20:令嬢生活が始まりました
子爵家で迎えた二度目の朝。大きなベッドの上で目を覚ました私は、さらりと流れた自分の髪に、ふふふと笑ってしまった。
(あんなに傷んでたのに。本当にサラサラのピカピカになってる)
貴族はお金持ちだと知ってたし、このお屋敷が物凄いのも分かってたけれど。まさか、お風呂まであるとは思わなかった。それも、私の知るお風呂とは全然違うものだった。
(あんなにたくさんのお湯を一人で使うなんて、貴族って本当に贅沢だよね)
お風呂なんて、今までは週に一度入れたらいい方だった。普段は水を浴びたり、身体を拭いたりして清潔さを保って。下町にある公衆浴場に、仕事が休みの日に行くようにしてたの。
だからお風呂って、大人数で入るものだと思ってたけれど、このお屋敷のお風呂は一人用だった。大人が三人ぐらい寝そべれるような大きな浴槽があるのに、一人で使うんだよ。ビックリだよね。
そして他にも貴族のお風呂には違いがあって。何種類もの石鹸を使い分けるんだって。
身体用、顔用、髪用って分かれてるそうだけど、私は使い分けなんて出来るはずもなく。ものすごく恥ずかしかったけれど、アンヌさんに身体中磨かれた。
このお屋敷に気絶したまま運ばれた時は、父さんの魔法で私の身体を綺麗にしていたそうだけど。それはあくまで汚れ落としなだけで、お肌の新陳代謝とやらには全然足りないんだそうだ。
そういうわけで問答無用で垢擦りもされたし、お風呂上がりには良い匂いのするオイルを使ってマッサージもされた。あまりの気持ち良さにそこで一度寝ちゃったぐらい、アンヌさんの手は素晴らしかった。
そうして夢うつつのままネグリジェを着せられてベッドに移動して。一晩ぐっすり眠って目を覚ましてみれば、ビックリするぐらい髪も肌もツルピカになってたというわけ。
(あのお風呂にこれから毎日入れるなんて、夢みたいだけど。ここは夢じゃなくて、現実なんだよね)
ちょっとだけ。本当にちょっとだけ、貴族の娘になって良かったと思う。
そんな事を考えながら、ベッドの上で幸せを感じていると、アンヌさんが私を起こしに来てくれた。
「お嬢様、おはようございます」
「アンヌさん、おはようござ……アンヌ、おはよう」
「よく出来ました」
挨拶の途中、アンヌさんの目がキラリと光った気がして。昨日から何度も敬語をやめるように言われていたのを思い出して言い直してみれば、すごく良い笑顔が返ってきた。
なかなか慣れないけど、頑張らなくちゃ。
「さあ、お嬢様。お着替えしましょう。支度をしながら、今日のご予定をお伝えしますね」
「分かりま……分かった。でもアンヌ、そのドレスは?」
「これも旦那様が奥様のためにお作りしていたものですよ」
「ううん、そうじゃなくて。また違うのを着るの?」
「当然です。お嬢様は、モルセン子爵家のご令嬢なのですから」
貴族女性は、時間帯や用途によって一日に何回も着替えるらしく、ドレスは衣装部屋いっぱいに用意しておくものなんだとか。ただうちは子爵家だから、特別な用事がなければ朝と寝る前の着替えだけでいいそうだ。
今日は外に出かける予定はないけれど、来客はあるそうで。昨日の朝に着た部屋着のドレスよりもう少し綺麗めで、でも脱ぎ着しやすいワンピースドレスを着せられた。
(親父さんたちに挨拶に行きたかったけど……。お客さんが来るなら、その後かな。私が着てたいつもの服、捨てられたりしてないよね? ちゃんとあるか後で聞かなきゃ)
着替え終えると、芸術品みたいな鏡台の前に座らされて。髪をハーフアップにまとめられたり、軽く化粧をされながら、私はそんなことを考えていたんだけれど……。
「お嬢様には朝食を取りながら、ロバートのマナーレッスンを受けて頂きます。これは奥様も同様です。その後は、お嬢様と奥様がお世話になった方々との面会がございます」
「お世話になった方々って……まさか」
「パン屋と仕立屋のご夫婦を、お招きしているそうです」
「親父さんたちを⁉︎」
思いがけない話に唖然としてしまう。今日はパン屋の店休日だけれど、親父さんたちは何もしないわけじゃない。日替わりサンドの具材を考えたり、パン種を仕込んだり、小麦粉を仕入れたりと忙しいんだ。
それなのに、お屋敷に呼び出しちゃったなんて!
「お店まで、私が挨拶に行くつもりだったのに……」
「お言葉ですがお嬢様。それは先方にもご迷惑をおかけすることになります。お嬢様は貴族になられたのですから、慣れて頂きませんと」
下町に貴族が直々に訪れる事なんて滅多にない。あっても、身分を隠してお忍びで行くぐらいだろう。でも今回は、父さんも子爵家当主としてお礼を言いたいらしいから、お忍びで会いに行くのはあり得ないそうだ。
立派な馬車で店に乗りつければ目立つし、どんな噂が立つかも分からない。下手をすれば、貴族と知り合いならと親父さんたちにお金をせびる人も出るかもしれないと、アンヌは諭すように話した。
そうまで言われたら、私には何も言える事はない。しゅんとした私を慰めるように、アンヌは柔らかな笑みを浮かべた。
「こちらへお越し頂くからこそ、出来るおもてなしもございますよ。お嬢様と奥様に良くして下さった方々ですから。旦那様も、悪いようにはしないはずです」
「……そうだね。うん。お礼を言うんだもんね」
「そうですよ。お綺麗になられたお嬢様を見て頂きましょう」
支度を終えると、ニッコリ笑ったアンヌに案内されて、ダイニングへ向かった。その途中、廊下の窓辺から人影が見えて、私は足を止めた。
「あれ? あのメイドさん、アンヌと服の色が違うね」
「あらま、あの子ったら……。申し訳ございません。後でしっかり注意しておきます」
「注意? あの人、何か間違ってるの?」
「あの子は下働きの子で……」
アンヌは言いかけて、気まずそうに口ごもった。そこで止められたら、すごく気になる。
「どうしたの? 何なのか話してくれないの?」
「これはあの、お屋敷での決まりですので、奥様を悪く言うわけではないんです」
「母さん? ……そういえば母さんも昔は、このお屋敷の下働きだったんだっけ」
「はい、そうです。私ども使用人にも、階級がございまして」
貴族の屋敷は広く、維持するだけでも手間がかかる。だからそこには、当然多くの人たちが働いているけれど、そこには明確な線引きがあるんだそうだ。
「私のように、皆様のお世話を直接する女の使用人がメイドでございます。そのメイドの指示に従い、洗濯や掃除など見えない仕事を担うのが下働きの者です。下働きの者たちは、作法を身につけていない者がほとんどなため、皆様の視界に入らないように動きます。ですのであの子は本来、あそこにいてはならないのです」
「それって、難しくないの?」
「いえ。私ども使用人が使う区画と、お嬢様方が過ごされるフロアは分かれておりますから。決まりを守っていれば、それほど難しくはありませんよ」
「そうなんだ。じゃあ、どうやって父さんと母さんは出会ったんだろう?」
「それは……機会がありましたら、直接お伺いになられた方がよろしいかと」
話の最後、なぜか生温い目でアンヌは微笑んだ。何があったのか、聞きたいような聞きたくないような……。
「ただこれだけはお伝えしておきますが、奥様はとても真面目に仕事をする方でした。旦那様も当時はお若かったので、致し方ない面もあったのです。何をお聞きになられても、責めないで差し上げて下さいね。お二人が再会出来て良かったと、私もロバートも喜んでるんですよ」
「ロバートさ……ロバートも、昔からここで働いてるの?」
「はい、そうでございます。ロバートは、代々モルセン子爵家に執事としてお仕えしている家柄です。旦那様のスケジュール管理から、お屋敷全体の采配まで担っております。こちらで暮らす中で分からないことがありましたら、私かロバートにいつでもお聞きくださいね」
「分かった。ありがとう」
母さんと父さんが出会えたのは、父さんが何かしたからなんだろうって事は分かった。これ以上は深入りしない方が良さそうだ。
何となく気恥ずかしさを覚えつつダイニングへ向かえば、ロバートの指導を受けながら丁寧に朝食を食べる母さんと、それを優しく見守る父さんがいた。
ようやく掴んだ幸せを噛み締めるような二人の姿を見ていると、私が生まれたのって奇跡なんだと感じる。身分差を乗り越えて、こうして二人が一緒になるのだから、私も頑張らなきゃダメだよね。
「シャルラ、おはよう。入らないの?」
「兄さん、おはようございます。もちろん入りますよ」
「そうか。今日は朝から化粧したんだね。服も似合ってるし、その髪型も可愛いよ」
「ありがとうございます。兄さんも、今日もカッコいいですね」
「……ありがとう。改めて、これからよろしくね」
「はい。よろしくお願いします!」
ちょうどやって来た兄さんと、笑顔で挨拶を交わして。私は気合いを入れて、父さんたちの中に混ざっていった。