三年を経ての邂逅
文体は、遅筆で有名でありつつも、その描写力と独特な話し回りや表現を用いた文章を書く、秋山瑞人様を参考にさせて頂きました。
ゴールデンウィークに這入る直前の、月曜日のことだった。その日は、暑苦しいこともなく、大雨が降っていたなんてこともなく、マグニチュード五以上の地震が起こったわけでもなかった。そう、成績優秀で、運動神経は悪いが、手先が器用な、中学三年の秋山夏衣季は、いつも通りに、五十分間の授業を受け、十分の休憩時間を有意義に友人たちと駄弁り、母親が毎朝早起きをして作ってくれるお手製の弁当を頬張って、授業開始まで余った二十五分を大グラウンドでのサッカーに当てる。そんな風に、健気に、平日の時を過ごしていた。
しかし、突如、ひびが這入る。
五時限目の授業の前に戻ってきた夏衣季たちの目に這入ったのは、教壇に頬杖を付きながら、にやにやと微笑む見覚えのない女子生徒だった。まず、着ている制服からして違っていた。ここの中学の女子の制服は黒白のセーラー服が基本なのだが、その女子が着ているのは、小さなポケットが付いただけの、薄青色のやけに丈が短いワンピース柄の制服だった。メンバーの先頭にいた夏衣季は、その格好を見て、ほんの一瞬、遅刻とはいえ、なんで私服で登校してるんだこの子、と、思った。が、その思いは、顔に見移りすると、潰える。あ、こんな子、見たことないや、と。何故、そう思ったのか。それは、夏衣季が知る限り、目の前の女子のように、朗らかに、ずっと先のことを楽しそうに楽観的な笑みを浮かべる女子を見たことがなかったからだった。例え、見たことがあったとしても、そこにいる女子より、美しい笑みを浮かべる女子なんていなかったのだ。そして、髪の色でも、明らかだった。顔に見惚れていて、気付かなかったが、清んだ群青色をしていて、他の子たちと違うのは、一目瞭然だった。茶髪や金髪ならまだしも、青系の色に染まった髪を直に見ることなんて、そうそうないからだった。
長々と凝視していた夏衣季たちは、例の如く、ドアのほうでじっと立ち止まっていた。教壇の女子も、楽しみそうな声を漏らして、じっと肘を付いたままで、微動だにしなかったが、ふと、その女子が、見られていることに気付いて、夏衣季たちのほうを傍目に見た。途端に、どきっとした夏衣季は、動物嫌いの人が動物を目の当たりにした時にするように顔の筋肉を引きつらせて、一歩後退った。次第に、女子はその視線を夏衣季だけに固定する。そして、徐々に、ずっと笑顔を保っていたその表情が変化し、はっきりとした嬉々を映した。ぴょんっと、その女子が、教壇の下に敷かれた灰色タイルの台から下りて、
「ナツキく――――――――――――――――――――――――――――――――んッ!!」
女子は、夏衣季の顔面に、
たわわな胸を押し付けるようにして飛び付いた。
それから、夏衣季の淡々としていた日々は、少々荒い、ドタバタとした、嫌に思春期染みたゴールデンウィークとなる。そして、言い換えれば、長くも短く感じる休日の始まりでしかなかった。平日を言われるがままに過ごした後の休日ではなく、ゴールデンウィーク、という、短期間でありながらも、少し多い休日の始まりだった。
放課後。西に移ろった太陽が、さんさんと照っていて、地を明るく照らしていた。春は過ぎたというのに、そこらの道端には、まだ、散り落ちた桜があって、空気が少し清んでいるような感じがする。不思議なことに、桜は見るだけで明日を頑張ろう、という気分にさせてくれるものだ、と、夏衣季は思う。半分楽観的に、そして、もう半分は達観的に。が、その胸のうちでは、かつてない苛立ちが生えていた。
その理由は、昨日までは普通に一人で帰っていたはずなのに、
隣に並んで歩く人物がいることだった。
それも、ただの他人ではないからだった。
五時限目の授業目前で、顔目掛けて飛び付いて、後頭部から少量の出血をさせる怪我を負わしてくれた挙句、その後すぐ、黒板に大きく自分の名前を縦書きして、小うるさく、「好きなことは、赤い果物を食すことと、色とりどりの光景を写真に撮ること! 嫌いなことは、他人を馬鹿にするのと、気持ちを上手く伝えられないことです!」と、おおらかに発言しながら、額にピースと指を当てて、自己紹介をした女子、景色ひいろが隣に歩いている。その彼女はと言うと、かなり調子のいい様子で、にこにこと綻んでいる。頭に包帯を巻いた夏衣季にとって、その様子が伺えるのは、僅かばかり以上に、彼女に対しての嫌悪感を生むに至っていた。柔らかな胸が真っ先に当たったからと言って、嬉しいこと等、何一つなかったのがさらにそれを水増しした。
口を交わさずに進む夏衣季と景色の間には、大きな溝が出来ていた。当然だろう。夏衣季は怪我を負わされた身であり、景色はその加害者である。そんな二人には、必然的に、距離が生まれる。が、何故か、冷静さを欠かさない。二人きりだから、なんで、俺に飛び掛ってきたんだ、と、問い詰めるなら、今が絶好なのにだ。保健室から教室へ戻ってきた時は景色は謝ったが、それを促したのは、クラスメイトで、夏衣季自身は、終わったことだし、気にすることもない、と、思っていた。
と言うより、
夏衣季とひいろは知り合いである。
あるいは、幼馴染み、というもっと深い間柄だ。
小学六年の頃の同じクラスメイトで、さらに言えば、小学二年、四年、と、二人のクラスは同じだった。夏衣季の印象では、当時の景色は、クラスに溶け込むことが出来ず、口数も乏しかったため、もの静かで浮いた女子、という風にしか思ったことがなかった。強いると、異性に向かってその育った胸を強調させながら飛び込んでくるような女子等ではなかった。髪は昔から群青色だったが、体育会系のようなくうなじまでのショートだったのに対し、今は、その時からずっと伸ばしていたのか、まるで、文学少女のような太ももの辺りまでのロングになっている。そういう語弊があったような印象のまま、互いに言葉を交わすことはなく、声すら、もしかすると、呼吸すら聞いたことがないまま、小学校の卒業式を迎えてしまったのだった。夏衣季の記憶では、卒業式の朝に、下駄箱の中に手紙のようなものが這入っていたのだが、それがひいろの出したものであるわけがないし、色恋に疎かったためか、読まずに小学校の制服のポケットに入れていたら、皺だらけになってしまい、結局、開けることなく、捨ててしまったような気がしていた。問題は、その手紙の内容だけは気になっていた夏衣季が、まだ好意というものをちゃんと理解していなかったせいか、最後のクラスの女子全員の家に電話を回したことがあったことだった。夏衣季はその際に、噂程度の話題だったが、景色ひいろが遠くの地方に引っ越した、と、耳にした。それ以外は、「へっ!? 何、秋山って、あたしのこと好きだったの!?」や「卒業を機に付き合おうってわけ? まあ……秋山は、頭もいいし、顔もイけてるほうだから別にいいけど」みたいな、相手側に好意を持っているように解釈をされ、その誤解を解くのが大変だった。終始、念頭にあったのは、その話題だけだったし、手紙を入れた人もわからなかった。その影響か、夏衣季は景色が手紙を入れたと思っている。
が、実際に、それが本当に、景色ひいろに入れられたものなのかも、
あるいは、女子が入れたものなのかも、
ましてや、男子が入れたのか、だとしたら、人の心を弄ぶ悪質な悪戯だが、
その全てにおいて確証を得ず、中学の入学式を迎えたのだった。
その最中は、常に、心が忘我の境にあるようだった。
景色のことで、夢中になっていた。
そして、中学三年の五月二日、ゴールデンウィーク間際に、景色ひいろはうちの学校に転校してきた。前の学校の、あまり類を見ない、独特な制服を着て。
そして、わからないことがあった。なんで、俺の家と同じ方向を歩いているんだろう。こっちに新しい家があるのだろうか、と、夏衣季は思った。この状況は、学校の校門前からずっと続いている。その時から、夏衣季は今に至るまで無言で景色をちらりと見るだけだった。
が、景色のほうは、ちらちら、ちらちらと、夏衣季の顔に何度も何度も視線を送っていた。まるで、好きな人を目で追うように。
何かを訊こうとして、我慢した。
が、
「あの、景色……さん?」
そう、口を開いていた。
我慢出来なかったらしい。
しかし、景色は何も答えず、つったかつったかと、追っ手から逃れるように、歩くスピードを速めた。
え、……そんなに訊かれたくなかったのか、と、夏衣季は思ったが、呆然と足を止めること等なく、平静に、歩みを進めた。
夏衣季の家は、二階建ての家で、外装が水色としその色であしらわれている。そのため、ここに初めて訪れた人の視線がよく刺さり、毎度毎度、噂の絶えない家としてご近所には知られている。別に困ったことはないのだが、そういう家はお金持ちが住んでいるように見えることを知っているから、噂がよく回っていることを快くは思っていない。当然と言えば、当然だが、母子家庭が災いして、引越しなんて出来るお金があるわけもなく、渋々、そこに住んでいるというのが、本音だった。
夏衣季がそのドアのレバーに手を掛けると、珍しく、それは、すっと、下がる。夏衣季の母は、普段、出版関係やアルバイト兼パートをしていて、夕方にいることはほとんどないのに、今日は早く帰ってきているようだ。
ふと、
「あはは、すごく綺麗な子ね」
と、品の音のない上機嫌な母さんの声がドア越しに聞こえた。
あれ? こんなに機嫌のいい母さんの声を聞くのは久しぶりだな、
夏衣季は思って、だが、気に留めず、玄関へ足を踏み入れる。
目の前に、
景色ひいろの後ろ姿が映えた。