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結局あれから三ヶ月が経った。
俺たちはまだ一線を超えていない。
立場もあまり変わっていない、気がする。
俺は何となく彼女に苦手意識を持って一線引いてしまい、けれども彼女はそんな俺に構わずズカズカと土足でその一線を踏み荒らす。
あれから三ヶ月。されども三ヶ月。
変わり映えのない日々にほんの少しだけ焦れる自分がいる。
何に焦れているかといえば、自分のよくわからない気持ちにだ。
彼女が悪人ではない、領主として好ましい人物だというのは薄々わかっている。
淑女としては粗野でマナーのなっていない山猿のような人でも、ここは王都とは違う辺境地。王都の常識に当てはめられるようなものではなく、ここでは普通なのだともわかっている。
ここの女性は皆、大口を開けて、時には歯を見せて気持ちよく笑う。
食事のマナーのへったくれもなく、ただ美味しいものを美味しいと分かち合って笑顔で食べる。
さすがに魔獣を打ち倒して返り血塗れになるような人は彼女の他にはそういないが……けれども皆働き者で、特に魔獣の備えにはキビキビと男女関係なく自分の仕事をこなし、助け合っている。
魔獣の蔓延る土地と聞いていたが、俺の想像以上にこの地の民は逞しく、明るく力強く生きていた。
その頂点が彼女、傷もの令嬢。
……別に嫌いではない。
王都の淑やかで大人しい貴婦人を好ましく思っているのは確かだけれど、隣人を思いやれる快活なここの女性も好ましく思っているのだ。
でも俺は何故だか妙に傷もの令嬢からは距離を置きたがったのだ。
この距離を空けたい気持ちが何なのか、いまだに解明ができないことが気持ち悪くて、焦れている。
「婿様」
軽いノックの後の後女性の声が響く。
サーシャだ。
彼女の声に俺は机から顔を上げて書き物をするペンを置いた。
「どうぞ、入ってくれ」
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
「ありがとう。そろそろ休憩にしようと思っていたんだ」
サーシャの気遣いに俺は机の上の書類を重ねてまとめ、端に避けた。
サーシャの持ってきたお茶にはお茶請けがついていた。
綺麗に剥かれたリンゴである。
「そちらはお館様からです。とても良いリンゴがなっていたから婿様にと」
「……ああ、そうなのか。ありがたくいただくよ」
サーシャの言葉に彼女の得意げな顔が思い浮かぶ。
途端に何だか複雑な気持ちになって、取り繕うような微笑みを浮かべてリンゴをひとつ手に取った。
さくりとかじればリンゴの香りが鼻に抜け、甘酸っぱい味が口に広がる。
蜜の偏りがある。
甘いところとそうでないところ。当たり外れのある気まぐれなリンゴは食べ慣れない新鮮なものだった。
まあ、まずいわけではない。
「うん、美味しかった。彼女は今日、夕食に戻るのかな? お礼を伝えないと」
「緊急の魔獣討伐がなければお戻りになるかと」
「そうか、ありがとう」
「婿様のお仕事の進捗はいかがでしょうか? もしお館様やゴルドー様にお伝えすることがあるならば承りますが」
「いや、今こちらから報告すべきことは特にないから大丈夫だ。お茶、美味しかったよ、ありがとう」
俺がそう告げてティーカップをおぼんに置けば、サーシャはぺこりと一礼をしてティーセットを下げるために部屋から出て行った。
その背を見送り、俺は深くため息をついて背もたれに背中を預ける。
それから端に寄せた書類を手にして、中身を眺める。
中身はこの辺境地の予算案だ。
この地にやってきて、とりあえず自分のできることを手伝おうと領地経営の手伝いを申し出たのが始まり。
そうしたら思った以上に雑な経営が見えてしまい、あれこれとつい口出ししていたら全部を押し付けられていた。
ぽっと出の男に全てを任せるなんて正気を疑ったが、彼らに「婿殿だったら間違いない」と押し切られ、結局俺が今執務の全てを取り仕切っている。
………いや、もっと危機感持てよ!
たまたま俺にそういう気がなかったとはいえ、この地を食い物にするような悪心を持つ男だったらどうなっていたことか。
人を疑うことを知らない純粋な心根と言えば聞こえはいいが、単に疑うことを知らない馬鹿の所業だぞ、これ。領主として危うすぎる。
眩暈がしそうな心地に俺はまた深くため息をついて、改めてペンを執った。
カリカリとペンを走らせ、溜まっている書類に目を通し、やらなければならないことを優先順位をつけて抜き出しておく。
これは傷もの令嬢へ。これはゴルドー・ドラゴニアへ。頼む仕事も割り振って、これでよいか相談しよう。
皮肉なことだ。王配として学んできたことをこういう形で実践することになるとは思いもしなかった。
気がつけば部屋が暗くなり、書類の文字が見えにくくなったところで俺はもう日が暮れる時間になったのだと知った。
最後の書類にサインを入れて、ここでひとまず仕事を切り上げることにする。
執務室を出ればサーシャが夕食に呼びにきた。
食堂に着けば、そこには誰の姿もなかった。
「彼女と、ゴルドー様は……?」
「新たな魔獣の群れが発生したようで、お二人は今日お戻りになることができなくなりました」
「ああ、そうなのか……今、魔獣はそんなに頻繁に出没するものなのかい?」
「今は繁殖期なので」
「そう……恐ろしいね」
「こちらでは普通のことですから」
一礼をするサーシャに俺は短く頷いて、食事の席に着く。
この三ヶ月、このテーブルにはいつも二人のどちらかがいて、一人で食事を摂るのは初めてのことだった。
運ばれてきた食事はいつものようにあたたかで素朴な美味しさだったが、不思議と食事の席が静かなだけで味気なく感じてしまった。
……そういえば王配の教育を受けていた頃、忙しくて食事は大抵ひとりで摂っていた。
セリーヌ姫と食事を摂る約束をしていても、彼女の気まぐれで直前にキャンセルされることも多かったし。
これは別にホームシックではない。
ただ、こうしてひとりで静かに食事を摂るのはあの頃と同じ気持ちを思い起こさせて、食が進まなくなってしまった。
カトラリーを置いてしまおうかとも思ったが、近くに控えたサーシャを見たら何が何でも胃に詰め込まなくてはいけない気持ちになって俺は無理矢理食事を腹に収めた。
魔獣に脅かされながらも逞しく畑を耕し、ここにいる俺ひとりのためだけに食事を作った領民のことを思うと残すのは忍びなかった。
食事を食べ終えて、俺は食堂を辞すと自分の部屋ではなく何となく執務室へと向かった。
今、何だか眠る気にはなれなかったのだ。
今日の仕事は終わっていたが、やろうと思えばできる仕事はまだまだある。
執務室の扉を開き、ランタンに火を灯して書き物のペンを執る。
ふと脳裏に賑やかな食事の席が過った。
煩わしいと思っていたはずの傷もの令嬢のあの歯を見せて笑う顔が思い浮かんで、俺は奥歯を噛み締める。
胸に石が詰め込まれたみたいな重たい気分だった。




