17. 彼女の過去と現在
流血表現があります。
彼は随分、海の中で自在に動けるようになった。
うつ伏せでの泳ぎも、背面浮きもできるようになった。
足の動きもしっかり水をつかむようになった。
進む勢いが全然違う。
その分、疲労感も違うので。私は引き続き、彼にこまめに休憩を促す。
そして、恒例となってしまった、彼の膝抱っこと口付け。
時々彼の腕がリヴィアの体をなぞるときもあって。
ゴソゴソもがいていると、彼の水着のボタンを飛ばしてしまった。
「すみません」
「いいえ」
「………」
「リヴィア?」
胸元があらわになって。一箇所、彼の胸の辺りに、鱗が数枚、見えた。
初めて、彼の鱗を見た。彼の髪色と同じく、深い紺碧色。
何も考えずに、何も言わずに、手を伸ばしてしまった。
その手を、イストは払った。
「あっ」
イストの慌てた声。彼としても、咄嗟の行動だったのだろう。
悪いのは勝手に動いたリヴィアだ。勝手にイストの意思を確認せずに触れようとした。
彼の鋭い爪が引っかかって、自分の手のひらに、痛みが走った。
「(いた、い?)」
鋭い小さな刃物は、リヴィアの皮膚を切り裂いて、裂傷を作った。
痛みを感じて、我に返った。
自分は一体、なんていうことを。
「リヴィア!すみません、手を」
イストが慌てている。傷を確認しようとしたのか、腕に手が伸びて。
彼の全身が硬直した。
「っ…」
まるで、電流を浴びたように。彼が自分の腕を押さえ込む。
手首にある青瑪瑙が、不穏に冷たく光っていた。
そこで、思い出す。腕輪の機能で、まだ解除されていないものがある。
イストが自分を傷つけた場合、イスト自身に苦痛として返ってくるもの。
「ごめんなさい、ごめんなさい、イスト、ごめんなさい」
怪我をしたのはリヴィアの責任なのに、その痛みは腕輪を通してイストにも返った。
「ぐっ」
痺れたように、彼が座り込む。
彼は、頑強なのに。そんな彼を、座らせるほどの、苦痛を与えてしまった。
相当な痛みと痺れが来たのだろう。彼の顔が歪む。そんな顔を、他人に見せる人ではないのに。
自分のせいなのに。自分が悪いのに。やめてやめてやめて。
止まって。いらないから、今そんな機能いらないから。
「私が悪いんです。ごめんなさい。申し訳ありません。お許しください」
イストから離れて震えてうずくまる。
どうしたらいい。どうしたら、彼の苦痛を止められる。
「リヴィア、落ち着いて、ください。もう、止まりましたから」
彼が荒げた息を整える。痛みを与えていた腕輪は止まったらしい。
「まずは、傷を見せてください」
「いいえ。いいえ。これは私の責任です。自分でします」
「リヴィア」
少し怒りの混ざった彼の声。
「傷薬が、あるんです。だから、私、自分で」
「塗り薬ですね?」
「は、い」
バスケットから、怪我をした時のための瓶に入った傷薬を取り出す。
イストがそれを取り上げて、リヴィアの代わりに軟膏を塗ってくれる。
さらに、清潔な布を引き裂いて、巻いて、傷を圧迫してくれた。
情けなくて申し訳なくて。もう一度、謝罪しようとして止められた。
「まず、説明を。あなたが、私の嫌がることをわざとするとは思えません」
その信頼を裏切った。信じてくれていたのに。
「申し訳、ありません」
「リヴィア。私は、謝って欲しいわけじゃありません。謝るなら、怪我をさせた私の方です」
「違います!」
大きな声は洞窟に反響して、さらに大きく広がる。それにも驚いて、身をすくめた。
「それは、絶対に、違います」
逃げようとして、腕を取られる。
「鱗に、触れようとしたんですね?」
「はい」
「言ってくださればよかったのです。あなたに触れてもらうのは、嫌ではありません」
イストに誘導されて、リヴィアの手が、彼の鱗に触れる。離れようとしても、上からイストが押さえてくる。
「ただ、昔に、いろいろあったので。反射的に払ってしまいました。痛かったでしょう」
「いいえ、いいえ。とんでもありません」
首を振る。本当にやめてほしい。彼に過去を言及させてしまった。
その上さらに気遣われてしまった。
「どうして、突然、触れようと思ったのですか?」
そう聞かれて、自分が触れている鱗を見る。
「綺麗だと、思ったんです」
「えぇ」
「こんな綺麗なものが、全部、剥がされなくて、良かったと、思ったんです」
「?どういう」
「剥がされる時は、痛いですから。何度も何度も、痛かったから」
「リヴィア?どう言う」
訝しげな彼。それでも彼は、今は怒っていない。
彼に、隠していたことがあるのに。言わなかったことがあるのに。
「あなたに、お伝えしていなかったことが、あります」
「リヴィア!?あなた、何を」
「見ていただいた方が、わかりやすいかと思いますので」
背中を向けて、水着代わりの上着を脱ぐ。
シャツで前面を隠し、背中を見せた。
人の目に自分で晒したのは、初めてだ。
後ろから、息を呑む音がした。
「お見苦しくて、申し訳ありません」
リヴィアの背中には、傷跡が何個もある。
抉れているような、小さな陥没。
治りきっていない上に焼けて皮膚の色が違うから、さぞかし醜い傷跡だろう。
「なんです、この傷は」
「あなたに、隠していました」
「なんなんですか、この傷は。これは、まるで」
「鱗を、剥がされた時の、傷跡です」
「鱗」
後ろから、イストが背中をなぞる。
思わずびく、と震えたら離れてしまった。
嫌ではない。驚いただけで。
「生まれた時にはなかったんです。子どもの頃、少しずつ生えてきて」
両親は共に人間だった。だからどうしてそんなことになるのかわからなかった。
困って、所属していた教会に相談したのだ。
それから。生活は一変した。
貴重な存在だと教会に引き取られて、奇跡の存在だと祭り上げられた。
「鱗を砕いて煎じて呑むと、病が治るそうです。わかりませんけど」
宝飾品としてはさほど価値はなかったらしい。
赤茶色が地味で、濁って綺麗じゃないと言われた。
ひやりとした指がもう一度背中に触れた。
今度は、受け止められた。
「あなた、は」
「私がなんなのか、わからないんです。両親はともに人間でした」
せんぞがえり、とぽつりと聞こえた。先祖返り?
「あなたの血筋に竜がいたのでしょう」
「そんなことが、あるのですか」
「稀に、ごく稀に。私も実際には見たことがありません」
両親は奇跡の存在を産み落としたものとして、賞賛された。
次の奇跡を産み落とすよう言われたそうだが、母は子供がもう産めなくなっていた。
父は女性を次々にしてあてがわれて、教会に来てから会わなくなった。
今はどちらも、どうしているのか知らない。
知りたいか、と。一度、ジルヴァードが尋ねてくれたことがある。
リヴィアは首を振って、知りたくないと答えた。ジルヴァードもそれがいいな、と頷いた。
それだけだった。
「痛かった、でしょう」
「何度も同じことをされたのに、痛みには慣れないんです」
どうでなら、痛覚が麻痺してくれたら良かったのに、と。あの時思った。
***
覚えているのは、小高い山の教会であったこと。
土壁でできた階段を降りて、降りて、降りて。
息苦しくなるほどの土の底に、その部屋はあった。
石でできた大きな台と、壁の燭台。
何かしらのモチーフの石像。床に描かれた意味の分からない円陣。
床に座ってコチラを見る、たくさんの人。
暗いローブをかぶって顔を隠しているから誰が誰だかわからない。
「さぁ、お役目です」
誘導されて、自分の足で石台に横になった。
これはお役目。少し苦しくて少し痛いけれど、それも大事な捧げ物なんだと言われた。
鱗を剥がすのは、数日に一度。一枚だけ。
その一瞬の激痛を耐えれば、あとは静かに過ごせる。
痛いって思うと体がさらに痛みを感じるから、できるだけ何も考えないようにした。
うつ伏せになって、蝋燭で揺れる影を見ていればいつかは終わる儀式。
でもある時、乱暴に、抉るように剥がす人がいた。
痛くて痛くて泣いてしまった。
泣いたリヴィアを、偉い人は不愉快そうに睨みつけた。
下賤のもの、と蔑まれた。
その人はとても偉い人だったらしい。
ここに連れてきた教会の人間が床に頭を擦り付けて謝罪をする。
罰として、リヴィアは台座に固定された。
あの日は、残った鱗を全て剥がされた。
とても痛かった。
血が流れて、止まらないままに次の鱗を剥がされて。
全部が終わった後も、なかなか止まらなかった。
じわじわとずっと流れ続けた。
止まらない出血を罰だと言われた。
抑えても止まらないから、蝋燭の炎で焼かれて止血された。
それもとても痛くて、絶叫した。
うるさいと、口を押さえられて。それから、それから。
***
気付いたら、先生に保護されていた。
遠くでジルヴァードの怒鳴り声がしていたのを覚えている。
怖い人がいる、と怯えたけれども。
先生が悪い人ではないと、宥めてくれた。
「大丈夫、大丈夫、落ち着いて。怖かったんだね。もう君に痛いことをする人たちはいないよ。
何か飲もう。レモン水は好きかな?」
それから、リヴィアはこの町に来た。
***
「リヴィア」
名前を呼ばれて、過去のことから現在に意識が戻る。
イストに後ろから抱え込まれていた。
「イスト、あの」
「鱗が薬となるというのは偽りです」
「そう、なんですか?」
知らなかった。それすら、知らなかった。竜に関して誰も知らなかった。
「少し、沁みるかもしれません」
「え?」
首筋に、唇が触れた。なんで?
「イスト?」
「あなたの傷跡を、消します」
「え?」
「本当は仲間同士の体液にのみ、回復作用があるのです」
最初は、肩甲骨。その後、背筋、他にも、何度も。
熱い唇が触れて、塞がったはずの傷跡が疼く。
「なん、で」
怖いはずなのに。ちゅ、ちゅ、と吸い上げる音もして肩が跳ねる。
イストにとって、これは、治療行為?
怖くて、恥ずかしくて。抱え込まれた手に縋るように握りしめる。
「っ…」
「我慢しなくていいのです、リヴィア」
そんなこと言われても。両手で口を押さえる。
手に塗った軟膏の匂いがした。鎮静作用があったらいいのに。
全然、落ち着けない。
涙が滲む。わけがわからない。知らない。こんなことは知らない。
歪なくぼみに触れられるたび、息がつまる。
意図せず体が跳ねる。背中が熱を帯びる。ジクジクと、痺れるような熱が走る。
「少し、痛みます」
ぷつり、と、皮膚が突き破られる。同時に、熱い舌ができたばかりの傷を嬲る。
爪、ではない。両手は共に私の体を抑えるのに使われている。
彼の、歯が。牙が。ゆっくり、丁寧に、一つ一つ、穴を開けて、彼の舌が、塞いでいく。
痛くて、熱い。
「イス、ト」
「もう少しです、リヴィア。もう少し」
宥めるようにイストが声をかけてくれる。違う。
治して欲しいんじゃない。そんなこと、求めていないのに。
イスト自身も、時々、うめき声を立てた。
だって、リヴィアに傷がつくということは、イストにも痛みが返ってくるということなのに。
イストはこんな時には止まってくれない。自分なんかの血液を、イストが舐め取って飲んでいく。
気持ち良いと、思ってしまう自分が嫌だ。
イストに痛みを与えていながら、こんなことを感じる自分が嫌だ。
こんなのは拷問だ。
こんなに慈しまれて、好きになっちゃいけないなんて、無理だ。
牙を突き立てて痛みを与えつつ、舐められることで治癒していく。
愛撫とどう違う。何が違う。
治療行為と、冷静に、思えるわけがない。
イストは酷い。勝手に鱗を触ろうとしたと、なじってくれたら良かった。
鱗の跡を見て、騙したな、と見捨ててくれたら良かった。
そんな、ひどく自分勝手なことを思う。
彼の牙は、舌は、古い傷跡だけでなく、私自身を溶かしていった。
もう、彼が抱えてくれないと、座っていることもできなくて。
声も抑えきれなくて。
彼は治療としてしてくれているのに。女としての声が漏れてしまう。
せっかく彼が巻いてくれた、手の布を噛み締めて、食いしばる。
「リヴィア、リヴィア。布を噛まないで。口を離してください」
「や…やだぁ」
「歯を痛めてしまいます」
これ以上、気持ちよさに飲まれたくない。
「リヴィア。背中は終わりましたから」
最後に手のひらの傷にも舌を這わされて、ひゅ、と息を呑んだ。
見えないところから舐められるのと、目の前でイストが自分の手に舌を這わせる光景を見るのでは、衝撃が違う。
もう無理。もう限界。
「お疲れ様です。よく頑張りました」
体はぐったりして、息が荒い。こんな情けない姿、見せたくないのに。
自然と流れる涙も吸われて。目尻に口付けを受ける。
「イスト…あなた、痛みは?」
イストは虚をつかれたように目を丸くした。
「あなたは、全く、本当に」
さっきまで、彼は確かに、優しかったのに。
今は、彼の月色の瞳孔が、きゅっと細くなって、頬を上気させて、興奮している。
「私にまだ、理性が残っているうちに」
どういうこと?と疑念に思う。
「どうぞ、おやすみください」
そう囁く声には、焦りと祈りが混ざっていた。
視界がイストの手で覆われ、リヴィアの意識はすとんと落ちていった。




