1. 海辺の田舎町 レンツァ
彼と対峙する、前の話。
波の音がする。遠くでは海鳥が鳴いている。晴れたこの日は潜水漁日和。
おもりは腰に巻いた。獲物入れの籠も腰に固定した。ウニやサザエをこそぎ取る道具も持った。
小舟に引っ付きながら、潜水前の確認完了。あとは息を整えて潜るだけ。
「いきまーす!」
舟の上にいるアンナに声を張りあげる。
「はいよー」
肺がぺたんこになるくらい息を吐いて、お腹を膨らませるように息を吸う。
「気をつけなねー」
小舟の上から届いた激励に片手をあげて、頭から水中に沈んだ。
勢いと腰の重りに従って、より深く、より水底へ。
白い泡が視界から消えて、青い海の中がよく見える。
岩場の近くに群れる小魚。
今日は天気がいいから時々日差しに鱗が銀色にキラキラと照り返してとても綺麗。
珊瑚の影に隠れているタコは、触腕をゆらめかせて慌てて岩陰のさらに奥に隠れていった。
リヴィアに気付いたらしい。
道具があれば狙うのだが、今日の目的は違う。
水深4メートルぐらいになると、水圧で体が締め付けらる感じがある。
梯子のように降り注ぐ日差しが海底を照らす。
雲はあるけど今日は晴れている。
海の青は、日によって顔を変える。
寒い海では鉛を溶かしたような重たい藍色、暖かい海では、緑が差した軽やかな青緑。
晴れた日のこの海は、まるで“紺碧”という言葉が生まれた理由のようだった。
リヴィアはこの海の、晴れてあまり風がない日の紺碧色が一等好きだ。
なぜなら、海底のウニや岩礁に張り付いたサザエがよく見える。
今は夏の初め、禁漁期間明けてすぐ。育ったウニがたくさんある。
その中でも成長したものを拾い上げて、腰にくくりつけたカゴに詰めていく。
およそ一分
余裕を持って、そろそろあがろうか、という体感時間。
ツンツン、と腰のかごを引っ張られた。
リヴィアの他にこの辺りで潜っている人はいないはず。
振り返ったところで、間近に迫る細長い口と、その先にある黒い目。
小さな目と視線が合う。というか、覗き込まれているような至近距離。
いや近すぎる。
耐えきれずに、ぶは、と空気を吐き出した。
まずい。慌てるな。海中で慌てることは時には命を落とす。
これ以上に吐かないよう口元を手で覆って、そのままゆっくり浮上した。
今残っている空気で間に合う、ギリギリの速さで。
速すぎると水圧の変化が体に負荷をかけてしまう。
ゆっくり、ゆっくり、上がっていって。頭が海面を割った。
ひゅー、ひゅーと絞るように息を吐いて、空気を取り込む。
「ど、どうしたんだい!?」
「もー!これ見てください!」
腰に縛り付けていたカゴを持ち上げて、アンナに見せる。
ぷらん、と黄褐色のトゲトゲしたものが巻き付いている。
これは尾だ。その先に背鰭があって、体が合って、逆さまになった顔が水中をぷかぷかとしている。
腰紐に尾を巻きつけて、落ち着いてしまったらしい。動く様子がない。
海馬、ヒッポカンポス、タツノオトシゴ。
いろんな呼び方をされる海に棲む生きもの。大きさな1メートルから1.5メートルほど。
あまり早くはないけれども、簡単な荷物や舟なら牽引できる輓獣
そして、この子はリヴィアが所属している会社と提携している子である。
使役というほど厳密な契約ではない。
水路を運用したり、荷物を運びたいお客さんに貸し出している。
陸路があまり整備されていないこの町では貴重な交通手段。
「あらー、ヒッポが来ちまったかい」
「顔覗き込まれて、びっくりして息吐いちゃって」
「あっはっは、すっかり懐かれたね」
キョトン、とした小さい黒目が海中からこっちを見てる。
どうして自分が逆さにされているんだろう?と不思議そうにしているけど。
「潜っている最中は悪戯禁止って前言った」
そんなこと言った?って体を傾けられた。残念ながら可愛いだけだ。
「あーあー、こりゃ離れる気ないねえ」
「尻尾をほーどーいーてー」
きゅる、とさらに尻尾に力が入った。
「もう!」
「まあ、今日の目標は取れたし、入江にいくついでに戻ろかね」
「はーい」
南部のミルゼリア州、海辺の田舎町、レンツァ。それが私の住む町。
入江をぐるりと囲むように建物があって、少し森側に教会がある、のどかで静かな町だ。
「ヒッポ、離れないねえ」
「このまま巻き付いてたら家に連れてってくれるって知っちゃったんですよ」
「あーあー、こりゃ離れる気ないねえ」
カゴを振っても、巻きつけた尻尾にますます力が入るだけ。
「もー、ヒッポってば。あんた、1メートル以上あるんだから、少しは遠慮ってもんを」
ヒッポカンポスは、町の交通手段としても大活躍の海の馬。
この子たちがいるから、陸路が少なくても生活できる。
よく地元民たちはヒッポって呼ぶ。意味は馬!そのまんま。
ちょっと性格は個性豊かだけど。
人懐っこい子、早く泳ぐのが好きな子、やんちゃだけど泳ぐのが早い子、人嫌いの子、などなど。
それらをまとめて、商業動物として管理することがリヴィアの会社の事業。
「はーい、ついたよー」
自分の住処に戻ってきたことを察すると、尻尾を解いて戻っていった。
あとはこちらに一切振り向かずにお気に入りの海藻に尻尾を巻きつけにいった。
本当に自由で勝手。それが可愛いと思えてしまうのも困った。
代わりに、すい、と別個体のオスが寄ってきた。随分とお腹が膨れている。
産卵期のオスが無防備に擦り寄ってくることは、ある意味信頼の証だ。
小さな稚魚だった時から育てていると人のことを覚えるようで、可愛くてたまらない。
硬めの鱗を撫でる。
もっと撫でろ、と体を押し付けてきた。
「かわいいなぁ、もう。」
ある程度知能もある。褒められると喜ぶし、叱られていることもわかっている。
ただ、言語コミュニケーションはとれないので、こちらから日々の体調の観察を続けるしかない。
「リヴィアー」
舟を定位置に戻していたアンナが岩場を歩きながら来た。
「ほら、冷える前にシャワー浴びといで」
「はーい」
このときはまだ、あんな来客が待っているなんて思ってもいなかった。




