第六話。浮遊する大地。
冒険者だった頃のダンテ。実力は平凡。巨岩を持ち上げる力がある訳でも無く、風を置き去りにする俊敏さがある訳でも無い、ましてや勇者の因子を持たないダンテに魔族特有の魔力は皆無。
冒険者のダンテには、伝説の勇者になる要素などは何一つ持ち合わせてはいない。
中の下。それがダンテの正当な実力だった。
ただ唯一冒険者として誇れる技能があるとすれば、剣の善し悪しの目利きぐらいだろう。だと言って、完璧な達眼がある訳ではなく、一般人より上で、鑑定師より下のレベル。
ダンテが生を授かった土地。砂と鉄の国——ストレイア王国。
名の通り、砂鉄を多く含む砂が領土の大半を占め、戦が絶えない世でもっとも活気がある王国。
剣作りが盛んなストレイア王国で育ったダンテが、生きていれば自然と身につく眼能と言えよう。
右を向いても、左を向いても剣ばかり、目を瞑り聞こえるのは鉄を叩く音、鼻につくのは鉄の匂い。
金も、家族も、明日を生きる希望も無いダンテが、剣の作り手の中で最高峰と呼ばれる『天の刀匠』が生み出した剣を一目見て、幾多の敵を退けた一騎当千の英雄に少年が憧れる様に、幾多の眩い宝石で装飾されたティアラを冠るプリンセスに少女が憧れる様に、ダンテもまた成功者の証であるその剣に胸を躍動させ、心惹かれ、死人の眼が輝くのも当然。
その成行きで冒険者となるダンテが花開くのは、魔族の奴隷——ラミアと出会い半年が過ぎた頃の出来事だった。
木漏れ日亭。
いつもこの街宿を利用するダンテ。街の一二を争う宿舎。ハッキリ言って金銭的にかなり無理をしている。だが、明日死ぬとも知れないダンテは、受け取った報酬の内、僅かな金銭を『天の刀匠』が打つ剣の資金に残し、残りをこの宿やラミアの為に惜しみなく振る舞う。
その日もいつもと同じように勝手に改良した納戸でラミアとローラとの団欒とした時間を過ごしていると。
『ウゥーーーーーッ!』
街人に危険を周知させるサイレンが突如鳴り出た。
それは魔族が魔石で操る魔獣・魔物の襲撃を報せる合図。それなのに……
「オイッ!ラミーッ!テメー俺の肩が机の下からはみ出してんぞッ!もっと向こう行けよッ!テメーの小さい体なら椅子の下でも入っとけよッ!」
「何言ってるんですかッ!私の身体半分机の下からはみ出してるんですよッ!ダンテ様こそ椅子を4つ並べてその下に入ればいいじゃないですかッ!」
サイレンの音を聞くや否や、机の下に我先と身を隠す醜いダンテは、ラミアの顔面を鷲掴み。負けじとダンテに同調する醜悪なラミアは、ダンテの顔面をゲシゲシと蹴っていた。
魔獣・魔物の襲撃ならば、上では無く横から襲い掛かる可能性の方が高い筈なのに、テンパり、間違った地震対策を取る2人は、必死な形相で、懸命に醜態を晒していたのだった。
「何やってんだい?2人共。さっさと机の下から出て来て、納戸の施錠でもしたらどうなんだい?」
1人冷静に赤ワインを嗜むローラ。グラスを揺らし、芳しい香りを堪能しながら、ゆっくり少しのワインを喉に流し込む。
「この街の前線は一番強固な防衛ラインだと聞いていたんだけどね。魔獣・魔物が流れ込んで来るようじゃ、そろそろこの街もお終いかもな……」
「そう言えばさ、前の戦で人が北の魔族の砦を落としたって聞いたな」
ヒョコっと机の下から顔を出したダンテが、冒険者間で流れる噂話をすると、ヒョイと顔を机の下に再び隠す。
「……なるほどね。それでかい……ったく。のんびり暮らしたい私達にとってはホント迷惑な話さね……」
人と魔族の戦いは一進一退を戦局。人が魔族の領土を占拠すると、魔族もまた人の領土を同じだけ占拠を繰り返す不毛の争い。その度に前線ラインが変わり、武器を持たない人々の環境は大きく変化させられる。
ダンテ達が今住む街は、第2線の後方。金や人の動きが活発であり、多くの人が住まう街。
「まぁ。この街がそう容易く陥ちる事はないだろうけどね……」
そして、前線の防衛ラインが崩れた際。拠点と成り変わるのがこの街。大きな壁が進路を制限し、大きな門が敵の侵入を拒む要塞街だった。
それに加え、魔族が魔獣・魔物を魔石で従えるように、この街もそれに代わるあるものを従えている。それは魔石を核として人に模造された胎児。
——ゴーレム。
人に似せてはあるが戦いの為だけに作られた人工兵器は見た目は度外視され、身体が大きく、魔法をも操る人の傀儡。
「でっ、では、この街の人々は大丈夫なのでしょうか?」
「えへへっ」と、誤魔化しながら机の下から姿を現せ、納戸の扉の施錠に使う板キレを手に持つラミアの質問に。
「ああ、この街は今は大丈夫だろうよ。この街はね……但し、ここで魔獣・魔物を仕損じると……この街の後に続く町や村は……」
ローラが赤ワインを飲むのにグラスを傾ける。グラスのフチに付けた唇の端から漏れた一滴の雫が、グラスの形状に伝い垂れ下がり、ポタっと床に溢れ落ちた時。
それを瞳に映しだしたラミアは想像する。その惨劇を……
そして、それは……
『……クスクスクス……ねぇ?……今、何を思い浮かべたの?……』
薄ら笑う、黒い黒いあの影の声。ラミアの背後から突然、暗い産声を上げさせたのだ。
『……母様を殺した人なんて……全部そうなって欲しいのよね?……』
これは自分の心。どこかでそれを願うラミアの合わせ鏡。
「違うッ!私は、私はそんな事を思っていないッ!」
板キレがカランと床に滑り落ち、ドアを勢いよく開け、逃げるように外に駆け出したラミア。頭は真白、顔は蒼白。向かう先は、武器を持ち、先を走る者達が先導してくれていた。
「ちょっ、ちょっとラミーッ!何処行くんだいッ!ダンテッ!アンタいつまでそこで震えてんのさッ!ラミーが外に出ちまったよッ!」
「なにッ!」
勢いよく立ち上がったダンテは机の底で頭を強打。「うぉぉおおーーーッ!」と、藻掻きながらもコロコロ転がり机の下から姿を現せたダンテは「ドラャッ!」と、剣を持ち「うわーーーんっ!置いてかないでぇよーーーッ!ラミーーーッ!」と、涙目でラミアの後を追った。
今の私の顔はどのような表現を作り上げているのだろうか?ラミアは混沌の中、それを何よりダンテに見られる事を恐れた。
「……怖い……怖いよ……お母さん……」
そう自身の魔族の血を引く証でもある角に呼びかけても、母親はただ微笑むだけで実質的な温もりを与えてはくれない。
他者からの暖かさを知ってしまったラミア。ダンテの手の温もりを噛み締めて、ダンテの懐の暖かさに焦がれていた今の幼いラミアには、母がくれるそれでは満足出来なかった。
無用に足を掻き、何も出来ないとは分かってはいるが、傍観者では居られない。
あの黒い影の言葉を否定する為に、自身に出来る事を必死に頭に集めるラミア。答えなどある筈も無い、それを知りつつも、ダンテに嫌われたく無い一心で、無い答えを求めた。
肩で息をするラミアが固く閉ざされた門の前まで足を運ぶと、冒険者や守備兵が次々と壁の上に続く階段を駆け登って行く姿が見える。いつもなら一般人は立ち入り禁止エリアなのだが、場が混乱しており、少人数ではあるが一目見ようと街人の姿も混ざっている。
ラミアも階段を駆け上がり、壁の上に立つと、前の大人の足を掻い潜り、手を必死に伸ばして、半身を壁より高く持ち上げた。そして、そこには……
「アレは……ヘルハウンドだな……」
ラミアは、誰かの言葉で、その魔獣の名を知る事になる。
総合評価は中位に位置する魔獣であるヘルハウンド。口から炎を吐き、地を蹴る足は全部で6本、狼に近い姿形。大きさは成人男性並みで魔獣にしては小型ではあるが、何にせよ動きが速い。
俊敏さだけを評価するなら、上位に食い込む能力を持ち、遠距離攻撃からの即離脱が最も有効な対処方法。そして中位に引き留まっている理由が知性の低さ。所詮は獣、人に敵う相手ではないのだが……
「オイッ!見ろよッ!あのヘルハウンドの中核の奴。アレが門が閉まるなり、遠吠えで仲間を弓の届かない位置まで引かさせたんだとよ……」
茶黒の毛並に埋もれても一目で分かる。全身真白なヘルハウンド。こちらの出方を伺うように、街の門を見据える。
中位の実力は伊達では無く、ここら一帯の野生のヘルハウンドは単騎で事に当たる事が多い。だが、あの白いヘルハウンドが従える数は30匹。状況を把握する知性の高さも、誰かのその言葉で一重に読み取れた。
「ああ、間違いねぇ。ありゃ『系統派生』だッ!」
『系統派生』。同一種にして違う進化を遂げた呼び名。人や魔族。人型の生き物にもこう呼ばれる者達が居る。
勇者の因子を持つ者全てが人離れした力を持つ訳では無く、ただの人と変わらない者が居る一方で、勇者の因子を持たなくても人離れした力を持つ者も居る。
種を司る年輪の一部をより強く強調された突然変異。原因は遺伝子による影響なのだと考えられており、良くも悪くも総称して『系統派生』と人々は呼んでいた。
そして……
「……ありゃ……もうダメだな……自身達の不運を呪うしかねぇ……」
白いヘルハウンドの前に横たわる人の姿。逃げ遅れた3人の家族だと思われる者達。
父親と母親は、手足を噛まれ、肩で動き、身を捩らせ、子供は両親の体を揺さぶり動かし、泣き噦り、壁の上の人々に必死に助けを求める。
白いヘルハウンドは、その家族を殺さず人質として、門が開かれるのを待っているのだろう。仲間をグルリグルリとその家族の周りを徘徊させ、それ以上の攻撃を制止させている。
集まった守備兵・冒険者達。まだまだ壁の下は騒がしく、今ではもう100人を超える武器を持つ人達の姿をラミアは見る。誰もが意気揚々と階段を駆け上がるが、魔獣がヘルハウンド、そして群を作り『系統派生』だと見聞きすると、肩を竦め、顔を下に向け、目を、助けを求める子供から遠ざけていた。
そして再びあの声が……
『弱い者には威厳や体裁を誇示し、強い者には身を細め目を外らす……これが人……生きていても仕方ないと、そうは思わない?……ねぇ?ラミア……』
「……やめてよ……私はそんな事は思ってはいない……」
周りの雑音をかき消し、ヒタヒタと背後から迫る声。周りを見渡してもその姿は見えはしない。そうそれは内なる自身の声なのだから……
『あの人質の家族もそう……誰かの命を踏み台にしてでも、自身の命の延命に足掻く見苦しい姿……抗う力を持たず人質になったのならば、他者に迷惑がかからないよう自害するのが人の道……ねぇ?ラミアもそう思うでしょ?……』
「違う、違うよ……みんな……みんなは、そんなに強くないんだよ……私だってそうだよ……」
黒い影の声はラミアの真後ろに、そして……
『ラミアに力が無い?……何を言ってるの?貴女が望めば……私が全てを殺して上げる……さっきから私はそう言っているのよ……』
黒い影はラミアの耳元で囁き、ラミアは聞きたく無いと急ぎ両手で耳を塞いだ。
『さぁ、ラミア。私に言って……私に願って……皆を殺せって……皆の屍を私は見たいって……』
だが、鮮明に黒い影の言葉がラミアに伝わる。ラミアは身を屈め、力一杯に目を瞑った。
『全てを無に返せば、貴女を傷つける者はもう居ない……貴女が悲しみに胸を傷める事が無くなる……貴女は……本当の幸せを手に入れられるのよ……』
ラミアは首を横に振る。違うのだと、それは間違った事なのだと……
『ねぇ?ラミア……貴女はどうして頑なに私を拒むの?……ここの人は貴女に何をしてくれたと言うの?……薄気味悪い笑顔だと顔を何度も殴られ、極寒の日に薄着で屋敷を出された。すれ違う人々は凍える私の事など視界にすら入りはしなく。降る雪を屋根の下でやり過ごしていると、向こうに行けと水をかけられた……そんな者達と一緒に居て、貴女は幸せになれるの?』
「それでも、それでも……それは願っでは行けない事なの……考えてはいけない事なのよッ!……」
『何を言っているのか理解出来ないわ……だってラミア……この憎悪する街の人が死に絶えると……』
そう、ラミアは知っていた。この街の人の死体の山を積み重ねた時。あの時と同じように、あの時の高揚感と共に、自身がその時見せる表情が何なのかを……
『ラミア……貴女は、本当の笑顔になれるのよ……』
黒い影が言う、それだと言う事を……
ラミアの目に一気に涙が溢れ出した。自身の中で蠢く黒い影を知覚して、私自身が悪しき者だとそう認識したからだ。
そんな自身が嫌で嫌で頭を抱え、この世に自身が居てはいけない存在なのだと、横の守備兵の剣に目を移し、剣にしがみつきを奪い取ろうとした。
それに気付き守備兵は剣を押さえ抵抗する。
「何しやがんだッ!?このガキッ!」
守備兵はしがみつくラミアの側頭部に角が生えてる事を認識して、態度を一変。胸ぐらを掴み、引き寄せ、涙で濡れる顔を思いっきりぶん殴る。
柳のように身体をしならせ、地面に数回身体を打ちつけ吹き飛ぶラミア。
「何んだ?この魔族の奴隷はッ!……お仲間が迎えに来てくれたとでも思ってんのかよッ!」
ラミアの心中など知る由も無い守備兵。ラミアの行動は魔獣の加勢の為の反乱だと捉え、ラミアの方に歩き威嚇の為に剣を引き抜く。
「何でッ!お前ら魔族が、奴隷でも生かされてんだよッ!」
守備兵は剣を垂らしたまま、恐怖で怯え、死に震え、成す術が無い状況で声が出ない、腕で歪んだ血塗れの顔を、ただ庇う幼いラミアの、腕や腹、顔や足に、鉄のブーツで何度も容赦無く踏みつけた。
魔獣ヘルハウンドに向けるべき怒りを、弱く抵抗しない魔族のラミアにぶつけるサマを見て、周りの者も守備兵を止めようとせず、囃し立て、歓喜し、優越の表情を浮かべ見る。
その顔は紛れもなく、あの時噴水の水面に映し出したラミアと同じ、歪んだ喜びからくる卑屈な顔。
意識を朦朧とそれを見るラミアは……
『これで良かったんだよ……あの時の罰が当たったんだよね……私が悪い子だから……』
それは当然の報いだと受け入れていた。
腕を上げれない程に痛みつけられ、顔は見れない程に晴れ上がり、痙攣を起こし、横たわるラミア。
守備兵は最後の仕上げと、幼いラミアの胸ぐらを掴み、小さな身体を引き摺ると、壁のギリギリまで歩み寄り。
「仲間の元に帰りたいんだろ?お望み通り返してやるよッ!」
地上30mはあろう壁外へ、ラミアの身体を放り込投げた。
宙に浮かぶラミアの身体。壁より高い位置に達した時、ラミアは走馬灯を見る事に。
幸せだった母との思い出から始まり、苦痛に耐える思い出が風のように過ぎる。それらの記憶を一言で言うなら最悪の人生。もう新しく生まれる事も無い記憶を道連れに終焉を迎える今。
「これでもう苦しまなくて済むんだね……お母さん……今、そっちに行くからね……」
張り詰めた糸を断ち切るように力を抜き、今からの迎える結末に身を任せた。
これでいい。何も思い残す事は無い。この世に私を必要とするものはもう無いのだと、その考えを脳に埋め尽くして……
だが、突然現れたそれは、ラミアの悪しき覚悟を容易く打ち砕く。
「ラミーーーッ!」
死を受け入れた正にその時。ラミアの中で何が叫ぶ声が聞こえ、身体を締めつけるとても暖かい熱に当てられた。
ラミアは、自身は生きていてはいけないのだと、そう自覚し、決意した凍った心がその熱に溶かされていく事を感じ取る。
腫れた瞼を少し開け、宙に浮く自身の身体を包むように抱き寄せるその男にラミアは出会ってから初めての涙を見せ。
「……ダンデざば……ごわいよ……わだじ死にだくない……ごわいよ……ダンデざま……」
机上に振る舞い続けた少女が、血が混ざる涙と共に、本当の気持ちをダンテに打ち明ける。
「ああ、オメーは何があっても死なせねぇよ……俺の一番大切な人だからな……」
ダンテは幼いラミアにそう微笑みかけ、怯え凍えるラミアの身体を抱き締める腕に、更に熱を込めた。
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伝説の勇者の本気を視覚したアルマ。足が震え、顔は恐怖で慄く。
「こっ、これはいけないッ!」
アルマの危険を察知し剣を引き抜いたジグリード。
怒りに染め上げられた勇者の手が、アルマの首筋にかかろうとした時。
誰よりも早く動いていた者によりそれが阻まれた。
「この大馬鹿者がぁぁああーーーッ!」
ガンドゥの鉄拳がアルマの顔を歪め吹き飛ばす。忠誠を誓ったアルマに制裁を加えたガンドゥの気迫に皆が呑まれ、直ぐにガンドゥは勇者とラミアの前で頭を下げた。
「我が主が多大なる失態を……恥を忍んで主に代わり許しを乞います……どうか、お許し下さいますよう……どうかッ!どうかッ!」
ガンドゥのその判断は正しかったと言えよう。勇者の気概は完全に外れ、殺気は微塵として感じられなくなっていたからだ。
「アルマ様ッ!今すぐラミア殿の記憶の封印を解かれよッ!」
ガンドゥのその言葉に、ボリボリ頭を掻いた勇者は……
「いや、そのままでいい。丁度、潮時だったんだ……そのままラミーを聖地に連れて行け……」
そう言葉をかけ、自室に向かう階段を上り始めた。
「勇者殿ッ!何を言っているのだッ!貴殿はッ……」
「ガンドゥ……確かにお前の言う通りだよ。少なからず俺の中にラミーに向けるその気持ちはある……でもなぁ、それ以上に俺はラミーに幸せになって欲しいんだ……ラミーの人生は俺から見ても悲惨だった。奪われ続けた人生……それが俺が知るラミーの人生で、結局の所……俺がラミーにとって一番大切な物を奪い取る結果となったんだ……この先だって俺と一緒に居ると同じような事が起こり兼ねねぇ……」
勇者は階段を上りきり振り返る。ラミアに優しく微笑むと、床に倒れたままのアルマを睨みつけた。
「オラァッ!アルマッ!」
「ハッ、ハイッ!」
アルマは勇者の怒声に飛び起きて、姿勢を正す。
「お前は、俺に出来ねぇ事が出来るんだよなッ!?」
「……えっ!?」
勇者の問いの意図が悟れないアルマは「どう言う事?」と、ジグリードに目を流すが「いえ、私にはアホは理解は出来ません」と、ジグリードはそこに居ない筈の小動物と戯れ始め……
そしてアルマは「どうしよう……僕分かんないよ」と、青ざめた顔をガンドゥに向けるが、ガンドゥは、勇者とアルマに向ける激流の如く荒ぶる感情の静寂を取り戻す為に、目を瞑り、瞑想に入っていた。
「……コイツらッ!マジ使えねーわッ!」
と、アルマが白旗を上げたのを見計らい。
「はぁーーーっ、ラミーを幸せに出来るよなッ!?って聞いてんだよッ!ったく……」
勇者は呆れた表情を浮かべながらもアルマに笑った。
アルマの両方の口元が自然と吊り上がり。
「ハイッ!勿論ですッ!」
空気を腹一杯に吸い込み、元気良く放たれたアルマの声。いつもの明るいアルマの姿に戻っており、その濁り無いアルマの顔に安堵したように。
「じゃーもう聖地に帰れッ!絶対ッ!二度とここに来んなよッ!」
勇者は自室のドアを開け、憎まれ口を叩いて、部屋に姿を消した。
自室に入りドアを閉めた勇者。ズルズルと背をドアに擦り降ろすと、膝に顔を埋め。
「……これで良かったんだよな?……ラミー……」
こもる声で、そう自答し、目を瞑る。そして勇者はあの日の光景を思い出していた。
ほつれた麻布の服を何重も着込み、服に付着するススの汚れと、こびり付いた血の汚れ、顔に大きな青びょうたんを数カ所作り、左目は布を巻き、右目は赤黒く腫れた目元をニンマリと曲げる子供。
絡み合った髪は癖がかり、腰まで伸ばすのは産まれてから一度も切った事が無い事が伺え、左右にツノが生えている事から魔族である事も分かった。
男に差し出した、長年のひもじい生活による、骨と皮しかない指。銀色の腕輪をはめている事から奴隷だろうと判断出来る者。
「……いつ見ても天使って奴は、こんなに小汚いんだなぁ……ラミー……幸せに……幸せになれよ……」
勇者はそう言って必死に耐えるように手に力を込めていた。
晴れた顔で、自室に籠もった勇者に頭を下げたアルマは、直ぐにラミアの手を取る。
「あっ、あのね、アルマ君……」
何か違和感を感じるラミア。勇者と呼ばれる者が自室入る、どこか寂しそうな背中に胸に痛みを覚え、それが何なのか、意味ありげな行動を取るアルマに問おうとするのだが。
「じゃあ、聖地に帰りましょうかラミアさんッ!」
有頂天のアルマには誰の声も届かない。グイグイとラミアの手を引っ張り、右一杯にダイヤルが回された転送装置のドアを開ける。
アルマが見る転送装置のドアの向こうの世界は、下に雲の海が広がり、雲の切れ目からまた大海が姿を現せる世界。孤立する島に家がポツリと一軒だけ建てられた浮遊する大地。
これが本来の勇者の家の姿。ある程度の魅了耐性を持つ者に幻覚である桃源郷の意味は無く。
「あはははっ、ごめん、ごめん……僕が転移回路を開らかなきゃいけなかったんだね。じゃー直ぐに開くからね……」
ラミアに笑顔を振り撒くアルマの手を振り払い、足を竦め、地に座り込むラミア。
眼に映る何かの邪魔になる、溢れ出る涙を懸命に腕や手で拭い、崩れており。
「え?……ラッ、ラミアさん?……なっ、何してるの?……」
ラミアを立たせようと、反射的に身体を動かしたアルマの耳にラミアの掠れた声が届いた。
「私は……私はライク・ホーン様の…4番…奴隷ですが……」
少し間を置き、ラミアの瞳から一層涙が溢れ出した。
「…… わたじのなばえは……ラミア・ディルクだっだど……思いばず……」
そしてその時アルマは思い出す。そう、ここは禁呪桃源郷がその場所。
人の記憶の断片を繋ぎ合わせ、深層心理を読み取り形にする夢の国。
見る者が一番心地よく、至福に至る理想郷が展開される、人智及ばぬ大海の中央、遥か上空に位置する天の界域だと言う事を……
「どっ、どうして……どうしてさッ!僕の封印は今まで誰にも破られる事なかったのに……どうして……」
アルマは信じられないと、泣き伏せるラミアの前に茫然と佇み。そんなラミアは痴態などお構いなく、持てる力を振り絞り、大声で泣きだした。
「ゆうじゃざまぁーーーッ!うわぁーーんッ!あんあんあん……」
アルマの力を破りしは禁呪桃源郷の力。それはラミアが見る理想郷の力とも置き換えられ、アルマが封印した勇者との思い出が、悲惨とされる奴隷時代の記憶が、アルマの力を優ったのだった。