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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第四章 ~忘恩の守護大名~
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第五十幕 将軍家の誇り -義昭、最後の戦い-

六月二日。

山城国・勝龍寺城


山崎の合戦は謀叛方の敗北に終わった。正確には今も合戦は行なわれているのだが、既に結果は見えている。もはや謀反方に挽回の余地はなく、恥を忍んでの降伏か、華々しく討ち死にか、潔く自害するかの何れかを選択するしか道は残されていない。畠山昭高と安見宗房は諦めて降伏したが、無人斎道有と松永久通、真木島昭光は勝龍寺城まで後退して抗戦の意思を示している。


呆気ないといえば、呆気ない。謀叛方が意地を見せたのは蒲生賦秀を敗退させた程度で、後は完全に兵力で勝る幕府方に押し切られて終わった。何も不思議ではない当然の結果、それが山崎の合戦だった。


幕府方の総大将・足利義輝に後事を任された細川藤孝は、幕府方の凡そ半数を燃え盛る洛中へ急行させ、四国勢と滝川益重で勝龍寺城の攻略に着手した。兵糧攻めなどは考えていない。そんなものは敵に時間を与えるだけで、無駄に犠牲を増やすだけ。こういった場合は単純であるが、余勢を駆って落してしまうに限った。


しかし、城方の戦意はまるで敗北したのを忘れているかのように高く、最初の攻撃は失敗に終わってしまう。


「まもなく将軍が死んで敵方に動揺が見られよう。その時こそ、我らが反撃に出る好機ぞ」


その城内では道有が“将軍が死ぬ”と言い切って味方を鼓舞していた。何故かまでは説明しないが、道有の戦歴が言葉に真実味を持たせている。追い込まれた謀叛方としては道有に頼るしか術はなく、皆が皆、一も二もなく道有の言に従って抵抗した。


(何なんだと言うのだ)


対して城を囲む細川藤孝は異様な感覚に捉われていた。まるで自分の方が敗者で追い詰められているような不思議な感覚は、“有り得ない”と頭の中で否定しても何度も蘇ってきた。藤孝は何か見落としているのではないか。自分は何かとんでもない間違いを犯しているのではないかと考える。


(松永弾正は京を焼いたが、なぜ焼く必要があったのだ?京を焼いたところで何の意味がある)


どう考えても不利益しかない行動である。三国志で諸侯の連合軍に追い込まれた董卓が漢の都だった洛陽を焼いて撤退したことがあったが、それは董卓に長安という旧都が残されていたからだ。もう久秀には退路はなく、近江へ逃げたところで織田軍に勝てるはずもない。京を焼く理由としては弱い。


(敗北して気でも振れたか)


とも思うが、自分の知る松永久秀はそのような人物ではない。常に冷静沈着で、相手を掌に乗せてほくそ笑んでいるような悪趣味な輩だ。それでいて無駄なことを絶対にする男ではない。京を焼くという行為には必ずや意味がある。藤孝は京が焼かれて此方側が行なった行動をもう一度思い返した。そして、ある事に気付く。


(まさか!?)


咄嗟に黒煙が立ち昇る方角を見た。義輝が向かった、その先を。


「上様が危ないッ!!」


藤孝の叫びは、虚しく大地に響いた。


=======================================


京・神泉苑


いま洛中は炎に包まれている。その勢いや凄まじく、幕府軍の兵が火消しに奔走しているものの一向に消える気配はなく被害は広がる一方であった。過去に何度か戦火に遭っている京の都だが、源平合戦でも応仁の乱でもここまで燃えたことはない。当たり前だ。以前は合戦の余波を受けて燃えたのであって、今回のように京を燃やすこと自体を目的としていない。燃やすことが目的である以上、京は徹底して燃やされた。


「なんという有様じゃ」


都の変わり様に義輝は愕然とした。これが自分の治めていた京の都なのであろうか。貴族の邸宅や寺院、町人の住む長屋からあらゆるものを炎に飲み込まれていく。逃げて来る人々の顔は例外なく煤色にまみれており、中には皮膚が焼け爛れた苦しみで呻き声を洩らしている者もいる。まさに地獄絵図だった。


いま義輝は大宮大路を進んでいる。脇に見える神泉苑を通り過ぎて土御門大路を右手に曲がれば目的地である内裏へと辿り着く。妻子のいる二条城へ向かいたいところだが、朝臣として、征夷大将軍として帝を救わなくてはならない。我が身に圧し掛かる役目の重さを肌で感じつつ、義輝は道を急いだ。


「しょ……将軍様ぁ!儂らの家が……家が焼けてしまいました!どうか、どうかお助け下さいませ……!!」


義輝の姿を見知っている者が、まるで神仏に縋るようにして助けを求めてくる。未だ合戦の結果が伝わっているわけでもないのに、皆が皆、義輝こそが守護者だと信じて疑わなかった。彼らは知っているのだ。永禄八年以来に義輝が治めていた都の平和を。そして戦いのない乱世の終焉を求めていた。


「ほら行軍の邪魔だ。どけ!どけ!」


そんな彼らを兵たちは無情にも押し退けた。普段は仕方のないことだと割り切る義輝であるが、この時ばかりは流石に怒りを露わにした。


「止めい!」


義輝が一喝する。


「も……申し訳ございません」


主の怒声に驚いた兵たちは、揃って額を地面に擦りつけて謝罪の言葉を口にした。合戦の最中ということもあり、義輝の形相は鬼かと見間違うほど恐ろしく、民衆は兵たちが斬られるものだと思った。


「余が戻ったからには、もう案ずることはない。いま暫くの辛抱ぞ。必ずやお前たちの家を元に戻してやる」


しかし、義輝はそれ以上、兵たちを叱ることはなく、民の傍まで駆け寄って都の復興を約束した。民衆は感動して平伏し、義輝の行軍を見送った。


そんな中、義輝を狙っている者がいた。宿敵・松永久秀と杉谷善住坊である。神泉苑内に伏せ、義輝が通るのを今か今かと待っていた。


「……将軍を捉えた」


枝木の間から善住坊が義輝の姿を確認する。


既に銃口は義輝へ向けられていた。後は距離が縮まれば引き金を引くだけである。ここまで来れば、鉄砲を撃たせれば百発百中を誇る善住坊には仕事を終えたも同然だった。善住坊にとって大事なのは義輝に命中させられるかどうかではなく、義輝が己の目の前を通るかどうかである。それは松永久秀の手によって成し遂げられている。


「後は貴様の仕事だぞ。絶対に一発で仕留めよ」


一方で善住坊に指図する久秀の顔は、少し強張っていた。らしくない姿だ。


これが最後の策だった。久秀の生涯に於いて、ここまで危機に陥ったことはなく、我ながら追い込まれていると思う。しかし、ここで義輝を殺せば何もかもが引っくり返る。幕府方はいくつかの勢力に分裂し、謀叛方は義昭を将軍に据えて官軍となる。武田信玄などは破れかぶれの一策と笑うやもしれぬが、それこそ本質を捉えていない愚か者の考えと思う。


(邪魔な将軍は殺してしまうに限る)


半将軍と呼ばれた細川政元は、十一代将軍・義澄を擁立して十代将軍・義稙を追放した。明応の政変と呼ばれる事件だ。首尾よく天下の権を握った政元であったが、各地で叛乱が相次ぎ、対応に追われることになる。最期には自分自身が家督争いに巻き込まれて暗殺されたのは皮肉でしかないが、全ては義稙を殺さなかった所為であるとも言えた。義稙は西国最大の雄・大内義興の後援を受けて義澄を京から追放し、将軍職へ返り咲く。これは後に義輝が将軍職へ再任される前例ともなった。義稙は新たな管領に政元の養子・細川高国を任じたが大永元年(1521)に再び義稙は追放され、十二代将軍に義輝の父・義晴が就任する。義稙は復権を諦めず、逃亡先の阿波で挙兵に及び、戦乱は三好征伐によって義稙の子・義冬が義輝と和解するまで続くことになった。彼らの失敗に共通するのは、対抗馬となる足利公方を残したこと。義稙が義澄を破り、それを義晴が追放する。義輝は義稙が最初に将軍職を継いだ延徳二年(1490)以来、実に五十六年ぶりに父・義晴から正式な形で将軍職を譲り受けたが、決して政権が安定していたわけではない。阿波公方家の勢力は依然として存在し続けており、一時的に将軍勢力が京を失っていた際には幕府の実権を握っていた時期もあるほどだ。


こうして大名たちが己の権益を求め、将軍に相応しい公方を擁立し続けた故に天下が定まることはなかった。戦国乱世と呼ばれる所以である。


だが久秀は違った。それは永禄の変で久秀が義晴の系統を全て殺そうとしたことからも判る。武家は血筋こそ大事で、対抗馬がいなくなれば抵抗する勢力は一つに纏まることもなく、各個撃破されていくしかない。それを理解していても実行に移せない三好長慶や武田信玄は、久秀は天下に号令できる器ではないと思っていた。


今その瞬間が目の前に迫っている。最後の一手を自分の手で行なえないことだけが不安要素だが、役者は用意した。


「やれ」


後は実行あるのみである。


「……ふん」


善住坊は久秀を一瞥すると、思わずニヤリと笑った。


常人ならば将軍殺しの汚名は嫌うところだろうが、善住坊は違う。天下に己の名を轟かす好機としか考えていない。その為ならば、将軍だろうが帝だろうが関係なく殺す。既に脳裏には放った弾丸に撃たれて絶命する義輝の姿がはっきりと浮かんでいる。失敗など考えられなかった。


そして義輝が射程に入った。瞬間、善住坊の眼が変わった。まさに兎を狩る虎のように、鋭く標的を睨んでいる。義輝の眉間、その小さな一点に全神経が注がれていた。


そして引き金にかけていた指に力を入れる。


(ハッ!?)


突如、善住坊は自分が撃ち抜かれるような感覚を味わった。善住坊が引き金を引くその刹那、義輝がこちらを見たからだ。まるで自分が狙っていることが判っているかのように、はっきりと視線が交差した。


しかし、力を入れた指を止めることは敵わずに引き金は引かれ、銃弾は発射される。


ダーン……!!と一発の銃声が轟く。


「上様ッ!?」


近習の一人が悲鳴を上げた。銃声と共に義輝が馬から落ちたことで、撃たれたのだと思ったのだ。


「狼狽えるなッ!弾は当たっておらぬ!」


義輝は着地と同時に身体を回転させて立ち上がり、素早く太刀を抜き去った。張りのある声を上げ、大仰に両の手を開いて無事であることを強調する。


信じられない程の反射神経であるが、それ以上に誰もが気付かなかった善住坊の存在に義輝が気付いたという方が驚きだった。鍛え抜かれた心眼と云うべきか、はたまた研ぎ澄まされた感性が成せる業か、ともかく神業の域であるために言葉で説明するのは難しいが、塚原卜伝と上泉信綱から教えを請い、奥義を極めて幾多の死線を生き延び、極限まで昇華された剣才が、集団の中から向けられた僅かな気配を察知することさえも可能とした。そう理解するしかなかった。


そして狙われていることを知った義輝は、一か八かと馬を飛び降りて事なきを得た。


「上様を囲え!囲うのじゃ!」


馬廻衆・吉岡直光の指示で兵たちが義輝の楯となるべく集まる。また吉田重勝は銃声のした方角へ弓を向ける。敵は一人とは限らない。次があるかもしれず、敵から義輝を隠す必要があった。


その敵である善住坊はどうしていたのかというと……。


「……外した!?俺が外したのか……」


失敗を受け容れられないといった様子の善住坊は、手は震えわせて唇は青ざめていた。先ほどまでの自信は嘘のように消え去っている。これは彼が一流だったからこそ、であった。外すこともある程度の腕前ならば、外れたことに驚いたりはしない。外さないと判っていたからこそ、外れたことを受け容れられずにいる。


「何をやっておる!もう一度狙わぬか」


そんな善住坊を久秀は叱りつけた。


久秀にとっては外れたでは済まないのだ。予備として用意していた火縄銃を善住坊へ渡し、再度の暗殺を命じる。今ならば、義輝の姿が見えている。今ならば“まだ間に合う”と必死に自分へと言い聞かせていた。


「くそッ……!!」


善住坊は慌てて鉄砲を構えた。落ち着いて狙っている暇はない。早撃ちだ。それでも相手を殺すだけの技量を善住坊は備えている。何度も何度も突然に現れた猪や野鳥を一発で仕留めてきた善住坊にとって、早撃ちは大きな問題ではない。問題は、善住坊が平静心を失っていたことの方だ。


再び銃声が鳴った。放たれた弾丸は真っ直ぐに義輝へ飛んでいく。今度は義輝が止まっていたこともあって見事に命中“は”した。


「うぐッ…・・・」


義輝が表情を歪め、脂汗を流す。


当たったのは左大腿部だった。重傷ではあるが、急いで止血すれば出血も抑えられるだろうから、命に関わる傷ではない。そして兵たちが隙間なく義輝を囲み終える。二発の弾丸を潜り抜けたことで、義輝は窮地を脱したのだ。


「上様。すぐに手当てを致します」


吉岡直光が心配して駆け寄って来る。それを制止し、義輝が命令を下す。


「余の事はよい。それよりも下手人を探せ。余を狙った者は必ずや久秀に繋がっておる。絶対に逃すではない」

「は……ははっ!」


痛みに堪えながら、義輝は不覚を取った己を責めた。


(しくじったわ。まんまと久秀の策に嵌まるとは……)


東寺で住職の話を聞いて、久秀との決着は二条城で行なうものとばかり考えていた。それが間違いの元、そもそも常識が通じない相手を量れるはずがなかったのだ。量れないのなら、いつ如何なる時でも警戒を怠るべきではなかった。


(しかし、余の勝ちだ)


その上で義輝は勝利を手にしたことを知る。


真柄直隆の奇襲と違って直接に自分の命を狙ってきたことから考えれば、久秀の策はこれなのだろう。流石と褒めるつもりにはなれないが、本質を見抜いているという点では久秀の能力の高さは謀叛方随一と言えた。武田信玄であっても“将軍を殺す”という領域にまで踏み込めなかったはずだ。


自分は殺されない。そう高を括って失敗した足利公方がどれ程いたか。そういう意味では、容赦なく殺しに来る久秀は最大最強の敵と言えた。


その久秀に、義輝は勝ったのだ。


=======================================


京・二条城


謀叛方の本拠または京の政庁である二条城は、炎上する都を前にしてまったく機能していなかった。本来は詰めているはずの幕臣の姿もなく、久秀が京の治安を守るために置いていった兵も我が身かわいさに一人残らず遁走していた。三淵藤英の他に幕府方に近い者たちが僅かに残っていたが、何をするにしても人手不足だった。また二条城は上京と下京の中間に位置し、周辺の建物も少ないことから民衆が大挙して押し寄せて来ていた。


「慌てずともよい。城の中におれば安心じゃ」


藤英は民衆を落ち着かせるために声を掛けて回る。


「動ける者は手を貸してくれまいか。城に火が移らぬよう周りの家を打ち壊す」


と同時に少しでも人手を集めるべく奔走していた。しかし、これは表向きである。藤英には、何としてもやらなければならないことがあったのだ。


それは御台所ら義輝の妻子を救出することである。


「ともかく近衛殿下と繋ぎを取らなくては……」


予てより御台所らの救出には関白・近衛前久の協力を仰いでいる。前久は御台所の兄に当たるので、助力には協力的だった。段取りこそ藤英に委ねられているが、人手の手配は前久に頼るしかない。


(急いでくれ……)


久秀が二条城を放棄した今が好機だった。前久の手の者が到着すれば、即座に城を出られる。既に町の長老たちにも話を通し、自分が抜けた後は城内を好きに使って貰って構わないと伝えてあった。


しかし、戻ってきた使いが告げたのは近衛邸の崩落だった。近衛邸は火元となった旧三好長慶邸に近く既に全焼していたのである。前久の所在も知れなかった。


「ならば御所じゃ。殿下が生きておられれば、そこにいるはずじゃ」


それでも藤英は慌てない。続いて使者を内裏へ走らせる。幸いにも二条城から内裏は近く、使いの者はすぐに戻ってきた。前久は内裏にいたらしいが、藤英の期待は大きく裏切られてしまう。


「近衛様は内裏へ避難されておりました」

「そうか!御無事であられたか」

「されど帝が動座されるかもしれず、此方へ手は貸せぬとのこと」

「動座……じゃと!?」


藤英はガックリと肩を落とした。


帝の動座と言われたら返す言葉はない。何処に動座されるかという問題はあるが、関わっている暇がないもの事実である。ここに至っては行動あるのみと割り切るしかなかった。藤英が集められる人数は十人程度で御台所の護衛には圧倒的に足りないが、待っていても事態の改善は望めないのは判り切っている。もう無駄に時を過ごすことは許されない。


「御台所様。大和守でございます」


藤英は前久の協力が得られないと判ると、すぐに御台所の部屋を訪れた。


「三淵殿?……お入りなさい」


侍女の一人が襖を開け、藤英を部屋へと招き入れる。


「復帰されたとは聞いておりましたが、こうして訪ねて来られるとは思っておりませんでした」

「御迎えが遅くなり、申し訳ございません」


藤英が謝罪を口にして、顔を上げる。


御台所は凜として佇み、不安な様子を隠しきれない侍女たちと違って落ち着いた様子だった。流石は義輝の妻である。そして、藤英の視線は御台所の腕に抱かれている一人の赤子に集中した。


(……若君様)


赤子は母の腕に抱かれ、あどけなく笑っていた。それを見て、思わず涙が出た。


大望の男子が目の前にいる。この命を賭して守らなければならない対象であり、その小さな背中には将軍家の未来を懸かっている。何れ自分は、この子の前で平伏することになるだろう。だが今は……。


「急いで城を出ます。すぐに御支度を……」

「何処に避難するのですか」

「当初は上様と合流する予定でしたが、この混乱では不可能です。よって志賀越にて近江へ抜けます。その先は……」

「朽木谷ですね」

「はっ。左様にございます」


藤英は冷静な御台所に大きな安堵感を覚えた。


朽木谷は将軍家の避難所である。先代の義晴公や最近では永禄の変で京を追われた義輝が一時的に身を寄せていたことがある。三好征伐後に朽木谷のある近江高島郡は浅井家の所領に宛がわれたが、朽木谷だけは今も幕府御料地として残っていた。女子供の足では大変だろうが、近江まで出てしまえば安全だろうし、最悪の場合は勢田にいる京極高吉を頼ろうとも藤英は考えていた。高吉は謀反方に与した不届きものだが、将軍家の者に手を出すほど無法者ではない。御台所の安全は約束してくれるだろう。


「重ねて御台様に御願いがございます。鶴ノ方様らも御連れしたいのですが、宜しいでしょうか」

「よくぞ申してくれました。三淵殿が仰らなければ、私の方から御願いしようと考えていたところです」


御台所は侍女を義昭の室である鶴ノ方の部屋へ向かわせると、自らも身支度を始めた。時間がないのは判っているため、すぐに準備は整った。


「御待たせしました」

「では、こちらへ」


御台所が若君を侍女に預け、藤姫の手を引いて藤英の後を追う。一行が本丸を出たところで鶴ノ方らと合流して大手門へと向かうが、城を脱出しようとした時、武装した一団に進路を遮られてしまった。城には殆ど兵は残っていなかったので、藤英には彼らが城の外から来た者たちだと判った。


「くそッ!」


刀を抜き、構える藤英。義輝に何度も稽古に付き合わされた御陰で、並みの者には負けない自信はある。遮二無二斬り込んで血路を開き、御台所たちだけは逃がしてみせるつもりだった。


「待て、和州」

「義昭様!?」


そんな藤英を一言で収めたのが足利義昭である。一団を率いていたのは、山崎へ出陣したはずの義昭だったのだ。


「姉上たちを逃がすか」

「こ……これは……」


藤英は罰の悪そうに義昭から視線を逸らした。


義昭は追い詰められ、最後の望みを懸けて藤英を復帰させた。前もって主は義輝だと告げてはいるが、藤英にとっては今も義昭は将軍家一門という認識が強い。その義昭を裏切ってしまったという想いから藤英は義昭の目を直視できなかった。


「よい」


それを義昭は笑って許す。


「余も姉上らを逃がすために戻ってきたのだからな。急げ、久秀が姉上らを狙っておる」


驚いたことに義昭は藤英の行いを許しただけでなく、御台所の脱出を見逃すという。


「……何故に」


そう藤英が思ってしまうのも無理なからぬことであったが、義昭にとっては単純なことだった。


「余は負けた。完膚なきまで兄上に負けたのだ」


義昭の視線は虚空へ向けられている。そこから気力というものは欠片ほども感じられなかったが、言葉は不思議なほど穏やかだった。


「されど余の敗北は、将軍家の滅亡を意味するものではない。我が子が、兄上の子が生きている限りは脈々と受け継がれていく。決して滅びぬ。その想いは和州、そちとて同じことであろう」


そう言って義昭は藤英の後ろにいる自分の妻子の姿を見た。藤英が二人を連れていることこそ、想いが同じである証だった。藤英が義輝のことだけを考えているのなら、義昭の妻子は見捨てていけばいい。それをしなかったのは、やはり義昭と想いを同じくするからだ。


義昭が馬を降り、二人の許へ近づいていく。


「鶴、すまんな。お前たちのこと、最後まで面倒みきれなんだわ」


義昭が優しく語り掛ける。これが今生の別れになることが判っていた。鶴ノ方は泣きながら夫の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らす。


「この先、私たちはどうすればいいのでしょうか」


か細く、震えた声だ。


鶴ノ方は将来に不安しかなかった。夫は謀叛の罪に問われることは間違いなく、実家の敦賀朝倉家も既にない。父も兄弟も夫さえも失って、どう生きていけばいいのか判らなくなっていた。


「如意丸がおるではないか。そなたが立派に育てずして、何とするか」

「ですが、如意丸とて……」


鶴ノ方の眼は虚ろだ。如意丸は謀反人の子である。女児ならばともかく男児であれば死罪が当然である。唯一の子さえも失った時、生きる気力を保てるかどうか鶴ノ方には自信がなかった。


「案ずるな。兄上のことじゃ。そなたも如意丸も無碍に扱いはせぬ」


そういう確信が義昭にはあった。


政策では対立しても、幕府の再興させるという目的まで相反したわけではない。義昭と義輝の根底にあるものは、まったく同質のものである。二人の子だけが将軍家に残された希望なのだ。それを兄が自ら消すとは思えない。義昭も、兄の子には手を出さなかったのだから。


「義昭様も共に……」


藤英は義昭にも脱出を促す。とても放っては行けなかった。義輝の妻子を助けたという実績があれば、命だけは奪われずに済むかもしれない。一縷の望みだが、懸ける価値は充分にあると思った。


「ならぬ。先ほども申したが、久秀が姉上らを狙っておる」


藤英の願いを義昭は一蹴した。


何処で知ったわけではないが、義昭には久秀が襲ってくるという確信があった。あの久秀が京に火を付けただけで終わるはずはない。あれは将軍家に仇なす存在、義輝の命はもちろんのこと味方であるはずの義昭にすら平気で牙を剥てくる。とすれば、狙いは二条城にいる将軍家一門しか考えられなかった。ならば自分が楯となり、将軍家を守る。そう決意を固めていた。


「余が時を稼ぐ。大した人数は連れておらぬが、和州らが逃げる間くらいは持たせられよう」


義昭の表情は、既に覚悟を決めた男の顔だった。ここで引き止めるのは、無粋というもの。心残りは、ここで義昭という男を失ってしまうことだ。


(御立派になられた)


本心で、そのように藤英は思った。


この半年ばかりの出来事が、義昭を大きく成長させていた。義輝の下で経験を積んでいる晴藤さえ、こうはいかないはずだ。


義輝だけが目立っているが、、元々義昭は兄に負けず劣らず聡明なのだ。武術の才では及ばないかもしれないが、頭の回転の速さでは義昭の方が上かもしれない。それが独り立ちし、乱世の厳しさに晒されたことで一気に化けた。もし義昭が義輝の弟ではなく、何処か平和な時代に足利家の嫡流に生まれていたとしたら、時代に名を残す将軍となったことと思う。それが残念でならなかった。


「承知仕りました」


藤英が深く、深く頭を下げた。


「幕府がこと、将軍家がこと、兄上に全て託すと伝えてくれ」

「……必ずや御伝え致します」

「ならば早う行け。一時の迷いは、後悔しか残さぬ」

「はっ」


その後、義昭は手勢から五〇を割いて藤英に預けた。これらは元は藤英が集めた兵であるために指揮には何も問題はなかった。藤英は別れ際に一礼すると、御台所らを連れて東へと去って行った。


義昭は藤英を追う様にして二条城を出て近衛大路を東へ進み、七口の一つ白河口を固めた。ここを抜かれなければ、藤英らを追うことは出来ない。ここで一刻でも多く時間を稼ぐつもりだった。


「……来たか」


目の前に近づいてくる集団の軍旗は蔦紋。間違いなく松永久秀の手勢である。正確な数は判らないが、一〇〇〇は下らなく思えた。こちらは半数以下の四五〇しかおらず、部隊を直接に指揮する経験も殆どない。勝敗は、戦う前から見えていた。


松永勢は満足に矢合わせもせず、いきなり長柄を突撃させてきた。それだけに余裕のなさが窺えたが、義昭にとっては遠距離戦で時間を稼ぎたかったのが本音だった。仕方なくこちらも長柄で対抗する。


「怯むなッ!防げッ!防げーッ!!」


義昭は力の限り叫んだ。合戦で出来ることといえば、それくらいしかなかった。叫ぶことしか出来ないからこそ、喉が破れるほど全力で叫ぶ。


松永勢の猛攻に義昭勢はあっという間に数を減らしていく。相手が強かったのではない。義昭が弱すぎたのだ。俄作りの備えは簡単に突破されて陣形は崩れ、手勢は義昭を包むようにして追い込まれていく。戦の流れを変えてしまうような勇将は、義昭勢に一人としていなかった。


「上様!これまでにございます」

「これしきで動じるな!まだ大して時を稼いでおらぬぞ!」


退避を訴える側近・一色昭秀を威勢よく叱り付けたが義昭であるが、軍配を握る手は震えている。味方の兵は皆、重なり合うようにして倒れている。増える屍を見て逃げ出したい衝動を堪えているのは、皆が同じだった。


義昭の傍にまで矢が飛来した。一本といわず、二本、三本と矢雨は容赦なく降り続ける。いつ自分に突き刺さるか判らない恐怖に唇を噛み締めながらも義昭は動かない。一色昭秀、畠山昭賢、飯河信堅、上野秀政ら側近衆が次々と討たれていく。普段は金魚の糞のように付きまとっている彼らも一人として逃げ出すことなく最後まで戦い抜き、命を散らした。その能力はともかく彼らの忠義心は本物だったのだ。


義昭の間近にまで敵が迫ってくる。咄嗟に太刀を握るが、自ら刀を振るって戦うような真似は義昭は出来ない。やれることと言えば、その刃を自分へ向けることだけ。武士として立派に自害して果てるしかない。


(この無様な抵抗が、将軍家の存続に役に立てればよいが……)


そう願いつつ、義昭は現世に別れを告げる。その時だった。


松永勢から大きな喚声が起こった。ふと義昭が視線を移すと、屈強な集団が松永兵を斬り倒しているのが見えた。僅か十数人にであったが、その強さは尋常ではない。まるで集団が一筋の矢と化したかの如く、松永勢を食い破っている。


「義昭様!?」


集団の頭目らしき男が義昭の姿を見て、驚いていた。


「兵庫介か!」


相手が此方に気付いたように、義昭も頭目が誰であるかに気が付いた。義輝の馬廻衆筆頭・柳生宗厳である。


「何故に兵庫介がおる」

「それは此方の台詞です。まさか義昭様が松永勢と戦っておられるとは……」


宗厳はこんなところに義昭がいるとは思わなかったが、そもそも御台所らの救出が任務である宗厳が此処にいるのも不自然である。


義輝の命令で二条城へ向かった宗厳であるが、いざ着いてみると民衆が避難しているだけで武士の姿は殆ど見られなかった。御台所はおろか藤英の姿すらなく、周辺を捜索しているところで行軍する松永兵を見つける。後を追ってみると松永勢は何者かと戦闘中であった。松永勢が戦う相手であるからして、宗厳にとっては味方である可能性が高い。しかし、まだ味方の軍勢は此方まで到達していないはずだ。


(もしかしたら大和守殿かもしれぬ)


残された可能性からそう推察して斬り込んでいった宗厳だったが、予想は外れて部隊の指揮を執っていたのは意外にも義昭だった。


いまいち状況が掴めない宗厳に対し、義昭が事情を察するのは早かった。


「兵庫介の目的は兄上の御子であろう。ならば余に加勢せよ。ここを突破されれば、姉上らが危うい」

「しょ……承知!!」


まるで義輝に命令されたかのようにして、宗厳は義昭の下知に従った。


柳生の加勢を得て、義昭勢は息を吹き返した。宗厳の門弟たちは一人ひとりが桁外れに強く、一人で数人を相手にするくらい造作もなかった。宗厳に於いてはバッタバッタと気持ちがいいくらいに刀を振る度に敵兵をあの世に送る。僅か十数人で松永勢を後退させるという離れ業を見せた。


「うおおおおーーッッ!!」


宗厳が正眼に太刀を構え、吼える。鬼のような気迫は、周囲の空気を震えさせた。その空気に触れただけで斬り刻まれるような鋭い気配に松永兵はたじろいだ。まさに剣の結界と言えるものが、そこには存在した。


「う……あ……」


柳生の名は松永に広く知れ渡っている。何せ宗厳は元松永家臣、その腕前を知る者は多い。兵たちは浮き足立ち、宗厳を前に一人、二人と後ずさる者が現れて松永兵の士気は低下していった。


そこへ新たな集団が襲い掛かる。今度は十数人という規模ではない。松永兵と同等か、それ以上の軍勢が背後から襲ってきたのだ。松永勢は鎧袖一触とばかりに蹴散らされた。


「何が起こったのだ」


義昭は訳も判らずに立ち尽くす。隣では宗厳が率いる将が誰であるか判っているらしく、片膝をついて頭を垂れながら登場を待った。


「……兄上」


義昭の口から言葉が漏れる。


兄弟の再会であった。




【続く】

さてさて遂に五十幕まで来てしまいました。四章の第一幕を投稿したのが去年の八月九日ですので、一年と少しの期間を四章に当てていたことになります。長いですよね。まったく。


というのも今回を以って四章は終了とさせて頂きます。次回は義輝と義昭の対面となり、その別れを最後に新章が始めるというわけです。最初の方は合戦後の義輝を取り巻く状況や義昭の敗北によって各地がどのように影響されていくかを描くことになります。今のところ五章四幕あたりで話を整理する回を設けたいと考えております。そこで諸大名の配置や以前に要望もあった官職の序列など明記したいと考えております。


ちなみに次章は“元亀争乱”と題し、謀叛方の残存勢力との戦いを中心に描くことを予定しています。長さでは三章より少し短い程度になると思っています。(まあ書いてみないことには判りませんが……)

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