妹が兄を避けた理由
同刻。秋山夕子は、友達兼部活仲間二人と一緒に、最寄りの喫茶店でほろ苦いコーヒーを飲んでいる。うちの中学は帰る時の買い食いを許可していない。けど、一切、許可していないことはないようだ。以前、ここに来た時は、運悪く部活顧問の福音先生がいて、こっぴどく怒られるかと思ったが、「五時までには変えるように」と、注意されただけで、つまりは、五時まではここにいても、あの先生は大目に見てくれる、という解釈になっている。その時にいた友達二人と一緒にレモンティーやコーヒーを啜っているせいか、随分と気楽に暇を潰せていた。
一時間前まで、夕子は早く家に帰ろうとしていたのだが、
この二人に迫られては、断れず、泣く泣く相席している。
が、用事のほうより、居心地は、断然、こっちがいい。
そもそも、兄と顔を合わすのは好きじゃない。
中学二年になってすぐ、
初めて、兄の不潔な姿を見てしまったことによる弊害だった。
その日は、深夜二時にうとうとと尿意を催してしまい、二段ベッドの上に寝ていた夕子がトイレに行こうと下りようとすると、
はぁ……はぁ……
そんな吐息が聞こえた。尿意を我慢しながらも、暗闇に目が慣れてきて、何してるんだろう、と、思いながら、下を覗き込んでみると、途端に、夕子は驚き、「え」と、声の出そうになった口を両手で塞ぐ。兄が壁のほうを向きながら、薄暗いスマホの画面を食い入るように見て、大きくなったおちんちんを左手でしこしこしていたのだ。その頃ぐらいから、学校でもみんな言ってたし、夕子自身興味があったこともあり、そういうことの知識を蓄えていて、無論、それがオナニー、または、マスターべーションと呼ばれる自慰行為のことを言うのも心得ていた。男子はそれを、少なくても一週間に一回、多くて、一日に一回しないと性的欲求が収まらないものだと言うのも知っていた。
兄が性欲を発散している姿を、夕子は凝視した。
その光景は、あまりにも、恐ろしく見えた。
これを一週間に一回、見ることに……もしかしたら、毎日、ずっと見ることになる……っ、
そう考えた夕子は、余計に怖くなり、寝返りを打つようにして壁を向き、
膀胱が警告しているのに、
今にも、漏れそうになっているのに、
早くトイレに行きたいのに、
くっと、枕を抱き締めるように膝を抱いて、眠りに着いた。
深夜四時辺りまで、夕子は眠りながら、必死に、それを堪えていたが、ふと、窓から強い風が吹いて、不意に、目覚めると、その拍子に下腹部にやっていた力が抜け、ぱんぱんに溜まった尿意が決壊した。慌てて、股間に力を入れて止めようとしたが、止め処なく、一分ほどを掛けて、赤いパジャマに生暖かい液体が滲み込み、ベッドに、さながら、世界地図のような大きなシミが出来上がってしまった。ぐっしょりと濡れたズボンが張り付いた両膝に顔を埋めて、夕子は羞恥と悔しさに苦しんだ。あーあ、やっちゃった……うぅっ、もうどうにでもなれ。全部、お兄ちゃんのせい……なんだから、と、目下に涙を溜めながらに思い込んだ直後、その身体が、力を失ったように、また、眠りに至った。
案の定、
翌朝、そのベッドは強烈なアンモニア臭に包まれていた。
「中学二年にもなって、おねしょするなんて……」
ベッドから下り、全身が濡れ湿ったまま、夜勤を終えて帰ってきた母の元へ向かうと、その視線が夕子の格好を胸から足先まで通って、そう言われた。すぐさま、「服を脱いで、着替えて」と、言われて、部屋に戻って、シャツと短パンに着替え、気持ち悪い感触をしたパジャマを持って、母の元へ戻る。
すると、母は部屋へ行き、夕子は付いて行き、淡々と、臭いの強い青のマットレスに消臭剤を掛けられ、中央に壮大な地図が描かれた白い敷き布団を、二階のベランダの手擦りの部分に掛けた。その後、臭いがするから、と、半ば無理矢理、シャワーを浴び、そして、その間、洗濯しても、左側だけが上手い具合に黄ばんだパジャマと、若干臭いが取れ切っていない白の下着一式を、そこのハンガー掛けに天日干しされた。
挙句、リビングへ連れて行かれて、
説教された。
一方で、兄は、何も言ってこなかったし、軽視する視線を向けるだけだったが、それに睨み返し、夕子は明確な嫌悪を向けていた。どうせ、わたしを汚らしいとか、臭いが付くから邪魔だとか、一緒にいたら気が散ってものごとに集中出来ないとか、色々あるけど、一緒にいたら迷惑だって思ってるんだろうな、と、夕子は自意識過剰気にそう思っていたからだった。
そして、二日ほど経て、夕子は決心した。
そして、母に、
「お兄ちゃんと一緒の部屋は嫌。また、その……おしっこ臭くなるのも迷惑だと思うし……」
身を捩じらせて、恥しくも、そう訴えた。すると、母は、どこか不思議に夕子を見つめていたが、「二人も思春期だし、お父さんがいた部屋なら、使ってもいいわ」と、言ってくれて、
続けて、
「あの、……夕子、もしかして……えっと、……溜まってるの?」
と、頬を指先で頬を掻きながら、何かを気にするかのように言われたが、
なんのことか全くわからない夕子は首を傾げるだけだった。
そんなことがあったが、最終的には、
念願叶って、兄との相部屋を絶ち切った。
理由は簡単なことだった。兄のオナニーなんて見たくないし、それを拭いて丸めた皺だらけのティッシュとかも見たくない。イカ臭い臭いを嗅ぐのも嫌だし、それを見て、怖くなる自分が嫌だし、それでお漏らしなんかしちゃう自分も嫌だし、下手したら素っ裸を見られるかも知れないから嫌だ、もう、見られても恥ずかしくないわけがない。それに、兄が一緒にいたら、勉強とか集中出来ないだろうし……気が散っちゃうだろうし……だから、離れる。
これは反抗期の第一歩だ。お母さんに対しても。お兄ちゃんに対しても、と、夕子は思った。
そうして、部屋は別となり、兄の顔を見ることはほぼなくなり、会話もしなくなった。
だが、夕子は、久々に、兄の顔をしっかりと見ようとしていた。
それは、兄の同級生の、それも、女の人が同居する話をお母さんから聞いていたからだった。真正面から兄に向き合って、これから大丈夫? とか、わたしが中立の立場にいてあげようか等、腹を割って話したいことを山のように考えていた。が、その全てを口にするとなると、兄の事を人一倍大切に想っていることが悟られてしまうと思った。そして、それは悪い意味にも語弊してしまうことを知って、頭の中に言いわけをしている。何も言わない、何も言わない、と。
数時間前のことを思い出していると、
愚痴を言い合っていると、時計を一瞥した美絵が、
「あ、そろそろ五時になるから帰ろ」
「うん、わかった」と、夕子は答え、そうして、友達と別れた。
それから、夕子は、一人寂しく、しんとした帰路を歩く。右肩に抱えた、青と黄のしましまのギターケースがまだまだ小さい身体をより際立たせている。左手に持った青塗りの抱え鞄の持ち手が、日差しの熱を吸って、じんじん熱くなる。落日間際のそれは、朝や昼と違い、麗らかだが、その発する熱量はこの時期だと、夏でもないせいか自然の気まぐれによって、がらりと変化するため、計り知れない。部活がある日は三台の扇風機の風が気持ちいいのだが、今日はそれがないのを実に悔やむ。おかげで、頬に汗が垂れ落ち、顎に垂れた汗が青のリボンに染みを作り、その下の、セーラー服と黒のスカートの中は五分もしないうちに蒸れるようになっていた。
お気に入りの、少しサイズに見栄を張ったフリルの着いたピンクのブラも綿の多い下着も、
汗で濡れそぼって、喫茶店を出た辺りから、ずっと湿って、
発展途上中の胸と丸みを帯びつつある股関節付近にぴたっと張り付いていた。
うわあ……ぬめぬめだ……気持ち悪いよ~、と、夕子は思っていた。
「こんな時は……」と、不意に、夕子は立ち止まり、抱え鞄から、手探りに、薄黄色の手拭きタオルを取り、顔の汗を拭う。鎖骨に溜まった汗を拭い、セーラー服の裾口からその手を入れて、へそ周りや自分の薄い胸に違和感を抱きつつも、満遍なく、その辺りの汗も拭った。足は拭かなかったが、後々、最寄りの公園の公衆トイレに行き、用を足すと同時に、下着の上に履いていた体育の紺の半ズボンと黒のソックスを脱いで、トイレを出た。
しばし、解放感に浸りながら、家へ帰った。
その間、少しばかり、暑さが柔和になっていた。
玄関へ這入ると、瞬時に、夕子は目を見開く。その記憶にはない、見たことのないお金持ちが履いているようなブラウン色の革靴が一足綺麗に揃えられていた。あ、もう、着てるんだ。わたしのクラスでも、有名になってたしね、と、夕子は思った。
夕子は、今日、兄の同級生が家にくることを知っていた。ここで、母が顔を合わせたことのない男性と話していることを傍に聞いて、誰かがくると知り、後々、男性が家を去った頃、その場で母から、「来週のゴールデンウィークの前にね、女の子を預かることになったの」と、付け加えてきたのだ。「それも、夏衣季の同級生なんだって」と、さらに、母は言った。しかし、夕子自身は乗り気ではなかった。実の兄が、思春期真っ盛りの兄が、そんな女の人を見て、疚しいことを考えないかな、と、思ったからだ。けれど、そんな考えなどしていないのを示すように、母は、「わあ~、楽しみだわ~。どんな子なんだろう」と、目をきらきらさせて浮かれているようで、そんなことを言い出せるような雰囲気ではなく、「そ……そうだね~」と、嫌々ながら、母に合わせていた。なんだか、苦笑いなんてお母さんの前で初めてする、と、夕子は俯いた。
「夕子――っ! お兄ちゃん、部屋にいるわよ――っ!」
母が叫けぶように言った。