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ケアの値段-高齢者から稼ぐ-  作者: サミー
数字に追われる朝
1/1

高齢者事業を行うことの難しさ。稼働率低下、職員や利用者との人間関係、国から求められる書類の作成やシステムの導入、疲弊していく相沢。どうすれば理想に近づけるのかもがく物語。

人を支える仕事に、値段はつけられるのだろうか。


 そう問われれば、多くの人は首を傾げるかもしれない。 支えること、寄り添うこと、安心させること。 それらは本来、数字や契約とは別の場所にあるものだと思われている。


 けれど現実には、それらはすべて「サービス」として提供され、対価が支払われている。 誰かの不安は言葉に変えられ、必要性として提示され、やがて金額へと置き換えられる。


 それは間違いなのだろうか。


 もしも、その対価によって生活が守られ、仕組みが維持されているのだとしたら。 もしも、その対価がなければ、誰も支えることを続けられないのだとしたら。


 善意と利益は、本当に別のものなのだろうか。


 この物語に登場する人物たちは、特別な悪人ではない。 むしろ、誰かを支えたいと願ったことのある人間ばかりだ。


 ただ、その方法を選び続けた結果、 気づけば“何に値札をつけているのか”が曖昧になっていく。


 これは、誰かを断罪するための物語ではない。


 支えることと、稼ぐこと。 その間で揺れながら、選び続ける人間の話である。


 そしてもしかしたら、これは遠い世界の話ではないのかもしれない。

朝の空気は、もう少し優しいものだと思っていた。


 相沢はエンジンをかけたまま、送迎車のハンドルに額を預けていた。 時計はまだ七時半を回ったところだが、すでに一日分の疲労が肩に乗っている気がする。


 スマートフォンが震えた。


『すみません、今日ちょっと熱があって……休ませてください』


 スタッフの声は申し訳なさそうだった。 責める気にはなれない。むしろ、よくここまで持ったと思う。


「了解。無理しないで」


 短く答えて通話を切る。


 これで今日のシフトは崩れた。 頭の中で、送迎ルートと入浴の順番、機嫌の悪くなりそうな利用者の顔を並べ替える。


 足りない。 どう組んでも、どこかが削れる。


 施設のドアを開けると、すでに出勤している職員がいた。


「おはようございます。」


「おはようございます。本日、急遽佐藤さんがお休みになりました。送迎や今日の職員の役割を考え直しましょうか。」


 そう言いながら、相沢はフロアを見渡す。静かなはずの空間なのに、どこか張りつめている。


 ——余裕がない。


 以前は、こんな朝でも少しは笑えた。 利用者の名前を思い浮かべながら、「今日は何をしようか」と考える余白があった。


 今は違う。


 “今日は何を削るか”を考えている。


 事務所のデスクに座ると、昨日の稼働率の数字が目に入った。 赤字に近いライン。


 紙一枚の数字なのに、やけに重い。


「相沢さん」


 背後から声がする。 振り向くと、本部のエリアマネージャーが立っていた。


 スーツのまま、場違いなほど整った姿で。


「ちょっといいですか」


 応接スペースに移動する。 座るなり、資料がテーブルに置かれた。


「見ての通り、厳しいですね」


 淡々とした声。


「分かってます」


「分かってるなら、対策を打たないと」


 視線が数字に落ちる。


「いいケアをしているのは知ってます。でも、それだけじゃ回らない」


 一拍置いて、はっきりと言われる。


「綺麗事じゃ、飯は食えないですよ」


 相沢は何も言わなかった。


 言えなかった、の方が近い。


 帰り際、マネージャーは軽く肩を叩いた。


「期待してますから」


 その言葉だけが、やけに軽く響いた。


 送迎の時間が近づいてくる。 相沢は立ち上がり、もう一度フロアを見渡した。


 ここで働く人間も、ここに来る人間も、 本当はもう少しだけ、楽であっていいはずだった。


 それでも現実は、そうなっていない。


 ——このままじゃ、守れない。


 誰を、とは思わなかった。


 ただ漠然と、何かがこぼれ落ちていく感覚だけがあった。


「綺麗事じゃ、飯は食えないですよ」


 その言葉は、帰り道にまでついてきた。


 相沢はコンビニの前で立ち止まり、何も買わずに店内を眺めていた。 明るすぎる照明の中で、人が無表情に商品を手に取っていく。


 ——綺麗事、か。


 自分がやってきたことは、そう呼ばれるものだったのだろうか。


 利用者の話を聞いて、できるだけその人に合う時間を作って、無理のない範囲で楽しめることを考える。 スタッフには「余裕を持ってやろう」と言いながら、自分が一番余裕をなくしている。


 それでも、間違っているとは思っていなかった。


 だが現実は、数字として突きつけられる。


 翌日、家族から一本の電話が入った。


『最近、ちょっと利用を減らそうかと思ってて』


 穏やかな声だった。 責めるような響きはない。ただの“相談”のような口調。


「何かご不便ありましたか?」


『いえ、そういうわけじゃないんですけど……費用もかかりますし、家でも見られるかなって』


 相沢は一瞬言葉に詰まる。


 間違ってはいない。 その判断は、合理的だ。


 けれど、その先に何があるのかも分かっている。


「……無理のない形が一番ですから」


 そう答えながら、喉の奥が少しだけ苦くなる。


 本当は、引き止める言葉はいくらでもあった。


 転倒のリスク。 孤立。 急変時の対応。


 少し言い方を変えれば、不安は簡単に大きくなる。


 ——でも、それは。


 通話を終え、受話器を置く。


 事務所の壁に貼られた稼働率のグラフが目に入る。 ゆるやかに、しかし確実に下がっている線。


 スタッフが声をかけてくる。


「今日、入浴どうします? 人足りなくて……」


「……順番、少し変えよう。無理はしないで」


 答えながら、頭のどこかで別のことを考えていた。


 もしさっきの電話で、もう少し踏み込んでいたら。 もし不安を“ちゃんと説明”していたら。


 結果は変わっただろうか。


 帰り際、誰もいなくなったフロアで一人になる。


 静まり返った空間は、昼間よりも広く感じる。


 相沢は、デスクの上の数字を見つめたまま動かなかった。


 ——守るためには、稼がなきゃいけない。


 その当たり前のことを、今さらのように噛みしめる。


 そしてもう一つの考えが、ゆっくりと形を持ち始めていた。


 守るために、どこまでやるのか。


 その線は、自分で引くしかない。


最初から、大きく踏み越えたわけではなかった。


 ほんの少し、言い方を変えただけだ。


 午後、事務所に一本の電話が入った。 相沢が受けると、聞き覚えのある声だった。


『この前お話しした件なんですけど……やっぱり、週の利用を減らそうかと』


 先日の家族だ。


 落ち着いた口調。迷いはあるが、決めかけている。


 相沢は椅子に座り直し、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「ご負担のこともありますよね」


『ええ、まあ……正直なところ』


 相手が少し安心したように息を吐く。


 ——ここまでは、いつも通りだ。


 相沢は一拍置いた。


 そして、ほんの少しだけ踏み込む。


「差し出がましいかもしれませんが……最近、お一人で過ごされる時間は増えていますよね」


 電話の向こうで、わずかな沈黙。


『……そうですね。仕事もありますし』


「もちろん、ご家族が見ていらっしゃるので大きな問題はありません。ただ——」


 言葉を区切る。


 強くは言わない。断定もしない。


「転倒や急な体調変化って、“何もない時ほど”起きやすいんです」


 静かに、しかしはっきりと。


 相手の想像に委ねる言い方。


『……転倒、ですか』


「はい。実際、急に立ち上がった拍子にふらつかれる方もいらっしゃいますし、最初は小さなことでも、それがきっかけで外出が減ってしまうこともあります」


 事実だ。 嘘は言っていない。


 ただ、並べ方を変えているだけだ。


「今のご利用の頻度は、そういったリスクを抑える意味でも、ちょうどいいバランスだと思っていまして」


 押しつけない。 提案の形を崩さない。


 電話の向こうで、相手が息をつく。


『……少し、考え直した方がいいかもしれませんね』


 その一言で、流れは決まった。


 相沢はすぐに畳みかけなかった。


「ご無理のない範囲で大丈夫です。もしご不安な点があれば、いつでもご相談ください」


 柔らかく締める。


 通話が終わる。


 受話器を置いたあと、しばらく手を離せなかった。


 ——今のは。


 胸の奥に、微かな熱が残っている。


 強引なことはしていない。 事実を伝えただけだ。


 それでも、結果は変わった。


 デスクの上の稼働率の数字が、ふと現実味を帯びる。


 “こうすればいいのか”


 頭の中で、さっきの会話がもう一度なぞられる。


 言葉の順番。間の取り方。相手の沈黙。


 ほんの少し角度を変えるだけで、不安は形を持つ。


 そしてその不安に、答えを用意する。


 それは、悪いことなのだろうか。


 相沢は立ち上がり、フロアを見渡した。


 笑い声が聞こえる。 誰かが手を叩いている。


 ここにいる時間が、その人にとって無意味だとは思えない。


 ——なら。


 このやり方は、間違っていないのかもしれない。


 その結論に、わずかな躊躇いを残したまま。


 相沢は次の業務に向かった。


ここまで読み進めてくださり、ありがとうございます。


 この物語を書きながら、何度も立ち止まりました。 どこまでが支えることで、どこからが奪うことなのか。 その境界は思っている以上に曖昧で、状況や立場によって簡単に揺らいでしまいます。


 相沢の選択は、正しかったのか。 あるいは、もっと別の道があったのか。 はっきりとした答えは、私自身にもまだ分かりません。


 ただ一つ言えるのは、 「誰かのために」と思って始めたことが、 いつの間にか別のものへと変わっていく瞬間は、確かに存在するということです。


 そしてそれは、特別な人間にだけ起こる話ではありません。


 支えることも、稼ぐことも、どちらも生きていく上で必要な営みです。 だからこそ、そのあいだで迷い、選び続けることからは逃れられないのだと思います。


 この物語が、誰かにとって 「自分ならどうするか」を考えるきっかけになれば幸いです。


 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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