逃げるなよ?
「さぁ、やってみろ。お前のチートでこの世界を変えろ」
俺が真顔で彼を挑発し、彼はそれを明確に理解する。そして少年はフッと笑った。
「そんなので勝ったつもりでいるのかい?」
彼は冷静にそう言った。しかし、その心の奥で沸き上がる苛立ちは世界に形となって表れる。
床に怒りが刻まれた。
ビキリと音となってその現象を知覚させる。
『佐々木、避けろ!』
「言われなくても!!」
その通信を聞いた時にはもう足が動いていた。
白勝から離れるように駆けだした。全力で逃げる。
何から逃げているのか、何を避けるのか、明確に分かっているわけではないが、その予兆はすでに昔からあった。
俺はそんな予兆を感じ取り、直感が促すままに高く跳ぶ。そして切り札の切るタイミングを逃さないために彼女の名前を叫んだ。
「時雨ぇ!!!」
思えば予兆はあった。
この紙が一度書き換わった時からこうなることは分かっていたのだ。この紙にはチートが効かない術式がかけられていて、それにも拘わらず書かれていることが一度書き換わった。この術式は床にも付与されている。
つまり――
空中高く跳んだ俺の着地点は粉々になって破壊される。この床にかけられた術式なんてことごとく無視して彼のチートが床を侵食した。
そしてそれを視認した直後、周囲の景色が鮮やかな青に染まった。その景色に変わった時、俺は少し浮かんでいてふわりと大地の上に着地する。そして向こうに人だかりを見て切り札が上手く切られたことを自覚する。
そして少し離れた場所から彼女が走ってくるのが見えた。俺はきちんと役目を果たしてくれた彼女にありがとうと言い、肩をぽんぽんと叩いた。頭の半分で照れ臭そうに彼女が笑うのを見ながら可愛いなぁと思いつつ、もう半分でこれからどうするかを考え続けていた。
目の前に居た白勝は少し驚きながら、時雨と周りの景色を見つめていた。
「まさか、僕が時が止まったのが分からなかったなんてね」
「お前のチートはお前を出し抜こうとするか、お前が意図したときにしか発動しない。そういうのじゃなければお前のチートは発動しないんだ」
そう言いながら俺は向こうを指さした。そこには今の状況があまり理解できていない真理の探究者のチーターに所属しているチーターが居た。
「あのままフィールドに取り残されていたらあの中にも死人が出ていたかもしれないからな。それは俺の他人を傷つけないという理念に反するからな」
「君はブレないね」
切り札とはフィールドを切り捨てる選択肢をいつ発動させるかどうかだった。もともとこの作戦はフィールドを活用する前提で作ったわけではない。だからフィールドを捨てることによって相手を動揺させる。
それともう一つ理由はあるが、それを明かすのは今ではない。
白勝はフィールドが変わったことに驚いたというよりは時雨のチートに対応できなかったことに驚いているようだったが、すぐに気持ちを切り替える。余裕たっぷりの表情で少年は笑った。
「あの場所を捨てたことが吉と出るか、凶と出るか、見ものだね」
白勝は俺が持っている紙に向けて手をかざす。
再び通信機器がけたたましく鳴り始めた。
俺は通信機器の声に耳を傾けながら、自分が持っている紙を見た。紙に書かれた文字は『自分の負け』と書かれている。
そして白勝が腕を下すと同時に表記は元に戻った。
それからもなり続ける通信機器の報告を聞き取った。そして報告がすべて終わり俺の考えが完全にあっていたことが分かる。
「全国各地に黒狼団のメンバーを配置して、紙に書いてある文字が変化したら報告させるようにした。それによって誰の文字が変化したのか、誰の文字が変化していないのか、それを見極めることができるようになった。つまり、お前のチートの効果範囲が正確に把握できるということだ」
「......」
「半径1000km、正直普通に考えて対処できる距離ではないが、日本を完全に覆いつくせるほどの距離じゃない。ちなみにフィールドに入っていたときは半径200kmだった。つまりちょうど五分の一になっていたということになる。効果範囲は範囲で決まっているわけではなく半径で決まっているという所は少し驚いたが、これで俺はこの方法ならお前に勝てるということが証明されたわけだ」
白勝は自分の手のひらを見て黙ったままだった。
初めて経験した敗北に体が受け入れられないようだった。
そして顔を上げた時、そこには何の感情もないような顔になっていた。
「だからどうしたというんだい」
その言葉を聞いて時雨が反論したげに口を開こうとしたが、俺はそれを制した。
これは俺が最初に提示した内容である。
「こんな紙切れ一つが変わらなかったからと言って、君の勝ちだと僕は認めない」
お互いが認めなければ勝利ではない。
最初に提示した勝利条件である。そうでないとわだかまりが残る。負けたから真理の探究者をなくそうということにもならないし、勝ったから何か言うことを聞いてもらおうという提案が通らない。
そしてやろうと思えば盤面をひっくり返すことが出来るのが彼のチートだ。
「だから俺はお前に俺が勝ったことを認めさせる」
「それは無理だ」
彼は感情の無い瞳で俺を見つめ、大きく手のひらを振りかぶった。
おそらく力でねじ伏せる気なのだろう。彼にはそれが出来る力がある。
そしてこうなることもすでに想定済みだった。それだけ俺はこの少年の心についても理解している。おそらく本人よりもずっと彼の心の中について分析している。
俺は紙を彼の眼前に突きつけた。
振りかぶっている最中にも拘わらず紙の表記が揺らいだのが分かった。
そして彼の中に少し感情が戻りかけたことも。
「お前は力でねじ伏せて本当にそれで納得できるのか? お前の心の中にはこれから先もずっとわだかまりが残り続ける。他のすべてでは勝ってきたがあの時、唯一、あの手にだけは勝てなかった。何をする時もその考えがよぎるだろう。お前は勝ちにどこまでも執着するタイプだ。だからこの結果を決して無視することは出来ない」
この少年はまだこの紙の表記を書き換えたいという思いを捨てきれたわけではない。
一度も敗北したことが無いと思っていた少年が敗北を受け入れる。それが出来るかどうか。
「逃げるなよ」
「......ッ!!」
勝利を認めさせるという本当の戦いが幕を開けた。