第四十九幕 天魔の悪行 -狙われた義輝-
六月二日。
山城国・山崎
開戦から二刻(四時間)が経過した。
狭隘な地形を有す山崎は、大軍の展開は不向きである。それ故に合戦は、円明寺川と天王山の二つに絞られて行なわれていた。
「進めッ!臆せず進めーッ!」
侍どもが必死の形相で号令する。そんな悲鳴にも似た喚声が、戦場の至るところで聞こえていた。円明寺川は血で赤く染まり、天王山には見るも無残な屍がそこら中に転がっている。仲間が、友が、兄弟が倒れたとて振り返ることも許されず、ただただ前に進むことだけが彼らには許されていた。
そんな合戦もいよいよ佳境へと突入する。
兵力に劣る謀叛方は蒲生賦秀が敗退せしめて攻勢を強めるが、宣教師ガスパル・ヴィレラの働きによって切支丹の高山友照が幕府方へ寝返った。将軍・足利義輝は寝返りが起こった右翼への追加投入を決め、柳沢元政を先頭に細川藤孝に支援させる。謀叛方全軍の指揮を執る無人斎道有は、畠山昭高を細川勢へ当て、勝龍寺城に在する足利義昭も側近の真木島昭光を独断で送り出す。これにより右翼は再び膠着状態となるが、義輝の狙いは最初から左翼の突破にあった。敵の注意を右翼へ逸らしたのである。
「全軍に“各自、速戦を尊ぶべし”と通達せよ」
予備兵力を全て投入する総攻撃が敢行される。一挙に敵陣を突破し、京へ雪崩れ込む。電光石火で二条城を占拠して御台所らを救い出す。丹波口に進ませている晴藤にも同様の命が下っているが、失敗する可能性もある。義輝は妻子救出に二重の策で挑んでいた。
「上様の督戦ぞ!ぼやぼやするな!前進して敵を蹴散らすぞ!」
義輝の本陣が前に進んだことにより、各将の勢いは増した。嫌でも前に進まざるを得ず、犠牲を省みず無謀にも等しい突撃に突撃を重ねていく。多くの者が渡河する最中に雑賀・根来衆が放つ鉄砲の餌食となったが、何も義輝は考えもなしに命令を下したわけではなかった。この状況は、すぐに解決されるのだ。
円明寺川での激闘は苛烈を極め、一進一退の攻防が続いていた。特に雑賀・根来の鉄砲衆の弾丸の壁は厚く、幕府方の先陣・蒲生賦秀が雑賀孫一の前に敗走している。その後、蒲生隊の代わり御牧景重を出撃させて戦線を支えるが、謀叛方は依然として攻勢を強めており、一兵たりとも幕府方は川を越えることはなかった。
しかし……
「池田教正、三箇頼照が返り忠!」
高山友照に遅れて、切支丹である池田教正、三箇頼照が幕府方に寝返った。彼らは前線の安見宗房隊、遊佐信教隊に組み込まれていたので、瞬時に敵の中央部で混乱が起こった。すると円明寺川で振っていた弾丸の雨は止み、それに衝け込んで幕府軍が突撃してくる。
「今ぞ!押し出せい!」
「朽木殿に遅れるな。我らも進むぞ!」
御牧景重、朽木元綱の両隊が勇んで渡河していく。白兵戦となれば鉄砲は使い物にならなくなる。被害を恐れた雑賀・根来の者たちは我先にと撤退し、安見、遊佐の両隊は窮地に追い込まれることになった。しかも背後には味方の軍勢が陣取っているために退くに退けない。そして前にも後ろにも進めなくなった遊佐信教が朽木元綱に討たれたことによって謀叛方の前線は崩れ始める。それを見事に押し止めたのが、怪物・無人斎道有である。
「いよいよ儂の出番かッ!」
道有は赤子が玩具を与えられたかのような嬉々とした表情で、瞳は煌々と輝きを放っていた。年齢を感じさせぬ身軽さで帷幕を出ると、自ら前に出て陣頭で指揮を執った。
道有が率いる軍勢は僅かに三〇〇〇である。対して御牧、朽木の両部隊は六八〇〇を数える。倍以上の軍勢を相手に道有は、真正面から果敢に立ち向かった。先んじて撤退してきた雑賀衆を収拾していた道有は、鉄砲で一撃させて敵の足を止め、そこへ長柄による槍衾を容赦なく食らわせた。続けて甲州軍団顔負けの騎馬隊を突撃させ、敵陣で縦横無尽に暴れ回らせる。
「殿!ここは御退き下され」
「莫迦を申すな。我らは勝っておるのだぞ!わざわざ四国から出てきて、無様な醜態を晒せるか」
御牧勢の先陣を務める石川通清は、家臣の進言を一蹴した。敵方の抵抗は一時的なものと判断してのことだ。だが、現実は目の前にある。勝利への執着と恩賞への欲が通清の判断を狂わせた。
そこへ一騎の騎馬武者が現れ、そのまま通清へ馬を当ててきた。
「去ね」
態勢を崩したところを一突きだった。道有の部隊の先鋭・中村高次である。槍の中村と呼ばれる武辺であった。
大将が討たれたことで、たちまち石川隊は壊滅する。運が悪かったのは、石川隊の壊走に御牧本隊が巻き込まれたことだった。朽木勢と共に戦っていた御陰で何とか崩壊は免れたものの依然として盛り返しは難しく思えた。
「運ではないわ。これが合戦なのだ。よう覚えておけ」
満足そうに悦に浸る道有。当然の結果だと言わんばかりである。
実は御牧隊の混乱は石川隊の敗走を道有が巧みに誘導した結果であった。道有ほどになれば、このくらいは朝飯前なのだ。経験の差が如実に表れた瞬間だった。
「こうなったら何れかに援兵を頼む他はあるまい……」
として景重が已む無く援軍を請おうとした時、脇から三好義継の部隊が進んでくるのが見えた。
「上様より松永本隊を衝くよう命じられたが、味方の苦戦を放っては置けぬ。これより御牧殿を援護する」
義継は目の前に仇敵・松永久秀を控えながらも私心を捨て、御牧勢の応援に向かうことを宣言した。
幕府方の前線は三好勢の加勢を得て、漸く無人斎道有の率いる軍勢と互角といったところだった。これが義輝の懸念した幕臣の実態である。通常、野戦では倍の兵力を相手にするだけでも難しいのだが、道有は三倍の兵力を見事に押さえ込んでいる。道有の采配が優秀なのは大名時代の戦歴が証明しているが、いま率いている兵は屈強な甲州兵ではない。あくまでも傭兵が中心で、半年という僅かな期間に鍛錬を施したに過ぎない。それに幕臣たちは負けているのだ。
だが道有の活躍は、戦局を左右するには至らなかった。
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大山崎・義輝本陣
水無瀬宮を出た義輝は、大山崎まで駒を進めていた。今はちょうど一番狭くなっている地点を通過しているところで、ここを抜ければ血と血で争う戦場が眼前に見えてくる。逸る気持ちを抑えながら、義輝は確実に前へと進んでいた。
「ん?前線よりの報せか」
義輝が街道へ視線を移すと、駆け寄ってくる使番の姿が確認できた。旗印は三階菱に五つ釘抜。三好義継のものだ。
「我が主・三好左京大夫様より公方様に申し上げます!」
使番は下馬すると大音声で報告した。
「御牧様の部隊が苦戦中にて、このまま松永久秀へ当たることは困難、故に加勢に向かうことを御許し下さい。また願わくば右兵衛督様の陣へ何方か将を送って頂きたく御願い申し上げます!」
「相判った。こちらの事は一切気にせず、目の前の敵に当たるべし。そう左京大夫に伝えよ」
「御意!」
報告を受けて、義輝は義継の求める事を即座に理解した。
(……あれも気が回るようになったものだ)
義助には将軍家一門として兵を与えて参陣させているが、実弟の晴藤も含めて有能な将の補佐がなければ軍団の運用は難しいと義輝は考えている。晴藤には明智光秀と黒田孝高、義助の場合は相性のいい義継に補佐を命じている。しかし、相手は老練な松永久秀だ。義助単独では簡単に蹴散らされてしまいかねない。それを義継も判っているからこそ、義輝へ援助を求めている。そういう意味では、義継も少しずつ成長していた。
三好長慶の名だけが突出し、その影に埋もれがちだが、京兆細川家を牛耳った父・元長や義輝も認める聡明さのあった嫡子・義興、そして三好隆盛の柱石となった長慶の兄弟たちなど三好一族は優秀な者を多く輩出している。義継の父・十河一在の武勇伝は数知れず、長慶は別格としても義継が一族の名に恥じぬ名将に育っても不思議ではない。少なくとも以前はあった甘さと臆病さは消えつつある。義輝の下知を仰ぐ前に動いているのを見ると、随分と判断力が養われているようだ。
ここでの義継の判断は、正解だと思う。
「さっそく元資へ伝令を送れ」
義継の求めに対して義輝は、義助の部隊に一番近く合戦経験も豊富な吉川元資を送り出すことを決めた。元資は自隊と合わせて六〇〇〇もの兵を指揮することになるが、毛利両川の一翼を担う常勝・吉川元春の薫陶を受けた嫡子である。その勇猛さは鬼吉川と称される父に劣るものではなく、大兵であろうが存分に使いこなしてくれると期待している。後は自分が後ろ巻に出れば、久秀を討ち果たすことも可能と判断する。
ただ元資の勇躍が見られたのは、久秀相手にではなかった。
「申し上げます!天王山にて浅井勢と交戦していた真柄直隆が突如として向きを変え、こちらへ向かっております!」
義輝が元資へ伝令を遣わそうとした矢先に急報が舞い込んだ。
天王山を義輝が睨む。そこには浅井長政をやり過ごして山を駆け下りてくる一団の姿があった。あのまま進めば、義輝本陣の側面を衝く形となる。当然、義輝は兵で固めるが、今からでは充分な備えを築くのは不可能であり、それに伴って行軍が止まれば義助支援どころではなくなる。いや、それ以前に下手をすれば本陣が襲われるという事態に幕府軍の前線が影響を受ける。可能ならば、それは避けたいところだ。
「上様!あの程度の敵に本陣が落ちるとは思えませぬが、万が一ということもあり申す。半数を以って支えますので、上様は退避を」
咄嗟に柳生宗厳が進言する。
見たところ真柄勢は六〇〇ほどである。当初は一〇〇〇を誇っていたが、浅井勢と戦っている内に討たれたか、または逃散して減少していた。故に宗厳は慌てず、ここで交戦したところで負けないと踏んだ。しかし、合戦に絶対はない。そこで宗厳は、万が一に備えて義輝へ退避を促した。
「ならん。余は二度と久秀に背中は見せぬ」
そこは頑固な義輝である。即座に宗厳の進言を拒んだ。
「危険にございます!」
「死線ならば幾たびも越えておる。この程度、何のことがあろうか」
矢弾が降ってきても動じぬ義輝であるから、負けないと思っている戦いで退いたりはしない。宗厳が何度も諫めても動こうとはせずに迎撃を命じた。
その間も真柄直隆は迫ってくる。仕方なく本陣は、山側に急場の備えを築いて真柄勢の突撃を待ち構えた。
「将軍ッ!その首、貰ったぞ!」
その様子に直隆は奇襲の成功を確信した。太郎太刀を肩に担ぎ、脇目を降らず一目散に義輝を目指す。
しかし、その直隆の突撃は失敗に終わる。義輝本陣への突入寸前、間を割るように一つの部隊が入ってきて邪魔したのである。吉川元資であった。
「上様はやらせぬ!」
義輝と同様に真柄勢の存在に気付いた元資は、三〇〇〇の手勢の内、後備の七五〇を自ら率いて真柄勢に当たった。真柄勢は槍のような細長い縦列で、その穂先を折るようにして吉川勢が横から衝いた。完全に勢いは削がれ、直隆は怒り狂った。
「あの時の雛っ子か!毛利か吉川か知らぬが、田舎侍がしゃしゃり出て来たことを後悔させてやる」
「吉川の武名、応仁の戦乱より上方武者の劣らぬことは証明済みよ。我が槍、その身で味わうがよい」
元資と直隆は激しく打ち合った。伊丹・大物合戦に続いての再戦である。
「死ねやッ!」
山をも砕く直隆の太郎太刀が、元資を容赦なく襲う。それをまともに受け止める愚を元資は冒さない。横に飛んで、間合いの外へ逃げる。太郎太刀は確かに大きいが、長さでは槍に劣る。何も相手の間合いで戦う必要はないのだ。常に自分の間合いを保って戦わなければ、直隆には勝てない。
「どうした!こっちじゃ!」
元資は吼えて直隆を挑発する。気迫では負けていない。一度、戦った経験が活きていた。
「おのれッ!若造が調子に乗りおって!」
激昂する直隆は元資の槍を恐れることなく踏み込み、右、左と攻撃を繰り出していく。一方の元資は終始、無言であった。はっきり言って余裕がなかったのだ。少しでも気を抜けば、太郎太刀の餌食になってしまう気がしていた。あれほどの大太刀の一撃が、致命傷となるのは容易に想像がつく。
(……くッ、隙がない。奴め、以前より遥かに強くなっている)
この半年、元資も義輝から直に手ほどきを受けて修練に励んでいた。御陰で直隆の斬撃を的確に捉えることが出来ている。しかし、その元資以上に直隆は化け物に成長していた。攻撃は避けても攻め口がまったく見当たらないのだ。
そうしている内に元資の部隊は、徐々に押されていった。時間の経過と共に吉川勢は数を増やしているが、真柄の勢いを止めるには至っていない。幸い、吉川勢と入れ替わるようにして義輝の本隊が前に進んでいるが、まだ追いつける距離にある。一たび抜かれでもしたら義輝に危険が及んでしまう。敗走は許されなかった。
その時、真柄勢の後方で悲鳴が上がった。その後、まるで逃げるようにして真柄の兵が押し寄せてきたから直隆も元資も驚いた。果たして何が起こったというのか。
「何があった!?」
大声を上げ、直隆が逃げる兵を掴まえて問い質す。
「あ……浅井勢です!浅井が後方から襲ってきました!」
「浅井だと!?浅井は天王山の占領に向かったのではないのか!」
「仔細は判りかねます。されど襲われているのは事実です。しかも部隊は長政殿が自ら率いており、凄まじい勢いでこちらへ押し寄せてきています!!」
「くそがッ!」
直隆は感情を爆発させるようにして、掴んでいた兵を突き飛ばした。
当初、浅井長政は真柄直隆と戦っていた。そこで直隆は浅井に追われる振りをして山を駆け下り、義輝の本陣を目指した訳だが、長政は天王山奪取を優先させる以前に朝倉景鏡が長宗我部元親に敗れたのである。長宗我部勢五二〇〇に対し朝倉勢は四〇〇〇おり、本来なら山上の有利を考慮すれば十二分に戦えるだけの状況であった。それが敵わなかったのは、朝倉勢の戦意は低かったことに尽きた。景鏡は久秀からの密命を受けて山頂にて最後の奮戦を続けたが、浅井勢の協力を得ることなく長宗我部勢に討たれてしまう。標的を失った浅井勢の矛先が直隆へ向けられるのは自然なことだった。もし真柄勢を見過ごして義輝の本陣に何かあれば、それは長政の責任ということになってしまう。それを抜きにしたところで、獲物に逃げられるのは将として不本意でしかない。長政は登ってきた山を駆け下りるようにして真柄勢を襲った。
前門の虎に後門の狼。吉川元資と浅井長政に挟まれて真柄直隆は絶体絶命の事態に陥った。この地に留まれば、間違いなく討ち死にだ。それでは弟の仇を討つという目的は果たせない。
「くそーーッ!畜生がッッ!!」
悔しさを滲ませた咆哮が天王山に轟いた。
次の瞬間、直隆が太郎太刀を振り回して一騎駆けに及ぶ。向かう先は、言うまでもなく義輝の本陣である。元資など眼中にないようで、兜首を求めて群がる兵を薙ぎ倒しながら進む。
「ま……待てッ!」
慌てて元資は後を追うが、手を出すかどうか迷った。相手は追い詰められた獣も同然、勇んで飛び掛れば返り討ちに遭う可能性があった。
「矢じゃ!矢を射かけい!」
元資の指示に従って弓兵が直隆へ狙いを定める。無数の矢羽が空を切り、目標へ向かって飛んでいく。元資自身も自ら矢を射った。
「邪魔じゃ!どけいッ!」
その矢雨の中を直隆は突っ走った。どれだけの矢が降ってこようととも振り払い、自らに刺ったところで気にも留めず、進路を遮る者は誰であろうとも斬り捨てた。弟・直澄の復讐を果たすまでは、何があっても死ねない。その執念を原動力として、直隆は義輝の本陣を目指した。
「ええい、化け物か!?」
何度、矢を射掛けたか判らない。避けられているわけではない。何本も命中しているのは、直隆の姿を見れば一目瞭然である。まるで武蔵坊弁慶を髣髴とさせるような姿であるにも関わらず、直隆は走り続けている。その姿に一様は戦慄した。
(ま……まだ死ね……ぬわ)
直隆は走りに走り続け、遂に吉川勢を抜けた。眼前には義輝の本陣が見える。義輝の居場所を示す鋼色の丸扇が太陽に照らされ、眩く光輝いていた。そして力強く一歩を踏み出した時、その輝きが一瞬にして暗闇に包まれた。雲が日差しを遮ったわけでも陽が暮れたわけではない。直隆の意識が途切れたのだ。
真柄十郎左衛門直隆、討ち死に。
背中に数十本もの矢を受けての壮絶な最期であった。
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御坊塚・松永久秀ノ陣
謀叛方の中で唯一戦闘に参加していない松永久秀の前に、敵兵が姿を表した。足利公方を示す二引き両に三つ盛鱗、足利義助に北条氏規である。
「公方の補佐に北条を指名したか。あれも存外と阿呆よのう」
氏規の内通を画策していたにも関わらず、久秀は悔しそうな表情を一切みせていない。というより、この男は本気で幕府方から寝返りが起こると思っていたのだろうか。確かに謀叛方は伊丹・大物合戦で勝利した。その後の情勢も幕府方大名の留守を衝いて版図を拡大し、各地で謀反方に与する者たちも現れた。が、義輝の巻き返しは早かった。赤松義祐は討たれ、宇喜多直家も謀殺、叛乱が起こっていた因幡と伊予も平定されて丹波も奪い返された。謀叛方の要たる武田信玄は敗れ、織田信長は美濃を回復して江北も平定、越前朝倉も風前の灯だ。(報せは届いていないが、既に朝倉義景は追い詰められて自害している)
唯一といっていいのは、久秀が義輝の嫡子を人質に獲って幕府方大名を脅していることだが、それで義輝が久秀に屈するとまで本気で考えている大名は少なく、結局は幕府方の優位は揺らがない。いくら甘い誘いがあったところで、いま謀叛方へ内通するのは慮外の沙汰としか思えなかった。そこに望みを託すほど松永久秀という男は楽天的なのか。いや違う。
そう、全ては本当の策を隠すための偽装工作に過ぎなかった。
「叔父上、洛中の方角より狼煙が上がっておりますが、何事かあったのでございましょうか?」
最初に異変に気付いたのは、甥の内藤如安であった。その如安は洛中より上がる煙を見て不思議に思い、叔父に訊ねている。洛中から合戦中に何か報せがあるとは、如安は一切聞いていなかった。
「ああ、あれか。あれは狼煙ではない。ただ京が燃えているだけだ」
唐突に久秀は、何食わぬ顔でとんでもないことを言った。
あまりの事に如安が絶句する。事実が受け止められず、京が燃えていると聞いても、それが何処を指しているのか理解するまで僅かに時間がかかってしまったほどだ。
「きょ……京に火を付けたのですか!?」
震えた声で、如安が叔父へ問う。
「ああ」
「二条城は?いや、帝はいかが相成りましょうや!?」
「そんなもの知らんわ」
吐き捨てるように告げた叔父に、如安は血の気が引いていくのが判った。目眩すら覚えたといっても過言ではない。東大寺に火を放った時も驚いたが、それ以上の衝撃である。
「何故に京に火をかけたのですか!これでは勝ったとしても、我らに味方する者などいなくなりましょうぞ」
如安は怒りを露わにした。ここまで叔父に強弁な態度を取るのは初めてと言っていい。それだけ叔父の所業を愚かしく思っていた。
「阿呆め。そもそもまともに合戦して勝てると思っているのか」
「されど、京に火を付けずともよいではありませぬか。やり過ぎでございましょう」
「合戦を知らぬ者は黙っておれ」
だが久秀の態度は冷たかった。身内に対する慈愛の心はまったく感じられない。見下すような目付きで、如安を見ている。所詮は道具。久秀にとって他人とは己の野望を達成するための駒でしかない。
円明寺川は越えられたが、道有の活躍によって戦線は維持されている。ただ幕府方と謀叛方では予備兵力に差がある。義輝が一万余に対して久秀は勝龍寺の義昭勢と合わせても四五〇〇。しかも天王山は完全に奪われてしまっているので、長宗我部と浅井が山麓の戦いに加わるのは時間の問題であった。既に勝敗は見えている。いや、久秀には最初から見えていたのだ。山崎の合戦での勝利を、久秀は当初から捨てていた。敗北を受け容れた上で、策を講じている。
ならば合戦で久秀が練った策は何だったのか。真柄直隆の奇襲は何を意味しているのか。答えは簡単である。多種多様な策を仕掛け、破らせる。義輝が万策尽きたと思い込んだところに、渾身の一手を打ち込むのだ。
成果は上々である。義助の軍勢の後ろには、義輝がいる。久秀にとって、義助など取るに足らない相手だ。策は成就したと考えていいだろう。後は実行あるのみ。
「如安。そなたは阿波公方に当たれ。が、勝つ必要はない。右でも左でもよいから、公方の軍勢を脇に寄せい。義輝の道を開けさせるのだ」
「……はい」
憤る如安へ命じる久秀の双眸は、怪しい光を放っていた。
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勝龍寺城・謀叛方本陣
真木島昭光が出撃して人数が減った勝龍寺城は閑散としていた。相次ぐ苦戦により送られてくる伝令の数が激減し、義昭は状況が判らなくなりつつある。それから予感させるのは、敗北の二文字だ。
「まだ誰も戻って来ぬか」
不安から義昭は僅かな手勢を割いて物見を走らせ、戦況を把握せんとしていた。
「何故に誰も報告を寄越さぬのか」
ここに至っても自分を軽んじる者どもを腹立たしく思うが、僅か五〇〇しか残されていない本陣では、頼りされない事を義昭も理解している。予定通り四〇〇〇の手勢を率いていれば、扱いは違ったのだろう。やはり権威は、相応の軍事力を有しなければ成立し得ないのだ。
(それに今ごろ気付いたところで、どうなるというのだ)
思えば兄の苦労はそこにあった。自前の軍団を有しない将軍家の権威は有名無実で、長きに渡る傀儡政権を生んだ。それを打破した兄の器量は、尊敬に値する。それは義昭も認めるところだ。今でも旧来の幕府を再興するという信念は変わらないが、兄のやり方を否定し過ぎた末の失敗であることは明らかだった。
(負けるのか、余は……)
近づく敗北の予感は、後悔の念を駆り立てさせた。
残された望みは兄との決着。それすらもここで悲観に暮れているしかないのか。失意の中にあった義昭を立ち上がらせたのは、やはり兄・義輝だった。
「兄上が本陣を動かした?」
戻った物見の報せに義昭は思わず膝を打った。
(これだ!)
幕府方は勝っているのだ。戦況からすれば、兄が前に進む理由は何処にもない。ならば、何故なのか。それは考えるまでもなかった。兄は自らの手で勝利を掴まんと出てきたのだ。何事も自分の手でやらなければ気が済まない兄らしい采配である。
ならば自分も、という想いが義昭を衝き動かす。
「この場に留まっていたところで埒が明かぬ。出陣するぞ!」
義昭は全軍に出撃を命じた。僅かな手勢で戦況を覆せるとは思えないが、せめて兄と同じ戦場に立ちたいと思った。負けるなら、散るならば、せめて戦った上でなければ後悔が残る。
その想いを打ち崩したのは、一人の公達だった。二条晴良の使いと言うので、義昭も無視できず引見する。
「大納言殿!洛中に火を放つとは何事でござる!!乱心なされたか!!」
開口一番、公家とは思えないほどの剣幕である。これほどの気概があったのかと感心したいところだが、内容が内容である。そんな余裕は許されなかった。
「火を放つとは如何なることか?」
「御惚けになられるかッ!」
「落ち着かれよ。余には何のことなのか、とんと判らぬ。いったい何があったのだ」
当然、洛中炎上を義昭が知るはずもない。詰め寄る公達に対して義昭も苛立ち語気を強めていく。
「本当に公方様の御指図ではないので?」
「知らぬと申しておるだろうが。何故に余が京に火を放つ必要がある。考えれば判ることだ」
「疑って申し訳ありませぬ。然らば……」
公達は低頭して事情を説明し始める。言葉が続くに連れて、義昭の表情は険しさを増していった。
今のところ被害は洛中全域には広がってはいないが、火は上京と下京の両方で燃え広がりつつあり、洛中は混乱の極みにあるという。逃げ惑う人々で大路は溢れ、混乱に乗じて乱暴狼藉に及ぶ者も出始めていた。また内裏にも危険が迫っており、公達の主である二条晴良と関白・近衛前久が対立の壁を乗り越えて帝の動座を諮っている最中という。
誰が犯人なのかは問うまでもない。洛中を燃やすなど大それた事を平然と行なえる輩は、松永久秀しかいない。
「……久秀ーッ!!」
断末魔の咆哮が城内に響いた。
(これで余は破滅だ)
義昭は膝から崩れ落ちる。頬を悔し涙がなぞった。
崇高な理念を掲げていたはずが、全て久秀の所為で台無しだった。こうなった以上、自分に勝ち目はない。京を失って、帝を傷つけてしまっては天下の大義は失われる。如何に義昭が美辞麗句を並べ立てたところで、従う者は誰一人としていない。
そして義昭は、後の世に悪逆公方として名を残す。先祖の栄誉に泥を塗ったとして侮蔑の対象となるのは間違いない。義昭がどのような信念の下で戦ったなど、誰も知らないまま悪評だけが残っていく。それが堪らなく悔しかった。
「……貴様の思い通りにはさせんぞ」
天魔に踏み躙られた義昭は、最期の抵抗を試みるべく京へ戻って行った。
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大山崎・幕府方本陣
真柄直隆の襲撃を潜り抜けた義輝は、円明寺川を渡るところまで来ていた。これを越えれば、久秀がいる。奴を討てば、長かった戦いが漸く終わりを迎える。晴れて天下一統への道を歩むことが出来る。現在は吉川元資の代わりに送り出した北条氏規が松永勢の内藤如安と戦っているところである。両者の人数は二〇〇〇と互角であったが、経験の差から氏規が優勢であった。
「左馬助殿が内藤勢を討ち破るのは時間の問題ですな」
「うむ」
迷いが吹っ切れた様子の氏規に義輝は安堵感を覚えていた。
「天王山を奪取、守将・朝倉式部大輔は長宗我部宮内少輔様が討ち取りましたッ!」
「吉川元資殿。真柄十郎左衛門を浅井左衛門佐様と挟撃の上、討ち果たしたとの由」
前線からの報告が入る。続いて天王山からも報告が入った。相次ぐ吉報に義輝は勝利を確信する。残るは松永久秀のみ。ついに宿敵へ王手をかけた。
円明寺川での戦いも幕府方が優勢である。未だ敵方は粘り強く堪えているが、天王山での戦いが終わった以上は、こちらの勝利も揺るがない。後は、どのように勝ちを決めるかである。概ね、その絵は描けている。
「宮内少輔へ伝令だ。早急に山を駆け下り、松永の側面を衝けい」
最後の一手を打つべく義輝の下知が飛ぶ。本隊と長宗我部勢で、残った久秀を挟撃しよういう狙いだ。
「川を渡るぞ」
義輝本隊が円明寺川を渡河する。それは合戦に於ける勝利の象徴だった。足利義助を先頭に毛利元清、一色藤長、敗退から隊伍を整えて復帰した蒲生賦秀が続いている。
「左馬助殿より伝令。内藤勢が降伏の意思を伝えてきたとのこと」
「早すぎるわ」
義輝は如安の変わり身の早さを皮肉ると同時に速戦にて成果を上げた氏規を褒めた。
「降伏を御認めになりますか?」
柳生宗厳が訊く。内藤如安は松永一門である。その出自から推察すれば、許されない立場にあるように宗厳は思う。
「……ふむ」
如安には会ったことはないが、その父・松永長頼のことは知っている。長頼は兄の久秀とは表裏するかの如く精悍な男だ。軍略に優れていた所為で当時の黒井城攻めで討ち死にすることになったが、久秀が天下獲りという野望に邁進できていたのは、松永家を長頼が従順に守っていたに他ならない。松永家という分を超えず、ひたすらに三好家に仕えてきた姿勢は評価できる。そういう意味では、三好長慶と性格が似ているのかもしれない。あの男も幕政を担いながら何処か将軍家と一線を保つところがあった。
(その長頼の子ならば……)
命まで奪わずともよいのではないか。そういう気持ちがあった。義輝の恨みは久秀個人に対するものが強く、その辺りの分別はついている。
如安寝返りの理由は単純である。如安は切支丹であり、高山友照らの寝返りに耶蘇教という共通点があることに気づいたのだ。そして声がかからなかった理由が松永家の出自にあることも理解していた。
切支丹である如安は、耶蘇教を弾圧する謀叛方の政策によい感情を抱いていなかった。また神仏を蔑ろにする叔父にも思うところがないと言えば嘘だった。そして帝は、日ノ本の根幹たる神道を司っている。自らの信ずる宗教とは違うが、そこは如安も日ノ本に生まれた者である。無条件で帝を畏敬する感情は持ち合わせていた。
そして土壇場で叔父を見限ったのである。だが如安は、重要な見落としがあることに気づいていなかった。
それがいま起こる。
「松永久秀が撤退していきます!」
「何じゃと!?」
即座に義輝は愛馬を走らせ、自ら様子を確認する。すると確かに松永勢が反転し、京方面へ逃走を始めている。久秀は機を見るに敏な男だ。既に敗北を悟っているはず。となれば、味方を見捨てて遁走することは充分に考えられる。
未だ降伏を認めていないことから氏規は内藤勢と戦っているし、長宗我部元親も到着していない。いま追わなければ、逃げられてしまう恐れがある。
「あれは……、何だ?」
ところが義輝には気になることがあった。久秀が逃げる方角へ義輝が目をやったところ、無数の黒煙が上がっていたのが見えたのだ。何かが燃えているということだが、その数が異常ではない。黒煙は空を覆い尽くすほどで、規模からして洛中が燃えているとしか考えられなかった。
「も……申し上げますッ!」
駆け込んできた伝令が、義輝の疑問を裏付けた。またもや氏規からだった。
「松永久秀が京に放火した模様!このままでは洛中全域が燃えてしまいます!」
「まことかッ!?」
義輝が大声で使番の男を問い詰めた。状況と報告は一致するが、俄に信じられない内容である。
「間違いありませぬ。報せは、敵方の内藤如安からもたらされたものにございます」
「……兵庫介ッ!」
「はっ!」
義輝は大声で宗厳を傍に呼び寄せる。
「これより久秀を追って洛中へ入る。手の空いている者は全て余の後を追わせよ」
「御待ち下さいませ!洛中の炎上がまことであるならば、上様自らの入洛は危険にございます。我々が参りますので、上様はこの地に留まって合戦の指揮を…・・・」
「たわけッ!」
宗厳の言を遮って、義輝が一喝した。凄まじい迫力である。
「よいか!洛中には帝がおわす。その帝の身が危ういと知りながら、征夷大将軍たる余が後方で安穏としておるわけには行かんのだ!」
「で……ですがッ!」
頭では理解するが、義輝の守護を第一とする馬廻衆を率いる宗厳としては、やはり炎に包まれつつある洛中へ主を送り出すわけにはいかない。二の足を踏んでしまうのも無理なからぬこと。それを義輝は叱咤する。
「覚悟せい!余が危険ならば、その身を楯として余を守れ!うぬらが鍛錬の末に修めてきたものは、何のためかッ!」
「……承知!」
宗厳が息を呑み、覚悟を決める。元より恐れを知らない武芸集団を率いている男である。一度、決めたからには後ろを振り返るような真似はしない。
「行くぞッ!」
義輝は戦場を抜け出して洛中へと向かった。合戦は、いまや放っておいても幕府方の勝ちである。後のことは藤孝に任せればいい。
それから義輝の本隊は義助の部隊を加えて西国街道を上り、鳥羽口から洛中へ入る。幸いにも鳥羽口付近には余り火の手が回っていないようだったが、顔を照りつけるような熱気に義輝は事の重大さを感じ取った。
義輝は一先ず鳥羽口近くにある東寺に兵を入れて拠点とした。
「洛中の様子はどうか」
義輝は東寺の住職に状況を訊ねた。そこでいくつか判ったことがある。
最初に火の手が上がったのは一刻半(三時間)ほど前、上京の旧三好長慶邸付近だったという。彼の地は義輝が永禄八年(1565)に上洛を果たした際、拠点とした場所である。また松永弾正や京兆細川のなど三好家に縁のある旧邸宅が多く集中している場所でもある。つまりは火付けを実行した久秀にとって細部まで知り尽くす都合のよい場所だったといえる。
それから火の手は徐々に風に乗って上京全域に広がっていった。阿鼻叫喚に包まれ、死人も予想では数千の規模に及ぶと思われた。その多くが、家財を持ち出そうとして逃げ遅れているのだという。京から近い山崎で合戦が起こっていることから万一に備えて家財を纏めていたことから、彼らは全てを捨てて逃げることを拒んだ。欲が出たのである。纏めているといっても上京には裕福な有徳人が多く、それなりの量を持ち出さなくてはならない。これが仇となって命を落とした。ちなみに身一つで逃げた出した者は助かっている。
一方で下京では火付けはあったものの、焼かれたのは一部に過ぎなかった。但し、その所為か逃げ惑う人々と横行する物取りで混乱は増すばかりだとか。京の治安は完全に崩壊していた。
「久秀の行き先は判るか」
「……えっ、あっ、はい」
久秀の事を訊ねると、住職は途端に口篭った。
「如何した。何ぞ知っておるのか」
構わず問い詰める義輝に住職は口を開く。
「松永殿は少し前にこちらへ立ち寄られました」
「なにッ!?久秀が立ち寄ったと?」
「はい。その時、二条城へ向かうと仰っていたのですが……」
「どうした。早う申さぬか!」
なかなか喋ろうとしない住職に腹を立てた義輝が苛立った声を出す。
「松永殿は諦めたような口調で仰っておりました。“もはや我が武運はここまで。されど潔く腹を切るのは性に合わぬ。悪行の限りを尽くした儂らしい最期を遂げてみせる”と」
「悪行の限りを尽くした久秀らしい最期?それが何か聞いているか」
「……上様の妻子を道連れに、二条の天守で爆死すると」
「な……!!」
声を震わせる住職の姿からは、嘘を言っているように思えなかった。むしろ久秀のことだ。どんなことでもやりかねないと思った。
言葉に表せない怒りが込み上げてくる。そして矢継ぎ早に指示を出す。
「右兵衛督。本陣の半数を預ける。そなたはここに残って火消しの指揮を執れ。追って到着した者も全て火消しに回してよい」
「は……、はい!」
「残りは余と共に参れ」
「二条城へ向かわれますか」
「……いや、余は内裏に行かねばならぬ」
義輝が表情を歪ませながら、声を絞り出す。そして宗厳の傍に寄り、その目を真っ直ぐに見て懇願した。
「兵庫介、そなたに御台らの救出を頼みたい。救えなかったところで責めはせぬ。されど何もせず傍観も出来ぬ」
「……上様」
今から二条城へ向かったところで久秀に追いつけるとは思えない。本来なら何か手を打たれる前に速戦にて久秀を討つか、丹波口を進ませている別働隊に京を占拠させて妻子を救出するつもりだった。しかし、どちらも成功しなかった。ここに至っては諦めるしかないが、まだ早い。御台所たちが生きている間は、一縷の望みでも捨てるつもりはない。
柳生には義輝を二条城で救ったという前例がある。それに全てを託した。あの時以上に状況は厳しい。二条城の規模は広がっているし、対象は女子供である。義輝のように自ら剣技を振えず、身軽ではないので守るのに苦労するだろう。それでも宗厳に縋るしか義輝にはなかった。
「畏まりました。ならば某がおらぬ間は吉岡殿に馬廻の指揮を獲らせます」
「うむ」
「されば、行って参ります」
即座に宗厳は義輝の御前から引き下がった。ここからは時間との勝負である。
それから義輝も東寺を出た。大宮大路を進み、内裏を目指す。本来なら東側の東洞院大路を通った方が早いのだが、混乱している下京の中心部を避ける道を選んだ。
その事は、全て久秀の読み通りだったことを義輝は気付いていなかった。
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京・神泉苑
二条城にいると思われた松永久秀は、大宮大路の途中にある神泉苑にいた。下京でも中心部から離れた地点にある神泉苑には逃げてきた人々が多くおり、周囲には入りきれない者たちで溢れている。その神泉苑の脇を将軍の軍勢が通っていく。足早に行軍する兵たちは首を左右に振って周囲を警戒しているが、急いでいる所為で注意が散漫になっていた。
(……間もなく、間もなくよ)
神泉苑内、大木の影に隠れている男が二人いる。一人は松永久秀であり、もう一人の名は杉谷善住坊といった。出自ははっきりしないが、鉄砲の名手と知られた男である。
善住坊の持つ鉄砲が向けられている先は、幕府軍である。標的は、言うまでもなく将軍・義輝ただ一人。
(くくくく……。これからは鉄砲の時代よ。刀を振り回している時代遅れの貴様は、ここで果てよ)
善住坊は久秀の差し金だった。かつてのように軍勢を送り込んで義輝を討つ方法は採らない。義輝の武力と馬廻衆の強さは、永禄の変と吉野川合戦で学んでいる。そこで今回、用いた手法は鉄砲による暗殺である。
この方法を久秀が選んだのは理由がある。それは過去に成功例があったからだ。
あれは永禄五年(1562)の久米田合戦の時だ。三好家と畠山家の戦いだが、久秀は敵方の根来衆の一人を買収して長慶の弟・三好実休を撃たせたことがある。成功例というからには、当然これで実休は命を落としている。
それを義輝で再現しようというのである。
「……きたぞ、義輝だ」
鋼色の丸扇を掲げる武者の傍らに天照大神と八幡神を著し、左右の袖には藤の花が威してある具足を纏った人物がいる。間違いなく足利義輝だ。間もなく、射程に入る。その一歩、一歩が、久秀には非常に長く感じられた。
そして銃口が義輝を捉えた。
(義輝、これで貴様の終わりよ)
ゆっくりと引き金が引かれ、火縄が火挟に落ちる。そして一発の弾丸が発射された。
「上様ッ!」
悲痛な叫びと同時に、義輝の身体が崩れ落ちた。
【続く】
さて今回はどうしてもここまで書きたかったので長くなってしまいました。義輝の銃殺。久米田合戦で三好義賢の死を拙作では久秀の謀としています。もちろん長慶の他の弟たちや嫡男の義興、また長慶自身の死もすべて久秀が絡んでいるという設定です。
義輝がどうなってしまうのか。次回も少し早めに更新したいと思います。