変わっていく心
ゴール直後、二人とも体力が底をついて倒れ込む。
その姿だけ見れば、片方は陸上選手でもう片方は素人だなんて誰も思わないだろう。二人とも等しく素人に見えた。
そう思っているのは俺だけではなく、多分相手も同じことを考えている。
息が落ち着いたころ、二人は静かに立ち上がった。
立ち上がった小岩井にフランがずんずんと詰め寄る。
「どう? これでササキをシショーと認めるネ?」
小岩井は苦虫を嚙み潰したような顔をしていたが、少し間を開けて諦めたように溜息を吐いた。
「分かりました。認めましょう。この勝負に色々な計略が張り巡らされていたことを知った今、もう一度戦えば必ず勝つでしょう。しかし、その策に初めから気づかなかったのは、僕がフランチェスカさんの師匠の力を見くびり、準備を怠ったからです。この負けは君の師匠の努力が実を結んだ結果です。しかし、」
「しかし?」
「それと僕がフランチェスカさんの引き抜きを行う事は別です! いつかまた機会を伺って引き抜きますから、その時まで首を洗って待っている事です! それでは、また次の機会に!」
小岩井は言葉を畳みかけ、その勢いのままに脱兎のごとくその場から離脱した。
負けた恥ずかしさを隠しているようでもあったが、事実だけはしっかりと認めているあたりある種の潔さも感じられた。
驚きで唖然とした場の沈黙を破ったのはこの場を主催者の次によく理解した人間だった。
「なんか、ごめんなさいね。陸上部の私が言うのもなんだけど、厄介なやつに絡まれてしまったわね」
「良いヨ。別に新浜があのサンシタを育てたわけじゃないネ。それに誰かに狙われる女ぐらいの方が女が際立つって何かで聞いた事があるネ!」
「どこ情報よ......」
勝ったことを喜ぶというよりは、負けなかったことに安堵する。
そんな静かな喜び方でこのしょうもない勝負は幕を閉じた。
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勝負を終えて、学校に着き、疲労の溜まった体のまま授業を受けて、昼ご飯を食べ終えたあたりだ。
何やら教室がざわめき出したことに気が付いて、何かに誘われるようにロビーの前の掲示板に引き寄せられた。
そこに向かうまでに、俺の顔を見て反応を見せる人が多く居た。俺はあの勝負の場にこの現象を引き起こせる人間がいたことを思い出した。
そして掲示板の前に辿り着くと、案の定そこには思い浮かべた人物がいた。
「ようよう! 本日の主役君!」
「もう記事が出来上がったんですか、稲原さん?」
「お寿司も新聞もネタは新鮮さが命だからね! 予想をひっくり返しての絵にかいたような逆転勝利! 反響が大きくてこっちもウハウハだよ!」
稲原さんが背中をバシバシと叩く。音がロビーに鳴り響き、学校新聞を見ていた生徒たちがこちらを見た。
俺は視線を避けるように動こうとしたが、周囲の至る所から視線が突き刺さるので、俺が視線を逸らし気づいていないフリをした。
「そう言われると照れる......というか、そんなに大袈裟に言われるとおちおち人目のあるところで歩けないじゃないですか」
「有名税ってやつだねー。中々羨ましいことじゃないですか」
心にもないことを......
稲原さんに視線を向けると、さも悪意はないという風にニコリと笑った。
ここにこれ以上居ると俺の神経がもたない。
俺は逃げるように教室に戻った。
教室でも視線が刺さる。
一度気にしてしまったら気になってしまう。こういうのは家の外から聞こえる雑音みたいなものだ。
「みんな佐々木君のことを見てますね」
「言わないでくれ。恥ずかしいんだから」
小日向さんが机の横から話しかけてくる。
それを見てふと違和感を感じた。
この頃、小日向が少しよそよそしい気がする。
今日の勝負の時もそうだ。何であんな場所から一人で見ていたんだ? 結局みんなとは顔を合わせることなく帰ってしまった。
思い返せば俺に運動をしてみることを決意させたあの体育の時間もそうだ。あの時、小日向は少し離れた微妙な位置に座った。いつもならもっと堂々と真横に座ってくるはずだ。
妙な距離が開いている気がする。
「なぁ、どうして今日の朝はみんなと一緒に見てなかったんだ? 別にあんなところからじゃなくてもよかっただろうに」
「えっと......その」
彼女はもじもじとしていた。
どうしたのだろう。彼女らしくない。
別に言えないことがあるわけでもないだろう。いや、言えないことがあったから誰にも見つからないように来ていたのか? だったらどんな理由が?
小日向は顔を赤らめながら言った。
「恥ずかしい......じゃないですか」
その瞬間、俺の中で感情のバロメータが振り切れた。
なんだこの可愛い生き物は。
そもそも彼女はこんなことを気にする人だったか?
確かに考えてみれば、これまでが気にしなさすぎだったのだ。
小日向が何も気にしていないように近づいて来ていたから気にすることもなかったが、こうして休憩時間に男女が一対一で話し合っている事すら人目を気にするべきだったのではないか?
もしかして、これは......
俺が彼女の恋愛対象に入ったということなのか?
......思い上がりか。
いや、思い上がりではない。
現に彼女はあの祭りの時に言っていたではないか。
俺のことが気になっていると。
ダメだ。
俺の頭が爆発する。
「佐々木君......頭から蒸気が出そうな勢いよ」
「はっ!? 俺の考えが読まれている!?」
「この状況だったら佐々木君が考えてることぐらい分かりますよ......スイマセン。もう少し柔らかい言葉で流しておけば良かったですね」
その言葉で気が付いた。
彼女はこれまでも何度かこんな場面に遭遇し、顔にも出さずに優しい嘘で紛らわしていたのかもしれない。
彼女が本当の言葉を言ったのに何の心境の変化があったのかは分からない。
でも、彼女が誠意を見せてくれたのに、理由が在るのなら俺はそれに答えなければならない。
彼女がいつでも本当の言葉で答えてくれるように。
「俺は、来てくれてとても嬉しかったですよ。ありがとう」
俺の決意を知ったのか、彼女が視線を合わせる。
決意と言うには少し小さすぎる事だ。
俺は彼女に恥ずかしがらず感謝の気持ちを伝えなければならないという事を心に刻む。これだって立派な決意だと思う。
「次、こんなことがあっても来てくださいね」
小日向さんは微笑んだ。
少なくとも俺は、その笑顔は本物だと感じた。
「はい。ぜひ」
言っていることは何でもないのに、まるで永遠の誓いを果たしたような万感の思いだった。
俺の生活はそんなチンケなことの連続で出来ているけれど、これはそんなチンケな事の中では比較的大きな事だったと思う。
さて、秋のランニング編(今考えた)はこれにて終了です!
次あたりでとうとうやります。
傑君と佐々木君の少し昔の話です。