか湧いてこない。ここで幾ら口汚く久秀を罵ったところで虚しさが募るだけと判っていても、口に出さずにはいられなかった。


(されど、これからどうする)


信玄は改めて状況を整理し、今後の方針について思慮を張り巡らせた。眉間には皺が寄り、額には汗が流れている。状況は、最悪だ。それでも手がないとは思わない。


判っていることは、ここで守りに入れば間違いなく滅亡するということのみ。再起を期して降伏したとしても、信濃は義信に預けられ謀反方の首謀者であった自分に命はない。万が一、命を拾ったとしても天下の形勢が変化するまで恐らく寿命が持たない。


「……ゴボッ」


思わず出た咳に、信玄は右手で口を覆った。


「御屋形様?」

「いや、大事ない」


左手を上げて心配する家臣を制止した信玄であるが、右の掌にははっきりと赤いものが見える。死期が近づいている明確な証だった。散々に無理をしたつけが回り始めている。今日、明日にどうこうなることはないだろうが、このまま合戦を続けていれば、寿命を更に短くすることになりかねない。確実に事態を打開する逆転の一手がいる。


(……待てよ)


ここで信玄がふと疑問を感じたのは織田信長の動きだった。この後、もし信長が信玄の思った通りに行動するとならば、恐らく暫くの間は武田討伐の軍が起こされることはない。将軍の意識が自分にではなく信長に向けられるからだ。そうなれば信長も武田に構ってはいられなくなる。


(その前に甲信を一つに纏めておく必要があるな)


息を深く吸い、呼吸を整えた信玄がおもむろに口を開いた。


「太郎に会う」


追い詰められた虎が、起死回生の一手を打つべく動き出した。


=======================================


六月十二日。

遠江国・高天神城


名門今川家の惣領である刑部大輔氏真は、父・義元以来の領地を取り戻すことを悲願としていた。今川と徳川の国力はほぼ互角であったが、氏真は家康に勝てる自信はなく、善徳寺にて武田義信、北条氏政の二人と盟約を結び、氏政に援軍を依頼した。


北条からの援軍を得た氏真は一万五〇〇〇もの兵力を確保することに成功し、満を持して徳川領へ侵攻した。一方で家康は早くから今川方の動きを察知しており、八〇〇〇を率いて天竜川で待ち構える。兵力では劣るものの氏真如きに負けるわけはないと自信を漲らせての出陣であった。しかし、戦況は家康の予想に反して徳川は苦戦を強いられる。氏真は持てる兵力を存分に使って平押しにし、奇策をまったく用いないという正攻法で序盤から中盤にかけて徳川を圧倒したのだ。追い詰められた家康は、本陣を動かすという乾坤一擲の勝負に出た。そして賭けは成功し、家康が北条勢を敗走させると形勢は逆転、合戦は徳川に軍配が上がった。


「追撃せよ。完膚なきまでに今川を叩き潰せッ!」


勝利を手にした家康は追撃の手を緩めなかった。先に撤退した北条勢を無視して今川勢のみに標的を絞り、散々に追い回して一五〇〇もの死傷者を出させた。堂々たる戦果である。この猛烈な追撃に一番の損害を被ったのが、左翼に展開していた岡部正綱であった。正綱は何とか追撃を振り切ったものの主・氏真の後を追えず、命からがら駿河まで落ちていくしかなかった。その為、高天神城に逃げ込んだ氏真の手元には三〇〇〇ほどの兵しか残されておらず、籠城に徹する他は手段がなかった。


それから今川と徳川の戦いは、野戦から籠城戦へと移っていくことになる。


ただ徳川も北条が逃げ込んだ掛川城へも手勢を差し向けねばならず、高天神城に現れたのは五〇〇〇程に過ぎなかった。数でこそ今川軍を上回っているが、力攻めを強行できる差はなく、家康は城を包囲だけに止めて攻め寄せては来なかった。


「さしもの家康も城攻めは苦手と見える」


その様子に城内では再び徳川を侮るような発言が目立ち始めたが、それが虚勢であることは明らかだった。どんな時でも虚勢を張らなければ生きていけないのが名門の性であり、当然なように家康は城内の動揺が収まっていないことを見抜いていた。力攻めはしないが、城方を追い詰めるための一手は打ってきた。


「小笠山に砦を築け」


家康は高天神城の北側、小笠山からぐるりと東周りに付城を築いていったのである。しかもただ付城を築いているのではなく、これには家康の深慮遠謀が隠されていた。


(力攻めで高天神城は落せぬ。されど北条が籠もる掛川を攻略することも難しい。張り付いておくだけ無駄というものであるが、包囲を解いてしまえば天竜川での勝利が無に帰してしまう。なれば上方へ行って織田殿に助勢した方が余程、利巧というものよ)


家康は常に大局を見ていた。ここで無理に今川を倒す真似はせず、上方で起こっている戦を終わらせることを優先させた。上方の争乱さえ片付いてしまえば、遠州だろうが駿州だろうが幾らでも切り取れる。場合によっては幕府から大義名分も得られるだろう。今川家は名門だけに大義名分を振りかざされれば弱いという一面を持っていることは、その家中に名前を刻んでいたことのある家康はよく知っている。もちろん砦普請の妨害に今川軍が出てくれば、勿怪の幸い。叩き潰してやるつもりでいた。どちらに転んでも家康に不利はなく、徳川勢は悠然と砦を築いていった。


「駿府に救援を頼め。次郎右衛門(正綱)に駿河の兵を率いて駆けつけさせるのじゃ」


そうとは知らない氏真は、目の前の付城群を何とかしようと駿府へ急使を走らせた。駿府には逃げ帰った正綱がいるはずで、敗残兵を纏めていると思われる。その後ろ巻があれば、もう一度、家康と戦えると見込んだ。


「見ろ!岡部殿が来たぞ!」


数日後、氏真の命を受けた正綱が姿を見せた。城内からは喝采が湧き起こったが、見る限りでは二〇〇〇程しか率いていない。元々徳川攻めが総力を挙げてのものであり、一度滅亡寸前まで陥った今川には余裕は残されておらず、正綱は満足に兵を集められなかったのだ。それでも二〇〇〇を集めたのだから褒め称えてやるべきなのだろうが、合戦は勝たなければ意味がない。案の定というのか、城内からも果敢に打って出たが付城の普請は妨害できず、正綱は防戦に出た本多忠勝の部隊に打ち負かされてしまい、再び駿河へ逃げてしまうことになった。援軍が到来すると見越して準備を怠らなかった家康の完勝である。先の天竜川で油断が慢心を生んだことを家康は判っていた。同じ過ちは二度はしないのが家康の信条である。


それからの氏真は徳川が付城を築くのを黙って見ているしかなかった。四つほど付城が完成し、横須賀に拠点となる城郭を築き終えると家康は織田支援の為に陣列を離れた。それが一月ほど前のことである。その後に二つの付城が完成し、いま合計で六つの付城に高天神城は包囲されている。高天神城では連日のように打開策を講じる軍評定が行なわれて活発に議論が交わされているが、結論を出すまでには至っていない。付城を破る妙案がなかったことも大きな理由だが、一番は総大将の氏真がどちらの意見にも味方しなかったからである。


そして今日も高天神城では軍評定が開かれていた。


「付城の包囲が完成した今、これを叩くなど不可能じゃ。ここは打って出るべきでござろう」


出撃を主張するのは岡部元信である。桶狭間合戦の時の尾張・鳴海城主であり、付城の恐ろしさを尤も知る男だ。それに対して籠城の継続を主張しているのが朝比奈泰朝だった。今川勢の軍事を担当する頭二人の意見が食い違っていることも評定を長引かせている一因となっていた。


「出撃して如何になさる?」

「我ら三千が一丸となって進めば、敵の囲みを突破するのは容易じゃ。御屋形様が駿河に戻られれば、まだ挽回の余地はある」


元信の策戦は、包囲を突破しての駿河撤退であった。ある意味では前向きなのか後ろ向きなのか判らない策であるが、現実に即してもいた。野戦で決着を図ろうとしていた今川勢は高天神城に満足な籠城支度を整えているわけではない。三〇〇〇と数が減ったことが幸いとなって三ヶ月も堪えているが、もう一月も籠城できるほど兵糧は残っていないのだ。


「城を捨てろと申されるか!高天神城を捨てれば、たちどころに遠州は徳川のものになってしまうぞ」

「籠城を続けたところで勝機はあるまい。ならば動けるうちに動くべきであろう」

「掛川城には北条勢がおる。我らが遠州を捨てることは、北条との同盟を破棄するも同じぞ。北条の援軍なくば、駿河へ戻ったところで勝機があるとは思えぬ」


盟友である北条家の存在が、強弁に泰朝が反対する理由であった。


義元の御世ならば可能かもしれないが、今の今川に駿河一国で徳川に対抗する力はない。元信は巻き返しを狙っているのだろうが、高天神からの撤退は遠州を捨てることと同じだ。遠州を捨てれば、次は確実に駿州が狙われる。この事実に気が付いている泰朝が、自分の口からそれを話すわけにはいかなかった。そのことは、当主たる氏真が決断すべきことなのだ。


「ふん!そなたは自分の城を捨てたくないだけではないのか」


しかし、それを察せない元信が泰朝を徴発にかかる。元信らしくない態度であるが、それは元信にも余裕がなくなっている証だった。


「何じゃと!?儂は掛川に戻らず、御屋形様に付き従って参った。如何に五郎兵衛殿といえど、我が忠義を疑うとは許せぬ!」

「ならば具体策の一つでも出してみい。話はそれからじゃ」


堪らず泰朝も言い返すが、元信の反論に対する答えを有してはいなかった。


籠城戦で勝利するには援軍の存在が不可欠だ。ただ今川が援軍を求められる先は武田と北条の二つしかなく、義信は信玄方との合戦で余裕はない。また氏政は関東を重視していて、いま以上の派兵には消極的であった。それでも元信の出撃案が採用されないのは、大方の部将が泰朝の籠城案を支持していたからであり、その理由に氏真も気が付いていたからである。


(皆、失うのが怖いのだろう)


それは氏真の心の奥底に眠っていたものと同じだった。


駿河、遠江、三河を制して尾張の一部まで版図を広げていた百万石近くを領していた今川家は、氏真の代になってから凋落の一途を辿っている。信玄に攻められて滅亡寸前まで追いやられたこともあった。幸いにも幕府の助けで九死に一生を得たが、遠江半国を徳川に割譲しなくてはならず、領地は往時の頃より比べると半減してしまっている。いま元信の方針を選んで外へ打って出たならば、遠州は確実に失われる。そして何れは駿州も……。誰もがそこまで気が付いているとは思わないが“もう一城たりとも失いたくない”という思いが共通して家中に蔓延していることだけは確かである。


(何かないのか。逆転できるような一手は……)


そう模索するものの不出来な頭では解決策が何一つ浮かんで来ず、時間だけが過ぎていっている。上方から家康が戻ってきたのは、丁度そんな時である。しかも義昭が降伏し、徳川が遠江守護職に任じられたというとんでもないおまけ付きだった。


「……まさか、有り得ぬ」


驚きの余り氏真は腰が抜けそうになった。義昭が降伏したというは驚きだったが、家康が遠江守護に任じられたことは意外だった。これは徳川との戦を私戦に位置づけるという氏真の目論見が完全に崩れたどころの話ではない。幕府が今川を敵として認識したということだ。


(幕府は……、上様は将軍家の親族衆である今川を敵と見なしたのか)


俄に信じられない話だった。いや、甘えだったのかもしれない。今川は将軍家の親族であるから、徳川との戦いを私戦に位置づけられると思っていた。幕府なら、上様ならそれを認めると。


(儂は、未だ甘さの抜けぬ御曹司であったというわけか)


氏真は顔面を両手で覆い、自分の無力さを嘆いた。


父の背中を追い、やるべきことはやったと思った。義信の助けもあり、側近に何もかも任せずに自分で差配するようになってからは、ある程度の物は見通せるようになったと思う。それでも全てにおいて力量が足りなかったことを氏真は思い知った。


「上方では謀叛方が劣勢とは聞いておりましたが、それでも数万の軍勢を擁していたはず。簡単に敗れるとは思えませんが……」


そう疑問を呈するのは泰朝であった。


それを受けて氏真の顔がパッと明るくなる。もし報せが虚報とすれば、ここまで悲観する必要がないからだ。何かしらの方法で徳川を退ければ、遠州を取り戻して和睦する道はある。しかし、そんな淡い希望もすぐに消え去ってしまうことになる。


「上方の事は、どのようにして知ったのだ?」

「矢文にございます。今朝方、矢文が射られているのを兵の一人が発見いたしております。それがこちらです」


泰朝は懐に携えていた矢文を広げて氏真に渡した。少し汚れてはいるものの文字ははっきりとしている。矢文ということは徳川方が送ってきたことになるが、目的が判らない。事が真実ならこちらの士気を下げるため、嘘ならば惑わすためとなるが……。


(これは、まるで御行書ではないか)


矢文を見た氏真は別な意味で驚いた。


手に取った紙面には矢文とは思えぬほど文体は作法に則って書かれていた。もし正式な使者が届けた書状であるならば、何の違和感も抱かなかったことだろうが、これは矢文である。矢文ならば、もっと乱雑に書かれていていいくらいだ。


「不審な点が一つ。矢文に記されている花押が何れの者のものなのか判りませぬ。家康でないことだけははっきりしてるのですが……」


先に中身を見ていた泰朝が己が気が付いた範疇で指摘する。


矢文には宛先として氏真の名が記されていたが、すっぽりと差出人の名が抜け落ちており、花押のみが附されてあった。幅広く諸大名と付き合いのある今川家だが、誰もその花押に心当たりはなかった。徳川家とはいえ領している土地は三河と遠江なので、その膝下にいる者たちは、総じて今川に従っていた者たちだ。それらの花押に覚えがないということは、家康が新たに取り立てた者ということになる。つまりはそれほど身分の高くない人物だ。


(……これは上様が義藤と名乗られていた頃の花押だ)


だが泰朝の予測は間違っていた。氏真だけは花押の正体を知っていたのである。


義輝が名を改めたのが天文二十三年(1554)であるので、花押を使っていたのは十六年も前のことになる。それを氏真が覚えていたのは、間違いなく父の影響である。父・義元は将軍家の親族衆であることを分国統治に利用していた。その重要性を父はよく将軍家から書状を用いながら氏真に言って聞かていたので、よく覚えていた。


(ただ解せぬのは、上様がこのような回りくどい方法を採った理由じゃ。家康に御行書を託したのならば正式に使者を送ってくれば済む話であるし、昔の花押を用いる必要もあるまい)


これが偽文であるならば、いま義輝が使用している花押を真似するはずである。そうではなく十六年以上も前に使わなくなった花押が記してあるということから考えれば、白紙の紙が現存しているとも思えないので、矢文は新たに書き起こされたものであると推察するのが自然だ。そして義藤時代の花押を書ける人物は、義輝しかいない。しかし、義輝のものと考えても疑問は残る。矢文には義昭が降伏したことと、幕府が徳川家を遠江守護に任じたことだけしか書いておらず、氏真に対して何を求めているかがまったく触れられていなかった。それでいて義輝のものであることだけは確かなのである。どうにも解せないことが多い。


(降れ……ということなのか)


氏真は義輝の意図を量りかねた。必死になって考えるが、これが正解というものがはっきりと浮かぶことはなかった。


いま少し矢文と睨み合う日々が続くが、結論はもう既に見えていた。


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六月十八日。

筑前国・大宰府


朝廷の所管として九州を統括する機関であった大宰府の地で、凡そ二年にも及ぶ大友と毛利に対決は終わりを迎えようとしていた。


大友宗麟は筑後川の合戦で勝利すると、北上して岩屋城の攻略に手を付けていた。秋月、宗像、高橋ら筑前の大名たちは毛利という要を失って四散し、結束を保てなくなっていた。もはや宗麟の前に敵はいないかと思われたが、幕府は博多の保護のために毛利を筑前守護に任じ、その防衛を命じた。これにより毛利の家督である輝元が九州へ上陸し、再び筑前の大名衆を支援し始める。


「元就ならばいざ知らず、毛利の御曹司如きに遅れを取るものか」


毛利の援軍が到来しても宗麟は一歩も退く姿勢を見せなかった。


敵は大宰府に布陣した毛利勢一万三〇〇〇に筑前大名衆九〇〇〇の合わせて二万二〇〇〇。他は岩屋城に二〇〇〇、東の宝満城に一五〇〇が籠もっていた。対する大友側は三万五〇〇〇まで兵力を回復させており、数の上で毛利連合軍を圧倒している。眼前の毛利を破れば博多の奪還を図れるところまで巻き返していたが、毛利も大友も決戦に踏み切ることはしなかった。


上方の状勢が大きく影響していたのは言うまでもない。


(上様が破れれば我らの大義は失われる。仮に一戦して大友を退けようとも、徒労に終わる懸念は捨てきれぬ)


毛利の総大将・輝元は与力である福原貞俊と口羽通良、桂元重ら三人と諮って、そのように結論を出していた。


毛利が筑前に進出した当初の大義名分は、大内家の後継としてその所領を引き継ぐという名目だった。これは当時の家督にあった輝元の父・隆元が大内義隆の養女を正室に迎えていたことに起因する。隆元が死去したことでその大義も薄れてしまっているが、今は筑前守護という立派な大義があった。


(それも上様が健在でこその大義だ)


義輝が用意周到なのか、ただ抜けているだけなのか判らないが、未だ毛利には正式な守護就任は通達されていない。これは九州に於いて大きな矛盾を生み出すことになっている。


毛利の守護就任がまだという事は、現在の筑前守護は大友なのである。これだけでも大きな問題なのであるが、仮に毛利が筑前守護となっても大友家には九州探題という役職があった。その名の通りに探題職は九州全域を管轄としているために筑前守護であっても命令を聞かざるを得ない立場にある。幕府の力が強いならば、尚更である。義輝はこの探題職を廃止する意向を固めているが、今を以って実行に移したわけではなかった。故に毛利としては博多の維持以上のことは消極的になる他はなかった。


対して大友側も同じかといえば、実はそうではない。宗麟は決戦にこそ踏み切らなかったが、吉弘鑑理に大宰府の東に位置する宝満城攻略を命じていた。鑑理は五〇〇〇の兵を率いて宝満城へ向かうと有智山城、桝形城など支城を落とし、去る六月八日には宝満城を陥落させた。宝満城は高橋鑑種の属城であるが、元々は大友家の支配するところだった城である。当然なように縄張りは知り尽くしており、その攻略に時間はかからなかった。


「ようやったぞ」


宗麟は宝満城攻略から戻ってきた鑑理を上機嫌に迎えた。このところ徐々にではあるが失地を取り戻せているので機嫌はいい。


「聞けば倅の孫七郎が一番乗りしたそうではないか。見事なる活躍じゃ」


この時も宗麟は宝満城攻略で活躍した鎮理の子・孫七郎鎮理の活躍を褒め称え、当座の褒美として金子に太刀、南蛮渡来の品々まで与えている。


「有り難く頂戴いたしまする」


吝嗇な主にしては珍しく、余りの奮発ぶりに鑑理は恐縮し、恭しく礼を述べた後に頭を垂れた。


「兄の鎮信もよき面構えとなった。もうそろそろ隠居時ではないか?」

「端武者の如き働きに過ぎず、まだまだ大将の心得を知らぬ若輩者らにござる」

「親の贔屓目じゃ。先のある若者がおるということは、当家にとっては喜ばしきことぞ」

「勿体なき御言葉にござる。愚息に言い聞かせれば、更なる忠義を以って御家のために尽くしましょう」


そう言って鑑理は一礼して下がろうとしたが、宗麟は“待て”と言って引き止めた。


「取り返した宝満城は孫七郎に与える。高橋の名跡も継ぐがよい」

「孫七郎に高橋を継がせるので?」

「儂が筑前を治めるには大宰府のあるこの地が如何に大事かは承知しておろう。故にこそ鑑種に任せたのであるが、奴めは儂を裏切りおった。もはや真に忠義の心を持つ者にしか任せられぬ」

「はっ。有り難き仕合せ。愚息めも喜びましょう」


鑑理が感激して涙を流し、深々と頭を垂れた。


若輩者と口では言ったものの鑑理は息子の才能を認めていた。しかし、不幸にも孫七郎は次男であった。乱世ならば有能な次男が家督を継ぐことも有り得るが、兄・鎮信は鎮信でこちらも負けず劣らず有能で、家督を継がせない理由がない。それ故に鑑理には才能ある孫七郎が不憫でならなかった。その孫七郎が高橋家を継ぐとなれば状況は一変する。鎮信も孫七郎も大友の家臣として対等となり、活躍次第では思いのまま出世を望めるのだ。親として、こんなに嬉しいことはなかった。


この孫七郎こそ、後に紹運の名を号することになる高橋鎮種である。


「吉弘殿、よかったではござらぬか」

「うむ。めでたき話じゃ」


戸次道雪、吉岡長増ら同僚たちが次々と祝福の声をかけた。大友家中に於いては久しぶりの良い話だったので、その日はずっと孫七郎の話題で盛り上がった。酒も進み、皆が気持ちよく酔い痴れていた。当の本人は謙遜しているのか無愛想であったが、周りから酒を飲まされ続けると笑顔を浮かべるようになった。


「孫七郎。岩屋城には未だに鑑種めがおるが、遠慮することはない。誰が何と言おうともそなたが高橋家の当主じゃ。儂の決定に文句は言わせぬ」

「はっ。家名に恥じぬよう一心に努めて参る所存にございます」


宗麟直々の言葉に、鎮種は己の重責を噛み締めていた。更なる御家発展の為に力を尽くすことを約束する。


そんなよい雰囲気であった家中にも暗雲が漂い始める。上方で幕府方が勝利を収めたという報せが届き、火急の軍評定が開かれたのである。


「幕府が勝利したとなると、上方に兵を送っていた毛利が兵を引き揚げるは必定にござる。暫し時はかかりましょうが、何れは九州に増派してくることが予想されまする」


事態を重く見た戸次道雪が、今後の予測も踏まえて告げる。


「如何いたしましょう」


その上で鑑連が家臣を代表して主に訊いた。宗麟は二、三度ほど軍扇を手で鳴らして思慮に耽ったが、すぐに口を開いた。


耳目が、宗麟へと集中する。


「知っての通り当家は、幕府と敵対している訳ではない。むしろ幕府は儂の依頼で軍を動かしたわけであるから、味方同士であると申してもよい」


宗麟が確認するように問いかけると、皆は一様に頷きを返した。一時、武田信玄から九州の他で四カ国を与えると誘いがあったが、明確な返答は避けている。よって事実だけを述べれば、大友はずっと幕府方であったと言える。そのことに間違いはない。


「公方様は毛利に筑前の守護職を与えられたと聞く。これは儂に対する重大なる裏切りである」


宗麟は皆に言い聞かせるようにして、間を置きながら一言一句、丁寧に話していった。


伊丹・大物の合戦で破れ、謀反方に追い込まれた義輝が筑前守護職を餌に毛利を懐柔したのだというのが宗麟の見方である。まさか義輝が九州探題と守護職のいくつかを召し上げるつもりであったこととは夢にも思わない。よって大友と幕府の関係は思ったほど悪くはないというのが宗麟の認識だ。それがあったからこそ、今まで宗麟は毛利の背後に幕府がいることを判っていながら兵を退かなかったのである。大友側には九州探題という大義があるので、筑前を舞台に毛利と交戦するだけなら充分すぎる申し開きが出来ると思っている。


もっとも問題はこの大義は毛利のみと交戦している状況なら通じることであって、幕府と事を構えてしまえば失われてしまう。幕府が上方で勝利した以上、このまま毛利と戦い続けるのは如何にも拙い。


そこまで判っているのならば、宗麟の方針は一つしかない。


「幕府に毛利との調停を依頼する。条件は大宰府より南を大友の所領として認めること。また岩屋城に籠もる高橋鑑種の首を差し出すこと、その二点を約束してくれるのであれば、儂は兵を退こうと思う」


宗麟は毛利との和睦を決断した。


「されど御屋形様。鑑種の首を差し出すこと、必ずや毛利が異を唱えて参りましょう」


和睦の条件の二点目に、鑑理が疑問を呈してくる。


最初の条件は現状維持となるので幕府も受け容れやすいところであるが、二点目は難問に思えた。毛利の立場としては頼ってきた鑑種を見捨てるわけにはいかず、確実に幕府に反対を訴える。それでも宗麟が条件に含めたのは、将軍ならば認める公算が高いと思ったからだ。


「勝ったとはいえ上様が九州の事まで関わっていられる余裕はあるまい。鑑種の首一つで収まるのなら、毛利の訴えなど斥けるはずじゃ」


そう宗麟は断言する。驚くべきことに九州にいながらも宗麟は、幕府の現状を正確に見抜いていた。


重ねて言うならば、九州の大名たちは全員が一度は大友の膝に屈した者たちである。それらが毛利を後ろ盾に謀叛を起こした。その謀反を幕府が認めては、秩序は保てない。だからこそ幕府は受け容れると宗麟は見做している。ただ全員を問題にしては幕府も毛利も引くに引けなくなる。よって鑑種が生贄に選ばれるのである。この絶妙な機微を巧みに衝くところが宗麟の外交力の凄みであった。


「されを博多の奪還は諦めるのは、ちと悔しゅうございますな」


誰かがポツリと言ったことだったが、その意見には皆が同意しているようだった。そもそも大友と毛利は博多を領有権を争っていたのだ。博多を目の前にして和睦するのには抵抗があった。せめていま一戦して、博多を取り戻してから和睦するのではいけないのか。そう考えている者は少なくなかった。


「博多は幕府の直轄地となった。即ち攻め獲れば幕府との敵対を意味する。儂が直接に支配することは敵わなくなったが、それは毛利が支配することも敵わぬということだ。また九州に所領を持たぬ幕府が飼い慣らせるほど博多の豪商たちは簡単ではない。結局は儂を頼らざるを得なくなり、博多は儂の思うままに動く」


そんな家臣たちの感情を推し量り、宗麟は勝ち誇ったように告げた。


上方の合戦で博多が幕府に味方したのは幕府に屈したわけではなく、単純に儲かると思ったからである。博多の商人たちは大陸が近いこともあり、何処にも属さぬ自由を求める気質がある。その辺りは堺の会合衆に似ているところだが、決定的な違いは堺は幕府の所領の内にあり、博多は外にあることだ。その為に堺は少しずつ幕府に取り込まれていくだろうが、博多は独立を保つ。儲け話には食い付いてもそう簡単に幕府の威には従わないだろうし、それは毛利でも同じなはずだ。その点で宗麟には十年もの間、博多を治めてきたという実績があり、大友家は鎌倉以来四〇〇年近くも九州に根ざしてきた御家だ。この繋がりは何よりの強みだった。名目共に大友が博多を治める形が一番であるが、今の状況からすれば無理をして毛利と戦うよりは実を取った方がよい。


「されど筑前の半分を失うのは口惜しいですな」

「左様。毛利如きにくれてやるのは我慢ならぬ」


と家臣たちの間からは次々と不満の声が上がる。皆、宗麟の方針に理解を示していても、やはり毛利に所領の一部を奪われたという事実は消えないのだ。その不満の矛先を作ってやるのも当主としての仕事だった。


「領地を失ったのならば、違うところから獲ってくればよい」

「御屋形様、まさか……」

「うむ。和睦が纏まり次第、肥前へ攻め入る」


宗麟は次の標的に龍造寺隆信を定めた。


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六月某日。

伊勢国・大湊


伊勢国大湊は、東海一の商業地として有名である。東国から上がる年貢や伊勢神宮への奉納品など様々な物資の集積拠点として古くから栄え、今でも伊勢神宮への参拝客で賑わいが廃れることはない。また国司家による統治が長く安定して繁栄を築いていた。


その繁栄にも今年に入ってから陰りが見え始めた。伊勢北部では長島一向一揆が発生し、国司家の北畠具教が失地回復に向けて織田家と交戦し始めたのである。当初は北畠方が優勢だったので何も問題はなかったが、織田信長が尾張に帰還し、配下の滝川一益がやって来ると戦局は膠着、続いて美濃で武田信玄が敗れると志摩の九鬼嘉隆が織田方に味方して暴れ始め、大湊から人の姿が消えていった。


そして月が変わると上方で幕府方が勝利し、将軍は足利義氏ら一万を伊勢に派遣してきた。大湊の地は未だ北畠の所領であるが、既に具教は降参の意思を固めており、近いうちに新たな領主を迎えることになるだろう。町を支配する商人たちは顔を会わせる度に“誰が誰々が領主になる”と噂を囁き合っていた。


そこへ意外な来訪者が訪れた。その来訪者は僧侶の格好をしていたが、明らかな武士であった。知己の商人を訪ね、数ある廻船問屋の中でも一際、大きな門を叩いた。


「まさか松永様が訪ねていらっしゃるとは思いませんでした」


問屋の店主は来訪者の顔を見て驚いた。上方に戻っていることは知っていたが、最後に会ったのは六、七年ほども前に来訪者が三好家の家宰として権勢を誇っていた時代だった。


来訪者の名は松永久秀。謀叛方の実質的な総大将だった人物である。


「上方で謀叛方は敗北したと聞き及んでおりましたが、生きておいでだったのですね」


店主は久秀を店の奥へと招き入れながら、家人に誰も近づけないよう厳命した。正式な触れは出ていないが、久秀は罪人である。共にいるところを誰かに見られたなら、それこそ命はない。


「儂は敗れたわけではない。儂の策は完壁であったのだ。あそこで善住坊の奴が失敗しなければ、儂の勝ちは決まっていた」


久秀は今も義輝暗殺に失敗したことを根に持っていた。合戦は終始、自分で描いていた通りに進んでいただけに口惜しさは並ではない。こんなにも自分が惨めな逃亡を強いられるのは、全て善住坊が悪いと思っている。


そう思っていること自体が以前からすれば久秀らしくないのだが、今の久秀には気が付いていなかった。


久秀は義輝が火消しに奔走している隙に京を抜け出すと、近江へ抜けて密かに伊勢にまで逃げてきたのである。あの時ならば、まだ南近江も伊勢も謀叛方の版図であり、久秀の逃亡を妨げるものはなかった。伊勢まで落ち延びれば、ここから船で何処にでも行ける。久秀には堺によく顔を出していた大湊の商人にも伝手あり、それを頼れば船の一艘くらいは手に入ると思っていた。


「御用命でしたら船は御出し致しますが……」


その事を告げると、店主は了承を口にするものの表情からは決してよい感情が見られなかった。


「何じゃ。申したいことがあれば申せ」


お茶を濁した言い方に久秀は苛立ちを覚える。鋭く店主を睨みつけるが、それ以上のことはしなかった。久秀には後がない。全ての領地を失い、追われる身だ。また特別に多く金も持っている訳でもないし、従者も多く引き連れている訳ではない。いつものように脅して動かすといったことは出来ず、下手に出るという選択肢しか持ち得ない。


「今は特に難しい時期でございます。私どもが船を出せば、幕府に睨まれることになりかねませぬ。そうなれば商売がやっていけません」


大湊の商人たちは誰とも隔てなく商売をしてきたが、地理的な関係から一番の商売相手は北畠だった。幕府から見れば敵方に当たるわけで、先々を考えれば今は大人しくしているに限る。万が一にでも久秀の逃亡に手を貸したと判れば、取り潰しも免れない。今の幕府なら商家一つ潰すくらい平然とやるだけの力を持っているのだ。それならば、いっそのことここで久秀を……


(こやつめ。商人の分際で儂の命を狙うておるわ)


店主の邪な考えはすぐ久秀に看破された。


腹の探りあいで、天下を相手に政争を繰り広げていた久秀に一介の商人が勝てるはずもなかった。されど商人とはいえ用心棒の一人や二人は近くに抱えているだろうから、久秀を捕まえようとすればすぐに捕まえられるはずだ。


仕方なく久秀は、いったん間を置いてから理詰めで説得することにした。


「のう店主よ。そなたは商人であろう。商人は銭を儲けることが生業じゃ。違うか?」

「……左様でございますが」

「ならば銭儲けの一番は何か。それは合戦であろう?」

「……御尤もにございます」

「ならば世の中から合戦がなくなれば、商売の旨味が大きく損なわれることになるな。それを望むか」

「それは、私の口からは何とも申せませぬ」

「よいよい。わざわざ口に出さずとも、儂にはよう判っておる」


カカカと久秀は上機嫌に笑って見せた。無論、目が笑っていないことから演技であることは間違いない。


争いはよくないと判っていながら、商人たちは合戦を金儲けに利用している。兵糧や弾薬はもちろんのこと、武具甲冑の手配なども全て商人たちの飯の種になっている。しかも合戦が大きければ大きいほど旨味は増す。それは誰が否定しても変えられぬ事実であり、乱世での常識である。


そこを巧みに衝くことが久秀の狙いだった。


「よう考えてみよ。これから儂は、各地で幕府に抵抗する大名たちを纏めようと思うておる。さすれば合戦は続き、そなたは銭を儲ける。されど儂がおらねば、地方の大名たちは大した抵抗も出来ずに幕府へ屈することになろう」

「まさか。松永様ただ御一人で、そのようなことが出来るなど……」

「儂は一度、全てを失った。にも関わらず身一つで再起し、数万の兵を束ねる立場まで返り咲いた。地方の田舎大名を相手に同じ事が出来ぬと思うのか」

「…………」


店主が久秀の目をマジマジと見詰めていた。


大仰ではあるが、簡単に否定できないほどの実績が久秀にはある。元々何処の誰かとも判らぬ出自ながら三好長慶という大人物を御し、天下人にまで昇り詰めている。武田信玄が作り上げた謀叛方をいつの間にか乗っ取ったのも芸当からすれば見事に尽きる。地方大名は中央政権に乗り遅れたことから焦りを持つ者は少なくはない。中央の内情に精通している久秀を頼りとする者も一人くらいはいるかもしれない。そうなれば、また大戦が起こる可能性は充分にある。実際、合戦から遠ざかっていた京畿で再び合戦が起きた時は内心で喜んだものだ。それが再び起こるというのなら、危険を犯してまで手を貸す価値はあるに思える。


そんな打算が店主の頭の中を駆け巡っていた。それを見て久秀は、もう一息と思い最後の選択を店主に迫った。


「要はどちらを選ぶのかということじゃ。合戦のない世で細々と生きるか、大利を求めるか、だ。されど儂が申すのも何だが、合戦が世からなくなれば商家の半分は潰れるぞ。果たしてそなたには生き残っていく自信はあるかな」


久秀は扇子を広げて自らを仰ぎながら、悩む店主を見下ろしていた。口ではどちらを選んでも構わぬみたいなことを言っておきながら、相手に一方の選択を強要している。命令するのではなく、自ら結論を出させることで、こちら側に取り込もうしていた。


そして店主が口を開いた。


「……船を御出し致します」

「うむ。流石は店主殿じゃ。よい買い物をしたのう」


久秀は仰いでいた扇子を音を鳴らすようにして閉じるのを合図に交渉の終わりを告げた。その口元は怪しく緩み、思考は既にどうやって地方大名を纏めるかに変わっていた。


またしても久秀は、義輝の目から行方を暗ませたのである。




【続く】

今回は初の二万字を突破してしまい、投稿が遅れてしまいました。書かなければいけない人物が多く、長くなってしまいました。これでも北条など未だ描いていない大名家があるので、まだまだ大変です。


まとめると以下の通りです。


本願寺は和睦目的に抗戦続行。

武田は和睦は不可能なので、抵抗を続ける。

今川は目論見が外れたので和睦を模索。

大友は即座の和睦を前提に版図拡大を求めて方針転換。

久秀はしぶとくも再戦を画策して何処か地方へ逃亡(西か東かも不明)


ということになります。


私なりの見所と致しましては高橋紹運が誕生したことでありますが、話の流れからして立花道雪は誕生しません。ただ読者にわかりづらいので、まもなく道雪に改名しようかと思っています。当の本人も史実では立花姓を名乗っていませんし、可笑しな展開ではないと思います。


さて次回は義輝に視点が戻りますが、今回信玄がちらっと思っていた信長の行動を主に描いていきます。散々に伏線は張っていたので気が付いている方もおられるかと思いますが、信長という人物は謙信とは違うということです。


※10/29戸次鑑連の名前を道雪に修正しました。私の勘違いで道雪が改名前と思っており、間違えた次第です。既に宗麟が出家した際に改名済みであり、そのことを失念しておりました。


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