処方番号1-4 『月をおひとついかが?』
この年一番の最高に晴れた空
長い間ご機嫌が斜めだった天気で 滞っていた商品の流れが一気に駆け出す
虫の声 草の匂い 慌ただしく駆けるほうき雲さえ 美しく思えた私は浮かれていました
普段行かないような場所にまでどんどん進み
新しいお酒が入荷していないかよくよく目を凝らす
けれど 時が過ぎるのは早いもの
いつの間に明るい夕暮れがキラキラと辺りを照らしていました
メインから遠く外れた水路沿いの脇道
影に隠れた小さなお店
西日がなければ分からない 東の陰に隠れた不思議なボロの店
初めての品々に目がキョロキョロリ
偶に小さな隣人の手作りが流れてくる と店主のお婆さまは言いました
草の汁で汚れた薄茶のラベルに逆さ吊りのお月様
人を怖がる蝶すらも
ひらりひらりと堕ちる酒 お幾らか?
これはとある優しい妖精が
甘くて面白いお菓子を買う為に
壊れて怪我をしたガラスの妖精の為に
お月見好きな花の蜜をたくさん集めて作ったお酒らしい
人が作るお菓子には お金がちょっぴり必要です
ホントは紙切れなんて欲しくはない
金銀銅は重過ぎる
できればお菓子に変えて渡してやりたい
貴方は何かお持ちです?
慌てて体を叩いて探しますが
出てくるのは美味しそうにないお金だけ
魔法は得意なのだけど 料理はちょっぴり苦手です
それでも欲しがる私は 大仰に嘆いてみせるだけ
きっと道化と思われたでしょう
ゆっくり呼吸を整えて
慣れた口調で諦めの言葉を口にする
「残念ですが、またの機会に――「買います」」
黄昏を超えて飛び出した 無月の夜より黒い瞳
ずぶ濡れのフードに隠れた黒髪からは 夜雨がしとしと降っていた
ポケットから取り出した銀の棺を開けて見せる
砂糖でできたお星さま 溢れるほどのお星さま
これならきっと喜ぶと
お婆さまはにっこり笑いました
星は店主の手に落ちた
月は彼女の手に昇る
月を星で買ってみせた彼女はこう言います
「月をおひとついかがです?」
始まりのラッパが高らかに響く
この年一番に熟れた果実よりも甘酸っぱい恋を知った日でした
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「タンマ、タンマ、タンマッ!!」
何の話、というか誰の話ですか? これ。
うっとり酔いしれながら大人の社交場で語るにはいささかポエムが効き過ぎじゃないだろうか?
ていうか、なんだ『月をおひとついかがです?』って。そんなこと私は一言も言った覚えがない。
いつの間にか海に放り出され、揉みくちゃになっていた所をどうにか這い上がり、時々すれ違うヒト種を超えた他種族からの不審な目を尻目に水路沿いを歩きながらこれからどうすればいいかぼーっと考えていると客と店主の拗れた話を耳にし、お金じゃなくていいのかとこれ幸いにと鉄のタブレットケースに入れておいた金平糖とお酒を、そしてお酒と一宿一飯の権利を交換してもらうというわらしべ的ナイスなアイディアを実行に移しただけ……いや、まて。ファンタジー要素が強すぎる町を徘徊していたせいか、ついノリと勢いでポエミー調な語り口になっていたような気も………………。
その他三名は、ほんのり頬を染め上げるマスターの口から突如雪崩れ込んできた砂糖の塊を処理しきれない様子だった。
子供向けに作られた昔懐かしの菓子のような憎み切れないチープな癖がある分、容易に吐き出すこともできず仲良く眉間に皺を渋滞させている。
「最近調子が悪い日が続いたせいでとうとう幻聴まで聞こえてきたと思いたかったけど、そうノリノリで話されちゃ現実逃避も出来ないわ……。
そもそも、どうして惚れさせた当事者が一番驚いているのよ…………」
眉間に出来上がった綺麗な白い皺を指で丁寧に解しながら流し目でこっちを見る。
「惚れられていたことに一番驚かなきゃならないのが私だからですよっ!!
打算ありきの親切が急カーブして甘酸っぱい交通事故になってたなんて思うわけないでしょう……」
やたら連泊を勧めてくるから何かあるんじゃないか勘ぐったが、仮とはいえ定住できるなら都合がいいと適当に頷いてしまったのが良くなかった…………。頭が痛い。
爆発の後始末に取り掛かるようにマスターは軽くその後の顛末を話し出した。
買い上げた酒を譲る代わりに、宿泊先を斡旋して欲しいという提案を飲んだことを。
寝床として自身が営むカフェの屋根裏部屋と、愛のある食事を提供することにしたことを。
正確には満面の笑みを浮かべつつ問答無用で引きずりながら爆走する彼に口を挟む余裕もなく、あちこちボロボロで何匹かの蜘蛛が既に滞在なさっていた部屋に放り込まれたこと、おぞましい黒になるまで沢山の調味料が玉突き衝突を起こした事故料理であったと訂正すると、幸か不幸かそっちが本当だと切ない目で信じてくれた。
だがしかし、信じがたい話は最後の一つにあった。
――とある違和感から彼女は異ならざる世界からやってきたのではと、思い至ったこと。
店に連れられて早々、「貴方、どこの世界から来たんです?」と尋ねられた時は本当に驚いた。
何故? よりも先にどう誤魔化すか、凍り付いた頭を無理やり回そうとしたが、さっきまでヘラヘラと緩みきった瞳が一変して真っすぐ貫いてきたのだから、無意味と白旗を振るまでコンマ数秒も掛からなかった。
なにより、こちらの世界の常識も知識もない状況下、半端な隠ぺい工作で身の安全を確保出来る訳がない。ならば、引き伸ばされたゴムの片端が引き戻るように勢いよく距離を詰めてくるこの不審者を僅かでも一瞬期待してしまった己のカンを信じてみた方が、どう転んでも仕方なしと諦めがつくし、最悪の場合でも心置きなく目の前の男を恨み殺せる気がした。
「趣味の悪さを馬鹿にすればいいのか、いつにも増して気色悪くなったコイツに目を付けられた仔ネズミを憐れむべきか、悩ましいところだな……」
興味なしと格好つけてはいるが、手に持ったグラスが歩きたての小鹿の足にしか見えない時点で意味がない。ああっ! 零れる零れるっ!!
「皆さん……少々酷くありません? 私が恋心を抱くことはそこまで可笑しいものでしょうか?」
「アンタに恋心なんて可愛らしいものがあったってことに問題があるのよ」
散々な言われようにちょっと可哀そうだと思い始めた自分もいる。
……いやいや、だとしてもだ。未開の地で得体の知れない野郎の恋心を受け止める覚悟はない。
爆弾の余波が大きすぎたせいか、全員タジタジだ。この場の支配権はその名の通りマスターに掌握され、桃色一色のカクテルを注ぎ始めたあたり高揚極まっている事が窺える。
「――――実話かどうか、誇張表現が多くてやや不安が残るけど……、経緯はわかった。
けれど、異世界なんていきなり唐突過ぎやしないかな。他人の生まれ育った故郷を否定する気はないけども、そんな突拍子もない考えに至ったきっかけは何だったんだい?」
「“魔力炉がない”という事実では、説得力に不十分ですか?」
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静寂は早くも舞い戻る。
どうやら、夜はまだまだ続くらしい。