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ふ、と意識が浮上する。
さらさらと髪をすくように撫でる指先を感じた。
緩やかに優しく、愛おしげに俺の頭を撫でる感覚は妙に心地よい。
「母様……?」
そうだ。この感覚はまだセリーヌ姫と出会う前の幼い頃合い、母に抱きしめて頭を撫でられた感覚とよく似ていた。
俺の呟きに俺の髪を撫でていた指先は一瞬だけ止まり、それから小さな微笑みを落とすような声音を響かせてまたゆるゆると俺の頭を撫で始める。
その笑う声音は母のものではなかった。
どこかで聞いたことのある……ああ、そうだ。この声は傷もの令嬢の。
「っ!」
そう思ったらハッと一気に目が覚めて俺は飛び起きるように身を起こした。
目に飛び込んでくるのは驚いて目を丸くする傷もの令嬢の顔。
中途半端に手を浮かす彼女を見て、俺は今まで俺の頭を撫でていたのが彼女なのだと思い至って羞恥に顔を熱くした。
「す、すみません。無様な姿をお見せしました」
よくよく見ればここは執務室。机には無造作に書類が散らばって、ペンが床に落ちている。
どうやらあの後、俺は仕事をしながら寝落ちてしまったらしい。
「いいよ。婿殿の寝顔可愛かったよ」
「……もう二度とこのような姿は晒しません」
にっかり笑う彼女に苦々しいものを感じて、俺は机の上の書類を集めて床に落ちたペンを拾う。
と、床に落ちたペンを俺が拾うより早く、彼女の固くて無骨な手がペンをさらって俺に差し出した。
「………いつお戻りに?」
「今朝方。日の出前くらいかな」
ペンを受け取りながら問えば、そんな返答が返る。
「それは……長い討伐、お疲れ様でした。出迎えもできずに申し訳ありません」
「いいのいいの。でも婿殿も頑張り屋さんだね。朝まで仕事してたの?」
空が白んでいたことはうっすら記憶があったが、定かでないので俺は無言を通す。
「朝ご飯にする? 簡単なものだったらすぐできるってサーシャから聞いてるよ」
「ではそうしましょうか。あなたも夜通し戦っていたからお腹がすいているのでは?」
「うん、もうお腹ペッコペコ」
そうして「ごっはん、ごっはん」と歌いながら執務室の扉をくぐろうとする傷もの令嬢の後ろ姿を眺めた俺は、ふと違和感を感じた。
「……失礼」
「っ……!」
この違和感が気のせいなら、と思って彼女の二の腕を掴めば、彼女はほんのわずかに体を強張らせた。
違和感が確信に変わる。
「怪我をなさってますね。手当てはされましたか?」
「え……あ、ああー、あははは」
少し鋭く声を作って問えば、彼女は曖昧に笑った。
俺はそんな彼女の様子に苛立ちを覚え、少しばかり乱暴に彼女の腕を掴んで強引に椅子へと座らせる。
「む、婿殿、大丈夫だから! ほっとけば治るんだよ。あたし、人より頑丈で」
「だからといって放っておいていい道理はないでしょう。そもそも些細な傷を放置して戦いに挑み、取り返しのつかないことになったらどうするんですか。あなたはこの辺境地の要なんですよ。サーシャ、今すぐ治療道具を持ってここに来てくれ!」
「だから大丈夫だって、婿殿〜!」
俺の腕に縋る傷もの令嬢を一蹴し、俺はすぐに駆けつけてくれたサーシャから治療道具を受け取ると、椅子に座らせた彼女の前に仁王立ちして低い声で言った。
「怪我したところはどこですか?」
「う、うー……」
「怪我したところはどこです?」
「……わ、わかったよう」
このまま聞き分けがなければ強引に脱がすことも検討していたが、彼女は小さく唸ると自分からシャツを捲り上げた。
上半身下着姿の彼女の肩口に血の滲む噛み傷ができている。
傷を触らないように清めれば、ささやかな四つの穴が空いていた。
蛇……いや、蝙蝠だろうか。大きさは多分猫ほどか。
「少し沁みますよ」
「いっ……!」
薬を塗り、ガーゼを当てて包帯を巻きつける。
大人しく治療を受ける傷もの令嬢はずっと罰が悪そうな顔をしていた。
時折ちら、ちらと俺の顔を伺うように見つめる琥珀色の瞳を無視して、俺は巻きつけた包帯をきちんと留めて手当てを終えた。
「次からはきちんと申告して手当てを受けてくださいね」
「うぐぐ……」
「返事は?」
「わ、わかりましたぁ」
無理に返事をさせたからか、彼女は拗ねた顔のまま唇を尖らせていた。
子供のような顔に俺はため息をついて、治療道具を片付ける。
その間に彼女は脱いでいたシャツを拾い上げ、いそいそと着ている。
彼女に視線を流した際にその背中が目に飛び込んで、俺は慌てて視線を背けた。
「……いつもあなたはこのように怪我を?」
チラリと見えた彼女の体にはたくさんの傷が刻まれていた。
大きなものも、小さなものも。たくさんの古傷だらけの体はとても女性のものとは思えず、痛々しかった。
「今日は特別! 魔獣の数が多い上にパニック起こして逃げ出した商人を庇ったもんで」
慌てて言い訳をするように言う傷もの令嬢に俺は思わず顔を歪める。
きっと彼女の体に刻まれた傷はそうやって積み重ねられてきたものなのだろう。
この国の守護者を司る辺境伯を背負う身の上とはいえ、女性が背負うものではないように思えた。
「……婿殿、怒ってる?」
「何を?」
「…………自分の妻がさ、傷作って帰ってきたの。王都の人は嫌がるじゃん? 女性に傷とか、そういうの」
「……そうですね。怒ってます」
少し考えて、俺はそう答える。
途端に傷もの令嬢がしゅんとしょげかえった。
「たとえあなたにとっては些細な傷でも過信せず、早めに手当てをしていただきたかったです。あなたは辺境伯です。あなたがいて、皆を守ってくれるから領民は逞しくこの地で生活できているんですから。あなたの代わりは他にいないんですよ。もっとご自分の体を大切にしてください」
俺がそう告げれば、彼女はハッと顔を上げて俺の顔をじっと見つめた。
俺は俺を見つめる琥珀色の瞳を見返して、小さくため息をつく。
「あと体に傷が残って気にするのは俺でなくてあなたの方でしょうに。自分で言っていたでしょう、自分は女性だと……そこをご自分で蔑ろになさらないでください」
「婿殿……」
そう言いたいことを言い切れば、彼女はまんまるにしていた目をやがて嬉しそうな笑顔に染めて俺の胸に飛び込んできた。
驚いて反応が遅れたものの、なんとか彼女の体を受け止めることに成功する。
「そっか……えへへ、ありがとう、婿殿。大好き!」
「っ? ???」
何がどうしてそうなった?
俺は戸惑い、彼女の肩に触れる。
抱きしめ返すことはできなかった。
けれども彼女は構わず嬉しそうに俺の胸に猫のように擦り寄って、ぎゅうぎゅうと抱きついている。
触れた肩が細い。
思いの外、背中も小さい。
辺境伯と彼女の背負うもののギャップに眉が寄る。
ああ、まただ。何故だか奇妙な煩わしさが胸に込み上げて、苛立つ。
「あの、お離しください……朝ご飯を食べにいかれるのですよね?」
「あ、うん。そう、そうだった。お腹ペコペコだったんだよ、あたし」
俺がそう口にすれば、彼女はあっさりと気をそらして俺から離れてくれた。
が、
「……? あの?」
ふと彼女に手を取られ、きゅ、と握られる。
幼女が父か歳の離れた兄の手を握るような仕草だった。
「婿殿は優しいからこれぐらいのスキンシップは許されると思った」
何かと思えば、彼女は真顔でそんなことを言い出す。
「…………………まあ、そうですね。構いませんけど」
俺は少し悩んだ後で確かにこれぐらいいいかと結論づけた。
そもそも夫婦だ。むしろ足りないくらいだろう。
傷もの令嬢は俺の返答にホッとしたように笑い、子供のように俺の手を振り回した。




