他人の言葉は響かない
「この毒ガスを止めろ!」
「皆......殺しだ!」
「どうしてそこまでして皆を巻き込みたいんだ!? お前だって皆を殺したいわけじゃないんだろう!?」
男の暴れる手が少し止まった。だがほどなくしてまた暴れ始める。
俺は男を羽交い絞めにして、どうにかこの部屋の中に押しとどまらせていた。
毒霧は時が進むごとに濃くなって今にも漏れ出してしまいそうである。
時間的余裕はそうない。
外から卒業生もクラスメイトも遠巻きに息を飲んで、事の行く末を見つめていた。
「なんでお前は俺の毒にかかっていない!?」
「俺もチーターだからです!」
「どんな能力かは知らないが、まさかここまで自分の能力と相性の良い人間が居たとはな」
自分を呪うようないかつい視線を向けてくる。
俺はそれに気圧されないようにじっと睨み返す。
抑えている手足は力強く床に押し付けられて赤く膨れ上がりそうだった。
「大体何でこんなことを続けるんですか! あなたは自分の将来がどうなっても良いんですか!?」
「終わったんだよ! 俺の人生は! 俺がどれだけこの受験に賭けて来たと思ってるんだ!?」
「受験に落ちたぐらいで人生が終わるなんて言わないで下さい!」
その言葉に男がカッと目を見開いた。
その目はとても充血していて、真っ赤になっていた。信じられないほどの狂気に染まっていた。
受験程度に何でそこまで。俺は真っ先にそう思った。
「お前に、受験の、何が分かるってんだ!! 俺がどれだけそれに賭けて来たか! 俺がこんな環境で、どれだけ必死こいて頑張って来たか! やり直しなんかできないんだぞ!」
「でもまだあるんでしょう!? 今は最初のが終わっただけだって!」
俺はニュースで後期の試験が3月中旬に行われることを聞いたことがある。
一度落ちてもまたそこで受け直せばいい。
「良いか!? お前は何も知らないだろうから、俺が教えてやる! 確かに前期の試験に落ちても後期の試験を受け直せる。でも二次試験の偏差値は大きく上がるから、目指していたところとはかけ離れたところを受けなきゃならない。滑り止めに私立を受ける人間もいるみたいだが、俺には私立に行けるような金がない。だから受けなかった! 背水の陣! 四面楚歌! 袋小路! 逃げる場所なんてどこにも無いんだよ!」
「レベルが落ちてもいいじゃないですか!」
「お前、それ、本気で言ってるのか?」
組み伏せている状態から胸倉を掴まれる。
鬼気迫る表情に俺は少しばかりの恐怖を覚えた。
「お前らはまだ高校受験しかしたことないから分からないだろうけどな、高校受験は第一志望に受からなかったところでどうにでもなるんだよ。でも大学は違う。大学は就職先が決まるんだよ! そして俺はレベルが落ちるか、そこでも落ちたら浪人する金もないから就職だ! これだけやって高卒で就職だぞ!? 中学でも私立に落ちてここに来て、高校でも落ちて就職! そこら辺に居るテキトーに高校して受験勉強も頑張らず就職したやつと同じだ! どこに未来が在るって言うんだ!!」
胸倉を掴み、唾を勢いよく飛ばしながらそう話す。目からは涙を流していた。
「そう、だったん、ですか......」
俺は卒業生たちが頑張っていることは知っていた。
だからお疲れ様という意味も込めて、この会をしていたのだ。だが、卒業生は俺が思うよりもキリキリと張りつめた心情で俺達の事を見つめていたのだ。喜んでやらないと失礼に値することを知っていたから。
俺はそこまで頭が回らなかった。
大学受験というのは俺が思うよりも恐ろしいものだったのかもしれない。
男は力なく胸倉を掴む手を放し、腕をぶらりと床に放り出した。
「だから道連れですか」
「そうだ」
俺は長く溜息を吐いた。
今の溜息はそんなつまらない理由で、ということではなく、自分の理解が及ばなかったことに対する呆れのようなものだった。
俺は昔に思いを馳せる。
「自分も中学受験に失敗したんです。と言っても受験に落ちたわけじゃないんですが」
「は? なんで?」
「自分の場合は事故だったんです。それで入院していたせいで、受験を受けられなかったんです。自分は私立の試験を受けようとしていたんですが、既に時間が過ぎていて」
男は俺に同情の視線を向けた。
どうやら理性は失っても、人間らしい心は持っているらしい。
「その時はとても悔しかったのですが、今はさほど後悔しているわけでもないんです。自分の今の周りの人達はみんな良い人ばかりで、自分はここに入らなければこういう人達とは会えなかったんだろうと思っています」
全て本心だ。
こんなこと本人たちの前では言えるわけもないが、これは俺の本心である。
彼の気持ちはあの時の俺の気持ちとは比べられないのかもしれないが、それでも自分の思いを伝えることによって何か変わるのかもしれない。
「そんなことあるわけないだろうが! 気持ち次第で変わるのは彼女ができるかどうか! 仕事を始められるかどうか! その程度だ!! 自分の将来なんてどう足掻いても就職が良くなったり、出身大学という序列は覆せない!」
「でも最近は東大に入ってもニートになったりする人も居るって......」
「それは東大に入れば、いい所に行けるっていう前提があるからそうやってはやし立てられるだけだろうが!! ニートぐらいどこにだって居る!」
俺は説得に必要な知識を持ち合わせていなかった。
それはそうだろう。
大学受験ということに対して一心不乱に調べた人間と、自分はまだ先の話だと思って聞いている人間であれば前者の方が圧倒的に知識が多いのは当たり前だ。
一体どうすれば止められるだろう。
この自暴自棄な感情に希望を分け与えられるだろう。
俺には小日向さんが居た。
彼にはおそらく誰もいない。
なら俺がこの場でそれだけのことをするしかない。
彼の心の中を変えられるような、変えられなくても少しだけ慰められるような何かを。
また佐々木君が変なことしてる......
果たして男を説得することが出来るのか? 慰めることは出来るのか!?