ある完璧な公爵令嬢の話
ある国に『完璧な姫』と讃えられる公爵令嬢がいた。
筆頭家臣を父に持つ高貴な家に生まれ、飛び抜けた美貌にあふれんばかりの知性と教養、気品、博識で軽快な会話術。
貴族も国王も誰もが彼女を「非の打ちどころのない完璧な姫」と認めて褒めそやし、令嬢自身、そう称賛されることを当然と信じ、また自らの誇りとしていた。
彼女は幼い頃に王太子の婚約者とさだめられ、王太子もまた、この完璧な美姫に好意を抱いた。
二人の仲は常に良好であり、このまま良き夫婦となることを周囲は予感していた。
けれど王太子が十八歳、公爵令嬢が十六歳の時である。
王国に、実に百年ぶりとなる『聖女』が出現した。
平民で、飛び抜けた美しさや教養、気品も持たない十九歳の娘だった。けれど伝説に語られる「いかなる傷も病も、瞬時に癒す魔法の力」を有しており、その力で何人、何十人という怪我人病人を癒していく。
噂はまたたく間に王宮に届き、その頃、病床に臥せっていた王妃の治癒のため、少女は平民ながらも王宮の奥深くへの伺候を許される。
そして王妃は嘘のように快癒し、国王も王太子も大臣達も、そろって平民の少女に礼を述べて彼女の功績を絶賛した。
王妃の将来の義理の娘としてその場に呼ばれていた公爵令嬢の胸に、小さな影が生まれる。
やがて噂好きの侍女達のあいだで、ある噂が流れるようになった。
「王太子殿下は聖女に恋しておられるわ」
その噂はすぐに貴族令嬢達の間に、さらに、いい年齢の男達の間にまでひろがる。
「殿下は公爵令嬢との婚約を破棄して、聖女と結婚なさるおつもりかもしれない」
そんな憶測までまことしやかに流れる。
けれども公爵令嬢は、
(仮にも貴族達が、噂に踊らされてみっともない。市井の大衆小説の読みすぎだわ)
そう、聞き流していた。
一方で、
(もし大衆小説どおりなら…………わたくしは殿下から婚約破棄されて、そのあとに帝国の王子あたりの求婚が待っていて、将来は帝国の妃ね。悪くないわ)
むしろ、そちらのほうが自分にふさわしい。
そんな夢想にふけることもあった。
そして周囲の盛り上がりとは裏腹に、王太子は聖女に一定の好感は示しつつもそれ以上のことはなく、ましてや公爵令嬢との婚約解消など口の端にのぼることもなく、聖女も日々治癒の奉仕に邁進して、王太子と会うどころか、王宮に伺候することすら稀だった。
翌年。王太子と公爵令嬢は華燭の典を挙げ、三年後には国王が聖女の到着を待たずに、不慮の事故により崩御。王太子が即位して、公爵令嬢は王妃の座に就く。
新国王二十一歳、新王妃十九歳、聖女二十二歳である。
若い新王は老獪な大臣達に時に侮られ、手玉にとられつつも、少しずつ自分の考えを通していく。
新王の政策の特色として「女性の雇用を増やす」というものがある。
当時、王国では、女性は家庭内にとどまって家事と子育てに精を出すのが常識であり、社会に出て働こうとすれば様々な制限があった。
たとえば働きに出たければ娘は父の、妻は夫の許可が必要不可欠だったし、たとえ実質的に店を切り盛りしているのが妻でも、店の名義は夫でなければならず、契約書を作成する際も夫の署名がなければ話が進まない。優秀な妻が結ぼうとした有益な取引を、保守的な夫が無理解から潰して、経営をかたむけることもままある話だった。
女の仕事とされる裁縫でさえ、女が就けるのは下っ端のお針子。
富裕層向けの絹の下着やドレスを売買できるのは男性の仕立屋のみ、と法律で決まっていた。
新王は、この女性の雇用にまつわる様々な法律を少しずつ変更、撤廃していく。
そして聖女の娘は人生を癒しによる奉仕に捧げて、あちこちから送られてくる『寄付』という名の謝礼や貢ぎ物も、右から左へ孤児院などに送って、ますます『聖なる乙女』としての地位を強固なものにしていく。
まだ若く愛らしい容姿の娘が、未婚を貫いて浮名一つ流さないことについては、
「年頃の娘がもったいない」
「せっかく可憐な見た目に生まれついたのに不憫な」
と、惜しむ男や憐れむ女も少なくなかったが、どの言葉も聖女の心はゆらさない。
彼女は奉仕に邁進し、並行して、夫や父親を失って生活に困る女子供の援助に注力していき、聖女の名はますます国内外に知れ渡っていく。
「盛況ですね」
と、国王付きの従者が言った。
三日間にわたる祭りの中日のことである。
国王は私室のバルコニーに出て、気心の知れた従者と二人、都の賑わいを遠目にながめていた。
通りは人々の頭で埋め尽くされ、道の左右には屋台が並んで果てが見えず、芸人や楽団の奏でる陽気で騒々しい音楽が、風にのって王宮にまで届いている。
本日は聖人祭。『聖人』と銘打ってはいるが、事実上、都の民が祝福しているのは百年ぶりに降臨した聖女ただ一人であり、それを理解している国王のまなざしも満足気だ。
その横顔にぽつり、と従者が訊ねる。
「思えば、あの聖女様は、陛下との仲を噂されたこともおありでした。陛下にとっては、わずらわしいだけの噂だったのでしょうか。それとも…………」
幼い頃からの付き合いの深さと、人払いをしていて他に誰もいない、という気のゆるみ。
国王は静かに本心を明らかにする。
「心惹かれたことはない、と言えば嘘になる。だが、そもそも彼女とは不釣り合いだった」
「不釣り合い、とは。身分が、という意味でしょうか?」
「いや」と、国王はほろ苦くほほ笑む。
「彼女は地上に降臨した神の使いとして、この先、もっと広大な世界へ出て行くべき存在だ。彼女を求める者はこの世に無数におり、彼女自身もまた、それに応えられるだけの器量の持ち主だ。彼女は稀有なる聖なる乙女として、歴史にその名を永劫、刻むだろう。対して余は凡人だ」
「凡人などと、そのような」
「いいや」と国王は首をふる。そこに悔しさや嫉妬や憎しみの心はうかがえない。
「余はしょせん、多少仕事ができただけの凡庸な王の一人として記録され、後世に名を語り継がれることもあるまい。けれど人々は、余の名を忘れても、彼女の名を忘れることはない。余と彼女の間にはそれほどの開きがある。だが、それでよい」
聖女の名を讃える人々を見おろす国王の瞳には、彼女を誇らしく思う気持ちが輝いている。
「余は、数多の王の一人として死ぬ。彼女は無比の聖女として生き、おそらくは死ぬ。あの頃、大臣達の中には『聖女を妃に』と進言する者もいたが、退けて正解だった。地位にも夫にも縛られず、自分を必要とする人々のもとに、思うままに駆けていく。その姿こそ、彼女の本来の在り様なのだ。王妃などという肩書は、彼女の雄飛を妨げる足かせにしかならぬ。余の目に狂いはなかった。彼女のほうこそが、余などの妃に収まる器ではなかったのだ」
「陛下…………僭越にございました」
主君が何年にもわたって秘めてきた心を知り、気心の知れていた従者も深く頭を垂れる。
国王は従者をふりかえって笑った。
「今の王妃は、実に良き王妃だ。非の打ちどころがない。余と王国にふさわしい、完璧な王妃であり、余は満足している」
言いきると国王は室内に戻り、従者の手を借りて祝宴のための着替えをはじめた。
国王と従者。気心の知れた幼なじみ同士。
二人きりだったはずのその会話を、ひそかに立ち聞きしていた者がいる。
(不釣り合い、ですって? 平民の女と、国王が?)
元公爵令嬢にして現在の王妃である。
祭りの予定で忙殺される中、奇跡的にぽかりと空いたわずかな時間を、一人きりでの庭園の散策にあてていたのだ。
そして国王の私室の下まで来て、よもや王妃がバルコニーの下にいるとは夢にも思わず、国王と従者は話し出したのである。
王妃は自分が耳にした会話が信じられなかった。
(身分の差など、どうでもいい。あの女に陛下の、国王の器が見合っていないと言うの? 一国の王妃の地位が、あの女には不十分だと!? あの女の才能が、それほど偉大だというの!?)
王妃の腹がぐつぐつと沸きはじめる。
(陛下はご自分を『凡庸な王』と言った。そしてわたくしは、その陛下に『ふさわしい』王妃だ、とも…………。――――わたくしの器量が、あの平民の女に劣るとおっしゃるの!?)
美しく手入れされた爪が食い込むほど強く、拳を握りしめる。
屈辱だった。
生まれてからこの方、一度足りとして味わったことのない、この上ない侮辱だった。
王妃たる自分が。公爵令嬢として育てられた、わたくしが。
なにもかもに優れ、王国一の『完璧な美姫』として常に称賛され、讃えられてきた、この自分が。
あの、特に美しくも優雅でもない、教養も不足だらけの、治癒の力がなければただの娘でしかない、形ばかりの聖女に劣ると!
平民に劣る存在だと言うのか!!
よりにもよって、この自分の完璧さを誰よりも知り、認め、称賛せねばならぬ夫が! 国王自身が!!
許しがたい暴言だった。
不敬にすら思えた。
(わたくしは誰より完璧な姫――――わたくしを超える完璧な王妃など、この国のどこにも存在するはずない、あの国王はそんな事実も理解できないなんて――――!!)
自分は幼い頃から『完璧』の評価にふさわしい努力を重ねてきた。
その過去を否定する者、軽んじる者は、誰であろうと許さない。
たとえ国王であっても。夫であっても。
同時に確信した。
(陛下は、あの下賤な娘に恋しておられるのだわ)
美しさも気品も教養もなにもかもが足りない、ただ治癒の奇跡だけが取り柄の小娘を、国王たる男がひそかに想いつづけてきた。おそらくは結婚前から、ずっと。
それもまた王妃の癇に障った。
自分という完璧な美姫を長くそばに置いていながら、あのような下賤の女に心奪われるとは。
(絶対に許さない――――不敬と冒涜には、相応の罰を)
王妃は誓った。
それは復讐ですらなく――――不届き者に対する、正当な天誅だった。
国王は、完璧な王妃の完璧な人生に生じた、一点の瑕疵だった。
それからしばらくして。
聖女が死んだ。
新年を祝う祭りの最中に突然、血を吐いて倒れたのだ。
「いかなる怪我も病もたちどころに癒す」と謳われた聖女だったが、ただ一つ、己自身だけは癒せなかった。
医者だ、薬だ、と人々が大騒ぎする中、聖女は胸元を自身の血で真っ赤に染めたまま、静かに息をひきとる。
凶事の報はあっという間に国中に広まって国王も驚愕し、徹底した調査が命じられた。
亡くなった時の状況から、聖女の死因は毒による暗殺の可能性が高く、草の根分けてもその暗殺者を、ひいては黒幕を連れて来い、というのが王命だった。
むろんというべきか、黒幕は王妃だった。
『完璧』と讃えられた彼女は、暗殺も完璧にやってのけた。
毒物は誰でも手に入れられる種類を用い、現場には、自身の夫や婚約者や恋人が「聖女の虜になってしまった」と嘆き怒る女達を集めて、神殿の利権をめぐって聖女と対立していた貴族まで送り込んで、捜査を難航させることに成功した。
国王が調査を担当する大臣や役人達をせっつく隣で、王妃は美しい憂い顔を披露しながら、内心でほくそ笑む。
国王の許しがたい冒涜の元凶である聖女は消えた。
あとは一日も早く身ごもって、世継ぎとなる男子を産む。
次期国王さえ産んでしまえば、今の国王は用済み。
いつでも、いかようにでも『処分』できるし、なんなら幼い我が子が王位に就けば、国母となった自分が摂政として能力をふるうこともできる。
そうもくろんでいたが、予期せぬ出来事にはばまれた。
ある日、王妃は急な病に倒れて何日も寝込んだ。
幸い、病状は回復したが、医師から衝撃的な事実を告げられる。
女性の場合、この病は完治しても、不妊が後遺症として残ることが多い、というのだ。
耳を疑った。
自分は誰もが認める完璧な王妃。
世継ぎが産めない、などということがあるだろうか。
けれど現実は無情だった。
王妃の病の特徴を知っても、国王はすぐさま彼女を遠ざけるような真似はしなかった。
それどころか闘病を終えた彼女を労り、体調を見て、寝所を共にした。
けれど王妃は懐妊しなかった。
様々に努力したのだ。
医師から教わった、妊娠の可能性が高まるという運動を毎日の日課にとり入れ、怪しげな呪い師の勧める怪しげな薬を何種類も飲んだ。
それでも身籠らなかった。
はじめは優しい労りの目で見守っていた国王も、だんだん難しい表情で考え込むことが多くなる。
まして王妃や王妃の実家と対立する政敵たちは、ここぞとばかりに王妃を責めて、国王に王妃との離婚と新しい女性との再婚を勧める。
「どうして! こんなに努力しているというのに、何故身籠らないの!?」
優美さで右に出る者のなかった王妃が、毎晩のように私室で荒れるようになる。
『完璧な美姫』と謳われた、上品な王妃の乱れる様に恐れをなした、あるいは憐れんだ侍女の一人がつい、ぽろりとこぼした。
「こんな時こそ、聖女様がいらしてくだされば…………」
王妃は雷に打たれた気がした。愕然と立ち尽くす。
けれど侍女の一言は、周囲の者全員の偽らざる本音だった。
あの平民出身の、すべての患者を分け隔てなく癒しつづけた聖なる乙女の癒しの効果は、薬や常人の医師の比ではなかった。
彼女の奇跡があれば、王妃の病はたちどころに快癒して、後遺症が残ることもなかっただろう。
実際、王妃と同じ病を患いながら、聖女の癒しを授かれた女たちはその後、問題なく妊娠している。
「聖女がいれば…………!!」
王妃は呻いたが、今更どうにもならない。
彼女はその後、あやしげな祈祷や呪いをつづけ、彼女の父である公爵のひそかなとりはからいで、子だくさんと評判の遊び人の子爵と、幾度か寝所を共にまでした。
けれど、それでも王妃が身籠ることはなかった。
彼女は『完璧な姫』『完璧な王妃』だった。
美しさも知性も教養も、気品も優雅さも軽快な会話術も、血筋も家柄も温厚な人柄もすべて兼ね備えていた。
ただ、子供だけが産めなかった。
そして一国の妃はそれがすべてであった。
どれほど美しかろうと賢かろうと、王妃は世継ぎを産むことが絶対の使命。
国王に男子を授ける、それ以上に重要な役目は一つもない。
どれほど聡明であろうと、子供が産めなければ王妃としては無能。それが現実だった。
王妃は絶望した。
これまであれほど『完璧』と讃えられてきた自分が「子を産めない」、その一点だけで『無能』『無価値』の評価を下されてしまう。
とんだ屈辱だった。
けれど反論の余地はなかった。
王妃自身が「王太子殿下の良き妻となって彼の子を産むこと」「世継ぎの母となること」を至上の使命と教えられて育ってきたのだから、なおさらだ。
「聖女がいれば…………! どこか、誰か、同じような力の持ち主はいないの!?」
いるはずもない。
王妃が間接的に暗殺したかの聖女は、百年ぶりに降臨した唯一無二の存在だった。
「わたくしは完璧な王妃なのよ!? こんなことは許されない、認められない。このわたくしが、世継ぎを産めないなんて。役目を果たせないなんて! 女として王妃として、瑕疵があるなんて!!」
王妃は自室内を、半狂乱で叫びまわることが多くなる。
彼女のそんな狂態はまたたく間に侍女達の間で噂になり、噂は大臣達の耳にも届いて、やがて国王に忠告する者が現れる。
国王は妃を憐れんだ。
けれど世継ぎの件を無視することはできない。
国王は親族内に何人か男子がいたが、安直に彼らの誰かを養子に、と言い出せば、王族内に要らぬ諍いが生じて、国を割る事態にもつながりかねない。
国王が妃との間に男子を授かることが、もっとも問題ない方法なのだ。
神殿の掟により、この国では離婚が認められていない。
国王といえどもその事実はくつがえせないが、いくつかの例外は認められている。
たとえば、肉体的には未婚のままの白い結婚が一定期間以上、つづいている場合。
あるいは夫か妻、もしくは双方に生殖能力が認められない場合。これは正式な結婚から四年以上、子供がいない状態がつづけば「そうである」と判断される。
神殿は「王妃が後者の条件に該当する」と認め、国王夫妻の離婚を承認した。
国王は隣国から新たに若い王女を後妻に迎え、前王妃は王宮から離宮へ、もしくは実家である公爵家に住居を移すことを余儀なくされる。
嫁いできた王女は平凡な女だった。容姿も頭も人柄も特筆すべきところのない、若さと血筋だけが取り柄の女だった。少なくとも前王妃には、そう映った。
けれど彼女は華燭の典からわずか二年で夫と王国に、待ち望んでいた男子を授けた。
国王はむろん、国中が歓喜に沸いてお祭り騒ぎとなり、その喧騒は前王妃のいる離宮まで届いた。
新たな王妃は最終的に国王と王国に三男二女を授け、王太子がのちに歴史に名を残す名君となったこともあり、『王国の母』と人々に讃えられた。
その間も、前王妃のいる離宮は孤独と静寂に沈みつづけ、離宮の主であった前王妃は、世継ぎ誕生の知らせを聞いてほどなく心を病み、三十歳になる前にひっそりと王宮とこの世を去った。
国王は、女性の雇用や社会進出に力を入れた王として、歴史に名が残った。
国王の子は、父を超える名君として伝説を残した。
国王の二人目の王妃も、名君を育てた賢母として名が残る。
聖女は王国に降臨して、またたく間に天へ還った稀なる聖人として、その功績ともども歴史に不朽の名を刻んで、長く長くその名を語り継がれた。
前王妃は「不妊により離婚」と瑕疵のみが記録に残された。
彼女が『完璧』と謳われていたことを知る者は、もういない。




