日常
びゅう、と冷たい風を感じて目が覚めた。
見ると、朝日の差し込む窓で白い日除け布が揺れている。
(開けっぱなしにしちゃってたか)
わたしは床から身を起こし、窓に歩み寄って朝の空気を吸った。
外は見慣れた広い川辺の風景。対岸に、建物の連なる街が遠く見える。
今日もいつも通りの一日が始まる。
あさぎ色の衣に袖を通し、暦を確認して気付いた。今日はわたしの十二歳第一日目だ。
だからといってなにを期待しているわけでもないけれど、自分でも忘れていたとは。少し自分に呆れてしまう。
台所に出てかまどの隣に目をやると、積み上がっている木切れは残り少ない。しまった、薪を手に入れに行くのも忘れていた。このぶんでは今朝の朝餉の用意にも足りないだろう。
少しだけ迷ったが、しょうがない。わたしはかまどの前に手をかざした。
ごう、と音がして、灰だけのかまどに赤い炎が燃えあがる。
手早く朝餉を済ませた後は、表に出て郵便受けの確認。今朝は薄く白い封筒が一通だけ入っていた。
わざわざ封筒に入れた手紙をこの家に送る人は、だいたい決まっている。
差出人も確かめずに開けてみると、やはり薄い便せんがこれも一枚だけ出てきた。細く整った筆跡で、短い文が綴られている。
そちらに帰るまで、まだもう少しかかりそうです。それまで下手をやらないように気をつけること
母
「まあ、いつものことだもの」
わたしは栗色の髪をかき上げ、封筒を鏡台の引き出しに入れる。
顔を洗い改めて身支度をしながら、もう一度壁の暦に目をやった。
「さて、今日やらなきゃいけないことはなんだったかな」
そういえば、そろそろ買い置きの食品や油が少なくなってきている。この間母様が金貨の袋を送ってくれたばかりだから、買い出しは早いうちに済ませてしまおう。
少し日が高くなるのを待ってから、わたしは手提げ袋を掴んで家を出た。
わたしが住む家があるのは、この街の中心部からはやや外れた住宅街。昼間は皆川を隔てた中心部に働きに出て行くので、人通りはめっきりと少なくなる。母様がわたしを住まわせるのにこの場所を選んだのも、一つはそれが理由だった。
といっても、ちょっとした買い物程度ならわざわざ中心部まで出なくてもいい。春の気配が濃い住宅街をしばらく歩いて、わたしは小さな商店に入っていった。
このお店は、川の向こうにある大きな店の支店のようなものらしい。毎日違う人が本店から来てお客を迎えている。今日は三十歳くらいの女の人だ。
ーーこの人の目には、わたしは奇妙に見えるかな。
どう見てもまだ子供の女の子が一人で手提げ袋を持って買い物に来るというのは、よくあることなのかそうでないのか、わたしにはよく分からない。もし珍しいことなら、今のわたしはきっと不思議に思われていることだろう。
書き出したものをすべて買って、店を出た。
「あとは薪か。でも、荷物を持ったままじゃちょっとなあ」
まあ、これは後でもいいかな。それよりも、せっかくだから久しぶりに書店に寄ってみようか。
書店はさっきのお店よりもさらに小さい、レンガ造りの建物だ。
「あら、ユリンちゃん。いらっしゃい」
扉を開くと、店番のおばさんがにこやかに挨拶をした。
「こんにちは・・・」
「ユリンちゃんも、すっかりこの店のお得意様ね。うれしいわ」
「そんな、わたしはそこまでしょっちゅう来ているわけじゃないですし、たいていは読むだけで買っていくことなんてあまりないですし・・・むしろご迷惑をおかけしてすみません」
「私はそんなことは思ってないわ。うちのお店を気に入ってくれてることがうれしいの。本が好きなら、川の向こうの図書館にも行ってみたら?本当に大きくて、たくさんの本があるんだから。ここなんか比べものにならないくらい」
「街の中心部はちょっと・・・」
はっとした表情になったあと、おばさんの顔が曇る。
「そうだったわね・・・ごめんなさい」
「いえ、そんな、全然」
「まあ、楽しんでいって」
おばさんがゆったりと笑って新聞に目を落としたので、わたしも本の並んだ棚を見上げた。一冊を手に取りながら、そっとため息をつく。
ーー街の中心部、か。
なんの気兼ねもなく行けたら、確かにいいだろう。でも人の集まるところはなるべく避けた方がいいと母様から言いつけられているし、わたしも万が一にも面倒を引き起こすのはごめんだ。
ーーこの店の人たちは、わたしの魔法のことを知ったうえで普通に接してくれている。それはうれしいけれど、他の人ははたしてどうだろうか。
考えるたびに、胸に重しを乗せられたような気分になる。
午後にもう一度出かけて薪を手に入れたあとは、部屋の掃除をしたり母様が買いそろえた本でちょっと勉強をしたりして過ごした。人々が仕事から戻ってき始める時間になると、もう出来るだけ外には出ない。
いつの間にか、窓の外はとっぷりと暗くなっている。天井からつるした灯油ランプの灯が、こうこうと部屋の中を照らしだす。
「さてと・・・」
わたしは書棚から何冊か本を取り出して、寝台の上に敷いた床に腰を下ろした。
わたしの趣味といえば読書くらいだ。あとは小さいころ母様に教えてもらったバイオリンだろうか。でもこれは、さすがに今の時間では近所迷惑になってしまう。
けれど読書なら、そんなことを気にせずに楽しめる。
並んだ文字を目で追いながら、想像力を働かせる。物語の中に表現された世界を思い描く。この本を書いた人は、こういうことを伝えたくてここでこんな工夫をしたのだろう、と考えたりもする。するとまるで、わたし自身が物語の世界の人々とそれを生み出した作者に引きこまれ、入りこんでいくような気分になる。
わたしはきっと、その感じが好きなんだと思う。
まあ、家にある本は限られてるから、何度も何度も同じ人々と世界に引きこまれることになるわけだけれど。
本に視線を落としたまま、目の前の机に置いたカップを取ろうと手を伸ばしたとき。
つるっ
「あっ!」
手がすべった気配に、心臓がはねて顔を上げた。が、時すでに遅し。白いカップは、まっすぐ床にむかって落ちていく。
「ああっ」
思わず声をあげてしまったとき、不意に、カップが空中でゆらり、と上向いた。
そしてそのまま、静かに床の上に降りる。中身は一滴もこぼれていない。
「ああ・・・またやっちゃった」
制御しきれずに困るというほどではないけれど、あせると時々無意識に魔法を使ってしまうことがあるのだ。ため息をつきながらカップを机の上に戻す。
ふと、机に置かれた本が目についた。昼間勉強に使った地図帳だ。
開いてみると、世界地図が出てきた。たくさんの国々が描かれている地図の、ちょうど真ん中あたりにひときわ太い境が引かれ、二つの領域に分かれている。
魔力を持たない人間がくらすこちらの国々と、魔法使いたちの国々。
両方の地域の間に、交流はあまり盛んではない。地域どうしの仲が悪いというよりは、余計ないさかいを起こさないようにするために。
魔法と人の手による技術。異なる能力を使い暮らす種族が関わり合うことは、ときに厄介な問題を引き起こす。人間が何でも魔法で解決しようとしたり、魔法使いが人間を魔力で従えようとしたり・・・といった感じに。
だいぶ昔、まだ二つの種族が同じ土地を共有していたころはそうだったという。
そんなことが重なって、二つの種族はいつしか世界を二つに分け合うようになった。いっそ互いに干渉しなければ余計ないさかいや面倒を起こさずにすむと、自然とそうなっていったのだと、歴史の本で読んだ。
そして今では、必要なときでなければ両方の地域を行き来する人もあまりいない。あちらこちらを旅する、魔人というか妖精の種族の人たちもいるらしいけれど、この人たちは魔力のない人間とも魔法使いともあまり関わらないようだ。
なるべくいらない関わりはもたない。お互いの世界を尊重し、踏みこまない。
そういうふうにして、二つの種族はいままでうまくやってきたのだ。
ーーそれなのに、どうしてわたしはこのように生まれてきたのだろう。
親戚に、魔力を持った人は一人もいない。だから遠いご先祖に魔法使いがいたとも考えにくい。祖父母より少し前の世代のころに世界が分かれてからずっと、代々こちらの国で暮らしてきたと小さいころに聞いた。
ならいったいどうして、わたしだけが魔力を持って生まれてきたのだろうか。全くの謎だ。
だからわたしは、川の向こうの街中にもそうそう出ていけない。もし大勢の人の前でうっかり魔法を使ってしまうようなことがあったら、どんな騒ぎになるか分からないからだ。長い年月がたって、魔法使いのことを恐れている人も少なくはないし、もしかしたら魔法で人を傷つけてしまうこともあるかもしれない。
だから母様は、昼間は人が少ないこの場所を選んだ。
床に横になり、天井を見る。これまでのことについて、考えてみた。
ものごころついたころにはすでに、母様のいる楽団に連れられて旅をしていた。皆が大勢の観客の前で演奏をするのを、舞台そでから見ていたことを覚えている。
母様の担当はバイオリンだ。美しい音楽に囲まれて、真剣な顔で弾いていた。わたしが母様にせがんでバイオリンを教えてもらうようになったのは、きっとその様子をかっこいいと思ったからなのだろう。
けれど楽団の人たちが言うには、そのころからわたしには魔力の兆候があらわれていたらしい。どんなに派手に転んでもけがをしなかったり、おもちゃの木馬に乗って進んでいるのに足をけっていなかったり。
そして六つか七つのころだったろうか、わたしは吊り橋の上から下の急流に向かってまっさかさまに落ちたことがあった。
しかし気がつくと、わたしはごうごうと音をたてる流れを目の前に見ながら、岩だらけの河原に立っていた。駆けつけてきた大人たちの呆然とした顔を、今でもよく覚えている。
そのときを境に、わたしの力ははっきり魔法だと分かるほどに現れるようになった。
それから今まで、少しずついろいろなことが変わってきた。
まず第一の変化は、母様がわたしに直接バイオリンを教えてくれることがなくなったことと、自分の練習にますますうちこむようになったこと。わたしの母様はどうやら魔法があまり好きではないらしいと、初めて知ったのはそのときだ。
楽団の人たちも、なんというか、わたしに対してどう接していいかわからないといった感じの様子になった。そのころはまだ小さかったから、そう気付いたのは少し時間がたってからだったけれど。
そしてほぼ一年前、わたしが十一歳になったちょうどそのころ、母様はわたしをこの家に移し、楽団から離すことにした。
他の人たちはわたしを気遣ってくれていたのか、あまりなにも言わなかった。でもまあ、魔女を連れていて都合のいいことはなにもないだろう。
それから今まで、この家でのくらしが続いている。
楽団の人たちに教えてもらったおかげで、身の周りのことはひととおりできる。だから今のところ困ったことは特にない。
母様の方は、今もバイオリニストとして楽団とともに各地を回っている。この家に来て顔を合わせるのは月に一度くらいだ。もしかしたら、なるべく来たくないというのが本音かもしれない。
もしも将来、わたしが魔法使いの国に移ったらどうなるだろうか。でも何も知らないところでうまくやっていくのはきっと簡単じゃない。
人間の世界に生まれたのに、ただの人じゃない。魔力を持って生まれたのに、魔法使いの世界では生きられない。
この世界の中で、わたしは「変わり者」だ。
わたしは、今の暮らしをどう思っているんだろう。正直よく分からない。
仕方ないと思っているのだろうか、それとも・・・夜になると、なかなか眠れず布団が体を締め付けてくるように感じることがある。
目を閉じると、何も聞こえてこないはずの静けさがやけに耳に痛い気がした。
わたしの毎日は、まあ、こんなかんじだ。