大人の世界はツライらしい
七月上旬。
豪雨が西日本を襲っている中、三島柳市も例に漏れることなく雨が降り注いでいた。
クラスの中で静かに帰り支度をしていると、教卓で荷物を整えている城崎先生の姿が目に入る。城崎先生は二年になってからも自分達の担任を務めている。このままいけば多分高校三年もこの人が担任になるのだろうと思った。
こころなしか、小さい背丈がいつもよりこじんまりとしているような気がする。
「元気なさそうですね」
「まぁ、コロナの関係で教員もだいぶ忙しいって聞くしな。まぁ、三祭が無くなった分、それだけやることも減っているだろうが」
それで業務の量が同じになる程、二ヵ月のブランクは甘くないのだろう。
俺は先生の悩みを聞いてあげるために先生に話しかけに行こうとする。
小日向さんが困惑したように後ろから俺に話しかける。
「話しかけに行くんですか?」
「俺も先生の話し相手になれれば良いと思っていたんだ。小日向も来るだろ?」
「は、はい」
軒下で話し合ったあの日から、小日向の考える事が少しずつ分かってくるようになった。
小日向はこういうことを見ると、力になってあげようとする傾向がある。
でも俺が居る時に話しかけなかったのは、彼女が先生に話しかけることによって俺が付き合わされることにより帰宅時間をずれて迷惑が掛かってしまうのを防ぐためだろう。
正直、そこまで考える必要は全くないと思うのだが、彼女はこういう所で気配りが出来すぎてしまう人なのだ。
だからこういう時は、俺から言い出さなければいけない。
「先生。大変そうですね」
城崎先生が俺を見上げる。俺はクラスの中でも厄介だと思われているらしく、城崎先生は露骨に嫌そうな顔をした。
「大変そうだと分かっているなら、そこの荷物を持ってください!」
「生徒使いの荒い」
「そんなこと言ってると内申点を引き下げますよ!」
端から見れば仲が悪いように見えるかもしれないが、生徒と先生という関係なのにここまで皮肉が言い合えるというのはひとえに信頼関係が築かれているからだと勝手に解釈している。
職権乱用じゃないですか、と言いながら俺は資料の束を持ち上げる。
――確かにこれは重い。女性には重労働だ。
「重いでしょう」
「まぁ、持てない重さではないですね」
強がりを言ってはいるがこれは中々厳しい。非力な俺でも職員室までもっていくのであれば、持っていけないことはない。
持ちましょうかと手を差し伸べて来た小日向に少しだけ資料を渡す。彼女に見られているだけでも頑張らなければと思えてくるのだから、恋というのは不思議なものだと思った。
廊下を歩きながら城崎先生の愚痴を聞く。
「あーあ。生徒は良いよねー。授業受けるだけで良いんだもん。私もあの頃に戻りたいなー!」
「先生も先生になってからもう一年以上経つのだから、去年よりは仕事にも慣れて、楽になったんじゃないんですか?」
「分かってないなー。分かってない! はー、分かってないよー、もう」
俺の正論をこれ見よがしな溜息で受け流す。
「あのねー、仕事っていうのは慣れても辛いの! しかも一年前なら『新人だから』で済まされてたのに、今は『一年経ったから』で仕事を押し付けられるの! どこまで行っても仕事は辛いのよー!」
廊下に先生の声が響き渡る。
生徒が何人か振り返るが、何事も無かったかのように立ち去っていく。
「佐々木君、良い? 社会に出てから気を付けることはこの二つよ! 一つ、仕事を押し付けられた時は、上司に口答えするよりも手を動かした方が疲れは少ない! 二つ、理不尽なことで仕事を引き受けるとストレスが溜まるので、仕事はなるべく引き受けない!」
「矛盾してるような気がするのですが」
「それが大人の世界なのよー」
「どっちを選んでもストレスが溜まっていませんか?」
「大人の世界に逃げ場は無いのよー」
どうやら大人の世界には希望は無いらしい。将来は絶対に教師にだけはならないと心に決めた。
「あ、日下部先生だ」
小日向さんがボソリと呟く。
日下部先生は黒縁眼鏡に黒髪短髪の先生で、うちの学年主任だ。とても目つきが悪く、かなり近寄りがたい雰囲気を放っている。本人がそのことに気が付いているかどうかは知らないが。
ともかく怒るととても怖い。
城崎先生は日下部先生が近づいてきていることにまだ気が付いていないらしい。自分の愚痴を話すことに必死になっている。
「とくにね、上司には気をつけるのよ! 上司と学校の先輩は全くベツモノ! 学校の先輩なら付き合いたくない人を無視しても良いけれど、上司は嫌な人でも付き合わなきゃいけないの! でも愛想の悪い先生はほんとに近づきにくいから! あと朝が苦手な先生もダメ!! 目つきが悪いのはもっとエヌジーッ!!!」
「誰がNGですか、城崎先生」
「ひゃうっ!?」
城崎先生の顔が一瞬で真っ青に青ざめる。
ちょうど愚痴の中に私怨が混じり始めたころ。最悪のタイミングだ。
「先生、ちょっとよろしいか?」
「あの~、私ぃ~、ちょっと大切な用事がありましてぇ~」
「問答無用」
「あんぎゃ~!!」
先生がいそいそと逃げようとしていると、日下部先生は首根っこを掴んだ。
そのまま引きずられるようにして、空き教室の中に連れ込まれる。
そして日下部先生は再び廊下に出てきて、俺達の持っていた荷物をひょいと持ち上げた。
「ここまでご苦労様。後はこちらでやっておく。やることが無いなら生徒は早く家に帰るように」
それだけ言うと荷物を持ったまま空き教室の中に戻っていった。
「ご愁傷様です。先生」
中からは静かな説教の声が聞こえて来た。
城崎先生の声はあからさまにトーンダウンしていた。
説教の内容は感情的なものではなかった。
生徒の前で愚痴を言うなとか、先生としてのわきまえを持てとか、そもそも仕事が溜まっているから油を売るんじゃないとか。とても至極真っ当で、自分が悪口を言われたことに対して全く叱っていないのを不思議に思った。
「日下部先生って案外優しい先生なのかもしれませんね」
「まぁ、優しいにもいろいろ種類があるからな」
俺は否定も肯定もせず帰宅を促した。
次の日の朝、げっそりとした顔で教室にやって来た城崎先生を見て、クラスが一様にドン引きしたのは言うまでもないだろう。
久しぶりの日常パートです!
次回も日常パートかな?