第四幕 いざ出陣 -諸大名集う-
十月二十五日。
越前国・一乗谷
ようやく待ちに待った瞬間が訪れた。
城下に長蛇の列で入ってくる軍勢。掲げられる“毘”そして“龍”の軍旗。関東管領・上杉弾正少弼輝虎の軍勢である。事前に領主より報せを受けている住民たちはこれを歓迎した。
一方で不可解なこともあった。七千と聞いていた上杉軍の数が明らかに多いのだ。どう数えても一万を越えている。
これには訳があった。
輝虎は義輝に報せた通り、七千で春日山を出陣した。ただ輝虎の上洛を悩ませるのは関東や甲斐の武田ばかりではなく、越中の争乱も長年に亘って輝虎を悩ませてきた種だった。ここ二、三年越中は比較的落ち着いてはいるものの留守を衝かれでもすれば堪ったものではない。そこで一計を案じることにした。
「上様の窮地である。臣下たる者、これを御扶けするべし。越中の者どもは我らが義挙へ加わられよ」
輝虎は越中の者たちを自軍に加えることにより、留守中に叛乱を起こさせないようにしたのだ。元より上杉方である越中の国人・椎名康胤はもちろんのこと、先年に輝虎へ降伏した越中守護代・神保長職も輝虎の命令を拒否できず、矢継ぎ早に軍列に加わった。さらに輝虎は上杉家と友好関係を結んでいる能登守護・畠山修理大夫義綱へも合力を呼びかけ、畠山家は輝虎の申し出を快諾、義綱の父であり前守護の左衛門佐義続が上杉勢に加わることになった。但し、どの軍勢も上洛の仕度を整える時間が余りにもなかったために数は能登・越中勢を合わせても五千程度でしかなかった。
これにより上杉輝虎の上洛軍は一万二千にまで膨れ上がったのだ。だが、予定より多いというのは義輝にとって喜ばしい報せだった。
「輝虎!よう参った!」
「上様!?かようなところまで……」
報せを受けた義輝は門前で輝虎を出迎えた。それほどまでに上洛を決意した輝虎の来訪が嬉しかったのだ。
突然の出来事に輝虎は下馬し、義輝の許へ駆け寄る。手を叩いて喜ぶ義輝の顔には刀創と思われる傷があった。かつて京で義輝に謁見した時にはなかった傷だ。洛中より脱出する際に付いたものだと推察され、これを見た輝虎は涙し、思わず視線を逸らして頭を下げた。
そこへ義輝が近寄り、そっと肩を抱き起こした。
「そなたが来てくれたならも安心じゃ」
「勿体なき御言葉にございます。必ずやこの輝虎が、上様を京へ御戻し致します」
「うむ。頼りにしておるぞ」
義輝と輝虎、六年振りの再会であった。
「左衛門佐もよう来てくれた」
「上杉殿に御誘いで今回の義挙を知った次第にて。前もって御報せ頂ければ、畠山家総出で参りましたものを…悔しゅうございます」
「よい。来てくれただけで余は嬉しいぞ」
恭しく礼をする義続であったが、実のところ輝虎の言う義挙にはあまり関心がない。ただ参加してそれなりの功を立てれば、将軍と関東管領を後ろ盾に領内の大名権力を強化できると考えていたから、参陣したに過ぎない。その点、上方で幕政を牛耳るなどという野心は持ち合わせていないため、信用は出来た。
さていよいよ上洛、と思いきや問題が一つあった。朝倉勢の仕度がまだ整っていないのである。義景は最後の最後まで上杉の上洛を疑っており、家臣らに上洛の仕度を命じていなかった。ようやく命令を出したのは上杉勢が加賀に入ったという報せを受けた後である。故に一乗谷に集まっているのは敦賀郡司・景恒と一乗谷に近い所領を持つ者たちだけで、筆頭家老たる景鏡ですら未だ姿を見せていないという有様である。
「左衛門督殿が申すには、まだ五日はかかるとのこと」
「悠長な。輝虎が来ることは前もって分かっていたことではないか」
ここに至ってもなお鈍重な義景に腹を立てる義輝。上杉勢が来たことで、すぐにでも出陣したいという逸りを抑えきれずにいる。
「どうか落ち着いて下さいませ。この輝虎、上様を京に御戻しするまで帰らぬ覚悟で参りました。故に時間はたんとございます」
「おおっ、まことか!」
「はっ。故にまずは軍略を御聞かせ下さりませ」
「うむ。十兵衛、委細を説明せよ」
「畏まりました」
光秀が諸将の前に歩み出る。
「おおっ。そなたが明智十兵衛か」
「手前をご存じで?」
いざ軍略を説明しようとした矢先、光秀は急に輝虎から話しかけられたことで戸惑った。
「うむ。勢州(上泉信綱)から聞いておる。何でも上様救出に一役買ったとか」
「とんでもございませぬ。公方様救出は塚原様、伊勢守様のご活躍あればこそにございます。手前はささやかなお手伝いをしたまでのこと」
「されどそなたの手助けで上様の御命が救われた。この輝虎から礼を言わせてくれ」
「手前などに……勿体のう存じます」
輝虎は光秀の謙虚で驕らない様に好意を持った。一方の光秀も輝虎をかなり堅い人物かと想像していたのだが、初対面の者の前でも飾らない人柄に“噂とは当てにならないものだ”として印象を変えた。
「では軍略を御説明申し上げます。まず我らの動きに呼応し、反三好の者どもが挙兵する手筈になっております」
義輝が各地へ送った御内書により反三好包囲網とも呼べるものが既に出来上がっていた。具体的には河内の畠山、大和の筒井、播磨の三木、丹波で内藤宗勝を討ち取った萩野直正らが一斉に挙兵する手筈であり、中には既に活動を始めている者もいる。また三好よりの独立を画策していた丹波の波多野秀治からも同心する約束を取り付けていた。
「我らは来月の朔日に一乗谷を出陣、北国街道を南下し、敦賀で武田治部少輔様と合流、刀根坂を経て余呉で浅井備前守様の軍勢と合流いたします」
朝倉勢が揃うのに五日かかる。つまり本来であれば三十日に出陣できるのだが、せっかくなので縁起が良いとされる朔日に出陣することになった。また武田勢は二千、浅井勢は五千を出す予定になっている。これに朝倉勢が一万三千、上杉と北陸の軍勢が一万二千、合わせて三万二千を数える。
「ここで、軍を二つに分けます」
「二つに?三好勢は三万余と聞く。兵を分ける理由は?」
兵法では数が同数の場合、兵を分けるのは下策とされている。それを敢えて行うにはそれなりの理由があって然るべきである。
「はっ。恐らく三好・松永らの軍勢は、公方様の上洛を勢多で阻むと思われます」
古来より東から京へ攻め込む軍勢は、勢多川で防衛するのが常であった。源平合戦では平家が木曾義仲軍を阻み、義仲は源義経を同様に阻んだ。さらに承久の乱では後鳥羽上皇軍が鎌倉幕府軍を、南北朝の戦では足利直義が南朝軍とこの地で激戦を繰り広げた。しかし、いずれも防衛側が敗北している。それほどまでに京の防衛は難しいのだ。それを知っている輝虎にしては、回りくどく兵を分けずとも堂々と勢多を押し渡ればいいと考えている。また輝虎は兵を割いたところで自分がいる軍勢が負けるとは微塵も思っていないが、兵法に反する策を採る理由は知っておきたかった。
「一手を西近江路より進ませることで、敵の背後を脅かせます」
「その考えは分からぬでもない。されどそれでは、勢多で合戦に挑む際に敵勢に数で劣るのではないか?」
「ご安心を。既に我らは敵勢を上回っております」
光秀の説明では尾張の織田家、六角家より宿老の蒲生定秀、勢多城主・山岡景隆が参陣することが付け加えられた。
「つまり一手を割いたところで、こちらが敵に劣ることはないと?」
「はっ。左様にございます」
「ならば申すことはない…と言いたいが、一つだけ」
「何でございましょう?」
「六角殿は出陣されないのか?」
輝虎の疑問はもっともだった。こちらは三好・松永の謀略にあったとはいえ前将軍・義輝が出馬するのだ。朝倉と浅井、武田は揃って当主が出陣する。上杉に当たっても輝虎が出てきているし、畠山家は当主ではないが前当主が出陣している。織田家からも信長が出陣するという報せが届いている。なのに敵地にもっとも近い六角からは当主はおろか一門の出陣もないのでは話にならない。
「親子揃って病とか」
「何を莫迦な。上様に対する叛意を疑われても言い訳できぬぞ」
病が嘘であることは明らかである。それを咎めようとする輝虎を義輝が制した。六角承偵が出てこない原因が浅井との対立にあると知っているからである。遠国の領主である輝虎はその辺りの事情が疎く、気分を害するだけだった。
(あれはそういう男だ)
ただ義輝としては最初から承偵には期待しておらず、家臣らの参陣があっただけでも儲けものと割り切っている。
一方で光秀には拭いきれない不安があった。織田家のことである。何度も問い合わせても“参陣する”との返答が来るだけで未だにどの程度の兵を送ってくれるか、合流地点が何処なのか、明確な回答がないのだ。業を煮やした光秀は自ら三度使者に出向いたが、二度は同じ返事ではぐらかされ、一度は鷹狩りに出ているとして会えず終いだった。
それ故に西近江路に派遣できる兵は武田義統を大将に、朝倉景恒の敦賀勢、朽木元綱の計五千しか避けなかった。
「次に陣立てですが先陣が六角勢、二陣に浅井勢、三陣が織田勢、四陣が畠山、越中勢、五陣に上杉勢、そして上様の本陣は朝倉勢が担当致します」
「お待ちあれ!」
「上杉様、何か?」
「我ら上様を扶けんと遠国から遙々参った次第。それなのに五陣とは納得がいかぬ。替えて下され」
これに光秀は困った。主な軍略は光秀と藤孝が練ったが、陣立てについては義輝の考えだったので変更は憚られた。義輝はもっとも信頼する上杉勢こそ本陣と考えていたのだが、自分を保護している手前、朝倉勢を本陣に据えなければならず、ならばもっとも自分に近い本陣前にと上杉勢を置いたのだ。
しかし、輝虎は義輝を守るためではなく、三好・松永らと戦うために来ている。
「我らは地理に不案内である故に先陣とは申さぬが、二陣を任せて頂きたい」
輝虎の本音としては先陣である。しかし兵法では“もっとも戦地に近い者が先陣を切る”ということになっており、六角勢の先陣は戦の常道は踏まえたものだ。よって二陣を希望した。
「よい、許す。余に越後勢の戦ぶり、見せてくれ」
「ははっ!」
これに義輝が応じた。
確かに輝虎を傍近くに置きたいというのはあるが、一方で精強と知られる越後勢の強さを見てみたいという気持ちもあった。
そして十一月朔日。
「いざ出陣!」
前将軍・足利義輝は朝倉・上杉連合軍と共に一乗谷を出陣、一路京の都に向かって北国街道を南下した。途中、敦賀で武田義統勢と合流し、刀根坂を越えて近江へ入る。義輝は半年前に僅かな供と落ち延びてきた道を三万近い軍勢と共に通ることは非常に感慨深いものがあった。
(もはやこの道を反すことはあるまいぞ!)
京の都が近づくにつれて、義輝は胸の内に熱く湧き立つものを感じていた。だがそれを抑える。高ぶる気持ちを爆発させるのは、ここではない。
軍勢は近江へ入り、余呉に到達。この地で義輝は浅井備前守長政の出迎えを受けた。
「浅井備前守にございます。これより先は、我々が御案内仕る」
「おおっ!そなたが備前守か」
長政の風貌は義輝の想像以上だった。
凡そ六尺(182㎝)にも及ぶ身長に見合った大きな体躯、若干二十歳の若者は幼さは残るものの精悍な顔立ちは戦国武将として十分なものだった。初陣で六角の大軍を破り、若年にて家督を継いだというのも頷ける。
(こやつは……左衛門督と違って頼りになる)
それが義輝の長政に対する印象だった。
京を追われ、将軍職を失ったものの若狭を平定、念願の上洛軍を発し、予期せぬ援軍、頼もしい勇将との出会いもあった。事は順調に運んでいる。しかし、全て義輝を喜ばせるものばかりではなかった。
浅井家からの報せが入る。
それは“近江の何処にも織田軍の姿がない”というものだった。
【続く】
少し間が空きましたが、次話投稿です。
今後は投稿がまちまちなるかもしれませんが、今年中に上洛編終了までいければと思っています。