15. 海の洞窟
食事会の後、町の人からはイストについて聞かれることが増えた。
イスト自身の正体や過去というより、元気にしているか、足りないものはないか、という様子伺いだけ。
彼に触れてはいけない部分があることは、町の人たちも察している。
それでも、彼を歓迎しているのは、あの食事会の影響で。
彼の、隠しきれない面倒見の良さが出たせいだろうか。
リヴィアは、彼に食事を作って、庭の散歩に付き合って、彼と話をする。
変わったこととしては、町のことを聞かれたり、リヴィア自身のことを聞かれることが増えた。
お客様があの食事会で顔を合わせた人であれば、外套を羽織って顔も隠して、仕事にも同行する。
町の人の様子を、イストは注意深く観察しているようだった。
比較的大きなトラブルもなく、穏やかに、過ごした。
色々準備をして、数日が経った頃。
夏の暑さが少し和らぐ季節。
「今日から、準備ができたので泳ぐ練習をしましょう。波のたたないところに行きます」
やる気に満ち溢れたヒッポに小舟を曳いてもらう。岸壁に覆われた海辺を進んでいく。
レンツァの町やリミティーヴォ港からも離れて、波音や海鳥の鳴き声しか聞こえなくなる。
切り立った岩の一部に、小舟がギリギリ通れるくらいの岩の裂け目がある。
「ここを、通るのですか?」
「通ります」
本気か、という顔で見られてしまった。
「狭いので、頭とかぶつけないように気をつけてください」
ヒッポも泳ぐ速さを落として、慎重に裂け目をくぐる。
洞窟は、口をひらいた竜のように、その奥へ奥へと誘い込む。
裂け目のような細道を抜けたら、まるで空と海が手を取り合っているような空洞に出た。
天窓から差し込む光が水面を淡く照らし、波が岩肌にきらめきを踊らせる。
ここは、陸と海、空と水。すべての境界がとけ合う場所。
透明度の高い海水が日光を浴びて、淡い青色になる。
反射して岩壁も青い光がちらついて。
リヴィアはこの景色がとても好きだ。
「これは…」
あたりを見ながら、イストが感嘆の声を上げる。よかった。お気に召した様子。
見上げた先、空がぽっかりと岩の額に空いた穴から覗いている。
竜がまどろむとしたら、きっとこんな場所だろう、と思った。
とても不思議で綺麗な場所。どうしてこんな地形になったのかわ分からない。
少なくとも人の手ではできない。
ゴツゴツと鋭い岩に囲まれた空洞。海底は5メートルほど。そこまで深くない。
上は穴が空いていて、日差しもある。全てが海ではなく、岩が床のように露出して休憩もできる。
浅いところ、深いところと段差状になっていて、泳ぐ練習としても便利な地形。
「舟を降りましょう」
自然が作った空間。だけど、人の手も部分的に入っている。私とか。
舟を固定するための杭に縄を繋いで、グイグイとロープを回して、縛る。
「ありがとうね〜。また夕方お願い」
ここまで同行してくれたヒッポは、一旦は近くの海辺に帰る。
呼べばすぐ聞こえるあたりでのんびりするらしい。
ヒッポとしても、海の王様が泳ぐ練習を見るのはいたたまれないかもしれない。
そこまで察しているのかは分からないけど。
さて。準備をしよう。
満潮になっても海水に浸からない場所に、大きめのバスケットを置く。
飲み物や軽食、タオル、着替えなどなど。
「ずいぶん持ち込んだのですね」
「海では備えすぎることはありません。では、着替えましょう」
空洞の角、海水から離れた高いところに簡易的に更衣のスペースがある。
四角い棒と、四方を囲んだパーテーション。開閉可能。素敵すぎる。
必要な時にリヴィアでも組み立てられるし、分解できる。
「・・・こんなものまで」
「必要です」
海になれる訓練を本格的にするにあたって、ジルヴァードを思いっきり巻き込んだ。
こんなのがほしい、あんなのが必要、などなど。
言うだけなら自由と要望を一方的に伝えた。
採用するかどうかはジルヴァードと、この仕事の依頼主次第。
結果、ほとんど要望通りに整えてもらった。
その分成果を出せと無言の圧をかけられている気がするけど、気付いていないことにしよう。
「水着です。着替えている間、私は離れています」
あと、第一の要望として、強くお願いしたのが上下の肌が隠れる水着。
これは必須。イストのためにも、リヴィアのためにも。
この辺りの住民は上半身裸で、パンツのみで普通に泳ぐけれども。
普段は禁欲的に秘められている腕とか足とか出ているだけでも動悸がする。
「(さらに、お腹と背中が露わになるんですか?考えるだけで無理)」
リヴィアが耐えられない。逃げる。
ジルヴァードの両肩を掴んでがたがたしながら必死に訴えた甲斐がありました。
「泳ぐための服があるのですね」
更衣室から出てきたイストが不思議そうに水着を摘んでいる。
泳ぐのに支障が出ないよう、ピタッとしたシルエット。
イストの体のサイズに合わせたオーダーメイド。
生地はあまり伸びないので、前面を小さなボタンでたくさん止める形式になっている。
「これは…シルク?」
「みたいです」
最高級品の絹を水着で使うなんて贅沢、リヴィアには考えもつかなかったけど。
毛織物だと水を吸ってしまうから、絹がいいらしい。
お金持ちの考えることってすごい。
「さて。まずは準備運動からです」
「…わかっています。言われた通りにしますよ」
苦笑いをするイスト。
ちょっと恨めしげな顔になっているかもしれない。
大人しく、リヴィアの動作を真似してくれる。
それでも、どうしてこんなことをするのか不思議そうな顔。
準備動作の理由がわからないらしい。
「泳ぐ前の準備には、目的があります」
両足を伸ばして、前屈する。
イストも同じ動作をしているが、指先とつま先が遠い。
全然伸びてない。やっぱり関節が固まっている。
「目的?」
「まず、体を温めます」
水に入れば絶対に体温は下がる。その前に、筋肉を動かして、体温を上げておく。
「あと、固まった筋肉と関節をほぐします」
特にイストは、この町に来てから運動という運動はしていないはず。
関節や、筋肉が凝り固まったまま、急に海に入って泳ぐなんて、危険すぎる。
「あと、肺の動きを良くします」
体をほぐして、体温を上げて、最後にゆっくり深呼吸を意識して行う。
口を窄めて、わざと吐きづらくしながら、息を吐く。肺に圧をかけて膨らませる。
肺は、普段の生活だけではそんなに膨らまない。
意識して、圧をかけて、膨らませることで、肺もほぐして水の中でより長く息が保つようにする。
潜水漁の前には、この時間は必須。
しっかり準備をすれば、30分から1時間かかる。
「体温が上がっているのはわかります」
白磁の肌に少しだけ血色感が出てきた。
ちょうど日差しが彼に当たって、きらきらと髪が青く反射する。
「まずは、座ってる両足をつけてみて。水温に体を慣れさせましょう」
先に海に入って、彼の様子を見る。
やや強張った緊張のある顔。
この時点で恐怖を感じるようなら止めようと思っていた。
溺れたことは本人が気付かないうちに心の傷になっていることがある。
傷は、知らないうちに体を固まらせる。
海の中で傷と向き合うのは、危ない。
「こんなに、冷たいのですね」
ぽつり、と彼は言った。
「だから準備が大切なんです」
怖いか、入れそうか、大丈夫そうか。いったん、休憩を挟むか。
聞きたいことはたくさんある。
しかし、聞いてしまったら、彼は答えないといけなくなる。
きっと、彼は聞かれたら取り繕って答えてしまう。
ならば、様子を探るしかない。
手は震えていないか、眉間に皺が寄っていないか。体に変に力が入っていないか。
息を潜めて視覚から得られる情報を必死に集める。
不意に、彼と目が合った。
リヴィアの顔を見て、ふわり、と彼が笑む。
「思ったより、平気みたいです」
「な、ら。えっと、ゆっくり、降りてきてください」
動揺して言葉がうまく出なかった。あの顔は、ずるいと思う。
「はい」
するり、と。あまり水飛沫もたてずに静かに彼が横に立つ。
感慨深げに、彼が息を吐いて。
海を見て、濡れたイスト自身の手を持ち上げて、またふわり、と表情を緩めた。
リヴィアも、体から力が抜ける。
嬉しそう、だ。
「では、浅瀬を歩きましょう」
声が震えないように、全力を尽くした。これはお仕事。
今、私の感情は押さえなければならない。
あとでこっそり、顔を海水につけて叫ぶくらいはしよう。
「滑らないよう気をつけて」
「はい」
「慣れてきたら、顔を水をつけて。そのあと、浮かんでみましょう」
「ええ」
リヴィアのゆっくりとしたペース配分に、彼は文句も言わずに合わせてくれた。
誰だって最初から泳げたわけではない。
リヴィアがしていることは、レンツァの町で、子どもに海を教えるときに行っていたやり方だ。
まずは水に慣れさせて。泳げなくても、水の中で浮かぶ力を身につけさせる。
浮かんでさえいれば、水面から顔を出してさえいれば、近くに誰かがいれば助かる確率はあがる。
イストは、岸壁を蹴って、鯨のようにすい、と浮かんだ。
3メートルほど進んで体制を維持して、浮力を楽しんでいるようだった。
そのまま立ち上がってこちらを振り返る。さらにきらきらと瞳が光を内包していた。
彼の感情に合わせてか、髪の色まで深みが増している気がする。
この洞窟が、海が、彼が長く封じていた心の壁を、身を守るための鎧を、優しく溶かしていく。
海が、彼の再訪を受け入れ、包み込む。
のびのびと、彼が海で生きられるように。
波音しか聞こえない、この洞窟で。
そんな彼の姿を、どんな顔で見ていたのだろう。
なぜか私と目が合った彼は、驚いた様子で、目を見開いた。
すぐに早足でぐんぐん近づいてくる。
「イスト?」
怖くはなかった。彼からの怒りは感じなかった。でも、なぜか焦燥を感じる。
先ほどまで彼はあんなに楽しそうだったのに。
今では笑顔もなくして、どうしてこんなに真顔なんだろう。
頬に手があたる。その指先が微かに震えていた。
海水が首まで滴った。
「私に触れられることに、嫌悪は」
前触れのない質問。
何が聞きたいのかわからない。
「イスト?どうか、しましたか」
さらに顔が近づく。
「泣いていることに、気付いていませんか」
「え」
海水以外で、暖かい水が頬を伝っている。
気づかなかった。我慢できていると思っていた。
感情を、抑え込められていると思っていた。
視界が潤んで、ぼやける。
だって。
彼が、海の中で、ゆったりと過ごして、笑うから。
喉が詰まって声が出ず、息が苦しくなるのに、涙だけがとめどなく溢れた。
幻想的、と人は言うのかもしれない。
でも、リヴィアは、一部分だけでも知ってしまったから。
どれほど得難い光景なのか。
彼の忍耐と強靭さがなければ、この姿は奪われていた。失われていた。
彼が死を望めば、永遠に、見れなかった。
そして、せっかく海に来たのに、海を見たいと思ってくれたのに。
本人の行動と言えども、リヴィアの不手際もあって溺れさせてしまった。
心の傷になってしまったらどうしようと、ずっとずっと考えていた。
彼が。
イストが、海を怖がらなくて良かった。
「そんな顔で泣かれるのは初めてです」
よかったのだ、けど。イストに迫られているこの状況はどう言うことだろう。
自分はまた、イストに泣き顔を見られて恥ずかしいのに。
顔を隠そうとしたらその腕も握られる。
「イスト、あの。泣いていることに心配をかけてしまってしまったのなら」
波の音が静かに反響して、涙の落ちる音さえ吸い込んでくれるようだった。
光は、天から降る祝福のように、彼を照らしていた。
あまりにも神々しい姿なのに、なぜか彼は追い詰められているような顔をしている。
「違います。その涙の理由くらい、察せられます。あなたが喜んでいることは、においでわかります」
「におい…嗅がないでください、恥ずかしいです」
「そうですか?」
さらに近づいて、首元で彼がすん、と息を吸う。
「普段の、人工的なシャンプーの匂いも消えて、あなたの香りがよくわかる」
またイストの目がリヴィアを覗き込む。
瞳孔が、三日月のようにきりきりと縦長に伸びていた。
興奮している、みたいだ。
野生の生き物として、肉食の獣としての本能が滲み出ている。
でも、イストは溢れ出しそうな感情の昂りを、本能に爪を立てて押さえ込んでいた。
「教えてください、リヴィア」
近い。このままでは、触れてしまう。
一歩彼が進んで、パシャリ、と海が音を立てた。
頬にある手は添えられているだけで、逃げようと思えば逃げれるのに。
体が、動かない。
「お願いです、リヴィア。あなたの意思に反することをしたくありません。
そんなことをすれば、私は私の喉を掻きむしりたくなる」
そんな、切羽詰まった表情で。懇願するような声音で。
なんてことを言うのだろう。
彼の纏う雰囲気に、一切の偽りは感じられない。
本気でリヴィアの意思を確認しているし、リヴィアが嫌がれば解放するつもりはある。
余裕の全くない彼の、せめてもの優しさであり、矜持。
「答えて。私に触れられて、これ以上近づかれて、嫌悪感はありますか」
近づいてくる彼の顔を見ていられなくて。ぎゅ、と目を閉じる。
問われたことにだけ答える。嫌悪を感じるかと言われれば、否、だ。
だから、小さく首を振った。
彼の雰囲気が一変した。目を閉じているのに伝わるも。
暗闇の向こうで、急激にイストの威圧感が増す。
どうして、こうなった。どうして、なんで。何を、間違えてしまったのだろう。
真っ白になる頭に、疑問はたくさん浮かぶ。
「嫌ならきちんと逃げてください。
私ははっきり言ってくださらないと、あなたのことがわからない」
より近くで、彼の吐息を感じる。
最初は眦。涙を吸われる音がする。
その次に、頬に、首に。イストの視線を感じる。
表情を、様子を探られているのが分かる。
リヴィアは動けずに、そのままでいた。
最後に、唇に、そっと触れたもの。
それは優しさであり、祈りであり、心の鳴動であった。
一瞬かもしれない。数秒かもしれない。
リヴィアにとっては永遠にも感じられるくらい、静かな静かな時間であった。
波音の中で、私はただ、必死に目を閉じていた。
「おや、そんなに顔を真っ赤にして」
彼が離れた後、リヴィアはただ、はく、はく、と息をするのに必死だった。
嫌悪はない。恐怖もない。
ただし、沸騰するような、羞恥はあった。
「もっと、いいですか、リヴィア」
どう答えろと言うのだろう。この海竜めは。
リヴィアはただ、文句も言わずに、逃げもせずに、目を閉じるしかなかった。
***
(彼視点)
海は、あまりにも広く、冷たい。
染み渡るように、海の気配に身のうちから喜びが溢れる。
そして、孤独であった。
守り、育てる同族がいない。
誰も、己の横にいない。
改めて感じた孤独感に打ちひしがれて、陸地に戻った。
そうしたら、彼女が泣いていた。
知らない涙だ。
悲しみでも、痛みでもない、涙。
初めてだった。
自分が泳いだだけで、あんなに泣いて、喜ばれるなんて。
そんなことで、彼女は喜ぶのか。
そんなことで、彼女は泣くのか。
衝動的に襲い掛かろうとした本能を無理やり押さえ込んで、
人間としての愛情表現、口付けを交わした。
洞窟の天窓から、一筋の光が差し込んでいる。
空は高く、海は青く煌めき、彼女の髪を赤く照らし、琥珀色の目が煌めく。
彼女は逃げなかった。否定もしなかった。
ただ、どうしていいかわからない顔をして、必死に答えてくれた。
孤独感が吹き飛んで、腹の辺りが熱を持つ。
たまらなく、愛おしかった。
イストは何かを取り戻した気がした。
ずっと空いていた心の底の穴に、彼女の想いが満ちていく。
恵みの雨のように、ひとしずくずつ、静かに、温かく。
やがて川となり、海となる。
それはかつての怒りや虚無を洗い流して、代わりに、名前のない感情を残していった。
二度と、戻れないと思った。
生きて海には帰れないと。
ずたずたにされた身も、心も、海に入れば、傷として沁みて、痛むだろうと思っていた。
彼女がいたから。
彼女の涙が、冷たい水を祝福に変えた。
私は、まだ、生きていていいのだと、初めて思った。
リヴィアに触れているところ全てが灼熱のように熱かった。
その熱に煽られるような衝動が、イストを苛む。
その熱は嵐のように荒れ狂い、今にもすべてを呑み込もうとする。
それでも今は、ただ触れるだけでいい。
波音が、その嵐を鎮めるように、穏やかに二人を包んでいた。




