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mare e drago 〜ドラゴンに泳ぎ方を教えましょう。ただし交際は契約外です〜  作者: しま


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12. 彼の名前(彼視点)


 小さな彼女は、泣いて、縋りついた。


 過去のあの女であればただただ煩わしかったはずの、涙。

 うるさいとも、鬱陶しいとも、思わなかった。

 ただ、驚いた。感情をむき出しにする彼女と、そんな彼女に嫌悪しない自分に。


 そのうち、彼女は迎えにきた大人の女性に引き上げられた。


 彼女の職場だという建物で、2人とも体を洗って、着替えた。

 広間のような部屋に、集まった人間は5人。


 森から駆けつけた教会の牧師、この建物の所有者夫婦。

 彼女はいない。

 どうやら、着替えた後、力尽きるように寝込んでしまったらしい。


「ずっと気を張っていたからね」


 アンナ、と名乗った女が言う。彼女と随分親しそうであった。

 ずっと、と言うのは。おそらく自分がこの町に来てからのことだろう。

 穏やかに過ごしながら、常に気を張って、気を配ってくれていたのは流石に気付いている。


「申し訳なく、思います」


 そうやって、素直に気持ちを吐き出す。


「おや、リヴィアが勝手にしたことだと思わないのかい?」

「そう思えれば、楽なのでしょうね」


 冷えた体は夏でも良くないと、布でぐるぐる巻きにされた。

 こんな格好で、意地を張っても仕方がない。


「彼女の優しさに、甘えすぎていました」


 事実でしかない。夏の暑さから助けてもらってからも。今までもずっと。

 彼女は自分に対して誠実であり続けた。自分が不快に思わない距離を保ち続けた。

 あれは、仕事だからではない。彼女自身の、善性によるものだ。

 それを、自分は、人間という大きな一括りで判断し、拒絶した。


「自覚してるならいいさ。

 私らも、あんたを責めたいわけじゃないし、あの子の献身に報いてほしいわけじゃない。

 実際、こっちが勝手にしていることだからね。

 ただ、気付いてくれているなら、うれしいよ。それで十分さ。

 あんたは、優しいね」


 アンナは笑う。その笑顔は、自分が初めて見るくらい、悪意のない、欲のないもの。

 こんな爽やかに笑う人間がいることに、驚いた。


「それでもちょっとばかり申し訳ないって思うんなら、引きこもっているリヴィアの様子を見てきてくれないかい?」

「アンナ、それは…」

「何だい」


 笑顔が消えて、夫を威圧するアンナ。随分と感情の表現がはっきりしている。

 ゲイルと名乗った男が、威圧に負けて気まずそうにしている。

 人間であっても、愛する伴侶に勝てないのは同様であるらしい。


「いやあ、さすがアンナ。私たちには思いつかない方法でリヴィアを追い詰めますね」

「追い詰める?」


 自分が彼女の様子を見にいくことで、何か支障があるのか?


「行ったらわかるよ」


 ***


 ろくな説明もなく、案内された。この建物自体、そんなに広くはない。

 たどり着いた先に小さな扉があった。


「リヴィア、入るよ!ついでに彼も一緒だからね!恥ずかしいなら最低限の支度をしな!」


 部屋の中から悲鳴と何かが落ちる音がした。

 バタバタとぶつかったり、物を落としたり、とりあえず慌てている音がする。

 しかしアンナは、待つつもりはないらしい。


 扉が開く。また悲鳴が聞こえた。背中を押されて、部屋に押しやられる。

 そして扉が閉められてしまった。


 2人きり。さて、どうしたものやら。

 そもそも気になるのが、部屋の中央にうずくまっている布の塊だ。

 おそらく、布の中に、彼女が隠れているのだろうけど。


「失礼な態度と、言葉使い、そのほか、いろいろ、大変、申し訳、ありませんでした」


 布の奥からくぐもった声が途切れ途切れに聞こえた。

 布、と言うより布団を体に絡めているのは先ほどまで寝込んでいたせいだろうか。

 寝ていたところ、足音とアンナの言葉に慌てて寝台から転がり落ちたのか。


 布が話したり、もぞもぞと動いたり。

 まるで布が意思を持っているような。そんな不可思議な姿が、目の前にあった。


「でも、間違っているとは、思っていません」


 布団の隙間から、こちらを見上げる琥珀色の目がのぞいた。

 強く意志を感じさせる、太陽の残光を閉じ込めたような目だ。

 絶対にこれだけは否定させないと言いたいらしい。


「…ふ」


 笑ってしまった。格好ではない。

 謝りながらも、認めたくないことは認めないという、いじらしい主張に笑ってしまった。


 彼女は、過去、自分が見てきたどんな人間よりも情けない格好をしている。


「そんなに、笑わなくて、いいと思うのです」


 諦めたらしく、布団が落ちて、彼女の顔があらわになる。

 不満そうで、不服そうで。瞼を腫れさせて、髪の毛もボサボサで。

 彼女自身にもその自覚はあるようで、布団をつかむ手が小さく震えていた。


 でも、海の中ではしなやかに水を蹴った。

 こちらに手を伸ばして、海の眷属に指示をして、自分を引き上げた。


 あの時見上げた先の、泣きながら安堵する顔。

 西陽に照らされた赤く煌めく髪。

 涙で溶けてしまいそうであった、琥珀の瞳。


 美しいと、思ってしまったのだ。


 心を砕いてくれたことを知っている。

 振り回していることをわかっている。


 自分がそれを気にする必要はない。人間達が勝手にしていること。

 答える義理は一切ない。


 領主の館では使用人たちが食事を拒否して引きこもる自分に周りが慌てた。

 慌てる姿を見るほど、鬱屈とした心が晴れるような気がした。


 でも、この町では、なんだか違う。

 爽快感なんてない。心臓のあたりがざわついて、むず痒い気持ちになった。

 期待、してしまっているのだろうか。ここでなら、穏やかに過ごせるかもしれないと。

 そんな、息を詰まらせるほどに甘いとも言える期待を、寄せてしまっているのだろうか。


 全ての原因はあの、夕陽色の存在だ。

 今まで冷静で鉄壁であったはずの自分を揺らがす。

 戸惑わせる。

 驚かせる。


「そういえば、先ほど名前を聞かれた、と思うのです」


 あの時。足りない空気を求めながら、言われた言葉は覚えている。


「あ、の、あの時のことは全部、忘れてもらえればと思います」

「それは勿体無いですね」


 ますます縮こまるのが面白かった。

 ここで、何度も頭の中で繰り返した言葉を伝えようと思った。


 人間に、名を預けるのは初めてだ。

 あの女にどんなに痛めつけられても渡さなかった最後の砦。

 こんなに緊張するものか。

 こんなにも逃げたくなるなんて。


 でも、彼女には、呼んで欲しかった。

 

 息を吸って、唾を飲み込んで。絶対に、声が震えないように。掠れたりしないように。

 ずっとずっと、彼女の心の底に、波紋のように広がるように。

 そんな祈りを込めて、掌中の宝物を差し出すように、短い音を彼女に贈った。


「イスト、と言います」


 ぽかん、と。アンバーの目がこぼれそうなほどに、驚いていた。

 せっかく、大事な大事な鍵を、ようやく開け渡しているのに、受け取った本人がこの有様か。


 イストとて、2回も助けられて、意地を張るほど傲慢ではない。

 本来のイストは穏やかな気質だ。

 己を守るための武器と盾を身につけただけで、イストの本質は変わらない。


「あなたの、お名前は?」


 過去、聞いた気がする。ただ、覚える気がなくて忘れてしまった。

 今度こそ、きちんと聞こう。


「リヴィア、です」

「ではリヴィア。私のことはイスト、と」

「イスト様」

「様は不要です」

「海竜様を…呼び捨て?私が?」


 目をぐるぐる回して、混乱している様子がおかしかった。

 知っているだろうか。イストが自分から人間に名乗ったのは初めであること。

 強制されていないのに、名を呼んだことも初めてだった。


「二人とも、そろそろ来な!ご飯だよ!」


 アンナの声がする。緊張が解ける。その声が、不思議と心地よかった。

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