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彼女が愚かだった話

 俺は固唾を呑んで彼女の次の言葉を聞く。彼女は話と話の間にたっぷりと時間を取る。言葉を話す前に話す言葉を租借する。伝えやすいように話を組み立てているというよりは、まるで自分を愚かだと見つめなおし暗示をかけているようだった。


 彼女は悩みを先輩に打ち明けた。悩んでいることを赤裸々に。ちょうど今のような言い方で話していたのかもしれない。彼女が愚かだったのは先輩がその複雑な悩みを理解することが出来なかったことである。

 先輩が悪いわけではない。俺も高校三年にもなったからその気持ちが良く分かる。何より暮らしてきた境遇がそういう辛さを理解できる境遇にあったからだ。普通よりちょっと周りに恵まれているであろう中学三年になりたてのサッカー部のエースに理解できるかと言われれば難しいところだと思う。


 彼は彼女を否定した。そしてそこから彼らの関係は少しずつ悪化していくことになる。それでも付き合っている男女としての関係は続いていて、土日にはどこかへ一緒に出掛けたり、彼の家で一緒に過ごしたりもしていたらしい。彼との仲が悪化していくにつれて、彼女はその関係を改善すべく、彼の身の回りのことを手助けするようになっていた。力になれることはなんでもしたいという彼女の考えがどんどん依存性のあるものに変わっていくのが聞いていて良く分かった。というのも、彼女の中学では彼女への評判が少しずつ下がり、次第に仲良くしてくれる友達も少なくなっていたのだという。もともと誰か特定の人物と深い仲というわけでもなかったらしく、友達が自分のもとから離れていくのは想像以上に早かったらしい。彼女が愚かだったのはその状態に陥って先輩しか見えなくなっていたことである。


 話を聞いていて、俺はなんとも言えない気持ちになった。

 いや、知っていたのだ。彼女は出会ったときから自分が女性慣れしていないのに比べて男性慣れしていたし、チキンな俺に話しかけてくれていたのは小日向だった。そもそも彼女は俺に昔彼氏が居たことを打ち明けている。それ自体は驚くべきことではないのだ。ただその言葉の意味をこれまで深く考えていなかっただけで。無意識に考えないようにしていたのではないかとも思う。

 この心のモヤモヤは嫉妬にも近いのかもしれない。まだ付き合っても居ないのに嫉妬するのはおかしいのかもしれないが。

 どうしようもなく複雑な辛い気持ちになる。


 彼女は先輩に入れ込むようになった。先輩はそんな彼女を自分から遠ざけるようにしていたらしい。客観的に自分を見ることが出来なくなり、周囲からのシカトや嫌がらせに対するストレスのはけ口を先輩に求めていた。そしてある出来事が起こった。

 その日は先輩の試合の日だった。しかもかなり大事な大会でここで負ければこの試合が先輩の引退試合になってしまうという日だった。サッカーグラウンドはいつも以上に緊迫感が漂っていた。ギャラリーも多い。なぜなら相手はこの地区のみならず県でも有名な強豪校だったからで、それに一矢報いることが出来るかもしれないと期待されていたのが先輩だった。

 試合は滞りもなく行われた。ほんとに驚くほどスムーズに行われた。だが、スムーズに行われることと勝っているかどうかは関係がない。後半残り10分、2-1で相手がリードしている状態。このまま押し切られれば相手の勝ちで終わってしまう。そんな時、最後のチャンスが訪れた。やっとの思いでつかんだカウンターのチャンスだった。決死の思いで繋いだパスが先輩の元に届き、ゴール手前で敵の猛攻をかいくぐりながら放たれた最後のシュート。

 少し軌道がずれていた。このままいけばゴールポストにぶつかってしまう。それは傍から見ても分かった。彼女が愚かだったのは気づかなくても良い、むしろ気づかない方が良かったそのわずかな差異に気が付いてしまったことである。


 気が付いたら時が止まっていた。

 止まってしまった時を何もせずにもう一度動かしてしまうことが出来なかった。彼を助けてあげたいという気持ちが勝っていた。

 そして再び時が動き出した時、サッカーボールはゴールに入った。何があったのかその場に居る誰も分からなかった。違和感に気が付かない人は素直に彼のシュートを称賛し、違和感に気が付いた人もそのシュートが決まったという現実をしぶしぶ受け入れた。現にボールはゴールの中にあった。それ以上の事実がサッカーに必要あるだろうか。

 後半戦は同点で終わった。彼女は先輩に駆け寄り、水を差しだした。先輩はそれを受け取って口に運ぶ。彼女が愚かだったのは自分がやったことを彼に話せば彼が喜んでくれると本気で思っていたことである。


 先輩は彼女の報告を聞きながら水筒の水をゆっくり飲んでいた。

 水筒から口を離して口に出した第一声。

『迷惑なんだよ。お前みたいなヤツ』

 サッカーグラウンドに戻っていく先輩を彼女は黙って後ろから見ているしかなかった。動けなかった。

 そして先輩は負けた。相手のペナルティキックがゴールに決まり、これ以上ないほどあっさりと勝敗は決まった。

 そして同時にあっさりと彼女らは別れることになった。


 俺はその話を聞きながら唇をかみしめる。彼女の気持ちも先輩の気持ちもわかってしまう。彼女に悪気はなかったし、先輩も怒って当然だと思った。少なくとも先輩はサッカー部のエースになれるぐらい努力はしていて、自分がサッカーをしていることに少なからず誇りを持っていたのだ。たとえ負けるとしてもこんな中途半端な負け方は嫌だっただろうし、勝てたとしても納得はしなかっただろう。

 彼女は俺の方を見て自虐的にほほ笑んだ。『これで私のことを優れているなんて言えなくなっただろう?』と言いたげな笑みだった。


 これで終わりならまだ良かったのだ。一連の話に全て決着がついて、何も起こっていなかった中学の初めのころのように戻れば良かったのだ。だが現実はそうはいかない。先輩と別れても自分と友達の仲が戻るわけではなかったし、学校の生徒からの評判も良くなるわけではなかった。

 むしろ悪くなる一方で、『先輩とかなりもめて別れた』とか『女子の方が悪いことをしたらしい』とかいう噂すら流れ始めた。

 しかし、転機が訪れる。

 学校に居場所がなくなった彼女の目の前に現れたのは同級生の男子だった。その男は彼女の話に親身に耳を傾けた。彼女がどんな思いで今に至ったのか、どうしたいのか、全てを聞いてその言葉を彼は肯定した。そして彼女は彼を新しい拠り所にした。


 愚かだったのは彼の下心に気が付くことが出来なかったことである。


 弱い心に付け込まれて彼と親しい仲になるまでに、半月もかからなかった。

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