8:お客様をお迎えする準備をしました
渋々ながらも貴族として暮らす事を了承すると、急な話の数々に疲れ切った私を、父さんたちは一人にしてくれた。昼食の時間には、母さんが心配そうに声をかけてくれたけれど、どうしても食べる気になれず、そのまま部屋に閉じこもった。
(私が貴族の娘かぁ……。こんな暮らしに慣れる日が来るのかな)
だらりとソファにもたれかかり、ぼんやりと部屋を眺める。この部屋は客間だそうで、父さんは近いうちに私の部屋を用意すると話していた。
空いてる部屋があるなら、私としては適当に使わせてもらえれば充分なんだけれど。貴族の娘となるからには、そういうわけにいかないらしい。壁紙を張り替えて、カーテンや絨毯も私に合わせた色合いに変え、家具類も新調するんだとか。
どう考えてもやり過ぎな気がするけど、好きなようにやらせてあげてほしいと、兄さんからも頼まれてしまった。
(放っておくと、父さんはどこまでも散財しそうだよね。母さんの部屋も整えるって言ってたし。どこかで止めないと心配だなぁ。急に二人も家族が増えたんだから、ただでさえ大変なはずなのに。私たちのせいで、この家が傾いたらどうしよう?)
貴族は私たちよりずっとお金持ちだって知ってるけれど、限りはあるはずだ。兄さんはしっかりしてそうだから、きっとある程度で父さんを止めてくれると思うけれど。
……止めてくれるよね? 信じてるよ、兄さん。
(明日は親父さんと女将さんに、挨拶に行かなきゃな。こんな急に辞めることになるなんて。迷惑かけて本当に申し訳ない)
貴族の娘が、下町のパン屋で働くわけにはいかない。母さんも、これまでお世話になった働き先を辞める事になっている。
実の娘のように私を可愛がってくれた親父さんたちの事を思うと、胸が苦しくなった。
(父さんがこれまでのお礼をしてくれるって言ってたし、私がいなくなっても、お店がどうにかなることはないだろうけど。常連のみんなは、悲しんでくれるかな。イールトさんは、私がいなくなってもお店に買いに来てくれるかな)
パン屋の看板娘として働いて来た日々は、とても充実したものだった。優しいお客さんたちに囲まれて、本当に幸せだったんだ。それなのに、当たり前に続くと思っていた日常は、呆気なく消えてしまった。
失ったものの大きさと、これからやって来る未知の生活への不安で、押し潰されそうになる。それでも、逃げる事は出来なくて。
(せっかく父さんと会えたのに。素直に喜べないなんて)
悪いことばかりじゃないのは分かってる。兄さんも言ってたけれど、貴族になれるんだから本当なら幸せ者なんだろう。
それでも、そんなすぐには気持ちを切り替えられなくて。ウジウジしているうちに、だんだんと自分が嫌になった。
(こんなの、私らしくないな。思った通りにいかないことなんて、今までいくらでもあったじゃない。地味な私には、元気と明るさぐらいしか取り柄がないんだから、しっかりしなくちゃ。頑張れ、私)
自分に気合いを入れるべく、頬を叩いて無理やり笑顔を作る。大丈夫だと何度も自分に言い聞かせて。きっとそう遠くない未来にこの生活にも慣れるよって、自分を宥めた。
(母さんに謝らなきゃ。心配かけてごめんねって)
気持ちが落ち着いてくれば、心配そうな母さんの顔が頭に浮かんだ。
色んな苦労をたった一人で背負って私を育ててくれた母さんが、ようやく父さんと一緒になれるっていうのに。親不孝な私は、母さんの幸せに水をさしてしまった。
今度こそ、ちゃんとおめでとうって言わなきゃね。そして親孝行をしていこう。母さんは、家族の時間を取り戻したいって言ってたんだから。
そんなことをあれこれと考えていたら、静かな部屋にノックが響いた。
やって来たのは、母さんが昔ここで働いていた頃から親しかったというメイドのアンヌさん。今朝、私の着替えを手伝ってくれたのも彼女だ。
何か用かと首を傾げた私に、アンヌさんは微笑んだ。
「お嬢様。お客様がお見えになるそうなので、お着替えをお願いします」
「お客様ですか? 私に?」
「はい。奥様をお助けになられた方がお見えになるそうです」
アンヌさんの言う奥様は、母さんの事だ。母さんを助けた人って事は……。
(イールトさんだ!)
そういえば、イールトさんが後でお見舞いに来るって、母さんが言ってた気がする。さっきまで沈んでいた気持ちが、急に浮き上がるのを感じた。
それにしても……。
「こんな素敵なドレスなのに、着替えなきゃならないんですか?」
「今お召しの服は、部屋着ですので」
は? 部屋着? この肌触りのいい生地をたっぷり使ったドレスが⁉︎
「お見えになるのは、恩人のイールト様だけではございません。イールト様がお仕えされている、メギスロイス公爵家のご息女アルフィール様もご一緒だそうです」
「メギスロイスこうしゃくけって、何ですか?」
「メギスロイス公爵家は、貴族家のトップに立つお家ですよ。お嬢様」
貴族は貴族としか思ってなかったけれど、どうやら違うらしい。貴族には爵位という序列があるのだと、アンヌさんは話してくれた。
王家から賜る爵位は全部で五つあるそうで、その内、父さんが持っている子爵は下から二番目。対して、これからやって来るアルフィール様の家は一番上の公爵。
そしてさらに、同じ爵位の中でも力関係があるらしく、メギスロイス公爵家は、王国に四つある公爵家のトップらしい。
「イールトさんって、そんな凄い家に仕えてる人だったんだ……」
「公爵家のご令嬢をお迎えするのに、部屋着では失礼になりますから。お着替えしましょうね」
思わずぽかんとしてしまった私から、アンヌさんは問答無用で部屋着だというドレスを引き剥がし、お客様をお迎え出来るドレスに変えていった。
新しく着せられたのは、お姫様が着るみたいにふわふわと裾が広がる形の、まあ物凄いドレスで。これと比べたらさっきのは部屋着かもしれない……って、そんなの思えるわけない!
それに胸の辺りが私にはちょっと緩くてですね……布を重ねて詰められました。
女の子として何とも言えない気分になったけれど、それでも私には拒否権なんてない。私はまだ成長期だから、これからに期待出来るはずなんだ。きっと。
髪も結われて、化粧もされて、アクセサリーまで着けられて。鏡で見たら、急拵えながらもそれなりに貴族っぽくなったと思う。これも魔法の一つなのかもしれない。
「よくお似合いですよ、お嬢様」
「ありがとうございます。アンヌさんのおかげです」
「いいえ。これも旦那様の愛あってこそですよ」
この家に住んでいたのは父さんと兄さんだけだから、普通なら女物のドレスなんて用意出来るはずもない。でも父さんはずっと母さんを探し続けていたから、いつ見つかってもいいようにと、母さんに似合いそうなドレスやアクセサリーを毎年買ってたらしい。
化粧品類は劣化してしまうからさすがに買い置くわけにもいかず、午前中に急いで準備したらしいけど。下着や寝巻きまで一式全部揃えてたんだって。
再会出来るか分からない母さんのためにドレスを作り続けるとか、愛が重過ぎてちょっぴり引いてしまったけれど。そのおかげで助かったわけだから、一途な父さんの愛に感謝するべきなんだろう。うん。
その後ほんの短い時間だけれど、アンヌさんから貴族の娘としての挨拶の仕方を教わった。付け焼き刃でどこまで出来るか分からないけど、何も知らないよりはマシだと思いたい。
私が昨日まで平民だった事をアルフィール様も知ってるらしいから、ミスがあっても怒られないだろうとアンヌさんは言ってくれた。
でもやっぱり怖いよ。だって相手は貴族のトップなんだから。
そんなこんなで戦々恐々としつつ、玄関へお出迎えに向かえば、同じく支度を整えた父さんたちがいた。みんなに綺麗だねって言われたけれど、やっぱり私だけ異物感が物凄い。
父さんはまだいいけど、着飾った母さんと兄さんなんて直視できない美しさだからね。こんなキラキラした家族に本当に馴染めるのかと、また不安に陥ってしまう。
けれど、イールトさんの前では笑顔でいたいから。公爵家の馬車がやって来るまで、私は落ち込みそうな気持ちを必死で叱咤し続けた。