勝利は勝つべくして与えられる
坂道を下りながら走る。
走っても走っても縮まない距離。むしろ少しずつ、ほんの少しずつ離れていくように思えた。
もしかしたらこのまま縮まらないかもしれない、と思う。むしろ着いて行けていることが奇跡だと。
だが不思議とあれから諦めたいと思わなくなった。
自分の背中を皆が押してくれている。小日向の姿を見てはっきりとそう自覚した。
走る。
走る。
走る。
まだ半分も走っていない。
これは俺にとっては希望だ。
縮まらない距離の中、逆転のチャンスはまだ残されている。
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400mは短距離走の中でも最長。つまり究極の無酸素運動である。
人間の究極に挑むために一番大切なのはペース配分。
どこで足を溜めてどこで力を使い果たすか。それがとても重要なのだ。
僕は400mという距離を知り尽くしている。この距離は僕にとって十八番だ。
ペース配分を見間違えれば、スタミナを使い果たし400mを全力で走り切ることすら困難になる。
僕の後ろを走るヒョロナガにペース配分が出来るはずない。
今でも荒い息遣いが聞こえている。スタミナをかなり使っている証拠だ。そんなのでこの僕に勝てると思っているのか?
もとより勝たせるつもりもない。そのつもりで勝負を挑んだんだ。まさかこうもあっさり受け入れられるとは思わなかったが、受け入れられた時は思わず小躍りしてしまいそうだった。
なぜなら勝つことは決まっているから。
こんなのは文字通り出来レース。
いくら練習しようがヒョロナガが勝つ確率なんて一切ないのだ。
なぜこの男に決闘を申し込んだのか。フランチェスカさんを僕の陸上部に引き込みたかったと言うのもある。
しかし他にも理由はある。それを語るにはあの日のことを語らねばなるまい。
一年前に僕は屈辱を味わった。
そう、体育祭の日。
クラス対抗リレーのアンカーとして選ばれた僕は、あの時優秀の美を飾るはずだった。
あの時は150mトラックの勝負だったにせよ、負ける確率なんて無かったのだ。
この男のまぐれの大ジャンプずっこけゴールさえなければ勝っていたはずなのだ。
こんな男に負けるなんてありえない。
僕はあれからあの日の出来事を何度も何度も思い出した。そしてあの偶然を呪った。
復讐してやらねばなるまいと決意した。
どうにかして僕の受けた屈辱をそっくりそのまま返してやらねばなるまい、と。
彼の応援をする者達が負ける姿を見たらどう思うだろう。
きっと失望するに違いない。
今からその姿を思い浮かべるだけでにやけが止まらない。
さぁ、レースも終盤。
ラストスパートをかける!
どんどん後ろの足音が遠ざかっていく。やはり僕の本気に追いつける力量などなかった。
前に見た時よりも少し筋肉がついていたみたいだから少し動揺したが、所詮はこんなものだったということ。
僕に勝とうなんて100年早いのだ。
さて、僕の筋肉は距離を明確に教えてくれている。
その角を曲がれば400m。
このままゴールを切らせてもらおう!
角を曲がり、見えた景色は想像とかなり違っていた。
驚きが遅れて脳内に広がる。
なんだこれは。
目の前に現れるはずのゴールが無い。
そこにあったのは『壁』であった。
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「その勝つ可能性っていうのは何なんですか?」
由香ちゃんには私達の会話の内容にピンと来ていないらしい。
それもそのはずだろう。こんなのは陸上をやっている人間にしか思い浮かばない。
「フラン。このコース、400mじゃないわよね?」
「正確に言えば450mほど。おおまかにいってしまえば400mほどネ。嘘はついてないヨ?」
やはりだ。
フランも見かけによらず策士である。
「......どゆこと?」
由香ちゃんは私達の会話の意図するところがつかめなかったらしい。
「良い? 50mって陸上選手にとってはかなりの違いなの。それだけ違えば、当然スタミナを使うペース配分も違ってくる。特に400mとかいう短距離走では、ね」
「そんなに違うものなんですか?」
「無酸素運動でのスタミナ切れは致命的ね。足が動かなくなることはないにしても、まともに走れなくなることは確かよ」
そしてこの地形。
明らかに悪意がある。
「そして、坂道。ここは少し高い位置にある。一度坂道を下って、平坦な距離が続き、ラストにこの坂が待ち受けている。普通、陸上選手は試合でトラックの上を走る。駅伝の選手でもない限り、こんな急な坂を上ることは無いわ」
「ラスト直前でのゲキ坂。斜度は驚きの12°デース」
「そんなもの、スタミナの切れた時に見たら――」
考えるだけでも疲れが実感できる。
もう走れないと思った瞬間にそんなものを見てしまったら、それこそ地獄。
きっとそれは――
「『壁』に見えるでしょうね」
由香ちゃんがポカーンと口を開けながら聞いている。
「でも、そんなに大事な事なら、対戦相手の人は戦う前に気づいていても良いんじゃないですか?」
「確かにそうデスネー。でも――」
フランがにやりと笑って付け加える。この女の子でもこんな小悪魔的な表情を見せる時があるのだ。
「相手はバカデス。慢心しきっているのデス。そんな相手ならもしかするとこれに気が付かないかもしれまセン」
きっぱりと言った。
こういう人前でも憚らない彼女の性格はとても好きだ。
「......ちょっと、卑怯かもですね」
由香ちゃんはえへへと笑いながらそう言った。
それは違うと私が反論する前に、フランが口を開けていた。
「これはとても対等な勝負デス。非があるとすれば、相手を見くびってステージマップを確認しなかった彼に在りマース。勝負の為に準備をしたシショーとそうでない敵。そこに勝機があるのデース」
「ま、相手が気が付いていないかはまだ分からないわ。陸上部員のはしくれとしてそれぐらいは分かっておいて欲しいところだけれど――」
そう言いかけて人影が見えた。
小岩井だった。
しかし、その姿を見てすぐに理解した。
「どうやらほんとにバカだったみたいね」
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ようやく角までたどり着いた。
一気にペースを上げられて、引きはがされた。相手にはそれだけ余力があるということなのか?
角を曲がって前を走る小岩井が思っていたよりも離れていないことに気が付いた。
どうやら疲弊しているみたいだ。
何故かはわからない。
考えている余裕なんてこれっぽっちも残ってない。
最後の力を振り絞る。
相手との距離がぐんぐんと縮まる。
「この僕がァ......こんな罠にィ......!」
罠?
罠なんてどこにもない。
二人で同じ距離を走っている。きわめて対等。そんな勝負にケチをつけるなんて馬鹿げている。
勝負は泥沼だった。
二人ともに余裕は無く、フォームはとても乱れていた。
ゆえにここからは根性の戦いだ。
向こうから皆がこちらを見つめている。
一様に期待の視線を向けて。
そして集団とは離れた場所から小日向も。
それらが消えかかった心の炎に灯りをともす。
「うぉぉぉぉおおおおおおお!!!」
吠えた。
残った力を振り絞るように。
そして、ついに追い抜く。
ゴールテープの細い紐の感触。
腰に触れた。
「「「ゴール!!!」」」
見事に小岩井君がフラグを立てましたね。
まさかあんなに綺麗にきまるとは......
次回は後日談です。