鶯の声が聴こえる
起
鶯がよく鳴くようになった。それと呼応するかのように、気温がぐっと上がった。梅雨を飛び越えて真夏がやってきたかのように、連日夏日を記録している。
小室毅は今日も、汗まみれになりながら走っていた。昨年度、大学受験に失敗して浪人が決まってから始めた日課だった。始めてからそろそろ3か月。その効果は十分に表れていた。少し猫背だった背筋はピンと伸び、高校2年で止まった身長が伸びたかのように思われた。元々やせ形であったが腹回りがより一層引き締まった。何より、若い肉体の躍動する様は見る者に羨望を抱かせたし、それを感じることでこの内向的な青年は自信を持つようになった。
小室毅の日課は決まっていた。毎朝起きるとランニングに赴く。帰って来て家族と簡単な朝食を取り、図書館に出かける。数学、物理、化学を重点的に、得意の英語と国語も少々、勉強した後に図書館が閉まる5時の15分程前に帰宅。少々休憩した後、再びランニングに赴き、着替えて夕食を取り、再び数学と理科の勉強に励む。
ほとんど遊びのないこの生活を自分に強いてきたことを、小室毅は誇らしく感じていた。そしてこの生活をこれからも続けていく自負があった。そこには一種修行僧の感じる恍惚にも似た愉しみがあった。
承
ある夏の日のこと。その日の朝も小室毅は走ったが、真夏日となったその日は夕方になっても陽射しが厳しく走る気も起らなかったので、朝夕走る日課を違え、散歩を楽しむことにした。緑の豊かな小学校の前を通り過ぎ、海に向かい歩いていると、走っているときとはまた違う充実感が心を満たした。小室毅はこの充実感が好きだった。充実を感じた時間の長さがその者の幸福を織りなすと信じていた。その意味で彼はまさに今、幸福のさなかにあった。
そうこうしているうちに海に辿り着き、小室毅は波打ち際を歩いた。去来する波のひとつひとつが、なぜか愛おしかった。彼は今、孤独を意識した。寂しさを感じることはなかった。高校時代の友人の顔を浮かべては消していった。彼らとは卒業式以来、連絡を取り合っていなかった。別に意固地になっていたわけではなく、ただ自然に離れていったものだった。それは関係の断絶を意味せず、だから小室毅はそのことに痛痒を感じていなかった。しかしこうしてときたま、孤独を感じることを禁じえなかった。打ち寄せては引いていく波の自由さが、羨ましかった。
家に帰ると、思いの外時間が経っていることに小室毅は驚いた。彼は今では走るとき、距離も時間も凡そ予測することが出来ていた。珍しく散歩に出たことと波打ち際で物思いに沈んだことが、彼の感覚を狂わせていた。その日は少し遅い夕食を家族で取り、勉強もそこそこに早めに就寝することにした。
転
翌日から小室毅は、日常に戻った。朝走り、図書館に出向き、夕走り、勉強をして寝た。単調な生活に悦びを感じつつ、彼の日々は過ぎていった。やがて夏は過ぎ去り、秋めいてきたと思うのもつかの間、季節は冬に突入していた。
ここまで来ると、小室毅も冷静ではいられなくなってきた。昨年の苦い思い出が呼び覚まされ、悪夢に魘されることもあった。だが、基本的なところで彼は合理的な人間であり、1年弱かけて培ってきた自信は大きく揺らぐことがなかった。
入試の日の朝も、彼はさほど緊張せずに会場へと向かった。並み居る若者たちの中に自分を見て、彼は反対に冷静さを増していった。彼の2度目の入学試験は、静寂の裡に終わった。
結
小室毅はその年の入学試験に無事合格した。4月から晴れて志望の大学に進学することが約束された。彼は嬉しさと同時に、そこはかとない寂しさを感じていた。それは1年間味わってきた修行僧としての愉しみとの惜別の悲しみだった。自分はこの1年、閉じた人間として暮して来たのだと小室毅は思った。それは孤独で光の見えない一人旅だった。しかし、彼はそれを愛していた。自分は、開かれた人間としてこれからは生きていくのだろうと思った。一時代の終りに、彼は寄せては返す白波を想った。自分は波打ち際でただ空の青さを感じて居られたらよかったと思った。




