3:とんでもない事が起きました
しばらく動けなかった私だけれど、お店はまだまだ営業中。気合で気持ちを落ち着けると、中途になっていたパンの籠詰め作業を再開した。
「シャルラ。今日の配達は俺が行くか?」
「心配かけてごめんなさい。でも、もう大丈夫ですよ」
「だが、今日は帰った方がいいんじゃないか? 店ならもう閉めたっていいんだ。家まで送るぞ」
眉間のシワを深くした親父さんが、心配そうに見てくる。親父さんは、本当に優しい。私にも父さんがいたら、こんな風に声をかけてくれたのかなと思う。
「いえ。私も孤児院のみんなに会うのが楽しみなんです。でも、親父さんが行きたいなら、私が店番しててもいいですよ?」
「お前みたいな若い娘を一人にしていけるか。さっきの奴みたいな、お前目当ての男が来たら困る」
「イールトさんは、私目当てなわけじゃないですよ」
「もう名前で呼ぶ仲になったのか」
「たまたま教えてくれただけですって」
腕組みして言う親父さんはとっても不機嫌そうで、思わず笑ってしまう。そんな事ないって言っても、親父さんはいつだって信じてくれない。本当に私を大切に思ってくれてるんだなと思うと、心が温かくなった。
「じゃあ今日も、私と女将さんで届けてきますね」
「ああ。帰りもいつも通り、そのまま帰っていいからな」
「ありがとうございます。いつも助かります」
ゴルドの日はいつも、孤児院へパンを届けた後に母と合流して家に帰る。なかなか仕事先の見つからない母に、針子の仕事を紹介してくれたのは、ここの女将さんだったりする。
レース編みの内職をしていた事もあり、母は手先が器用で裁縫も得意だ。貴族向けのドレスを扱う事もある今の職場は、母の天職と言ってもいいと思う。
私と母にとって、親父さんと女将さんは大恩人だ。本当に頭が上がらない。
「シャルラ、行くよ」
「はい、女将さん。それじゃ親父さん、いってきますね」
「おう。今日もお疲れさん」
準備を終えた私は、女将さんと二人で孤児院へ向かった。
すれ違う町の人の多くは顔見知りで、挨拶を次々に交わしていく。そうして向かった孤児院では、子どもたちがパンを待ちわびていた。
「みんな、こんにちは!」
「おばさん、シャルラお姉ちゃん、いらっしゃい!」
「わあ! 今日のパンもうまそう!」
「ほらほら、汚れた手で触らないの。手を洗っておいで」
「はーい」
手を伸ばそうとするヤンチャな子たちを躱して厨房へパンを運べば、その後は自由時間。女将さんは院長先生とお茶を飲み、私は子どもたちと遊ぶ。
そうして楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
「またねー! シャルラお姉ちゃん!」
「うん、また来るね!」
子どもたちに手を振って孤児院を出れば、女将さんともお別れだ。「また明日」と挨拶を交わして、私は一人、母さんの働く店へと歩き出した。
ここ王都パルセは、王城を中心として区画がいくつもに分かれている。お城に近ければ近いほど、身分の高い人たちが住んでいた。
私たち庶民が暮らすエリアは、王都の一番外側。森に住む魔獣の侵入を防ぐために、王都全体を取り囲んでいる市壁のすぐ内側に広がっている。下町と呼ばれているのは、そんな庶民が使うお店の立ち並ぶ地区で、市場が開かれる広場なんかもあったりする。
逆に王都の真ん中にあるお城のそばは、貴族が住むエリア。お屋敷がたくさん建っている貴族街と、上町と呼ばれる貴族や富裕層向けの商業区がある。
下町と上町は、お城へ続く大通り沿いにあって、これもお城へ近づくにつれて店の格が上がる。
私の働くパン屋さんがあるのは、ちょうど下町の中間付近。母さんの働く仕立て屋があるのは、上町と下町の境目あたりだ。
(今日は何を作ろうかな)
晩ご飯の献立を考えながら、私はのんびりと道を歩いていく。まだ夕暮れ前だけれど、すでにだいぶ日は傾いてきていて、デコボコした石畳に落ちる影は長くなっていた。
王都の治安は比較的良い方だけれど、日が暮れた後に女一人で道を歩くのは、さすがにちょっと怖い。
少し歩く速度を早めようかなと思った時、街角に佇む人影が目に入った。
「シャルちゃん?」
「イールトさん!」
壁にもたれて気怠げに立っていたのは、イールトさんだった。イールトさんも私に気付いてくれて、にっこりと笑いかけてくれた。
「これから帰り?」
「そうなんですけど、母のお店に寄って行こうと思って」
「お母さん、お店を持ってるの?」
「あ、違うんです。お針子で働かせてもらってて」
お店で話した時よりずっと会話が弾む。どうしよう、すごく楽しい。
母の勤め先まで迎えに行って、その後一緒に帰るつもりだと話すと、イールトさんは空を見上げた。
「そういうことなら、そのお店まで送って行こうか」
「え、でも、人を探してるんですよね?」
「たぶんもうないよ。日中だってお嬢様には言われてるけど、もうすぐ日暮れだ。夕焼け空っては言われてないし」
「そんなことまで分かるんですね」
イールトさんが仕えてるお嬢様、何者なんだろう? 神殿で巫女様が授かるご神託は、もっと曖昧なものらしいけど。日付だけじゃなく時間帯まで分かるなんて、ビックリだ。
「まあだから、気にしないで。このままシャルちゃんを一人で行かせて、何かあったらそれこそ後悔する」
「大丈夫ですよ。日暮れ前にはお店に着きますし」
「でもどうせ、俺もお屋敷まで帰らなきゃならないからさ。行く方向は同じなんだ」
「お仕えしているお嬢様は貴族の方なんですよね?」
「そう。貴族街にあるから、上町は通り道。だからほら、行こう?」
「はい。ありがとうございます」
「こちらこそ」
結局私は、イールトさんに押し切られる形で一緒に歩き出した。手を伸ばせば触れられる程度の、程よい距離感で並んで歩く。
長身のイールトさんと私じゃ絶対に歩幅が合わないはずだけれど、私に合わせてくれてるんだろうな。早過ぎず、遅過ぎず歩いてくれるイールトさんの隣は心地良い。
けれど、私の幸せな時間はすぐに終わってしまった。
「コケッコー!」
「何だ?」
行先に、唐突に響いた鳥の声。何事かと目を凝らせば、路地から赤い鳥が何羽も飛び出してきた。
「あれは紅コッケー?」
「確かあの先は、精肉店だったね。絞める前に逃げ出したのか」
イールトさんの言う通り、肉屋のおじさんたちが慌てた様子で鳥を追いかけてきた。道行く人たちも協力して、紅コッケーは次々に確保されていく。
私たちも手伝おうかと思ったけれど、人手は充分足りてそうだ。
「大丈夫そうだね。でも、馬車が何台も立ち往生しちゃったし、あそこを通るのも大変そうだ。違う道を行こうか」
「そうですね。……あ」
「どうかした?」
「あそこに母さんがいます」
紅コッケーを捕まえる人たちの向こう側に、母さんがいた。お使いか何かでお店から出てきてたのかもしれない。
「母さん!」
「シャルラ?」
喧騒の中、大きく声を上げて手を振れば、母さんは立ち止まってくれた。捕まった紅コッケーたちを驚かせないように気をつけながら、私とイールトさんは母さんの元へ向かう。
母さんも私たちの方へ来ようとしてくれたけど……。
「コケー!」
「母さん!」
「まずい!」
不意に一羽の紅コッケーが逃げ出し、すぐそばで止まっていた馬車の馬が驚いて暴れ出した。
一台の暴走馬車が、母さんの背後に迫る。叫ぶしか出来ない私の横を、イールトさんが駆け抜けていった。
「きゃあっ!」
目の前で舞い散る赤い羽。轢かれそうになった母さんは、イールトさんが突き飛ばして助けてくれた。
けれど、横転した馬車のそばには、割れたメガネと吹き飛んだ帽子と、倒れて動かないイールトさんがいて……。
「いやぁぁ! イールトさん!」
駆け寄って声をかけても、イールトさんはピクリとも動かない。
嫌だ、死なないで。目を覚まして。
「シャルラ!」
「待ってくれ、君は……!」
「嘘……あなたは……」
未だ暴れる馬に引きずられている倒れた馬車を止めようと、町の人たちが馬車に群がって。その中から、転がるように這い出てきた男の人が、母さんに話しかけていたみたいだけれど、私はそれどころじゃなかった。
「イールトさん! イールトさん!」
涙で滲む目に映るのは、血の気の失せたイールトさんの顔。いつもカッコよく着こなしていた服は、薄汚れて破けている。
笑ってくれた顔が見れなくなるなんて嫌だ。せっかく名前を聞けたのに、私と一緒にいたばっかりに、こんな……。
「誰かお願い……イールトさんを助けて」
イールトさんに縋り付き、ぽつりと小さく呟いた。同時に体の奥深くから暖かい何かが溢れ出して……私はそのまま、意識を失った。