8. ソルベット・アル・リモーネ
何も進展がないまま、さらに1週間が経った。
相変わらず彼は部屋に引きこもっていて、食事にも水にも手をつけない。
ジルヴァードにも聞いてみた。領主の館で一時的に保護されていたが、今と同じ様子であったらしい。
それでも泰然と姿勢よく座っている姿は、人でない種族の頑強さゆえか。
ただ、変化がないようでいて、細部には飲まず食わずで過ごした限界が少しずつ見えてくる。
髪はわずかに乾燥してパサつき、陶器のような肌からはほのかな光沢が失われつつあった。
彼の体は明らかに、水分を欲している。
でも、問題はそこじゃない。
彼は、人間が与えるものそのすべてを拒絶しているのだ。
まるで、関わりそのものを拒むように。否、まるで、ではない。
実際に彼は全ての関わりを断り、周りの人間もいないものとして扱う。
生きていくには水がいる。それは陸の生き物も、海の生き物も等しく同じ。
神秘の存在とされる海竜も、水は生きていくのに必要なのだろう。
瑞々しく透明感のあった唇が、今では端が乾いて少し裂けている。
指先に力がなく、爪の色もやや白っぽい。
明らかに体は悲鳴をあげている。それに気づかない彼ではないはずなのに。
彼の意思が本能的を押さえ込んでいるのだ。
「(でも、どんなに強い生き物でも、水を飲まなきゃ死ぬのに!)」
料理を受け付けないなら、とあれこれと果物や花を差し入れていた。
乾燥いちじくや干し葡萄。
果物は保存が効くからそのまま教会に置いてきたけど、手をつけられている様子はない。
ならば気分転換にと、道端に咲いていたエルダーフラワーの白い花や柘榴の朱い花を差し出しても無反応。
途方に暮れていると、ある日アンナに声をかけられた。
「何かしたいのはわかるけどやりすぎだよ。あんたが貢いでどうするんだい」
全てリヴィアが勝手にしていること。
貢いでいるという認識はなかった。
ただ、言われてみれば確かに、なかなかの出費だ。
「うう、はい。では。どうしたら」
「あんた、人馴れしていないヒッポにいつもどうしてんだい」
「とりあえず人間に慣れてもらうために海岸に泊まり込みました」
様子を探るためでもあるし、こちらの存在に慣れてほしい目的もあった。
あの時は夏だったから、毛布一枚くるまって、夜の海岸で過ごした。
次の日社長とアンナにものすごく怒られたし、ゲンコツをもらった。
そのやり取りで、結果的に人嫌いだったヒッポはこちらを情けない生き物と認識し、警戒をといた。
いいか悪いかは、いまだにわからない。
「あれもどうかと思うけどね!ただ、一個の方法としてはいいんじゃないかい?
あんたも教会で過ごしてみな。あんたの生活音に慣れればあんたにもなれるだろうさ」
距離を置きつつリヴィアの存在に慣れてもらうしかない。
慣れて、くれる、か?全然見通しが立たないけど。
「(まずは、一個ずつ、長い目で見て)」
***
「おはよう、リヴィア」
「おはようございます、先生」
先生は前までは離れに近づかなかった。
二人で相談して、アンナの意見も採用して、静かにしすぎても、と言うことで普通に会話するようにした。
日常会話がメインだけど。
気配はあるのに何しているか分からない、と言うのも怖いだろうな、っていう見解になった。
合っているかはわからない。間違ってたら修正しよう、という手探りの状態。
「今日は日差しが強いですからちゃんと帽子をかぶるんですよ」
「はーい」
この時、彼については言及しない。気にしていませんよ、どうぞご自由にお過ごしください、のスタンス。
先生が何も言わないと言うことは、いつもと変わらず引きこもっていたと言うこと。
「今日は雑草取りますね」
「ありがとうございます。暑いせいか、どんどん増えていくんですよね」
「先生は腰を休めてください」
「年ですねえ」
「まだまだお若いじゃないですか。無理のしすぎです」
畑仕事をしたり教会の掃除をしたり、先生の服の繕い物をしたり。
「先生、お庭をお借りしてもいいですか」
「火傷をしないようにするんですよ」
料理をしている姿を見れるように窓のすぐ近くにかまどと調理台を作った。
これなら調理をしている姿がわかる。調理の過程が知れるし、出来立ての匂いがする。
これはアンナの提案。そして、私はアンナに料理を教えてもらったけど。
「アンナの味と違う。なんで。調味料は一緒なのに?」
メモ通りに作ったけど、ちょっと違う。うまくいかない。味見をして首を傾げる。
「なんででしょう?」
「この町の母には誰も敵わないという所以でしょうか」
ぶつぶつ独り言を言いながら器に盛って、氷も何個か入れて、外窓をノックする。
窓越しに人の声や物音がしてうるさいだろうな、と思う。
様子を探っている気配はしているから。
「おはようございます。今日はトマトの冷製スープです」
「今日も騒々しいですね」
「(すごく進歩!)」
あいさつ(?)が返ってくるようになった。今までは返答も反応もなかったのに。
ただ、飲み物も料理も手をつけないのは変わらない。
2時間して手をつけなかったらリヴィアが引き下げて食べる。
食費がもったいないし。それ以上おいておくと悪くなるし。
その際にちら、と部屋の片隅を見るけど、おいてきた果物は変わらずそのままあった。
唯一、暇つぶしで読んでいた本には興味を示したので、本を渡した。
あと、香りの強いものは苦手らしい。
香辛料の香りで食欲出てくれないかな、と思ったけど。
ぴくり、と眉尻が跳ね上がったからやめた。
一個一個、見逃してしまいそうな彼の反応を探りながら、リヴィアは訪問を続けていた。
***
そんなこんなで、数日経った。
最近は温暖なわりに気温も高くてヒッポ達も食欲が停滞気味。
今も、同行してくれた子が日陰の涼しいところでプカー、と浮かんでいる。
「失礼します。料理、引きあげますね」
そろそろ料理を引き上げようと声をかける。
返事がない。いつもなら嫌味の一つ二つ言ってくるのに。
「あの…?」
部屋を覗き込む。椅子に座っているのは、変わらない。
でも、彼の様子がおかしい。
いつもは姿勢良く座っているのに、今はぐったりとしていた。
「うっそ」
ここ数日の暑さが覿面に、彼を追い詰めたらしい。
何も感じていません、っていう涼しげな顔をしていたのに。
「(暑いんじゃん。水分足りてないんじゃん。しんどいんじゃん!)」
大きく窓を広げ、バタバタと開閉した。少しでも風が部屋の中に入るように。籠った熱が逃げるように。
でも、そんなことでは意味がないところまで、彼の体は追い詰められている。
こんなに大騒ぎしても文句の一つもないのだ。意識がない。このままでは命に関わる。
そこまで考えて、リヴィアはほんの一瞬、動きを止めた。
彼の命が、危ない?
こんなところで?こんなことで?
それは決して、あってはならないことだ。
リヴィアの頭が目まぐるしく回転する。
教会の立地、設備、道具、食品、今いる人。彼に必要なもの、必要な処置はなんだ。
今できる範囲で、できることをしなければならない。
リヴィアが動かなければ、彼はこのまま薄暗い部屋の中で夏の暑さに命を喰われてしまう。
「先生、ちょっと冷凍庫借ります!」
「どうぞ。私は彼をみましょう」
「お願いします!」
リヴィアの焦った顔で先生も予想はついたらしい。
走るリヴィアと入れ替わるように、彼の部屋に向かっていく。
先生にはある程度の医療知識がある。最低限の対応はしてくれるだろう。
先生の居住区に走り込んで、冷凍庫から氷を取り出して袋に詰める。
ガシャガシャ音を立てながら走って、彼の部屋に飛び込んだ。
何気に初めて部屋に入る。
「…う」
むわり、と熱気が襲ってきた。
通気性も良くないから、蒸し風呂みたいになっている
気づかなかった。せめて室温は気にするべきだった。
「暑さにやられましたね」
彼のそばには真っ黒な服を着た先生が膝をついていた。
「リヴィア、氷は」
「ここに」
「まずは寝かせましょう」
部屋に侵入者が来ても、目を閉じたまま彼は動かない。
揺さぶっても反応がない。触れた体はとても熱い。
とりあえず、椅子だと倒れ込みそうだったから、先生と2人でゆっくり床に寝かせる。
先生が彼の目や呼吸を見ている間、リヴィアが氷袋を首と脇と太ももに充てる。
この町には医者がいないから自分たちで対処するしかないのだ。
「的確な処置です、リヴィア」
「先生が教えて、くださった、からです」
氷を当てた時に瞼が少し震えた。
でも目を開ける様子はない。水も栄養も足りていない状況で、この暑さ。
必要なのは体を冷やすことと、内側からの水分と塩と砂糖。
彼の部屋にある果物は感想している。もっと、瑞々しく、水分の含んだものがいい。
思いつくものはあるけど、材料がない。取りに行くには距離がある。
迷っていると、すい、と近づいてきた黄褐色。一緒に来てくれていたヒッポだ。
「いいの?」
こくり、と頷きが返ってきたので遠慮なく乗せてもらう。
タライは引っ張ってくれても、直接背中に乗せてくれる子は少ない。
特にこの子は今までリヴィアを乗せてくれたことはなかったのに。
それどころではないのに泣きそうになる。
ダメダメ。今は優先することが違う。
「先生、果樹園に行ってきます!」
大声を出して、呼びかける。
「どうぞ。僕は彼を診ておきます!」
振り落とされないようにしがみつく。ものすごい速さで川を登った先、果樹園がある。
黄色の鮮やかなレモンをいくつか取って、そのまま、再びヒッポの背中に乗って川を下る。
「ありがとう!そのまま待ってて…うわっ」
走って行こうとしたら後ろに引っ張られた。尻尾が腕に巻き付いている。
つぶらな目がじ、と訴えかけてきた。
「く、くるの?来たいの?」
はっきりと頷きが返ってきたので、諸々考えることは後回し。
川辺に繋がれていたタライに水をたっぷり入れる。
ヒッポも入れて、ついでに収穫したレモンをぼちゃぼちゃと投げ込む。
そのあと、全力で引っ張った。
持ち上げることは無理。だけど、タライの底には車輪がついているからできた。
これではどっちが馬かわかったもんじゃないけど。
「(今はいろいろ、あと!)」
とりあえず、タライごとヒッポを彼の部屋に押し込んだ。
ヒッポは間近で見た海竜の存在に飛び上がってたけど、知りません。来たがったのは君です。
重いものを引っ張って走り回っているうちに、リヴィアは息が上がっていた。
汗が背中を伝って流れる。喉はカラカラで、頭がぼうっとしている。
それでも、止まれなかった。止まってなんていられない。
「リ、リヴィア?」
ちょうど先生は、袋に入った氷水を交換していたところだった。
さすが先生、的確な処置!
その先生は私がタライごとヒッポを連れてきたことに目を丸くしている。
「この海馬は、どうしてここに?」
「よくわかりませんが着いてきたがったので。先生、この子もよろしくお願いします!」
「え、あの、ちょっと、すごく怖がっていますけど!?」
「後で!」
初めて先生の呼びかけを無視したかもしれない。
びしょびしょのまま教会の台所に駆け込んで、あちこちの棚をひっくり返す。
道具と材料、あった。
ボウルに卵を割って、卵白をぐるぐる混ぜて、レモン汁を絞る。砂糖も混ぜて、冷やしながらかき混ぜる。
理想として、噛む力もなさそうな彼には、口の中で溶ける食べ物がいい。
そこで即席レモンのシャーベット、ソルベット・アル・リモーネの完成!
ボウルに入れたまま乗せてまた走る。
体を冷やしたためか、ぼんやりと彼の目が開いていた。
でも、目は虚だし、リヴィアや先生が近くにいても拒否するそぶりがない。
意識が朦朧としているのだ。
そばにいるヒッポが尻尾でペチペチと顔を叩いていた。
遠慮がない。もう上位種の存在に慣れたらしい。
というか、動かないから襲われないと判断したか。あとで怒られても知らない。
「はい、口を開けてください」
ソルベット・アル・リモーネをスプーンで掬って口の中に突っ込んだ。
勢い良すぎてちょっと喉の奥まで入ったかもしれない。彼が咳き込んだ。
「リヴィア、ちょっと乱暴です」
「緊急事態です、先生!でも、ごめんなさい!」
咄嗟に吐き出そうとするところを口を押さえ込む。
そうしている間に溶けたらしく、喉がゴクリ、と音を立てた。
「っ!?」
冷たいでしょう。酸っぱいでしょう。目をまんまるにしていた。
でも美味しいでしょう。この状況で味を感じれるかは分からないけど。
何か文句を言おうしたのか、吐き出そうとしたのか、彼がまた口を開く。
その瞬間、リヴィアは新しくスプーンを突っ込んだ。
彼の口をまた押さえ込んで、聞き取りやすいように耳元ではっきり囁く。
「これを吐き出すなら、無理やり口の中に管で突っ込んで、水を注ぎます。
それしかないんですけど、どうされますか?
ちなみに、すごくしんどいですよ」
瞠目した瞳。
「リヴィア、脅迫は良くありません」
「緊急事態です先生」
「ちょっとその物言い気に入りましたね?リヴィア」
「気のせいです、先生」
ペチペチ、とまたヒッポが尻尾で彼を叩く。
近くに海馬がいるとは思わなかったみたいで、ヒッポをみて、驚きでゴクリ、と彼がまた飲み込んだ。
「その調子です、どんどんいきましょう」
一口飲んだら今更拒否したところで、一緒。
口を開けるたびにソルベを突っ込む。
今度は口を押さえなくても飲んだ。
掬う。入れる。掬う。入れる。
「ちなみに、その子がレモンを採りに行くとき手伝ってくれました」
何か聞こうとしたのか、また口を開けたので、スプーンを突っ込む。
今はしゃべるよりも食べきってほしい。
「楽しくなっていませんか?リヴィア」
「そんなことはりません先生」
ちょっと声が裏返った。
先生が小さく笑って、離れたところを指差す。
「あの子は楽しそうですよ」
「え」
見れば、タライにいたヒッポが尻尾をフリフリと振り回していた。
犬でもないのに、興奮を尻尾で表現するとは。
「まあ…楽しいならなんでもいいです」
もう一度ソルベを突っ込む。だいぶ意識がはっきりしてきたけど、まだ手足は動かせないみたい。
このボウルを飲みきったら水のボトルを口に突っ込もう。
「その海馬も、自分のことと重なっているんだと思います」
「自分の?」
「あの子、以前拒食したんです。餌を全く食べなくなって」
基本的には本人が食べたくなるまでいろいろな種類を変えつつ様子を見る。
ただし、いよいよ痩せて、これ以上は命の危険があると判断した場合。
無理やり口の中に管でドロドロに溶かした餌を突っ込み、無理に飲ませる処置をする。
これをした後は、仲が良かった子でも、関係は崩れる。
相手からすれば押さえつけられて、口の中に管を無理くり突っ込まれて、好きでもない餌を食べさせられたのだ。
リヴィア達もやりたくはなかったけど、命を助けることを優先した。
あの子はしばらく、人間が入江に来ると姿を隠すし近づかなくなった。
今はタライを引いてくれるようになったけど、まさか背中に乗せてくれるとは思わなかった。
今では楽しそうにタライの中で水遊びしているけど。
「落ちないでねー、地面は君が火傷しちゃうほど熱いよ」
ボウルの中身は全部食べさせられた。
あとは冷やして、水分が体の中に浸透していくのを待とう。
彼は若干、放心気味だった。
「冷たくて、甘くて、酸っぱい?」
話せるようになったらしい。でも、まだ動けない様子。
いつもの彼なら鉄壁の笑みを浮かべるか、拒絶のためにリヴィア達の手を払うくらいはする。
不思議と、そんなそぶりはない。
目を丸くして、空になった器を眺めていた。
彼の世界の中に、はじめて敵以外の何かが入り込んだ。そんな気がした。
「この町名品の、ソルベット・アル・リモーネ、レモンと卵のソルベです」
「…」
また、沈黙してしまった。少しでも食事に興味を持ってくれると嬉しいんだけど。
さて。私も何か飲もう。実はさっきから喉がカラカラだし。
あっちこっちに走って、そういえば全然自分は水分をとっていない。
気づいてしまったばかりに、体が異常を訴えて、ぼんやりしてきた。
水をとりに行こうと、リヴィアが立ち上がる。
立った瞬間、周りが暗闇になって、座り込んだ。
「リヴィア!」
「…あれ?」
くらっときた。立ちくらみ、みたいだ。真っ暗だった視界がじわじわとゆっくり戻ってくる。
「リヴィア、あなたもそのまま休んでいなさい。飲み物をとってきます」
「先生」
とりあえず、手の届く位置にあった氷を口に含む。
「(…かたい)」
がりがりと歯を立てる。リヴィアの口にしては大きかったかもしれない。
噛み砕けなくて、困った。もう少し小さくすればよかった。
あぎあぎと戦っているとがり、と大きな音がした。
いつの間にか動けるようになった彼が、氷を口に含んでいた。
私があんなに格闘していた氷と同じくらいの大きさなのに、あっさり噛み砕いて、飲み込んだ。
飲み込んだ!?
「こんなものも、噛み砕けないのですか」
「(いや、あの、心底不思議そうにされていますけど)」
彼がここにきてから、自分の意思で何か口にしたの初めてだ。
本人は気づいているのか、いないのか、読み取れないけど。
水を飲んでくれるならなんでもいいや、とリヴィアは考えるのをやめた。
「人はこんなにも脆弱なのですね」
嫌味を言いながら、随分と楽しそう。
元の調子を取り戻したようで何よりだ。
怒る気力もなくて氷と格闘を続けていると、べし、と黄褐色の尻尾が彼の顔面にぶつかった。
「っ…なんです、お前」
リヴィアの代わりに、ヒッポが怒ってくれたらしい。
拍手したいくらい嬉しいけど、当の本人(?)は海の王者に睨まれて飛び上がってる。
今更ながら、リヴィアも彼にした数々の遠慮のない行動を思い出して背筋が冷える。
二人で竦み上がって、唯一の味方であるヒッポに抱きついた。
リヴィアがヒッポに抱きついた時、彼がわずかに身を乗り出した。
近づいてくる彼にいっそう震え上がる。
叱責されるだろうか。それともいつもの微笑みで詰られるのだろうか。
どちらも嫌だ。どちらも怖い。
けれどその前に、ヒッポがリヴィアの前に出た。
「え」
まるで、リヴィアは自分が守る、と言わんばかりに。
自分もガタガタと震えているのに。
彼はそれを見て、何も言わなかった。
ただ、視線だけは静かに、長く、こちらを見ていた。




