王子様、貴方の隣にいるソレは、何なの!?(人外的な意味で)
磨き上げられた大理石の床は、天井から下がる幾千もの水晶が揺れるシャンデリアの光を吸い込んでは、鏡のようにきらびやかな虚像を映し出している。弦楽四重奏が奏でる優雅なワルツの調べは、貴族たちの洗練された会話の合間を縫うように流れ、壁際に飾られた純白の薔薇と百合の甘い香りが、高価な香水と混じり合ってホールを満たしていた。
私の名はイザベラ。公爵家に生まれ、この国の第一王子であるアルフォンス殿下の婚約者。そんな私の、シルクの手袋に覆われた指先が、少し汗ばんでいるのを感じる。今日この日のために仕立てられたドレスの、窮屈さだけが現実であるように思えた。
完璧に調和した世界の均衡が、突如として崩れ去ったのだ。
「イザベラ! お前との婚約は、今この時をもって破棄させてもらう!」
アルフォンス殿下の声が、まるで美しい絵画を引き裂くナイフのように、音楽と喧騒を切り裂いた。全ての視線が、全ての音が、私という一点に収束する。そして、彼の腕に庇われるようにして立つ……ソレにも。
「俺は、彼女との触れ合いで真実の愛を知ったんだ。この心と、笑顔の美しさに救われたんだ」
殿下は恍惚とした表情で、隣に立つ“何か”を見つめている。
それは、人間の形をしていなかった。
ぬらりとした質感のピンク色の肉塊が、まるで粘菌の山のように盛り上がっている。鼻も目もない。ただ、中央に大きく裂けた口があり、そこから覗く鋭い牙が、シャンデリアの光を受けて鈍く輝いていた。
――ギィィィィィ!
その裂け目から、ガラスを爪で引っ掻くような甲高い奇声が迸る。私は思わず身をすくめたが、殿下はうっとりと目を細めた。
「ああ、聞いているとも、愛しい人。君の麗しい囁きを」
どうやら、あの奇声は殿下には言葉として聞こえているらしい。
耳につんざく響きに、囁きって形容がどうかしてる!
表情だって分かるはずもない。
牙を見せるその様が、笑っているとでもいうの!?
――何なのよ、あの化け物は!?
内心の衝撃は、声になる前に喉の奥で、小さな悲鳴となって凍りついた。
何がどうなっているのか分からず、問いかける声は、震えていることが自覚できた。
「アルフォンス殿下、何を……」
「白々しいぞ、イザベラ! お前が平民である彼女にした数々の仕打ち、俺は全て知っている!」
殿下は憤りを露わにするが、私には何のことだかさっぱり分からない。そもそも、あんな得体のしれない存在、見たことも関わったこともない。
「何を仰っているのですか? そもそも、そこにいらっしゃるのは……人間ではございませんわ!」
私の言葉に、ホールがざわめいた。アルフォンス殿下の顔が、怒りで赤く染まる。
「本性を現したな、イザベラ! やはりお前は、平民は人間ではないと思っていたのか!」
違う、そういう意味で言っていない。会話が、全く噛み合っていない。
殿下は愛おしげにその肉塊を強く抱きしめた。グチャリ、と熟れた果実が潰れるような湿った音が響く。殿下の白い手袋に覆われた指先が、その柔らかな肉体に深く、深くめり込んでいく。
「うっ……」
目の前の光景に、私は込み上げる吐き気をこらえるので精一杯だった。口元を扇で覆い隠すと、周囲からひそひそと声が聞こえてきた。
「まあ、なんてひどいお方なのかしら」
「あのような愛らしい方を、人間ではない、なんて」
誰も、目の前の異常に気づいていないのか?あの醜悪な肉塊が、本当に人間の女性に見えているというの?
「貴様のような冷酷な女との婚約は、無かったことにさせてもらう!」
殿下の決定的な言葉が、私を奈落の底へと突き落とす。何が起こっているの?狂っているのは、本当に私なの?
その時だった。
「――大勢で淑女を追い詰める様は、見ていられない」
凛とした声が、喧騒を貫いた。群衆が割れ、一人の男性がまっすぐにこちらへ歩み寄ってくる。彼は私の前に跪くと、優雅な仕草で私の手を取った。
「彼女を、私の伴侶として迎えたい」
突然現れたその男性は、そう言って私をそっと抱き寄せた。
……確か、隣国の第三王子、レオニール殿下ではなかったかしら。
戸惑う私に、彼は消え入りそうな声で囁いた。
「この、化け物に支配された狂気の場から、急いで離れよう」
その言葉に、私はピクリと反応する。
この人は、気づいてる!
目の前の異常に!
「……ついて行きますわ!」
私は、レオニール殿下にしがみつくようにして、その場を後にしようとした。その瞬間、背後でアルフォンス殿下の絶叫が響き渡った。
「何だ、その化け物は! イザベラの隣にいるソレには、びっしりと鱗があるじゃあないか!」
何を言っているのかしら。レオニール殿下の肌は、陶器のように滑らかなのに。
「気づかないのか、そのビチャビチャと水の跳ねるような足音に! 皆、狂ってしまったのか!?」
そんなおかしな足音なんて、私には聞こえない。聞こえるのは、私たちを止めようとする人々の声と、遠ざかっていくワルツの調べだけ。
さあ、行きましょう。この狂った場所から。
周囲の喧騒を無視して、私はレオニール殿下と共に、光の溢れる大広間から静かな闇へと歩み去っていく。
――狂っているのは、アルフォンス達か、イザベラか。
確かなことはその後、海辺での目撃情報を最後に、公爵令嬢イザベラの行方を知る者はいなかったという事実のみであった。
――砂浜には、海の水底へ向かう足跡が2人分残っていたそうだ。
そして、後日談が一つ。
数年後、アルフォンスは王に即位した。しかし、その治世も長くは続かなかった。
ある嵐の夜、彼は自室の窓から身を投げたという。駆けつけた庭師が聞き取った最期の言葉は、雨音に混じって、ひどくか細かったと伝えられている。
「我が妃はどこに……?」
その言葉の真意を知るものはいない。
その、筈だ。
完