梅雨の気配がとある記憶を導いてくる
久しく握らなかった学生カバンの感触を確かめながら、俺は季節のすっかり変わってしまった登校ルートを歩いていく。
道端にはまだ花が未熟な紫陽花が主張を強めていた。俺は端々に咲く『梅雨の訪れ』に溜息を吐きながら、ただひたすらに学校を目指した。
「小日向さん、おはようございます」
「佐々木君! お久しぶりです! あのゲームの中以来でしたか?」
「確かそう......ですね。そう考えると久しぶりと言うほどでもないのかな?」
「確かにそうかもしれませんね」
小日向さんはニコリと笑った。
沈みかけていた俺の心がゆっくりと水面に引き上げられていくのを感じた。
小日向さんは今日もいつもと変わらず綺麗だ。久しぶりに会ったが、また可愛さに磨きがかかったのではないかと思える。いつも会うたびにそう思う。
彼女が隣に居てくれると、心が華やぐ。
「今日は......いつもより元気がないみたいですね」
「そうでしょうか?」
「なんかこう、良く言い表せないけれど、いつもなら何か良く分からないけど変なことを考えているのに、今日は何か良く分からないけど嫌なことを考えている気がします」
「ふわっとしてますね」
でも彼女の話すことに間違いはない。
事実俺はあまり良い事を考えていたわけではないのだ。
そう。
忘れもしない小学校高学年のあの日について思い浮かべていたのだ。
「相変わらず小日向さんは鋭いですね」
「ならその中身について教えてくれても良いんですよ?」
「それはまぁ、おいおい」
俺は語尾をはぐらかしながら小日向さんの先を行く。
これ以上自分の考えていることを読み取られるのはあまりよろしくないと思ったからだった。
* * * * * * * *
俺達は席に着きながらまだ誰も来ていない教室で世間話をする。
「それにしても驚きましたね。まさか文化祭が開催されないなんて」
「そうなるだろうとは思っていましたけどね」
「そうですけど......驚きませんか? この学校の一年での二大イベントですよ?」
「驚いてますよ。驚いてるようにみえませんか?」
「もっと私は佐々木君とこの驚きを共有したいんですよ!」
小日向さんが俺の反応を見ながらぷくーと頬を膨らませた。
その反応も多分妥当な物だと思う。俺の場合は小日向さんの美貌と言う一点以外においては常に平常心を保てるタイプだ。悪い言い方をすれば、そんなに相手と共感を味わえるわけではない。
文化祭が今年は無い。コロナウイルスの影響で開催が困難だと判断されてしまった。
事実、俺もこれを聞いた時には少し驚いたが、次の瞬間にはまぁ仕方ないだろうと割り切れていたのだ。
冷淡に聞こえるかもしれないが、自分の中で区切りをつけてしまえば何も思わない。
そんな男なのだ。
「しかし、そうなってしまうとちょっと寂しいですね」
「寂しいって何がですか?」
「だってそれだけみんなと作れる思い出が減ってしまうってわけじゃないですか」
「......まぁ俺はあんまりいい思い出は無いですけどね」
祭りというとあまりいい思い出は無い。
特にこういう大きな祭りになると必ず悪いことが起こる。
理由は単純。俺や小日向さんがチーターで、それを知った頭のイカれた奴らが自分たちを襲うのにうってつけだったからだ。
確か奴らは『真理の探究者』と言ったか。何が真理だボケナスと言ってやりたい気持ちだが、彼らが掴んでいるのがチートを使える人間がいるというだけなのであれば、ゲーム内のデブ男が言っていた『魔法』については知らないということになる。
ということはこの世にはまだそんなテロリストですら知らない真理が潜んでいるということなのかもしれない。末恐ろしい世の中だ。
去年の三島柳祭では物質を自在に増加させられるチーターが現れいきなり勝負を吹っかけて来たり、体育祭では何でも飲み込み取り出すことのできる人間と呼んでいいのかどうかも分からないような変な奴と、空間に自在に亀裂を入れたり出来るチーターの二人組で来た。
もしも今年も祭りがあったら警戒してしかるべきだっただろうに、と思うと別になくてもいいかもしれないと思ってしまう。
今年はもしかしたらもっとヤバいやつが来ていたかもしれないとなると対処が出来ていたかどうかわからない。自分の隣に居る彼女の事を思えば、祭りが二度とやってこない方が良いと思うの方が正しいはずだ。自分が彼女の何なのかと言われれば返答に困るが。
「今日、ほんとにセンチメンタルじゃないですか?」
「そう、かもしれません」
この時期は特にそうだ。
紫陽花が咲き、カエルの鳴き声が聞こえるようになり、雑草がすくすくと育つ季節になると、妙にあの時の景色とシンクロしてしまう。
「あ」
小日向さんが外を見ながら言った。
俺もつられて外を見る。
「雨、降ってきましたね」
ぽたりぽたりと落ちて来た雨はまだほとんど人通りのない校庭を湿らせる。
サァーっという音を立てて落ちる小粒で柔らかい雨は、これから先に続く雨を予期していた。
「もう梅雨の時期ですね」
「雨ですか。良いですね雨は。色々な物を流し去ってくれるし、雨の中では何を言っても掻き消してくれる」
俺は校庭を見つめながら思ったことをつぶやいた。
小日向さんが怪訝な顔をして見つめる。
「雨、好きなんですか」
「ええ、とても」
「なら、何でそんなに悲しそうな顔をしているんですか」
言われてようやく気付く。
自分が余りにも感情を隠すのが不器用だということに。
俺はこんなことを考え出すとちょっとやそっとでは気分を変える事なんて出来ない。
話題を逸らそう逸らそうと思っても戻って来るのは自己嫌悪だ。
「良かったら話してもらえませんか」
「......」
迷う。
迷うけれど、どうにも誤魔化しようがない気がした。
これ以上彼女の熱い視線を躱しきれないような気がする。
「分かりました」
「!」
「けれど、多分長い話になりそうなので、放課後にしましょう」
俺はそれだけ言うと窓から離れた。
丁度そのタイミングでクラスメイトが入ってきた。
この話は誰にも聞かれたくない。
でも今なら、小日向さんになら、話しても良いかもしれないと思ったのだ。
思ってしまったのだ。
何やら深刻そうな雰囲気です。この話が前にもほのめかしてきたこの物語の核心なのかもしれません。