彼の周りの世界はひれ伏した
街に銃声が鳴り響く。
それは決して起こってはならないことだった。
「ニューナンブM60、五発全弾発射。腹部から胸部にかけて三発、顎のあたりに一発、そして額に一発。全弾命中した。腹部には穴が開き、心臓に向かって放たれた弾丸は強化されたあばら骨によって静止、顎に向かって放たれた弾丸も額に打ち込まれた弾丸も骨格によって静止した」
それは誰も予想していない結果だった。
人間の体は銃に耐えうるはずがない。心臓に打ち込まれれば大体死ぬし、脳に打ち込まれればほぼ確実に死ぬ。刑事ドラマでさえ殉死する。抗いようのない力だ。
しかし、目の前の少年はそれに耐えた。見る見る内に傷も治り、出血も止まった。自分の体の中にある異物を吐き出すように、腹部に空いた穴からころりと銃弾が転げ落ちた。
そしてお巡りさんは一介のどこにでもいるおじさんとなり下がった。
「カチッ、カチッてさ、銃弾のなくなったリボルバーから音がしたんだ。たとえ弾が入ってたとしても当たらなかっただろうな。銃口は震えて明後日の方向を向いていた。それでも空になった銃に縋り付くしかなかったんだろう。今思えば、あの時おっさんが逃げ出さなかったのは本当に凄い事なんだと思うよ。警察官としての矜持があったんだろうね」
そしてそれらを見ていた市民たちはおのずと理解した。
彼を強制的に止められるほどの武力がこの場には存在しないことに。
「そのまま俺が錯乱して暴れたら、絶対に誰も抗えない。みんながそれを理解したんだ。お巡りさんもそれを理解してた。だから......お巡りさんはやってはならないことをした。少なくとも俺の将来を考えるならば、あれはしてはならなかったんだ」
小日向は絶句して言葉が出なかった。
傑は「あれとは何だ」と聞いてほしかったみたいだが、彼女が言葉を発することが出来ないのを見て自虐的に笑った。
「お巡りさんは、俺に土下座をしたんだ。道路の真ん中、真夏の熱せられたアスファルトの上で。出来る限りの手段を使って俺の怒りを抑えようとした結果なんだと思う。捕まえてやろうとか、そういう意思は一切感じられなかった。ただ『市民の皆様には手を出さないで下さい』ってぼそぼそ言いながら頭をこれでもかというぐらい下げたんだ。俺はその時、打ち込まれた弾丸の痛みで悶えてたんだが、頭の中は妙に冷静だった。驚くほど冷静で、しっかりと周りの状況が見えてて、情報を整理し直していた」
傑は子供ながらの拙い思い込みに支配されていたのと同時に、子供ならざる優れた思考を有していた。
そんな彼は思いがけない痛みと血が抜けていく感覚を肌で感じるとともに、いつもの頭の冴えを取り戻していた。
目の前には警察署のおじさんが頭を下げている。
周りの市民はこちらから目を背けている。中にはまるでクマと出会った時のようにこちらを見つめながら後ろに下がっていく人も居る。
自分の傷はもうすでに塞がっていた。おそらく今なら全快の状態で戦うことが出来るし、この場であれば、誰も自分には勝てないであろう。
例え、あの警察官であっても。
圧倒的優位を知った。
その上で彼にとって何が一番都合が良いか考えた。
「でさ、俺にとって何が一番嫌かって聞かれたら、家族に告げ口されることだったわけよ。別に交番のおっさんは俺を捕まえようなんて考えないだろうし。だから『ここであったことを誰かに言ったらダメだよ』って大声で言っておっさんには『俺は別に傷とかついてないから、大事にしなくても大丈夫だよ』って言って帰ったんだ。そんで何事もなくこのことは闇に葬り去られた」
「そんな......だって銃で撃ったんでしょう? 誰かが見ていたんでしょう? そんな......そんな簡単に無かったことになんて」
「なるんだよねぇ、これが。俺も子供ながらに大したことをやったと思ったよ」
そんなに簡単にこんな重大事件が闇に葬り去られるものか。
最初に聞いた時はそう思った。
しかし、考えれば考えるほど当時の傑の狡猾さが冴えわたっていたことを知ることになる。
俺は傑に変わって出来るだけ分かりやすくどういうことか説明することにした。
「まず、市民は自分に脅威が降りかかって来てほしくない。だから、もしも陰口をたたいていたことが俺に知られたらただでは済まないはずだ、と考える。次に、市民は自分を守ってくれる最終手段がもう存在しないことに気が付く。警察に通報しても助けてくれないかもしれない。つまり、もうどこにもこの件を話すことは出来ないってわけだ。一方で、警察官は一時の成り行きとは言えとんでもない事をしでかしてしまったことに気が付く。発砲事件だ。マスコミに知られでもしたら、自分が退職するどころか、上の方にまで迷惑が掛かってしまうだろう。そうなれば、ただ退職するだけでは済まないかもしれない。次に傑が『自分には傷が無いから大事にはしない』と言っているのを聞く。傷が無いということは被害を受けた証拠が存在しないということになる。となると、別の道が見えてくる。この発砲という事実自体を無かったことにしようという道だ」
「まぁ、そんな感じなんじゃないかな」
傑が同意する。
そのころの傑がそこまで考えられたかは定かではない。しかし、本能的に相手にとって嫌なことが何かぐらいは理解できたはずだ。この提案から読み取れることを整理すると一瞬でこれだけの事を思いついた彼のドス黒い狡猾さが見えてくるというものだ。
「でも、警察は本当に気が付かなかったって言うんですか!? そんな......」
「多分気が付いていたと思うよ。発砲された銃弾は装填しなくちゃならないわけだし、そのためには上に報告することは免れられない」
「なら隠蔽は成り立たないはずじゃ――」
「知っていて知らないフリをした。警察はこの事を隠したかった。これなら利害が一致するはずだ」
小日向が唖然とする。
そんな腐った警察はドラマの中にしか存在しないと思っていたのだろう。
実際のところはどうなっているのか分からない。しかし正義も正義の面を被った悪も、色々な人が居ることには違いないだろう。今回はその悪が事件に加担した、とそういう事なのだろう。
「ともあれ、その事件を境に俺の自尊心は頂点まで上り詰めたわけだ。『誰も俺に手出しが出来ない』ってね。俺は何をしても良い存在になってしまったんだよ」
そのことに罪悪感を感じながら『なってしまった』と表現できる。
それがどれだけ良い事か。
あのまま進んでいれば傑はろくな人間にはならなかっただろう。
「そんなときに出会ったのが――」
ぽんっ、と急に肩を叩かれた。
そうか、ここでやっと本題に入るのか、と理解する。
「トシだったんだよ」
「そんなに大袈裟に言うことかよ」
そこまでお膳立てされると、まるで俺がとてもすごい事を為したように聞こえるではないか。俺はそんなに大きな事をしたつもりはない。
......まぁ、彼にとってはこれも一つのターニングポイントだったのだろうが。
ここまでは予備知識みたいなものなのでもっと短くまとめようと思っていたのですが、まさか2話も使ってしまうとは......
次回からようやく佐々木君も出てきます。