母の力は偉大だ
椅子に座ったおふくろは俺の顔をじっと見つめた後、にっこりと笑った。
「お父さんはね、別に宗利のことがどうなっても良いとは思っていないわ」
「なら何で意見を言わないんだ!? 意見を言わないってことはどうなっても良いと思っているのと同じじゃないか!」
「お父さんが口出ししないのは、あなたがとても優しい子だからよ」
その口調はとても優しくて、自分の言葉を聞かせようとか諭そうという意思は感じなかった。
自分の言葉を言葉どおりに伝えているだけだった。
俺はそれがどんなに難しいことかを知っている。
「私達が意見を言えば、宗利は過度に気を遣ってしまうでしょう? 就職してくれと言えば大学へ行くことを目指さなくなってしまうでしょうし、出来るだけ良い大学へ行けと言えばその通りにするでしょう?」
「それは......!」
ない、わけではない。
俺にはこの人たちに育ててもらった恩がある。裏切れない。
もとより俺には親父とおふくろの意思を裏切ってまでしたいことはない。
「宗利は昔から、自分の立場のことを他の人が思う以上に良く分かっている子供だったもの。私たちのところに来てすぐは、迷惑をかけないようにってソファの真ん中にすら座ることが無かったのよ。覚えてる?」
「......あぁ」
あの時の事は今でも朧げに覚えている。
親父とおふくろに対して緊張とほんの少しの恐怖を感じていた。それでも拾ってもらったことに恩を感じなければならないと頭で分かっていて、気分を害せば追い出されるだろうと思っていた。何事にも気を遣い、迷惑をかけてはならないと半ば強迫観念のように思っていた。
今なら、気の使い過ぎだと切って臥せることができるが、あの頃の俺にそれを判断する余裕は無かった。
「宗利は何でも気に負いすぎるところがあるから。私達は『どうしたら宗利が自分で意見を通してくれるようになるだろう』ってずっと悩んでたのよ? ね、お父さん?」
「あ、あぁ」
親父はばつの悪そうな顔をしていた。俺にそう思っていたことを知られたくなかったのだろう。
そして俺は、内心驚いていた。
確かに大人ならその程度の子供の浅知恵は見破れて当然だ。
でもそんな話をしているところなんて見たことは無かったし、そんなことを考えるそぶりすら見せなかった。
だから気づかれていないと思っていたのだ。
そしてこれからも気づかせないようにしようと思っていたのだろう。
「これだけは知られないようにと思っていたんだけどな......」
「でもここらが潮時でしょう。宗利も少しずつ変わってきているんですから」
「......あぁ。確かにそうだな。宗利がここまで主張を通すなんて想像もできなかった」
何故、親父とおふくろが自分の事を考えていないと思っていたのだろう。
この人たちは俺のことを本気で考えてくれていた。
血のつながっていない人間が親代わりをするというとても難しい立場において、とても親身に俺と向き合ってくれていた。
「お父さんもお母さんも、宗利の未来が境遇によって変わってしまってはいけないと思っているの」
「......」
「人って、周りの環境によって本人がそうなりたくなくても変わってしまう生き物だと思うの。でもそれだけじゃない。自分がこうなりたいとかああなりたいとか思うことによってより良く出来る。そうでなければならないと思うの」
不思議と涙が出そうになる。
おふくろの言う事は正論と理想論が交じり合った言葉で、ただの正論よりも説得力があった。
上手くは言い表せないけれど、多分、これが『母の力』なんだと思う。
「これまであなたは色々な周りの環境によって変わってきた。私達だってそう。でもあなたの場合は少し不運な事の方が多かった。こっちに来てからも変えられた心が普通の人のように戻ることは無かった。もちろんそんなあなたが普通の人より悪かったわけではないけれど、環境によって無理矢理変えられてしまうことに拒否権が無いのはいけないことだと思ったの。だからあなたがこっちに来てからは出来るだけ自由な選択肢があるようにしたかったの」
色々なところに配慮の行き届いた言葉だった。
一言一句伝えたい事を正確に言い表している。
「あなたがここに来た。そのことによってあなたの選択肢が無くなってしまうなんてことは許されない。お母さんもお父さんもそう思っています。好きにすれば良いんですよ」
好きにすれば良いという言葉が前とは全く違って聞こえた。
自分の前には道が如何様にも開けている。初めてその可能性たちを直視した。そう思った。
ダメチーターという宿命によって狭められていた可能性が今になってようやく開けた気がした。
なんだって出来る。
やろうと思えばどんな事だって。
ダメチーターは何も出来ないが、どんな事だって出来る俺のチートだ。
「......あぁ。そうする。これからやりたいことを見つけて、好きに選ぶことにするよ」
おふくろは満足げに頷いた。
親父もどうにかなったと胸をなでおろしている。
俺は恵まれている。
同じような境遇になった人もこの世のどこかには居ただろう。
でも俺はそんな境遇になった人の中で多分一番恵まれている。
今までもそのことには気が付いていたが、それを上手く利用できずにいた。
これからは上手く利用できる気がする。
「それにしても、宗利もこれだけはっきり意見を言うようになってお母さんは嬉しいわ! 宗利もだいぶ変わってきたわね! これもいろんな人のおかげかしらね!」
「そうだな。例えば好きな人が出来たとか。どうなんだ、宗利? 好きな人の一人や二人、居るんだろ!?」
......どうやら不味い雰囲気になってきた。
このままでは根掘り葉掘り聞かれて大変なことになってしまうだろう。
「......もう話したい事は話し終えたから部屋に戻るよ」
「あ! あの反応は絶対好きな人が居る反応だ! 誰? もしかしてうちに来たことがあるあの子かしら!? なんでしたっけ、あの子の名前。確か小日向......」
「もしかしたらもう付き合っているのか!? 彼女が居るのか!?」
「うるせー!! 彼女は居ねーよ!!」
ガヤガヤと騒がしい声から逃げるように遠ざかる。
「お風呂あがったよー。次の人入ってー......って何やってんの?」
「あー! 俺が次に行く! 俺風呂行ってくるから!!」
由香とすれ違うようにして風呂に向かう。
気恥ずかしさが薄れて、風呂の静寂を肌で感じる。
その中で俺は何とも言えない満足感のようなものを心に抱いていたのだった。
佐々木君も変わりましたね。
でもこれは始まりにすぎません。
これからも佐々木君はどんどん変わっていきますよ!